プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

 ここでは けんかを 口論にしぼってください。
 つまり 自己批判をふくめて 批判をすることです。
 存在を愛し 思想や行動を憎むことです。

 なぜ いけないのでしょう?
 理由が分かりません。おしえてください。

A 回答 (128件中71~80件)

> でも 隣りのテーブルなのだから わたしたちには関係ないわと


> その妻は 言うのでしょうか?
例え話にこだわると、問題がブレませんか?

哲学的、もしくは宗教的には
そろそろ多様性と自由意志の問題を
論じるべき時期に来ていると思います。

世の中の風潮としては
「他人に関わりたくない、でも一人は嫌」な人が増えている
ということでしょうか?

私には「豊かさの裏返し」にも見えるので
非常に難しそうな問題だな、という予感があります。

この回答への補足

 お礼欄をおぎないます。

 ● ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ★ (No.70=No.68) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 > 人は、それぞれ、それぞれの成長過程にあります。
 > この多様性を受け入れて、静観することも、見守るという愛です。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 
 ☆ これは 大人に対する問題ではありません。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ 大人のばあいにも 何か事件に出遭って 落ち込んでいるときなど 《静観し 見守る》あるいは《一緒にいる ないし 助言をあたえる》ことはあります。
 念のためにですが それも 《成長過程》の問題ではないと言わざるを得ませんので 重ねて 述べておきたいと思いました。
 それに もし大人にも 成長過程があてはまるのであれば そのときには 面子を捨てて 自分のあやまちについて まちがいましたと言って 認めなくてはいけないでしょう。

 ですから
 ★ 「豊かさの裏返し」
 ☆ であるかも知れないのですが
 ★ 「他人に関わりたくない、でも一人は嫌」
 ☆ なる思想は 自由にさせておくのですが その思想が こちら(われわれ)と出会ったときには われわれは しっかりと 間違いなる行動をこうむったなら 間違いだよと指摘してやるべきだと考えられます。 
 つまり 長い目で見るというよりは その場における一回性の行動として 判断と指摘とは 決めてやっておかねばいけないことだと考えます。
 《一回性》という意味は 信頼関係を構築して 徐々に 話を相手に分かるように述べるという必要な時間と過程を省くことはならないというものです。

 また 説教調になりましたが。

補足日時:2009/03/30 17:42
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 CUE009さん ずるい と言いますか それなら わたしの言おうとしていることと まったく 同じ見解ではないですか。

 ご回答をありがとうございます。
 まぁ ほかの回答者の投稿内容を批判することが むつかしいのでしょうけれど それなら 喩え話で 述べなければならないでしょうし。つまり 問題はブレていませんよ。ただ 《注文をしてから 黙って席を立って 外に出た》を 《他人の食事をかっさらった》に 増幅させてはいますが。

 それに 《個性とは何か》も《自由意志》の問題も すでに 質問ずみです。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 世の中の風潮としては
 「他人に関わりたくない、でも一人は嫌」な人が増えている / ということでしょうか?

 私には「豊かさの裏返し」にも見えるので
 非常に難しそうな問題だな、という予感があります。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ わたしに言わせれば これは 子どもにとっての問題であって 成人してからの問題ではないという意味です。ですから
 ★ (No.70=No.68) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 > 人は、それぞれ、それぞれの成長過程にあります。
 > この多様性を受け入れて、静観することも、見守るという愛です。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これは 大人に対する問題ではありません。いや 大人にとっても当てはまると言うためには 《弱者扱い=子ども扱い》になります。決まり切っていることではないでしょうか? それとも 水準を下げて 対処せねばならないようになって来ているということでしょうか?
 
 ここまで書いて もう あとが継げなくなりました。いったい どうなっているのでしょう? 
 ★ 「他人に関わりたくない、でも一人は嫌」な人が増えている
 ☆ こういう人たちを 子守りしていかねばならないということでしょうか? ♪ ねんねんころりよ おころりよ ♪
 もうご返事はいただけないかも知れませんが この中途で 区切ります。

お礼日時:2009/03/30 17:13

maimaisusです。



ふーん、そんな風に考えていたんですね。

でも、どんなに、理由をつけても行動的には、結果的に、自分が批判した行為を行っている事には変わりないですよ。
前にも、何かの時に言いましたが、自分は良くて人は駄目って言う理屈はどうかと思います。(結果的にね。)

私の場合、学問がどうこうは、あまり関係ありません、質問がありそこに自分なりの回答をしているだけですから。
ただ、問題の解決や、方向性によって、質問者さんに合わせて回答しているつもりです。
別に、敵対心とか、憎しみとか、全然関係ないです、勝手に怒って勝手に無視に近いことされても、「おいおい」って感じなのですが。


まあ、確かに、学問的には、小学生低学年並みですが。
精神的には、爺だとよく言われます。
勉強出来ても、社会に順応出来ないより良いかなって思いますが。何か?

