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神の存在論的証明(本体論的証明)はどういう点で欠陥があるでしょうか?

A 回答 (3件)

ヴィトゲンシュタインの言う様に、


「語り得ぬものについては沈黙すべきである。」
というのが、論理学的に誠実な対応と言えるからではないでしょうか。
語りえぬものについて語ってしまった時点で、
論理が重視される現代においては、欠陥があり、証明にはならない
という評価となってしまいます。
「神の存在」という仮説と、
「神の存在」の証明というのは全くの別物ですから。
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欠陥は無いと思いますよ。



その限界内で正しいということだと思います。
神に対し「●●論的」証明が、何になるのでしょう。
それが欠陥と言えば欠陥でしょうか。

この回答への補足

ご回答ありがとうございます。

NO3の例のように経験的直観を必要とされるという点で欠陥があるという批判は転倒していると思いますよね。
経験的直観に与えられていないからこそ論理的に証明しようとするわけですからね。

補足日時:2009/04/21 00:08
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それよりも完全なものが考えられないものは、私たちの知性の中だけに存在するのではなく、また現実にも存在しなければならない。

というのも、知性の中だけに存在するものよりも、現実にも存在するもののほうがより完全であるからである。そして神はまさにそれよりも完全なものが考えられないものである。ゆえに神は現実にも存在するのでなくてはならない。

以上がよく知られた神の本体論的証明です。反論のなかでも、よく知られているのはカントです。カントの反論の趣旨は、ある概念の分析から、その概念の表す対象の現実存在を導き出すことはできない、というものです。少し引用してみましょう。

「あるということは明らかに何ら実在的述語ではない。すなわち何か物の概念に付け加わりうる或るものの概念ではない。…
わたくしの財産状態においては、百ターレルという単なる概念(すなわち百ターレルの可能性)を持つ場合よりも、現実の百ターレルを持つ場合の方がより多くを持つことである。けだし対象は現実においては単にわたくしの概念のうちに分析的に含まれているだけではなく、わたくしの概念(わたくしの状態の限定であるところの)に総合的に付け加わるものであるからである。…
であるからわたくしがどのような述語、どれほど多くの述語によって(徹底的な規定によってすら)或る物を考える場合にしても、わたくしがさらにそれに「この物はある」ということを付け加えることによっては、少しもその物に付加するところはない。」
純粋理性批判 高峯一愚訳より

要するに、頭の中で考えた、つまり知性の中の百万円と、現実に存在する百万円は、概念としてはまったく等しい。しかし、現実の財産状態としてはまったく違っています。ゆえに、概念についていくら分析を重ねても、その概念の現実の存在にはたどり着けないということです。

この回答への補足

ご回答ありがとうございます。

少々お聞きしたいのですが、知性の中の100万円と神はそれぞれ以下のカントの無の区分表の何番に当てはまるでしょうか?

1、対象なしの空虚な概念として
2、概念の空虚な対象として
3、対象なしの空虚な直観として
4、概念なしの空虚な対象として

補足日時:2009/04/20 23:53
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