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 ここでは けんかを 口論にしぼってください。
 つまり 自己批判をふくめて 批判をすることです。
 存在を愛し 思想や行動を憎むことです。

 なぜ いけないのでしょう?
 理由が分かりません。おしえてください。

A 回答 (128件中91~100件)

オコリザルです。


今回のご質問とは無関係にお知恵を拝借です。
無神論の立場として、(これは存在至上主義とも言いえますが、)ない物は無いと悟りきる(弱者にとっては諦めですよな)ことは、有神論の立場にとって、いわば「結して報われない」ことの悟りでしょうか?
これは明らかに一致していますが、哲学的に説明できますでしょうか。

今回のご質問は論理を戦わせるルール作りにおいて意義がありますが、争うことと競うことを明白に区分するだけだろうと思います。
哲学カテにおける論議を愉快にするためには、自らが争って不毛の大地を作るためなのか、それとも競うことによってお互いに切磋琢磨するためなのか、各回答者様は今回のご質問に対する回答によって間接的に(無自覚に)自らの姿勢を表明しているはづです。
bragelonneさんの張ったそのような罠に対して確かな答えを出すべきでしょう。
争う姿勢は心に対する殺意です。
殺人未遂宣告を明白に出すべきでしょう。

この回答への補足

 オコリザルさん 遅くなりました。ご回答をありがとうございます。

 簡潔にまいります。
 ★ 殺人未遂宣告を明白に出すべきでしょう。
 ☆ なかなか勇ましいお言葉をいただきました。

 前半については まづ
 ○ 報われるとは どういうことか?
 ☆ この問題があります。話を端折りますし またまた ええかっこをして述べます。
 或る時点で からだも こころも あたかも たも(網)で掬われたかのように感じたとき(つまり 信仰を与えられたとき) この生 じたいが 恩恵を受けたそのものであり すべてが賜物であることになったということかも知れません。そこが 出発点だったのではないでしょうか?

 その上で――しかしながら―― 願いがあれば その願いをかなえて欲しいと 露骨に すがることも 信仰者として あると思います。そのための努力も むろん するわけですから 実際に 報われるか否かという見方も 持ちます。

 けっきょく――ところが 今回は ちょっと 無難にまとめようとしているようですが―― 同じく出発点において 《みこころのままに》とも言っており 思っているわけですから 残念だったなら 残念だったということです。

 また それに ものごとは どれか一つのこととして 独立しているわけではなく ほかのものごとと関連し 連絡している場合さえあると思われます。そういう理由で 一つが叶えられなかったからと言って 問題が起きるというふうにも 見ないのが 正解だと考えています。

 また――同時にですが また―― 叶う叶わないは 一般に 相手のあることでもあります。相手の情況や問題点にも 実際には かかわっていると考えられます。自分の願いが叶えられなかったことは 相手の情況に応じて そういう結果となった要素もあるでしょう。

 さらにそして 自分の願いというとき その願いの中身にもかかわっているかと思います。もう少しその願いをめぐるあなたの思いを練ってからにしなさい ようく練り上げてみなさい というメッセージをもらっているのかも知れません。

 そんなふうで 願いと諦めとにかんしては さまざまな要因がからんでいるのではないかと――けっきょくこれは 一般論ですが―― 思ったりは します。

 ですから
 ★ 悟り 悟り切る
 ☆ についても 一概に それが いいか悪いか 正解かどうか これは よく分かりません。

 そのひとの主観としては 悟りが成ったというなら それは 悟りであるだろうか? これも 願いの問題に関する限り よく分からないのではないでしょうか。

 問題は 一たん 叶えられなかったときに どういう判断を下すかというよりも――という意味は 確信をもって 判断をくだすのが よいと思うのですが そのこと自体よりも さらに――重要なこととしては 次の一歩をどう取るかです。
 次の一歩の内容を 報われなかった願いと関連させたものとしてもよいでしょうし させなくても よいでしょうから あらたに どう自分は踏み出すか これに 言ってみれば 悟りの悟りたることは かかっているのではないでしょうか?