あ、変に受け取らないで下さいね。
そう言う、ノリなので。

ただ、私の回答は質問者さんの為だけにしている訳ではない事は、確かです。
    • good
    • 0

あっ、ズルイって言われてしまいました。


時間がない、とか言いながら
ちょこちょこと10分ぐらい時間が空きますので
回答をしております。

>> 人は、それぞれ、それぞれの成長過程にあります。
>> この多様性を受け入れて、静観することも、見守るという愛です。
> ☆ これは 大人に対する問題ではありません。
そんなの当り前です。
それが分からないのは子供だからです。
(当り前をわざわざ説明させてすいませんでした。)
> 《弱者扱い=子ども扱い》になります。
> 決まり切っていることではないでしょうか? 
> それとも 水準を下げて 対処せねばならないようになって来ているということでしょうか?
以前、お前は神のつもりか?と皮肉って
多分、通じなかった子供のように
子供には子供の目線で話さないと分からない。
(何か、そうしたら、好かれちゃったけど。)
水準を下げる、とか言うのはおかしいです。
コッチが先に目線を合わせるか、ムコウが合わせてくるまで待つか
いずれにせよ目線の高さが合わずにキモチを合わせることが出来るのでしょうか。
キモチが共有できないと、いつまでも「押し付け合い」が続くだけではないでしょうか。

目線を合わせる作業を「水準が下がる」と嫌うなら
子供とは話さない方がイイです。
下手すれば「暇な自分をかまってくれる便利なおじさん」ぐらいにしか
思ってないのかも知れませんから。
そういうヤツには「大人になったら、またおいで」もアリだと思います。

> 《個性とは何か》も《自由意志》の問題も すでに 質問ずみです。
どれでしょう?
解決済みですか?

もうこの質問では最後の投稿にしますので
宜しくお願いします。

この回答への補足

 CUE009さん ご回答をありがとうございます。

 ☆☆ ずるい
 ☆ と言ったからと言って 別に投稿をやめよと言っているわけではりません。ありがたいですよ。
 わたしも 前回のお礼欄のほうでは 思考停止のごとき状態に陥りました。そういう情況のことです。

 【Q:ひとの個性とは 何でしょう。】
 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4120187.html
 【Q:自由意志について】 
 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa3286135.html
 ★ 解決済みですか?
 ☆ 先の問いのほうは かなり 進めています。あとのほうは 必ずしも 決着がついたとは言えません。

 ☆☆ それとも 水準を下げて 対処せねばならないようになって来ているということでしょうか?
 ☆ 確かに《水準》という表現は 適切ではなかったでしょうか。まちがいだと言いきらなくてもよいように考えますが。
 というのは 
 ★ 目線
 ☆ の問題であるよりも わたしの心づもりとしては もっと 存在の形式といった態度にかかわっているからです。
 もはや具体例を出しますが 相手の思惟やおこないを批判する際には 《気づかない何かわるいことがあったよ》と言って おしまいとする思想は 水準が低いです。事例をひとつも出さない・出せないで そういうことを言うのは 相手とすることが出来ないでしょう。とぼけているのであろうが なかろうが それは もはや 《対話をしない》と 明かしているとしか解釈しえないものです。存在の形式の水準が ふつうの状態に達していません。
 ですから わるいですが
 ★ 目線
 ☆ のお話は 別とさせてください。
 それにしても
 ★ そういうヤツ(* 自分がかまって欲しいと思っているような子どものような者)には「大人になったら、またおいで」もアリだと思います。
 ☆ とは わたしは 感覚的に よう言いません。出来ないですね。実際には おとななんでしょう? そのひとを目の前にして そういうことは 言えないですよ。言えますかねぇ。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 いずれにせよ目線の高さが合わずにキモチを合わせることが出来るのでしょうか。
 キモチが共有できないと、いつまでも「押し付け合い」が続くだけではないでしょうか。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ それは やはり わたしの考えでは 《信頼関係》の問題であり これのほうが 優先すると思いますよ。《キモチの共有》よりは です。それに 気持ちなどは すぐ 移ろい行くものですよ。そうじゃないでしょうか?
 待ったなしの情況というのは たしかに あるようで しかも それは ほとんど 子どもの場合だと思うのですが どうでしょう? まま 女性には あるように感じていますが それを言うと 差別発言になるかも知れません。

 とにかく――考えてみれば 引き受けて来たからには なんとかしたいのは やまやまですが―― いかんせん のぞみは しんかんせん もう どうにも なりません。子どもをあやすように発言することは できないものは 出来ません。
 どうなりますやら。

補足日時:2009/03/30 21:37
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2011/12/22 14:15

