ノルマンディー上陸作戦の主眼はフランスの解放でした。主として、英米の軍隊がドイツ軍を攻撃しました。

ところが、振り返って考えると、フランス人の働き盛りの男たちは何をしていたのでしょうか。

ドイツ軍に参加するとか、自由フランス軍として上陸作戦そのものの先陣を切るとかいう話があれば、事の良し悪しは別にして、納得いきます。

もし、他国の軍人の戦闘・殺戮を傍観していたとすれば、私の価値観では許せません。大体、他国に解放してもらったのだから、謝礼・損害補償はあってもよかったのではと思いますが、ここらの情報がありません。

それで質問です。

質問1. フランス解放戦争の間、多くのフランス人男性は何をしていたのですか。

質問2. ノルマンディー上陸作戦は先陣を切って突撃すべきだと思いますが、そういった作戦がフランス側にあったのでしょうか。

質問3. フランスは、ドゴール政権下、英米に感謝していたと見える動きがありません。心理的だけでなく、金銭的にもフランスは英米に対して、借りは返さなかったのでしょうか。

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A 回答 (8件)

1) ノルマンディー作戦の時点で、フランスはパリを含む北部の過半がドイツの占領下にあり、残りはドイツの影響下のビシー政権の統治下にありました。

そこにいる、武器も持たない「フランス人男性」は普通にフランス人として生活し、「一部は」レジスタンス活動をしていたようです。レジスタンス活動の実態は、戦後にかなり誇張されているようです。
なお、近代兵器を持たない一般人1万人は、完全武装の歩兵一個中隊に容易に制圧されます。こういう状態を「蟷螂の斧」と言います。

2) ド・ゴール将軍が指揮する「自由フランス軍」は、米軍・英軍に比べれば遥かに微弱な戦力しか有しません。敵前上陸、橋頭堡の確保と言うクリティカルな場面で最前線に投入するなど問題になりません。
例えば、スターリングラード攻防戦で、ソ連軍がスターリングラードに釘付けになっているドイツ第六軍を包囲しようとした時に、第六軍の後方を守備していたルーマニア軍を蹂躙し、もって第六軍の補給路を断ったことを想起してください。
仮に上陸作戦に自由フランス軍部隊を投入したとします。脆弱な自由フランス軍がドイツ軍に蹂躙されて戦線に穴が開けば、上陸した米軍・英軍全体が「海に追い落とされる」危機に曝されます。
「フランスのメンツのために」そのような危険な作戦を立てるほど米英軍首脳はアホではありません。

3) これは一概に否定できませんが、国際関係というのはドライなものですので致し方ないでしょう。
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NO.3です。

ちょっと追加を・・・

ドイツに隷属させられていたヴィシー政権は、ドイツより色々な厳しい要求を衝きつけられていました。
その一つが労働者の提供です。ドイツは戦争で兵士を多く必要とし、その為、国内で労働力が不足します。ドイツはその不足の一端をフランスの労働者で補おうとしました。
ヴィシー政権はこれを拒否できず、多くの労働者を提供しています。
ドイツの厳しい要求に応えるために、ヴィシー政権は1920年から22年に生まれた青年を対象とした「強制労働勤務制度」を1943年に制定し、青年を強制的に徴用して労働力を確保したほどです。
ノルマンディー上陸作戦の始まる半年前の時点では、360万人ものフランス人がドイツの為に直接働いていました。この中には大戦初期にドイツ軍の捕虜となり、以後、労働者として働かせられていたフランス軍兵士捕虜90万人も含まれています。

フランス人の中で兵士となってドイツに協力しようとした人達もいましたが、それは少数派でした。とは言ってもその数は約4万5千人になります。そのうち約2万人が武装SSに所属しました。