 一応 自分の経験に即して 考えていることを述べてみました。

 さらにさらに自由な発想において もっともっと自由なかたちの突破口が おのおのに あるかも知れません。わたしの体験は 旧いかも知れません。そういうふうに捉えていくのが よいと考えますが いかがでしょうか。
 そういうときに けんかが 起きたとすれば どうするか これも 問題になっているようです。競えばよい 争う必要はない ということになるでしょうか。

補足日時:2009/03/25 20:17
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「漁夫の利」という言葉があります。


カラス貝と鳥のシギが互いに権勢して譲らず、周囲に全く警戒もしなかったところに、漁師がやってきて何の苦労もなく両方を捕えたという話。

同胞同志で意地になって批判しあう間に、周囲が見えなくなり、両方を易々手中にしようとしている戦略の絶好の的になるからです。

英米の分断政策もここにあります。
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この回答へのお礼

 miko-desiさん ご返事が遅くなり 申し訳ありませんでした。ご回答をありがとうございます。

 ★ 同胞同志で意地になって批判しあう間に、周囲が見えなくなり、両方を易々手中にしようとしている戦略の絶好の的になるからです。
 ☆ 具体的には いまひとつ――正直に申して―― ピンと来てはいませんが たしかに
 ★ 分断
 ☆ した状態になるのは いただけないとして 省みなければならないと思いました。
 けんかには そういう側面をまねくおそれがあるのですね。
 一対一の対話だと思っているだけでは 狭い了見になってしまいますね。
 こんな単純なお応えで 申し訳ない気持ちですが。

お礼日時:2009/03/25 20:07

 巣を見つけました。

そういうことですか。


 僕のこころは、どうやら身体には従順でないようです。ルールに全てを委ねる身体の振る舞いとは、どうも様子が違っています。病める身体、老いる身体、けれど、こころはそこに居着きません。暗い淀みに沈んでゆき静かに横たわろうとする身体に、まるで別れを告げるかのように、こころは階段を上り続けています。
 きっと僕は、不健康なのでしょう。
 健全なる精神は健全なる肉体に宿ると言いますから、健全に朽ちて行く肉体に、ちっとも居着こうとしない(そればかりか、居着くのを病と称して逆らっている)こころは、不健全としか言えません。だから僕は、こころを信用しないことにしました。きっと、こころにはこころの都合で、何か思うところがあるのでしょう。

 僕は、身体に従います。そしていつも、反省するのです。
 その立ち位置を失えば、僕は僕を見つけることができません。どこでもない世界のまん中から、僕はこころに向かって叫び続けます。声ではないその叫び声だけが、荒ぶる獣のようなこころを眠らせることができる。僕は、レヴィナスにそう教えてもらいました。
 
 それと、これは根本的な事なので書いておきます。
 教父の言葉を乱用してはなりません。「しかし知ることなしに だれがあなたを呼びもとめることができましょう」とお感じになるのは無用のことです。僕らはそれが「よくわからない」ルールだからこそ身を任せるのです。よくわかっているようなルールに身を任すのは、愚か者のすることです。ですから、二重の意味で愚かな引用だと思えます。

 ひとつは、よくわからない相手には身を任せられないという宗教に対する無知、ばかりでなく「信じる」という言明すら、その意味が危ぶまれる愚かさ、そしてふたつめは、相手をわかり得るものだとする誤解からくる愚かさでしょう。ルールは決してわからない。わからないからこそ、身を委ね、そして信じるのです。わかっているようなルールに身を委ね、わかっているようなものを敢えて信じるような人は、おそらく注意力の欠如か、もしくは「知る」という言葉の意味を知らない文字通りの愚かな者となるでしょう。

 わからないものに跪くということの意味を知っていれば、

 「ちなみに つまりは 宗教は この信仰観もしくは信仰の目に映ったものとして捉えたところの世界観を わざわざ 人間の言葉にして やはり仮りに表現したその内容を ひとにおしえるためのものです。組織集団をつくり 教義としてしまえば 逆に ひととその信仰の自由を 束縛する恐れが出て来ます。一般に 信仰の宗教化は 信仰にとって自殺行為だと考えます。」

 という、宗教とか信仰とか、よくわからない言葉を並べる必要もない話です。

この回答への補足

 passcardさん ご回答をありがとうございます。

 まづ 触れやすいと思われる二点です。なるほど 
 ★ 荒ぶる獣のようなこころ
 ☆ について 少しは 分かったような気がします。(というふうな言い回しにしたということは けっきょく 分かっていないことのようです)。