> 問題はブレていませんよ。


> ただ 《注文をしてから 黙って席を立って 外に出た》を
>《他人の食事をかっさらった》に 増幅させてはいますが。
bragelonneさんの姿勢にブレがないのはよく分かりますが
このQ&Aはブレてきている、もしくは空転してきていると感じたので
仕切り直した方がイイのではないでしょうか、と思い
> もうこの質問では最後の投稿にしますので
と書きました。
まだ話が進められるような気がして戻ってきたわけですが。

> われわれは しっかりと 間違いなる行動をこうむったなら
> 間違いだよと指摘してやるべきだと考えられます。
正しい姿勢だと思います。思うのですが
> どんなに、理由をつけても行動的には、結果的に、
> 自分が批判した行為を行っている事には変わりないですよ。
「自由に批判してイイ、って言うから批判したら、文句つけられた。
おじさんの嘘つき、謝れ!」って、結局そこに戻ってしまうわけで
その議論の噛み合わなさ、進まなさは何なんだろう?と
傍から見ていて困惑してしまいました。

少し話が飛躍しますが
貧しい時代であれば未熟さは「生き残れなさ」であったでしょう。
野生であれば、淘汰されてしまいます。
それ=未熟さが、未熟のまま生きていけるのは
豊かになった証でもあると思います。
ある意味、素晴らしいことかも知れない。
豊かな中で、大人たちは未熟者の未熟さに寛容になった。
寛容、と言えば耳触りがイイですが
要するに「まあ、ご自由に、勝手にすれば」です。
(今は自己批判をしています。)
切羽詰ってないから、放任主義を許容しているのかも知れません。

自由を履き違えている人は
全体における個の位置づけが出来ていない人だと思います。
全体における個の位置づけ意識がない人です。
全体を構成する要素としての個の視点が欠けた人です。
自分の位置づけがないから
ひたすら自由です。
ひたすら「個」です。
自分の位置づけがないから
相対性とか多様性が優先するのです。
エチケットすら相対化し多様化させるのです。
相対性や多様性と言えばカッコいいですが
要は「何でもあり」です。
何でもあり、にしてくれないと
自分の居場所がなくなってしまいます。
それこそは彼らが一番恐れていることです。

その議論の噛み合わなさ、進まなさは何なんだろう?の後に
一気に思ったことを勢いにまかせて書いてみました。
その先が続かなくなったので、一旦筆を置きます。

> 【Q:自由意志について】
2007年の夏のQ&Aなのですね。
その後、絶対の議論がかなり進んだように思います。
自由意思の議論も、今なら進むでしょう。
絶対につながらずして、自由意思はありえない、です。
これこそはbragelonneさんから頂いたインスピレーションです。

この回答への補足

 CUE009さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 そうですね。質問の趣旨に変化はありませんし その問い求めをつづけて来ていることに間違いないのですが どうも やり取りというのは どういうふうに 展開するのか 分からないところがありますね。
 見解を同じくしていると言ってよいわれわれが この問い求めを継いでいるというはめに落ち入りましたね。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
   > どんなに、理由をつけても行動的には、結果的に、
   > 自分が批判した行為を行っている事には変わりないですよ。
 「自由に批判してイイ、って言うから批判したら、文句つけられた。おじさんの嘘つき、謝れ!」って、結局そこに戻ってしまうわけで
 その議論の噛み合わなさ、進まなさは何なんだろう?と / 傍から見ていて困惑してしまいました。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これは けっきょくのところ 《言いっ放し》ということではないですか? 《文句をつける前に 感謝せよ》という程度なら 感謝の意を表明していますから 当てはまりません。《文句は いっさい 受けつけない》という言いっ放しでしょうね。
 それでも 問題をすり替えて 言いかえして来る場合も あります。とにかく ご褒美が欲しいということなのでしょうか。

 ★ それ=未熟さが、未熟のまま生きていけるのは / 豊かになった証でもあると思います。
 ☆ これは 全面的には 賛成できません。その昔も 《未熟のまま生きていける》情況は ありました。建築基準法の規定をうまくすり抜けるやり方がありました。建ぺい率をごまかしてマンションを建てていました。
 いわく 《きみぃ いにしえの賢人も言っているではないか。〈衣食足りて礼節を知る〉だよ。いまは 経済成長が先なんだ。あっはっはは》。
 豊かになったら ぎゃくに よけい未熟が増え その未熟のままでもやっていけるという風潮になったかもしれない。なぜなら その御仁も 礼節の大切さじたいは 知っていたからです。