まず反共産主義を旗印に「フランス義勇軍団」が編成されますが、ドイツにより兵力の制限を1万5千人と受けました。実際には、それほどの人数は集まらず、1941年から1943年までの間に入隊したのは約6500人ほどでした。この部隊は東部戦線に送られ、ソ連軍と戦います。
1943年には武装SSにおいて「SSフランス義勇擲弾兵連隊」が編成され東部戦線で戦います。前述の「フランス義勇軍団」も後にこの部隊に編入され、1944年には部隊は改めて「SS武装擲弾兵旅団シャルルマーニュ」として編成されました。この時の兵力は7340人です。
この後、部隊は増員を見込んで師団に昇格しますが、実際には兵力は7500人にしかなりませんでした。そして東部戦線で戦っています。
この他にもドイツ空軍所属の第4NSKK連隊がありました。この部隊は2500人ほどの輸送部隊で東部戦線から西部まで色々なところで運用されています。
他にもドイツ軍第21機甲師団の兵站業務中隊がフランス人で構成されていたり、フランス人の少数の部隊が数多くありました。

またフランス右派が主軸となって組織したミリス(民兵団)があり、この部隊は、フランス国内での治安任務やレジスタンスの取り締まりを行いドイツ軍を支援していました。1944年6月の時点で兵力は約5千人でした。

もともとヒトラーがフランス人を信用せず嫌っており、兵士として大量に採用する意思がなかった為、大きな編成の部隊は作られませんでした。
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質問3について


ドイツはフランスを占領して支配するにあたって
フランスは大きい国なので南半分はフランスの
ペタン氏を首領とした傀儡体制をたてた
つまり、ドイツの軍事力の脅迫があったとはいえ
フランスの半分はドイツに降参したがドイツに
味方したわけで、フランスで大掛かりにあった
ユダヤ人の迫害はドイツに味方をしたフランス人の
協力ナシにはドイツはヤレなかったとされる説も
ドゴールは亡命して残存戦力を結集した
米英は、半分はドイツ寄りになったフランスを
元に戻すうえで、ドゴールを支援することが
最短最良と考えてしたわけで、両者もちつもたれつ
であり、さほどドゴールが負い目を感じなかった
としても不思議はないといわれる。
たぶん、ドゴールのような存在がなかったら
米英の支援があっても、フランスの解放は、もっと
遅れていただろうと推測されている。
フランスがドイツに占領された時点でドゴールの
フランスにおける社会地位、政治的地位は、そんなに
大きくなかったかもしれないが、彼は当時の
フランス軍でも先鋭な思考のあった軍人で
彼はフランス機甲師団の創設に賛成していたが
当時のフランス軍は閉鎖的な将軍たちが支配していた
軍の改革が出来ず、ドイツ軍に負けてしまった
ともいえた。
ドゴールは亡命体制ゆえ大した戦力を第二次大戦では
持ち得なかったのでノルマンディ戦では主立って
フランス軍は戦わなかったかもしれないが
ルクレルク将軍の部隊はパリ一番乗りをした
ほど戦ったといわれる。
そのあとの指導力の発揮もあり稀代の指導者だったと
ドゴールは見直されたに至る。
ドゴールは戦後、少々、強圧な政治家になり
北大西洋条約軍にフランス不参加の立役者になったり
米ソ陣営とは隔絶した態度を続けて
また、国内の反対派を弾圧したり、一部、彼は
独裁者ともいうが、また、彼ほど指導力を発揮して
フランスの戦後復興に貢献した政治家もいなかった
かもしれない。
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漫談ですが



1は、4番さまの答えでバッチリだと思います。ちょっと細かくいうと、本国にいて普通に暮らしていた人が大部分。
ダンケルクからイギリスに落ち延びた軍人は、ド・ゴール指揮する自由フランス軍に参加して、アフリカ戦線はもとより、戦闘機パイロットがソ連に集団で渡り、自由フランス軍ノルマンディー部隊として、ソ連空軍に従軍しています。一方、中立国経由で故郷にかえった人もいました。
インテリの一部はアメリカにわたって、アメリカを参戦させるための政治活動をしたり、フランス人の団結を説いたり、西方戦役のことを本にして出版したりしていました。そういったインテリの代表が、星の王子さまの著者サン・テグジュペリでしょう。彼はパイロットとして1940年に従軍し、その記録を「戦う操縦士」として上梓。「チャーチルの演説、と、戦う操縦士、は、ヒトラーの文化に対する自由陣営の答え」といわれるほどの物でした。星の王子さま、も、ニューヨークで、女の人のマンションで生活しつつ、書き上げたものです。