 そしてもう一点は
 ★ 僕は、身体に従います。
 ☆ であるならば そこに こころは いわば降りて行って 見守っていると わたしには 思えるのですが? たとえ 居着いていないとしてもです。

 これらや 肉つまりは 身体および精神 についてのことがらは――触れやすいと言ったにもかかわらず―― わたしが 軽々に 何かを言うことが差し控えられます。ピンと来れば それなりに のちにでも 考えを述べることにします。

 あと 信仰の問題で 特には 争点があるとも思えません。

 《宗教》については それと 個人の信仰との違いをめぐって それなりに 論点があるとは考えます。ただし これもそれも 具体的に 論議の場が 形成されたときにです。そのときには きちんと おそらくは その前提領域について 明らかにすることが望まれますし そうすれば よいのではないでしょうか。

 それと言うのも わたしの考えでは――わたしの抱く信仰にのっとれば―― 社会生活において 議論一般にかんして けっきょく キリストのキの字も言わずに おのれの信仰やそれにもとづく思想を述べればよい こう考えるからです。逆に言うと それが むつかしい場合 あるいは おのれの表現力が乏しくて 先達の観想成果をあおぐという場合 には やむを得ずそうするという考えです。

 あと 具体的な議論です。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 それと、これは根本的な事なので書いておきます。

 教父の言葉を乱用してはなりません。「しかし知ることなしに だれがあなたを呼びもとめることができましょう」とお感じになるのは無用のことです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これは たしかに 《根本的なこと》だと わたしも 思います。
 ですが 争点になっているとは 考えません。なぜなら

 ○ 神を知る というのは 神に知られる ことである。

 からです。みづからのはからいによって――いくら 信じるだの 受け容れるだの 人間の自由な意志行為を言っていても その能力や意志や努力によって―― 神を知るのではなく 神への信仰を得るのでもなく そうではなく 神に知られる〔時点がある〕のであり 向こうから 信仰は やって来て 与えられるものだと考えるからです。

 言うなれば 人間の言葉による表現が あくまで 仮りのものであるということ ではないでしょうか。特に 神にかんしては その代理表現を使って 指し示そうとするかのように 仮想・仮構・虚構あるいは物語において 一人ひとりが その主観の内面を表わしたいとき 語っているに過ぎないと考えられるからです。

 ★ ルール
 ☆ この言葉も じっさいには 仮りの表現です。むしろ なぞのことです。と言うと この《なぞ》という言葉も 仮りのものなのですから 永遠に 堂々めぐりになります。確かに
 ▲ 文字は殺し 霊は生かす。(コリント後書3:6)
 ☆ だと思いますが どうでしょう。

 これは 丸くおさめようとするのではなく あるいは 問題をあやふやにするためのものでもなく そういうものである。こう考えています。どうでしょう。


 * 直前のお応えに添えるべきでしたアウグスティヌスの文章を ここに掲げます。
 ▲ (アウグスティヌス:告白1・1)~~~~~~~~~~~~~

  《たかぶる者をしりぞけたまう》。(cf.箴言3・34)

 主よ どうか私に 知らしめたまえ。あなたを呼び求めることと讃えることと いづれが先であるかを。
 あなたを知ることと呼びもとめることと いづれが先であるかを。
 しかし知ることなしに だれがあなたを呼びもとめることができましょう。知らないならば別の者をそれと思って呼びもとめるかも知れません。
 それともあなたは まさに知られるためにこそ 呼びもとめられるのでしょうか。それにしても まだ信じていない者を どうして呼びもとめることができましょう。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

補足日時:2009/03/25 20:00
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 けんかは駄目に決まっています。


 やっと終わったと思ったら、質問がなくなってしまった(削除のメールが届いた)。もう返事はないのですか。三日後には戻ります。前に書いたのがあるので、回答します。

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 論理表現云々という話だけれど、遠回しに宗教の話をされているのではないかという気がします。「信じること」(違いますか)。根拠なきゆえに、信じる。言い換えれば、Credo quia absurdum、不条理ゆえに信じるのでしょう。けれど、信じる――宗教って、本当にそういうものでしょうか。当方とは、根本が違っているような気がします。
 しばらく『天国への階段』を数え上げているあいだ(それは地獄へだったかもしれませんが)、ずっと教父の訓えを考えていました。どういうわけか、犬と猫が思い浮かんだ。波の音が聞こえ、それが心臓の鼓動のように感じる。階段を上る足音だったのかもしれない。

 Omne siquidem datum optimum, et omne donum perfectum desursum est, descendens a Patre luminum, sine quo nihil possumus facere : sed ipse in nobis facit opera, non tamen omnino sine nobis, cooperatores enim Dei sumus sicut dicit Apostolus.