 この勢いで 一気に CUE009さんにも楯ついてみましょうか。こういうあそびが出来るということは 偉大なことです。

 ★ 自由を履き違えている
 ☆ と言うよりは 
 ○ 自由を知らない。してもいいよ と聞いたときとか 何も言われない ときに それは 自由なのだと受け取る。
 ○ 奴隷の自由は 自由ではない。隷属のなかに見出した一息の――と言っても これが 長期・広範なものとなっての――意志の放出。
 ○ 何ごとも うまくやればよいのだし どうしても警察の手に落ちたなら 土下座してでも あやまればよいのだ。だって 警察じたいが そういうふうに うまく やっているのだから。文句あっか!
 ☆ これは 自由を履き違えているとは思えません。自由の何たるかを 考えたことのない 人間以前の状態にある人間であるようです。
 ★ 要は「何でもあり」です。
 ☆ そのとおりです。おっしゃるとおりです。しかも この《何でもあり》というのは その基礎としては 顔がないのです。顔無し の上に 何でも メイキャップして ありとも見られます。 
 ○ のっぺらぼう史観
 ☆ これは
 ★ 相対性や多様性
 ☆ の問題をうんぬんするはるか以前の状態ではないでしょうか。人造の人工の模造のワ゛-チュアルなものごとのあいだで 比較したり対照させたりしても それは 相対性とも多様性とも言わないでしょう。ままごと遊びで 食べていけると思うことであり お医者さんごっこで 病いを直すということの中には 捉えて比べるべき存在も自然本性も意志も愛も――知解作業による知識だけは 一人前ですが―― ないでしょう。
 こうなると おっしゃるように
 ★ 自由意志
 ☆ の問題が 提起されるかっこうではありますが。

 と書いて来て――自由意志について いま どういうふうに問えばよいかをも考えつつ思ったことは―― むしろ
 ○ 口論としてのけんか これを どうやるか。
 ☆ これを学んだほうが 有効であるかも知れない。とまで 思いました。ディベートは好きく(?)ありませんが 対話の基礎は 案外 けんかにあるかも知れません。もともと けんかは 好きでやるわけではなく 権力者の横暴に反抗するところからであるはづです。仲間うちにやるそれは 高が知れています。
 となると いまの人びとは そのような横暴に対して 抵抗するのではなく どうすれば 同じように うまい汁を吸うことができるか こちらの方面で 大いに 《研究と能力開発》をおこなっているということなのでしょうか?

 とりあえず おあとが よろしいようで。

補足日時:2009/03/31 10:14
    • good
    • 0

>★ 批判をされるのが嫌な人がいるからではないでしょうか?


 ☆ この理由で 《批判が いけない》ということでしょうか? あぁ 管理の側からみれば そういうことになるのかも知れませんね。>

 いや、管理というよりかその人個人の問題で、やはり相当苦痛に感じる人もいるので批判が良くないというニアンスが浮上してきたということではないかな?ということです。


>★ 嫌になるまで批判をされたるのが一番理由がわかりますよ、ここの投稿では正直無理でしょう。
 ☆ ほかのご回答で 互いに批判しあい よりよい回答内容に 互いに たどり着くというご見解があったのですが そういう趣旨をも くつがえすものなのでしょうか?>

 そうですね覆すような批判を浴びつづけられ、「そうかだから批判を嫌がる人がいるのか」という実感が湧けば即刻理解できるかな?ということでw


>そうですかねぇ。
 ただし たぶん 遠まわしに触れて 批判をしたかたちにするのは よけい 好ましく思わないということになるのでしょうね。>

 まあ、そうでしょうね、女性や神経症気味な人なんかには多いかもしれませんね。
 また、情報がなんとなくなんで多少の気持ちの表出が拡大解釈され得る可能性はありますね。

>その場その場 その人その人に応じて だと考えられると同時に むしろ 自由な意見交換という初めの原則に忠実であること この方針が よいように いまは 思っておりますが どうでしょう。>

賛成です。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 TENNTENNSEVENOKさん ご回答をありがとうございます。

 ★ というよりかその人個人の問題で、やはり相当苦痛に感じる人もいるので批判が良くないというニアンスが浮上してきたということではないかな?
 ☆ それは
 ★ 《互いに批判しあい よりよい回答内容に 互いに たどり着くという趣旨をも くつがえす》ような批判を浴びつづけ
 ☆ るなら 《実感として理解できる》はづだということのようですね。

 でも あのひとでさえ 拉致を事実として認めましたよ。
 ★ 相当苦痛に感じる
 ☆ ことがあったのではないでしょうか。その火の中をくぐり抜けて来て 犯罪があったことを認めたのですよ。
 ○ 《互いに批判しあい よりよい回答内容に 互いに たどり着く》という見解
 ☆ は 原則であり 死守すべきではないですか?

 ● ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  >その場その場 その人その人に応じて だと考えられると同時に むしろ 自由な意見交換という初めの原則に忠実であること この方針が よいように いまは 思っておりますが どうでしょう。>

 賛成です。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ありがとう。

お礼日時:2009/03/31 10:33

maiamisusです。



まあ、実例を挙げるまでもなく、今の状態がbragelonneさんの欠陥なのだと、思います。
ご自分が欠陥だと言った事をしているのですから。
無視とか、間接的(他の回答者のお礼欄を使い)な言い方とかですね。
ご自分が、怒っていたことを結局している訳です。

見様によっては、中学生のいじめみたいもんですね。

そう言った行為は、自分で自分を貶める行為になるので、他の方法を取ることをお勧めします。

あのですね、私が言いたい事は、難しい理屈どうこうではなく、

心の在り方

が大切だという事です。
もちろん、これは個人的な意見ですが。
    • good
    • 0

> 〈衣食足りて礼節を知る〉だよ。


つい先日読んだ橋本治の著作にこんなようなことが書いてありました。

「衣食足りて礼節を知る」とは孔子の言葉ですが
「衣食が足り過ぎてしまった後」はどうなるのでしょう。
日本は80年代に入り「飽食の時代」という言葉が定着します。
衣食が足りすぎてしまった、ということです。
礼節を知るためには衣食が足りるか足りないかぐらいであることが
大事だと思われます。云々。

暇つぶしにたまたま買った本ですが
少しシンクロニシティのようなものを感じてたりして。

多様性を考えていく上で、参考になるかどうか分かりませんが
私は常々、神を人格化することに馴染めないことをお伝えしています。
母がウーマンズリブ世代(の後期)であったからでしょうか
子供の頃から男尊女卑するような人が苦手です。
無意識な男尊女卑発言ほど反感を抱きます。
男性中心も「?」ですし人間中心も「?」です。
やがて、全ての命は平等、といった言葉に共感していくわけです。
さらに、ゴキブリも、ウィルスも、毒も、悪も、皆、命は平等、となり
一種の自己矛盾を抱え始めます。
何だか、多様性とか相対主義が正しいように思えてきたわけです。
それは、真面目に、正直に、一途に、辿りついたつもりだったのですが
それでは「何でもあり」なのか?というディレンマが生まれます。

> 顔がないのです。
というのは、私の表現に変換させて頂くと「外部がない」のです。
外の接続がないのです。
だから、内側だけで個が完結し、内側がひたすら肥大していく。
(上の行は橋本治の表現を少し借りています。)
外というのは、一番小さなものが例えば家で
少し大きくなって地域とか、会社とか、国とか、社会とか、地球とか、と
徐々に俯瞰するようになり
絶対へと接続していくのだろう、と想像力を伸ばした辺りで
ディレンマが解決できそうな予感を得ました。
外部の想定が出来て、個の位置づけが出来、顔が見えてくる
外部-個の関係性ができて、初めて多様性が考えられるようになる
絶対に接続することで、相対が初めて理解でき
相対とは「何でもあり」ではなく
絶対に対する関係性/位置づけの話だということに気づく
ということでしょうか。
(その先は長考中です。)

> 対話の基礎は 案外 けんかにあるかも知れません。
私達の中学生時代は校内暴力が社会的に問題視され
以後の世代は鎮圧されちゃったんですよね。
当時は良かれと思ってやったんでしょうが・・・
そうか、コレは、この世に「悪はない」という議論とつながっているのか。

あらためて喧嘩はなぜいけないのか?
当時のPTAは今どう考えていらっしゃるのでしょう。
喧嘩は自分も含めてどんどん下手になっていますねえ。

この回答への補足

 CUE009さん ご回答をありがとうございます。

 ★ 母がウーマンズリブ世代(の後期)であったからでしょうか
 ☆ そうですか。目指すところは まったく同じだと思っていたのですが 正直な思いとしては 当時の榎という人でしたか あるいは 今も活躍している上野千鶴子ですか それぞれ 少しづつ 違和感がありましたねぇ。
 前者は テレビでの放映としては 成功だったのかも知れませんね。後者は えらそうに言えば 伸びませんでしたね。浅田彰も そんな感じですし 中沢新一は 初めから ひん曲がっていました。フランスの現代思想とやらは 豊饒を演出するところの貧困に終わっていますねと言いたくなるほど ろくなものがないかに思われます。

 たぶん 為すべき批判としてのけんかをしていないから ではないでしょうか。中沢は 勝手なけんかを 世界に向かって吹っかける側にまわってしまったままですからね。宗教は 狂気であっていいんだと言う宗教学者が 多かったですね。
 発狂するのは 自由だが――つまりたしかに 自由意志の発露として 発狂するまでに 思惟をすすめたり 修行をおこなったりしても 自由ですが―― ひとに迷惑をかけるのは 自由ではない。と明確に言わなかったですね。学者と称する人に限って そうだったのではないでしょうか。

 と漫談で ご返答というのも あまり続けるべきではないのでしょう。
 ○ けんかの効用
 ☆ などという主題にも 出会いましたが 方向性が 定まらなくなっても 来ました。しばらく まだ開いていて 特に この質問の中に おさめておきたいという課題が 見えなくなったとき 締めることにします。