海外植民地の人は、本国からの距離によって温度差があり、オーストラリア、ニュージーランドの庇護が受けられると期待した南太平洋の植民地では、ヴィシー政府の訓令に従おうとした総督に対して議会が罷免決議をだしたりして、自由陣営にとどまろうとしました。南仏は日本軍に進駐されています。アルジェリアはだいたい、本国の意思に従っていました。

パリに戦前からお店をもっていた和食の職人さんで、脱出できなくなってパリ生活していた人がいます。ある日、突然占領軍司令部に呼び出され、数十人分の和食に必要な材料をリストアップしろ、といわれ、よくわからないままとにかく書類を書いたら、日本から来た潜水艦乗組員の慰安のパーティー用だった、なんて話もあります。

中立国から密輸されたり、発禁となった本を地下出版の形で出す人たちもいました。ドイツ軍当局と折衝して、前述の「戦う操縦士」を出版したりした版元もあります。
ドイツに出稼ぎ労働者として行った人もいます。ドイツ軍当局におもねった人もいましたし、本気で共和主義に幻滅し武装親衛隊に入った人もいました。

みんなイロイロだったようです。
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No4です。


「ドイツ軍に参加するとか・・・事の良し悪しは別にして、納得いきます」
そういうフランス人もいましたよ。

武装SS(国防軍とは別の、ナチス党の陸軍とでも考えて下さい)には、フランス人部隊がありました。

武装SS―ナチスもう一つの暴力装置 (講談社選書メチエ)
芝 健介 (著)
http://www.amazon.co.jp/dp/406258039X/
の220ページの記述では
「ドイツの降伏後、対独協力・国家反逆の罪で訴追されたフランス人は1万人を超える」
「1944年11月12日、パリ解放から3ヵ月後でドイツの敗北が誰の目にも明らかになっていた時点で、武装SSのフランス人諸部隊を統合して 《武装SS突撃旅団『シャルルマーニュ』》 が編成された。この旅団は後に師団に拡大された」
とあります。

ドイツ側に身を投じたフランス人が累計で何人いたのかは不明ですが、旅団を編成できたと言うことは、1944年11月の時点で1万人以上いたのは間違いありません。その後に師団に拡大されたと言うことは、各地に散っていたフランス人部隊がもっと存在したと言うことでしょう。

ベルリン攻防戦でソ連軍と戦うドイツ軍部隊の中にも、フランス人など非ドイツ人の武装SS部隊が混じっていたとされます。既に帰る所を失くしているこれら「非ドイツ人部隊」の抵抗はとりわけ激しかったと伝わります。

1944年のノルマンディー上陸作戦から、1945年5月のドイツの降伏までのドイツ軍(武装SSを含む)の死者は200万人くらいに上るでしょう。その中に混じっていたフランス人部隊も多数の戦死者を出したはずです。

それでなお、ドイツ軍に投じていたフランス人が多数捕虜となり、1万人を超える数が戦後のフランス政府によって「国家反逆」の重罪人とされたわけですので、私見ですが、1941年にドイツがフランスを降伏させて以降に、ドイツ軍に身を投じたフランス人の数は数十万人と思われます。
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1.について・・・



第二次世界大戦中、多くのフランス国民がレジスタンス運動に参加しドイツ軍に抵抗しています。
レジスタンス運動に参加したため、処刑された人は6万人もおり、7万人が逮捕、監禁されていました。
ただレジスタンス運動が勢いたのは、ノルマンディー上陸作戦からです。
ノルマンディー上陸作戦が開始されるとともに、フランスのレジスタンスが決起します。その人数は20万人以上であり、後にその数は100万人に達しました。
レジスタンスは連合軍に協力し、ドイツ軍に対し鉄道の破壊や通信施設の破壊、ドイツ軍に対する戦闘を行いました。
そのためフランス各地でドイツ軍部隊が釘付けとなっています。

ノルマンディー上陸作戦前ですが・・・
アフリカ戦線の終盤において、フランス軍は第19軍団を主力とする5万人の兵力を戦闘に参加させています。
それに続くイタリア戦線にもフランス軍は10万人の兵力を戦闘に参加させています。
イタリア戦線における連合軍の戦死者のうち34%がフランス兵でした。ちなみにイギリス兵は10%です。

第二次世界大戦におけるフランス人の戦死者は63万人以上です。この人数はソ連やドイツよりは少ないですが、アメリカ、イギリス、イタリアより多い人数です。
フランスは大きな犠牲を払っています。