 教父が仰るように僕にとって日本語はいつも、credoではなくdonumだった。――与えられたる最善のもの、完璧なる賜り物は、高みより、神の光から降り来るものであって、それなしに僕は何も成し得ない。僕にとって、日本語はそんなかけがえの無い贈り物だった。
 働きかけるのは神であり、だからこそ僕は「信じることなし」に、全てを彼におまかせするのです。先行するものに身を任せる。たとえそれがよくわからないルールであったとしても、世界に遅れてきた僕は、そのルールにおまかせすることができる。
 どこでもない世界のまん中に僕は立っている。右手に広がる世界、左手に広がる世界、共時的な世界には広がりがあり、この広がりの体系は、八百万の神々を物語るかもしれない。さらに、前後にも広がりがある。過去、現在、未来という通時的な世界には時間の流れがある。流れの体系は、ひとつの創生から終末へと結ぶ神を物語るかもしれない。
 けれど、遅れてきた僕には、世界にどんなルールがあるかなどまるでわからない。わからないけれど、そのルールに任せてしまうこと、身を委ねること――これが、僕の思う宗教です。それが教父に訓えていただいた、僕の立ち位置です。
 考えが足りないぶん、身体がそれを感じている。けれどそれがたぶん、一番美しい行いだと、僕は「信じている」。僕の哲学は、ここから始まる。そして、宗教は「信じること」にいつも先行している。考えより、身体が先行している。だから自分の身体に教えてもらいながら僕は、先行するものに従おうと思う。そういう意味で、「信じる」ことから始まる哲学に、自分の第一原理は譲れない気持ちを持っている。
 もう一度、いっしょに考えましょう。

この回答への補足

 passcardさん ご回答をありがとうございます。

 取りあえずは すでに成った文章にて お応え申し上げます。
 直前のご回答でのやり取りでは 《主観内面にとどまらず 信仰をひらくべきだ》という話になっていますが ここでは ぎゃくに 非思考としての信仰の問題になります。その視点から けんかを眺めてみようというところでしょうか。

 《信じる》とは 受け容れることです。《絶対》という想定を受け容れることです。

 絶対は 経験世界を超えていますから 有無をも超えています。それを しかも 有・無で 仮りに表現しようとします。ですから 絶対を受け容れるとき 有で受け容れるか 無で受け容れるかで 表現に違いが出て来るはづです。つまり いわゆる有神論と無神論とです。これが どちらも 信仰であると考えます。

 非経験思考ゆえに 無根拠ですし 無根拠ゆえに その代理表現としては 《神はある》と 《無神はある(つまり神はない)》との 両様の信仰の形態が現われるという寸法だと思います。

 むろん 信仰は 経験存在としての人間が非経験存在としての絶対者を受け容れるという経験行為ですが 非経験思考であるゆえに わづかに こころの明けや伸びとして 起きるものである。つまり むしろ なぞの出来事だと捉えられるはづです。ですから それは 身体=精神に先行しています。先行しているものへ からだ=こころが わづかに 開けて 伸びるかに感じられるといった行ないなのだと考えます。

 ○ 絶対なる《なぞ》・・・こころの明け・伸び=信仰 ≧ 人間存在(つまり 身体=精神) ≧ 生きる ≧ 生活(思考および行動) ≧ 経験思想および経験科学

 第二項と第三項との順序が すこし 落ち着かないようですが こんなところだと考えます。すなわち
 ★ 働きかけるのは神であり、だからこそ僕は「信じることなし」に、全てを彼におまかせするのです。先行するものに身を任せる。
 ☆ 《信じることなしに》という字句との 字面のうえでの矛盾は 解消すると思うのですが いかがでしょうか。

 ちなみに つまりは 宗教は この信仰観もしくは信仰の目に映ったものとして捉えたところの世界観を わざわざ 人間の言葉にして やはり仮りに表現したその内容を ひとにおしえるためのものです。組織集団をつくり 教義としてしまえば 逆に ひととその信仰の自由を 束縛する恐れが出て来ます。一般に 信仰の宗教化は 信仰にとって自殺行為だと考えます。