 ☆☆ 顔がない
 ☆ と言うのは たしかに
 ★☆ 存在の孤独にもとづく社会的な《独立性》と それが 否応なく 孤独の関係であるという社会的な《関係性》と これらふたつの側面が 《わたし》なる自然本性には そなわっている。
 ☆ という問題に絡ませてとらえるべき課題だと思います。

 ★ 悪は 存在しない。
 ☆ これを聞いて どういうわけか きわめて 遠い昔の話であるという感覚を持ちました。いったい どうなっているのでしょう。再出発したからと言って そんな昔のことではないでしょうのに。

 ★ 「衣食足りて礼節を知る」――「飽食の時代」
 ☆ 衣食には 住も入ることをお忘れなく。あなたの専門ではなかったですか? わが国は まだまだだと思います。最低限の住宅 これを 主要な政策にかかげてもよいと考えます。百年住宅とか耳にしますが 詳しいことは知りません。間取りを 広く取らなきゃだめですよ。《縮み志向》《小さきものは うつくし》とも言うには言いますが。

 取り止めがなくなって来ました。再び おあとがよろしいようで。

補足日時:2009/03/31 13:37
    • good
    • 0

ぽこぺろぽです。

かなり派手にやってますね。こんなに勇ましい方とは知りませんでした。話の流れは把握しようにも到底ムリですからここでは私見を述べるに留めますね。

 ケンカをしては何故いけないのか?おそらく議論がエスカレートして、相手の意見に加えて人格や生活態度まで批判することを指してのことを言われるのでしょう。

 ひとつは主体を批判されると存在まで否定されていると錯覚するから。

 次に批判された人は反撃を試み、水掛け論に陥りやすいから。あるいは反撃を試みなかった場合、イジメと受け取られやすいから。

 加えて仲介に入った第三者を含める関係者の批判に及ぶことも多いから。これは私の過去の質問においてのあなたへの揶喩を含めます。

 最後に日本人は特に争いを好まない民族である。議論をケンカと錯覚して予め防御線を張る人が多いから。

 大雑把にいってこんな感じです。私の今後の成長のためにも、厳しいご意見をお待ちしております。

この回答への補足

 これは これは。ようこそ pokoperopo さん。思いがけなく というのは 快いものですね。《愛は地球を》では ただちに 打ち止めにされるとは これも 思いも寄らないことでした。公開の場では たとえ話に替えるとよかったかも知れませんね。(その方法を考えずに 言ってしまいましたが)。
 ご回答をありがとうございます。
 ★ 今後の成長のためにも、厳しいご意見をお待ちしております。
 ☆ この最後のお言葉に 力が抜けたように感じてしまいましたが ひととおり 考えるところを述べて ご返答とします。

 いっそのこと 今回は のっけから 飛躍してみます。
 ○ 和を以って貴しと為せと言われなかったなら わたしは 和を乱すことを知らなかった。
 ○ すき好んでなら わざわざ 世の中に ひとが 波風を立てることなど するわけがない。
 ☆ だれが わるいのでしょう?

 その昔 ひとが死ぬということを知ったとき ひとは その存在の時間的な存在性に・そしてその時間的な存在が互いにいとなむ世界に みづからの意志において 《イリ(入り)》しました。歴史知性の獲得です。
 その以前には なにごとにも《ヨリ(寄り・依り・憑り)》する原始心性でした。アニミズム心性でしょうか。
 歴史知性を確立していくにつれ 《ヨリ心性》に留まっている場合をどうするかという議論が起き 片や そのまま 《イリ知性》の漸進的な歩みを説く人びとと そして 片や そうではないと言って この歴史知性の潜在なる《ヨリ》原始心性を 《ヨセ(寄せ)》るのだと主張する人びとが出て 対立します。
 結果は ヨセなる言わば超歴史知性の側に イリ知性の側が 国ゆづりするというかたちで 譲歩し従属することになりました。
 途端に それまでの社会は いわば平屋建てであったものが 二階建てに早変わりしました。むろん 二階には スーパー歴史知性なるヨセ派が 住まうということになります。
 この二階から 第一条として説いて言うには
 ▲ 一に曰く、和(やわらぎ)を以(もち)て貴(たふと)しと為し(なし)、忤(さか)ふること無きを宗とせよ。
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E5%BE%B3% …
 ☆ でした。そののちにも 大きく王位を争う六七二年の乱をはじめ 自分たちの雲の上では 波風を立てても よいが 下々では ならぬと言う。その以前には 蘇我氏と物部氏が 仏教受容かどうかで 争ったとき 聖徳太子は 前者の軍に加わり戦っておきながら 上の条文をこしらえた。
 ということは 《ヨセ》なる知性は 別格であって 人びとは その知性に対して 波風を立ててはならないと言っている。ことになるのでしょうか? どうでしょうか?
  ヨセなる超歴史知性:天つ神 
  イリなる歴史知性: 国つ神
  ヨリなる原始心性: うつ(現)しきあをひとくさ(青人草)
 あるいは
  ○ 罪には ヨセなる第二階を侵そうとする天つ罪と イリなる第一階で争われる国つ罪とがある。
 ☆ という世の中が 出来あがって行きました。とさ。

 結論:第二階がなかりせば けんかは 仲間うちのむしろ交流であり 交通のひとつのかたちであった。のではないか?
 どうでしょう?