2.について・・・

連合軍は8月15日に南仏のプロヴァンス地方にドラグーン作戦という上陸作戦を行います。この作戦に参加したのはフランス軍7個師団(15万人)とアメリカ軍3個師団でした。
つまり北仏(ノルマンディー)から米英軍が攻め、南仏(プロヴァンス)から仏米軍が攻める戦略でした。
そしてフランス国内で合流し、ドイツ本国でと攻めていきました。

この当時、フランス軍は北アフリカを拠点として戦争に参加していたので、英国に大部隊を派遣して、そこからフランス本国に攻め入るよりも、近い南仏に上陸する方が準備するにも効率的にも良かったのです。
だからノルマンディー上陸作戦には海軍と少数のコマンド部隊しか参加していません。あとは後に第2機甲師団が送られたくらいです。

3.について・・・

フランスは戦後、戦災の傷が酷く経済危機に陥ります。
それを救ったのがアメリカの経済援助でした。
また植民地で続発する紛争を抑えるために、フランスは軍事力の整備が急務でしたが、それを援助したのもアメリカでした。
だからフランスも当初は米英と共同歩調を取っています。
フランスは西欧とソ連との対決姿勢が明確になり、NATOが結成された時には、14個師団の兵力拠出を約束していますし、朝鮮戦争の時には部隊を派遣しています。
ただ、戦後の政治において、フランス政府は磐石とはいえず、揺れ動いており、戦略的に独自の行動も取っているので、アメリカとはある程度、距離があったのは事実です。
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国粋主義者の考え方で、精神論が先行し、実情を無視した考え方です。



質問1. フランス解放戦争の間、多くのフランス人男性は何をしていたのですか。

いろいろです。
戦闘に参加することだけがフランス解放のための戦いではありません。
むしろ武装が貧弱な人達が戦闘に参加する事は、戦闘のジャマにしかなりません。
機甲師団の全面に竹槍で武装した民兵がいたら、機甲師団の進撃を妨げるだけの存在でしかありません。
兵として活躍するのであれば、侵攻軍と同じ程度の武器と訓練が必要になります。
そんなことをしていますと、数ヶ月の時間がかかり、かえってフランス解放のジャマになるだけです。
それよりも、農作業に従事し、食料の確保を優先するとか、被災した工場の建て直し、そこでの生産に加わったほうが、より早い国土の回復、生産力の回復、解放軍への支援に役立ちます。

質問2. ノルマンディー上陸作戦は先陣を切って突撃すべきだと思いますが、そういった作戦がフランス側にあったのでしょうか。

これも、作戦遂行のジャマにしかなりません。
侵攻した先陣と本隊の意思の疎通が不完全になりがちです。
ノルマンディで戦区をわけたイギリス軍とアメリカ軍の間でも、意思の疎通が悪く、共同戦線がなかなかはれません。
そんなところにフランス軍がいた場合、混乱がさらに拡大します。
自由フランス軍の使い方としては、前線に投入するのではなく、後方支援や後方での治安活動、戦闘の激しくない地域での制圧戦などに投入したほうが、より効果的です。

質問3. フランスは、ドゴール政権下、英米に感謝していたと見える動きがありません。心理的だけでなく、金銭的にもフランスは英米に対して、借りは返さなかったのでしょうか。

金銭的なものは無いでしょう。
英米もそれを望んでいません。
むしろ早急に復興し、ソ連との対決に備えたかったのが本音でしょう。
日本やドイツのような敵国にも賠償はもとめていませんから。
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   質問1


50万人から100万人従軍しています。元々フランスはWW1の傷が大きく(青年男性の70%が死傷)、それが回復していない状態でのWW2でした。それでもレジスタンス活動やら自由フランス軍への参加を行っています。

   質問2
自由フランス軍の特殊部隊が前日に空挺降下を行っています
また、陸軍部隊はソード海岸に上陸してます
海軍は沿岸への艦砲射撃を行っています

   質問3
借りを強制的に返させられてます。現在、インド洋やアフガニスタンに軍隊を派遣してるでしょ。オランダ・フランス・ドイツの参加はそういうことです。
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Qフランス革命時のフランス軍の強さについて