 あとは ぶっきらぼうのままとします。

補足日時:2009/03/25 19:43
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2011/12/22 13:49

 bragelonneさん、今晩は。


 この時間はもう就寝なのですが、所用で遠くにおり、今戻りました。
 bragelonneさんは第二外国語がフランス語のようですし、私よりお詳しいでしょう、ロマン・ロランは。
 私も始めての邂逅は中三でした。少し難しかったですね。ジャン・クリストフのあと、魅せられたる魂でした。
 引用がありましたね。
 「平和とは戦争のなきことならず」テニスンでしたか。
 
 あぁもっと今切実なのがバガヴァッドギータ。
 マハバーラタ物語ですね。
 クルクシェトラの闘いは邪悪なクルスたちに簒奪された王国の回復をするやむを得ない、パンダヴァス(いずれも、“ス”は欧米人の複数形固執ですが)のクリシュナを応援にした血みどろの戦闘でした。
 正統なる復権のための。

 バガヴァッド・ギータはこの戦闘の真っ只中の両陣相対峙する、瞑想の最中(さなか)、師クリシュナ(魂)と理念的弟子(人間人生意識)アルジュナとの対話です。
 下降してきている人間意識・通常の生活し方から、魂的生き方、本来の存在性を回復するための人生闘いの叡智の会話です。
 アルジュナ(パンダヴァ)が唯々諾々と、流れるままに、人生をだらだら生きるなら、この闘いは必要はない。起らない。
 でも、人間存在の根幹から、この闘いは必然とならざるを得ない。
 というものです。
 
 これ即ち、仰せのご質問への、私の回答の本音です。

 あぁ、回答番号:No.26、ご覧になってください。

この回答への補足

 krya1998さん こんにちは。ご返事が遅くなり 申し訳ありませんでした。ご回答をありがとうございます。

 残念ながら ロマン・ロランについて 明るくありません。
 アルジュナについてでしたら 少し 話について行くことができます。

 ただ これは 昔の話ですね。その昔 武器を取って 物理的な力をもって争ったときのことではないでしょうか。
 いまは 昔。というわけで 時代が違うのではないでしょうか。まづは そのように考えております。

 バガワ゛ッド・ギーターの場面は 戦場に出た王子アルジュナが 戦争をいさぎよしとは しないと言って 思索に耽るところだと思います。かれは ためらい ためらって 闘いの神であるシワ゛(クリシナ)と 延々と対話をなすというところですよね。ちょっと 振り返ってみました。
 そこでは まずアルジュナは かれ自身のちゅうちょについて こう訴えています。

   ・・・〔手足がひるみ 口が乾き 身体がふるえ 髪が逆立って
  ・・・肌は燃えて熱くなっている〕
   このことは おお クリシナよ 悪徳の兆す前触れでなくて 
  何であろう。戦いで 同じ種族(くに)の人びとを殺すことに 
  いったい どんな徳があるというのか。・・・

   かれらを殺すことに わたしは 断じて 同意しない。たとえ
  かれらが わたしを殺そうとも。全世界に代えても そうだ。
   (The Bhagavadgita ch.1 st.29-31, 35。S.Radakrishnan 英訳より)

 これに答えて クリシナは語ります。

   この折れ返し(=反省) このくじかれかたは 一体全体 
  どこから来たのか。われら気高き(アーリア)種族の者には 
  いまだかつて知られたことのなかったものだ。それによって 
  天に導かれることもなければ 地では アルジュナよ ただ
  名を汚すことになるのみではないか。
   (ch.2 st.2)

 こうして始まったアルジュナと神との問答は その世界観を徐々に開いてゆくかたちで 繰り広げられていくようです。ここではもはや さらに次のいま一つのやり取りのみを掲げます。

  [アルジュナ]
   クリシナよ あなたは 進まざることの貴さと 同時に
  《わたし》を捨てて進むことの貴さを説かれた。しかし 〔もし
  それらが互いに異なるものであるなら〕 いづれがさらに
  より貴いものなのであるかを おしえられよ。(ch.5 st.1)

  [クリシナ]
   たたかいを断念すること(the renunciation of works)にも 
  《わたし》を捨ててたたかうこと(their〔=the works'〕  
  unselfish performance)にも ともに そこには われわれの
  類としての本質( the soul's salvation)を見出すことができる。
   しかし それらの間では アルジュナよ 後者のほうが
  より貴いであろう。(ch.5 st.2)