 * あるいは イリ歴史知性の中から ヨセ超知性が出たのと 似てはいるが 少し違うアマアガリも見られました。その後 歴史知性が 理性として・理性なる神として 歴史を超越するかたちで あがめられるようになった。のではないか? 
 * 内面において自己崇拝的な《ヨリ》を《復活》させてのように あらたな歴史知性として立った《コギト》知性。これによれば たしかに もはや 人びとの知性は 針ねずみのごとき容貌を現わして来た。――こちらの方の現象については 分析していただいたとおりです。

補足日時:2009/03/31 15:21
    • good
    • 0

ご質問者様の人間たるやこうあらねばならないとか、


大人なら当然成熟あるべき姿の定義が凝り固まっているようですね。

私も、ご質問者様のように、それを両親に押し付けることをしてきたので、
批判して何が悪いというお気持ちはわかります。

しかし、その後、人間とは何ぞや、はたまた、人間がどのようにしてこの地球に降り立つのか、
人間の根源について、研究や治療として用いている人の考えに触れたために、
その押し付けることの傲慢さに気づき、
多様性や人を許すことの大切さを学びつつあるから今までのような回答になっています。
多様性以前の問題だということはありません。

そろそろ、許すことの大切さを学ぶ時なのではないでしょうか?
これが人間にとっての命題であるように思います。

子供だろうが大人だろうが、人間はいつでも成長の過程であると確信しています。
(人間の本質を実感しているから言えます。ここでそれを言い出すと長くなるので省略します。)

あなたが、論理的にうまくケンカできる個性をたまたま持っているから、
それができずに勝手に逃げるのは子供だと言いたいのでしょうけど、
あなたに足りない面や無い面は、有る人から言わせると子供と言われても仕方がないでしょう。
(私は、大人も子供もなく、それが現時点でのただの個性のようなものであるだけで、ただ人間であるだけだと思いますが・・・。)

あなたの人間たるや大人たる思想を、伝えることは結構ですが、
(批判など、伝えることは大事で、伝えることをし続けるのは大いに結構です。)
他人を変えようとまですることや、一色に染め上げても構わないとするのは、あなたの欠陥です。
それくらいの気合で伝えるだけだということなら、結構なのでしょうが、
他人を変えて何が悪いというのであるなら、欠陥以外にないでしょう。
それは、傲慢以外の何者でもないからです。
言われた本人が取り入れるか入れないかを判断し、変わるか変わらないかを判断するのであって、
あなたが変えるのでは無いからです。きっかけを与えるだけです。

また、相手を変えようとしているうちは、自分が苦しく、自分が悩むだけです。
世の多くの悩みは、他人をどうこうしたい、変化させたいという欲望から来ています。
自分が変われば済む話です。人を許し、伝えていくだけです。

そして、無断で一方的に去ることを人間や大人として絶対的な欠陥としていますが、
欠陥である場面もあると思います。
その場その場で、それが欠陥と言えないこともまたあると思います。
意思表示として、許される場面か否かだけです。

どんな場面でも、人間にとって欠陥だというのは、違うと思います。
無視や思考停止することが、欠陥だというのは、違うと思います。欠陥ではなく、ただの意思表示です。それをうまく受け取れない方にも問題があると思います。
人間たるや思考することが絶対大事というのも、違うと思います。それをする必要のない人も存在します。生まれる前に、自らその個性を決めて生まれてくることすらあります。

逆に、考えないで感じることの大切さというものを知らないと、そうなると思います。
察するとか、相手を思いやるとか、想像するとかも、意思疎通には大切だと思います。
嫌がっている表現をするのに、何が正しいかは、その場面によると思いますし、
その表現が相応しくないなら、それを許し、伝えるだけです。
また、伝えた内容を採用するか否かは、伝える側が決めることではなく、受け取る側が決めることです。

※ちなみにOKWaveでは、不特定多数の人が自由に出入りすることを前提としている場所で、
 無断で出て行こうが、勝手に入ろうが、それを前提にした場所です。
 人間たるや、それは許されないという考えなら、ここを利用するのは止めた方が良さそうです。
 一言添えるにしても、誰がということを気にせず利用している人が大多数ですから、
 (特定カテゴリーの常連さんは、次第に気になっているのでしょうが・・・)
 気にしていない人もいますから、許してはいかがでしょうか?
 ここはそれを許している場所であり、前提としています。

※文章を書くときは、ついつい、断定的な論文口調をしてしまい、
 きつく受け取ってしまった場合は、すみません。

この回答への補足

 shikaruniさん これまでの質疑応答を じっくりていねいに追いつつ読んだ結果を 考えるところとして述べていただきました。まづは そのご努力に敬意を表します。そして ご回答をありがとうございます。

 どうなんでしょう。
 もはや すべては ほかの参加者や読者一般のみなさんに 判定していただきましょうか。どうでしょう?