 フランス革命後、(1793年に)オーストリア・プロシア連合軍がフランスに宣戦布告してヴァミールの戦いまでフランス軍は連戦連敗だったにもかかわらず、ヴァミールの戦い以降は連戦連勝で1813年にナポレオンがロシアで敗れるまでは負け知らずでした。
 一体、何がフランス軍をかえたのか、おしえてください。

 

Aベストアンサー

まずヴァミールではなくヴァルミー(Valmy)です。
ちなみにこのヴァルミー会戦は砲撃戦と合唱があっただけで
たいした戦闘はなくて、もともと戦争に消極的だったプロシア軍が
一応前進を阻止されたの口実に退却を始めただけです。
それでこの会戦はフランス軍が勝利したとは言い難い戦いでしたが、
最後まで戦場に残ったほうが勝者という慣例に従ったまでです。
ま、たしかに共和国軍最初の勝利ではあるのですが、
両国の政治的背景が影響したものだといえますから
ゲーテはフランス兵の士気の高さに驚いただけで、勘違いだったのです。

さて、ところで連合軍がフランスに宣戦布告したのではなくて、
フランスが各国に宣戦布告したのです。
革命戦争はすべてフランス側から宣戦布告となるというのは
必ずチェックされる要注意ポイント。
そして自ら宣戦布告したにもかかわらず、フランスには戦争の準備が
まったくなく、軍の指導者たちは最初から開戦に反対していたのですが、
さらに彼らはすべて大貴族出身だったので、
ロシャンボーやリュクネル、ディロンら軍司令官は
平民で革命派が多い兵士に信用されておらず、相互不信から軍隊は敵と戦う以前に
味方同士で足の引っ張り合いをしていました。
さらに兵士の大半も連盟兵など興奮して革命に参加しただけのド素人が主で
秩序も訓練もされてない部隊が多かったことから、
兵士は銃の使い方も知らず、そもそも銃も不足してたのですが、
何かあると大混乱し、貴族士官の命令に反抗したり、
勝手に隊を離れたり、家族を連れてきていたり、
気に入らない味方の司令官を銃撃したりしたので、
フランス軍は戦うたびに負けるという状況になったわけです。
これは当然です。戦う状態になかったわけですから。

つまりは何が変えたのかではなく、あなたが知るべきは
まず1792年および各年の状況はどうだったか、どういう展開であったかということです。
それを知らないで、大雑把に考えすぎてますから、
何かでガラッとかわったかのような誤解してますね。
実際には積み重ね、変遷があるわけで、状況にも依存します。

”ヴァルミー以後は連戦連勝”といことはありません。
革命戦争初期だけを見ても、勝ったり負けたりです。
詳しく語るのは面倒なので、非常に大雑把(それでも長いが)にいうと、
革命戦争は1792年の最初の二週間はフランス軍の大混乱で負け続け、
ラファイエットは対外戦争よりも革命鎮圧のために軍を使おうとして失脚します。
ちなみにルイ16世ら王党派と立憲派の一部は戦争にわざと負けて
外国軍を呼び寄せようと画策もしてました。
ブランシュバイク公のプロシア軍を主体とする干渉軍がパリへ進撃を始めて、
ヴェルダン要塞を攻略したのでパリ市民はパニックに陥って
監獄に収監されていた不幸な人々を、王党派だと誤解して大虐殺をするという九月の虐殺事件が起きます。
それから外相のデュムーリエが将軍として戦場の建て直しを始めて
ヴァルミー会戦で一応、プロシア軍の前進を阻止します。
ちなみになんでプロシア軍が干渉軍の主体になったかというと、
オーストリアはトルコとの戦争にも晒されていて、
フランスに介入したくなかったので、少し進んだ後はとまって
プロシア軍と亡命貴族軍だけをすすませたという外交的策略をつかいました。
そしてプロシア王は、何の利益にもならないこの干渉戦争で
自分の武名を高めようと考えていて、老臣たちの反対を押し切って
介入していたわけで、ヴァルミーで前進をやめたのはまさに
国王を説得できるだけの努力はしたので、もう帰ろうということだったのです。
ヴァルミーの後、デュムーリエはプロシア軍と交渉し後に講和します。