 という全編をつうじて一つの基調をなすべき思想の開陳であるようです。
 煮詰めた議論 しかも 端折った議論 になりますが ここまで――バガヴァッドギーターのように ここまで――言うことは もはや《すべてがゆるされている》と――そしてそれは 確かに真実だ――言うことに ひとしい。と思われます。言いかえるなら それは 信仰の問題であり ひとりの《わたし》の主観の問題 主観内面の問題であるように考えます。
 わたしたちは 《類としての本質(――要するに 人類の一員であるという・その仲間であるという人間の存在のことですが――)》にもとづく知解にて 事足れりとすることができるでしょうか。むしろ そうではなく さらに 種的ないし個体的な実存についても 議論をつづけなければならないのではないでしょうか。

 それは 個人の主観の内面の 信仰というものを ひらくこと ではないでしょうか?
 すなわち ここでは 一般に 文学芸術作品としての完結性をも もはや焦点とはしないということではないでしょうか。
 アルジュナは 類的な知解によって 決断をかたちづくった。
 わたしたちは――また 文章に成る前の 実際のアルジュナその人は―― そのような文学作品における思想を超えて 生きるし 生きた ということにはならないでしょうか。
 このアルジュナという存在像は たしかに 過去であっても つまりは現代にとって 非連続でもあっても 思想として 連続性の側面をも持つと言わなければなりません。しかも この連続性・共通の側面は それを生かすには 果たして わたしたちは 一人ひとり どうすれば よいか。という視点も 大切であるのではないでしょうか。いかがでしょう。
 * 短絡的な 議論のみちびきのままですが。

補足日時:2009/03/25 19:36
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 少なくとも、質問者様の考えている喧嘩というものは、そう質問者様が勝手に呼んでいるだけで、形は異なるものでしょう、と釘を刺しておきます。



 それはもちろん、全ての喧嘩が非生産的、争いだなんて言うつもりはないですが、殴りあった末に友情が芽生えるような茶番が、現実問題として口論で起きるなんてことは稀でしょう。そしてそれは限りなく予測不可能な、偶発的に起こりうるものだと思います(でなければ、それは「喧嘩」という名を借りた茶番です)。そんな非生産的かつ争いの種となる、大きいリスクをもった「喧嘩」というものを、社会が許容するわけがないでしょう。

 大局的に見て危険だったり迷惑だったりするのなら、それを一般的な考えとしてダメだと考えるのは当然です。「喧嘩は当事者達の問題だから、一般的な考えは適用されない」と思っているのなら、物事を見る視野が非常にせまいし、喧嘩という物事を的確に捉えていないと思います。「存在を愛し、思想や行動を憎む」という考えは立派ですが、そのようにして憎しみが浄化できない人間がいる以上、質問者様の考えは幻想に近いと思います。そもそも、そんなことができる人間がうようよしているのなら、最初から喧嘩になんてならないでしょう。

 そしてその喧嘩が当事者以外にも影響を及ぼすことも忘れてはいけません。それひとつひとつの状況にもよりますが、喧嘩があくまで当事者だけの問題で済むケースはほとんどないでしょう。当事者含め、それ以外の人たちが不快になることだってあるでしょう。

 物事のいい側面しか見ていないから、質問者様はポカをやるのだと思います(或いは自己責任論の推進者でしょうか)。要は質問者様が間違っているのは、喧嘩と言う物事のあらゆる要素、それからなる影響、悪い側面、それらを加味せずいい側面しか見ていないところでしょう。それらを認知した上で、現実問題として考えた場合、それがどれだけリスクの大きいものであるか自ずと分かるでしょう。

 悪いケース、良いケース、それらを取捨選択して喧嘩ができるのならいい(言い得て妙だが)ですが、そんな器用なことは、そうそうできないでしょう(そもそもやろうとしてできるものか、できたとして、それは喧嘩と呼べるものなのでしょうか)。根本的なところの認識がおかしいのだと思います。そこがおかしい以上、いくら概念的な話を持ち込んだところで話にならないのではないでしょうか。