 やや難を言えば 例示が少ないとは思います。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 言われた本人が取り入れるか入れないかを判断し、変わるか変わらないかを判断するのであって、
 あなたが変えるのでは無いからです。きっかけを与えるだけです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これは まったく そのように わたしがおこなっているところですが そうは受け取られていないということのようですね。
 ★ 押し付ける
 ★ 他人を変えようとまでする
 ☆ というように感じるし 受け取っているということのようですね。
 結論としましては それほどまでに
 ○ 多様性以前の問題
 ☆ だからでしょうね。わたしという人間が どう考えどう言おうと そういう問題があるということではないでしょうか? じんるいにとっての哲学的な課題であるということではないでしょうか?
 ですから わたしという人間が 《おしつけ ひとを変えよう》としているというよりも わたしの文章を読んだ人たちが それは 広く人間の課題であり 普遍的にして自分の問題であるとさとったからこそ そういう化学反応が 起きている。こういうことではないでしょうか?
 むろん わたし自身としましては そういう問題点を挙げて質問しているだけなのですから。触媒であるに過ぎません。まさに おっしゃるとおり
 ★ きっかけを与えるだけです。
 ☆ 《与える》という感覚もないですがね。尋ねているだけですから。まぁ 《常識》に挑戦しているという感覚は ありますが。

 あとは
 ★ 無断で出て行こうが、勝手に入ろうが、それを前提にした場所です。
 ☆ について やや 誤解があります。
 ○ 隣りのテーブルで 注文をしてから 黙って勝手に 外へ出て行ってしまった人間がいる。このとき あなたなら どうしますか。
 ☆ という意味の問いですし あるいは
 ○ 同じ情況で あなたが レストランの支配人であったなら どうするか。
 ☆ という問題です。
 ○ 特には 同じ人間が ふたたび そのレストランにやって来たとき どうするか。 
 ☆ という問題になります。

 ★ ゆるす
 ☆ という言葉でも 述べておられますが もしそうであるなら
 ○ まちがいを侵した。
 ☆ という事実があったと すでに 前提しておられるのでしょうか? 
 わたしとしましては そういう事実があったと認めますとも何とも聞いていないわけですから ゆるすも ゆるさないも まだ 問題になってはいないのですが? どうでしょう?

 * 例のあのひとでさえ 拉致の事実は認めましたよ というようなことを書きましたから そのつてでは あやまちを認めよというような促しをしていることになるかも知れません。ただし これは 《批判をいやがる》という事由を出してきたご回答に対して 応じたものです。
 * つまりは 批判内容を しっかりと把握して 答え返してくださいという意味の要請は しているかも知れませんね。議論ではなく ご回答内容についての補足要求なのですがね。

補足日時:2009/03/31 16:07
    • good
    • 0

 喧嘩が増えてるじゃないですか。

「喧嘩はいけない」が偽だと主張するならその対偶「喧嘩でないならいい(いけないでない)」も偽ですよね。回答者には前者でなく、後者が聞こえてるんですよ。だから、なかなか納得できないんでしょう。
 須らく喧嘩であるべきだというお説にも一理あるとは思うんですが、勇気のいる主張だと思います。難しいですね。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 passcardさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ケルトの森って どこ?
 大陸ぢゃ ブルターニュくらいですよね。ウェールズ・スコットランドあるいはアイルランド。そう言えば スペイン・バスク地方の南(ガリキアだったろうか)にも バグパイプを伝えていると言ってたっけ。
 ガラテア書のガラテアも そうだったとか。いまのトルコですよね。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 須らく喧嘩であるべきだというお説にも一理あるとは思うんですが、勇気のいる主張だと思います。難しいですね。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これぢゃ エールを送ってくれているぢゃないですか。
 そろそろ 収束に向かいますよ。
 雨降って地かたまるというぢゃないですか。

 われわれは かれら以上に 日本人なのですよ。
 アマテラス賢人たち以上に 日本人なのですから。
 この腹があれば 対偶も何も 論理は もうよろしい。

お礼日時:2009/03/31 18:47
←前の回答 3  4  5  6  7  8  9  10  11  12  13 次の回答→

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!