デュムーリエ将軍は(帝国領)ラインラントと、オーストリア領ネーデルランドに照準を定めます。
これは自然国境というフランスの古くからの戦略に沿ったもので、
ラインの西側を占領してフランスの安定的国境をライン川に定めるというものです。
そしてこれによって戦争を勝利しようというのが彼の計画でした。
プロシア軍が勝手に帰ったので兵力が少なくなった連合軍に対して、
ジェマップ会戦で勝利しますが、この年の冬から1793年の春にかけて補給物資が欠乏し、
フランス軍では契約を終えた兵士が大量に帰郷したこともあわせて
兵員の数が激減します。またルイ16世の処刑が1月に行われたこともあって、
ヨーロッパの君主国家は危機感を強めます。
フランスが(当初は革命を支持していた)イギリスに宣戦布告したので、
イギリスの資金援助を得たオーストリア・神聖ローマ帝国加盟国が本格的な干渉を始めます。
それでフランス軍は占領した地域を次々に失い、後退を強いられます。
デュムーリエはベルギーから軍を引き返してきますが、ネールウィンデンで敗北します。
この後、デュムーリエは裏切ってしまうので、
この混乱の後でフランス軍は何度も敗北してダンピエール将軍などは戦死してしまうほど。
この危機に国民公会は、カルノーを公安委員に迎えて軍の再建を任せます。
この人物がフランス軍に徴兵制度などをもたらし、軍事戦略を一本化するなど
数々の改革を行ったリフォーマーです。
しかし徴兵制は、各地での反乱を引き起こしたので、
ヴァンデと南フランスで王党派の蜂起があり、内戦となってフランスが最も苦しんだ時期に来ます。
しかし主戦場ではカルノーの主導でオンドショットで勝利して、ワッチニー会戦で辛くも勝利して
オーストリア軍のパリへの進撃の希望を打ち砕き、ヴァンデもナント市を防衛し、
この年の終わりにはツーロンを奪回するなど一定のめどをたてます。
これを期に、戦争は防衛的性格から、侵略的性格に変わっていきます。


さて、ここからさきも一進一退あるのですが、これ以上語ってられないので
ここまでにしますが、もう一点、いっておくと、
もともとフランスという国は、当時の最大最強の陸軍国家であって、
強い軍隊の下地があったということは忘れてはなりません。
特に7年戦争後の軍事理論の革新(ブールセ、ギベール、マーユボワら)が
フランス(ロシアでも同様の進展があった)では広く採用され、理解されていたことで、
オーストリアやプロシアといった旧態依然とした軍隊との差を生みました。
ナポレオンも彼らの学説を学生時代から学んで、それを活かしいったわけで
軍制というのは、一夜にしてかわるものではないのです。
しかも実験と実例が必要とされるというのも、詳しくは説明しませんが、付け加えておきましょう。


だからすでに革命前にフランス軍を強くする理論は確立されていたというのが回答です。
カルノーやナポレオンなど、これらに精通する人々が、実務家になったことで
それが理論が実現段階にいたったというだけの話なんです。

まずヴァミールではなくヴァルミー(Valmy)です。
ちなみにこのヴァルミー会戦は砲撃戦と合唱があっただけで
たいした戦闘はなくて、もともと戦争に消極的だったプロシア軍が
一応前進を阻止されたの口実に退却を始めただけです。
それでこの会戦はフランス軍が勝利したとは言い難い戦いでしたが、
最後まで戦場に残ったほうが勝者という慣例に従ったまでです。
ま、たしかに共和国軍最初の勝利ではあるのですが、
両国の政治的背景が影響したものだといえますから
ゲーテはフランス兵の士気の高さに驚いた...続きを読む

Qノルマンディー上陸作戦でドイツ軍の捕虜に東洋人?