 それでも省みず、喧嘩のいい側面を唱えて、推進するのならそれは自由です。ただ、質問者様のように思えて喧嘩をできる人間ばかりではないことに気づいて欲しいです(というより少ないと思います。だから一般的にダメだという認識なのでしょう)。悪い側面になったとき起きた影響を、処理したりフォローしたりする方法を、質問者様は考えているのでしょうか。いないのなら、それを助長するような発言は控えたほうがいいと思います。

 質問者様のような人間ばかりではありませんし(というより少ないとと思います)、自己責任だけで物事が済まないことだってたくさんありますし、取り返しがつかないことだってあります。あえて言いますが、地球は自分中心に回っているのではありません。自己の昇華のために喧嘩をする有益性は、他の要素や影響から見ても、ほとんど感じられませんでした。質問者様のような人が喧嘩をしているとこに、できれば居合わせたくないものです。不快になったところに、そんな言い訳をされたらたまりませんから。
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この回答へのお礼

 sakusyaさん ご返事が遅れてしまい 申し訳ありません。ご回答をありがとうございます。

 そうですね。煮詰めに煮詰めたかたちで ご結論をまとめるなら
 ○ 回答者なら 自由に どのようにも けんかも批判も することができる。
 ☆ というところでしょうか。どうでしょうか? どうなんでしょう。言い過ぎましたでしょうか。
 でも それほど 捨てたものでもないようですよ。そのけんかも。
 ただ わたしが起こすけんかは 見たくないという意味になりましょうか。それとも なかなか うまく けんかをしておるわい とおっしゃっていただいているのでしょうか? 誤解がありましたでしょうか?

お礼日時:2009/03/25 18:58

所詮、生きてる間の暇つぶしかと存じます。



絶命後にも、残るような有意義な問答集でしたら、
きっと、共感を呼ぶと存じます。
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この回答へのお礼

 qsxdrfvgyhさん ご回答をありがとうございます。

 そうですね。
 共感を呼び 同感に値する文章を 互いに 心がけてまいりましょう。

お礼日時:2009/03/25 18:48

二度目の投稿になります。

自分の考えを、相手に伝えようとしても必ず限界が有ります。そうして受けとる方の考え方にも違った立場や、考え方が有ります。けんかや口論はやりたいならば自由と思いますが、そんな事に係わっている方が、時間の無駄かと思います。自分自身の事さえも良く理解できているかと言えば、良く出来ていません。

しょせん人との関わり、他人の事でしかありません。自分自身を本当に大切にしたいと思うなら、今この瞬間を大切に抱きしめていたいと思います。変な事に係わっていても時間がどんどん減っていきます。

自分の生きている時間の事です。有限の身ですから。

しょせん人には自分の考えは伝わらない、と考えています。一回言って分からない人には二度も言う必要が無いと考えています。

この回答への補足

 tumaritou1さん ご回答をありがとうございます。ご返事がおそくなりました。

 そうですね。わたしの考え方は 前回のご回答のときと 同じ思いで います。
 そのとき 問題のひとつは 具体的に 衝突を避けることを ここの質疑応答の方針として むねとすべしということのようです。

 それ以上に tumaritou1さんは ひとが分かり合えるかどうかを問題にしておられるのですね。
 わたくしも 去る者を追うというところまでは行かない これは はっきりとしています。あるいは 去らないのだけれども もう話し合いをするつもりはなくなっている という状態になったとき この場合も 対処の仕方は はっきりしています。話し合いの姿勢に立ち戻るまで 相手にしない これです。

 どうなんですかね。
 ★ 一回言って分からない人には二度も言う必要が無いと考えています。
 ☆ このとき けっきょく 《一回》というその内容を どう捉えるか になるのではないでしょうか?
 そのわけは 《一回》が 幅を持った一連の説明過程のことだと思われることが ひとつです。

 もう一つは 一回と言わず 十回と言わず その人の納得するまでのやはり一連の過程が まとめて 《一回》だと言わねばならないようにも感じられるのです。

 つまり もっと 切実な場面というのは こうです。一たん去って行ったあと もう一度 説明を求めて やって来るばあいです。これは わたしにとっては 相手が 過去のことに ひと言でも 触れて あいさつをしていれば 拒めないのではないかという意味です。
 ・・・

 ★ しょせん人には自分の考えは伝わらない、と考えています。
 ☆ いわゆる《他者》の問題――すなわち ひとは ほんとうに 他者が分かるか / 分かったと思うのは 他者の中の自分の部分であるに過ぎないのではないか の問題――とも絡んで 重要な主題であると思います。生涯にわたっての主題中の主題であると思います。

 もし ちょっと わたしの考えを述べることがゆるされるならば 触れてみたいと思うのですが 問題は しかしながら 交通(まじわり)において 意志疎通を図る目的は 《考えが伝わるかどうか》とは 微妙に 違っているのではないか。そうではなく 《わたし〔たち〕》の自由の成就 これが 問題なのではないか。つまりは 一部分の相互の了解をとおして この目的を成し遂げようとするという考え方 これも 一考に値するのではないか。こう考えられるのですが いかがでしょう。

 定義のごとく言ってみれば 
 ○ 他者が その自由を侵されていないと感じており そう申告しうるかたちで わたしの自由を――過程的にですが―― 実現していくこと これが 目的である。
 ☆ 生意気ですが このように考えています。互いに さらに よりよい地点へたどり着ければ なおさいわいに存じます。

補足日時:2009/03/25 18:45
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>なぜ いけないのでしょう?>



批判をされるのが嫌な人がいるからではないでしょうか?

>理由が分かりません。おしえてください。>

嫌になるまで批判をされたるのが一番理由がわかりますよ、ここの投稿では正直無理でしょう。
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この回答へのお礼

 TENNTENNSEVENOKさん ご回答をありがとうございます。

 ★ 批判をされるのが嫌な人がいるからではないでしょうか?
 ☆ この理由で 《批判が いけない》ということでしょうか? あぁ 管理の側からみれば そういうことになるのかも知れませんね。

 ★ 嫌になるまで批判をされたるのが一番理由がわかりますよ、ここの投稿では正直無理でしょう。
 ☆ ほかのご回答で 互いに批判しあい よりよい回答内容に 互いに たどり着くというご見解があったのですが そういう趣旨をも くつがえすものなのでしょうか?
 そうですかねぇ。
 ただし たぶん 遠まわしに触れて 批判をしたかたちにするのは よけい 好ましく思わないということになるのでしょうね。
 その場その場 その人その人に応じて だと考えられると同時に むしろ 自由な意見交換という初めの原則に忠実であること この方針が よいように いまは 思っておりますが どうでしょう。

お礼日時:2009/03/25 17:51

横入りすいません。


私なりの答えを書かせていただきます。

そもそも口論と議論の違いはなにか。

口論、口喧嘩と呼ばれるものは
結局はお互いに「自分の思考、発言の正当性を主張し、
相手の発言が自分の思考に沿っていなければ否定をする」
という事でしかありません。
つまりは「相手を自分の思考に合わせよう」という行為です。
お互いがこの主旨で話しをしていれば、いつまでも話に結論はつかず、
お互いに気分を害すだけの口喧嘩になってしまいます。

議論というのは、
「一つの議題に対してお互いの答えを一つにする」為のものです。
なぜ相手がそういう理屈に至ったのかを考え、
なぜ自分が自分の考えに至ったのかを説明する。
そしてお互いにより良い意見の方に自分の考えをシフトさせていく。
「答えを出すための話し合い」なので、
その議論が完結した際にはその議題に対しての結論が出て、
お互いに思考を共有しとても快い結果となります。

「喧嘩、口論はいけない。」
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この回答へのお礼

 t-mak1020さん ご返事が遅くなりました。ご回答をありがとうございます。

 そうですね。わたし自身の気持ちを述べることから始めることがゆるされるなら たぶん われらが日本人は 礼儀を知らないわけではないと考えられるのです。まづ そう思われます。

 では なぜ 衝突が起こるのか。
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 「答えを出すための話し合い」なので、
 その議論が完結した際にはその議題に対しての結論が出て、
 お互いに思考を共有しとても快い結果となります。
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 ☆ こういうことですよね。それが なぜ なのか。つまり 誰もが わかっているはづなのです。哲学カテゴリを覗く人であれば わかっているはづです。
 ○ 批判
 ☆ の仕方が 問題になるでしょうか。と言っても それも いくつも 批判の仕方があるというものでもないのではないでしょうか。互いの見解を述べあって より妥当な内容を問い求めていく これは おっしゃっていることであるほかありません。
 どうなんでしょうか。気長にあゆむという結論にたどりつくのですが 何か どこか 欠けているでしょうか。

お礼日時:2009/03/25 17:43
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