マイウェイ 12,000キロの真実という映画を見ました。何でも監督が、ノルマンディー上陸作戦で捉えられたドイツ軍捕虜の中に東洋人がいたという話からインスパイアされたらしいのですが、本当にそんなことがあったのでしょうか?

http://myway-movie.com/

Aベストアンサー

たとえば
http://mltr.ganriki.net/faq08a04o07.html#03676
こんな写真があったりする訳です。

ナチス・ドイツの軍、殊に武装親衛隊(志願制なので。また、人的資源を当然正規軍と取り合う訳で、そこに軋轢が発生する)は人手不足に悩んでおり、補助兵力や兵士として捕虜やら占領地のシンパやらを使っています。

#イスラム教徒兵とか、イタリア兵とかまでいました。

で、ソ連東部のアジア人種が徴兵され(なんせ連中は雪男まで引っ張ったという巷説がある位手当たり次第引っ張った)、捕虜になり、ドイツ軍に「志願」(というのも、志願させるために意図的に待遇が悪かった)ということに。

ノルマンディの一件は、リンク先に依ればソ連軍経由のチベット人というようです。

Q巡航ミサイルとICBMの違い

シリアに巡航ミサイルが撃ち込まれました。
巡航ミサイルは短距離、北朝鮮が開発中のICBMは長距離というイメージですが、どう違うのでしょうか?

Aベストアンサー

巡航(cruise)と言うのは「長距離移動」を意味します。
なのでどちらも、長距離攻撃用になりますが、飛び方に違いがあります。
ICBMは「大陸間弾道ミサイル」と訳されますが、飛び方としてはロケットの要に上空に打ち上げられ、弾道つまり放物線を描いて飛んでいきますので大気圏を一度飛び出して落下してくると言う飛行特性を持っています。
対して巡航ミサイルは飛行機の様な形状で、水平飛行して飛んでいきます。
前者は超高速で飛翔しますがが高高度に飛び上がる為に探知は比較的容易であるのに対して、後者は超低空を(ICBM等と比べると)低速で飛翔するためレーダーに引っ掛かりにくいため探知が難しいと言う特性を持っています。

Qノルマンディー上陸作戦の戦死者数

ノルマンディー上陸作戦の初日と、作戦全体の戦死者数を調べています。

アメリカ軍、連合軍全体、連合軍とドイツ軍を合計したもの、の3つがそれぞれ知りたいです。

書籍やサイトをみても、数字がまちまちでよく分かりません。
また損耗人員の数だけだったりすることもあります。。

書籍「史上最大の作戦」によれば、イギリスが公式に発表をしていないために推測値のようになっているようですね。


一般的にだいたいこれくらい、といった数字があれば、教えて頂けませんでしょうか。

Aベストアンサー

a fallen soldiers normandy firstday
で検索すると、
「D-DAY初日の連合軍兵士死者は、確認されているだけで4400人。最大10000人の可能性もあり。ドイツ軍側は、数千人。」と記載する英語サイトがいくつか出てきます。

連合軍の戦死者数に開きがあるのは、ノルマンディにおける戦闘は数日続き、空挺部隊やパイロット達の消息がすぐにわからなかったためと、連合軍兵士という定義をどの国の人間まで入れるかによって変わるためです。
4400人という数字は、あくまでも「少なく見積もって」みたいですね。

ドイツ軍側は、日を追うごとに増えていったようですから、初日だけで見たら4400人とほぼ同数であることは間違いないと思われます。
英語サイトの中には「連合軍・ドイツ軍合わせて死者9000人」と記載しているところもありますが。

Qノルマンディー上陸作戦におけるフランス軍

ノルマンディー上陸作戦の主眼はフランスの解放でした。主として、英米の軍隊がドイツ軍を攻撃しました。

ところが、振り返って考えると、フランス人の働き盛りの男たちは何をしていたのでしょうか。

ドイツ軍に参加するとか、自由フランス軍として上陸作戦そのものの先陣を切るとかいう話があれば、事の良し悪しは別にして、納得いきます。

もし、他国の軍人の戦闘・殺戮を傍観していたとすれば、私の価値観では許せません。大体、他国に解放してもらったのだから、謝礼・損害補償はあってもよかったのではと思いますが、ここらの情報がありません。

それで質問です。

質問1. フランス解放戦争の間、多くのフランス人男性は何をしていたのですか。

質問2. ノルマンディー上陸作戦は先陣を切って突撃すべきだと思いますが、そういった作戦がフランス側にあったのでしょうか。

質問3. フランスは、ドゴール政権下、英米に感謝していたと見える動きがありません。心理的だけでなく、金銭的にもフランスは英米に対して、借りは返さなかったのでしょうか。

Aベストアンサー

1) ノルマンディー作戦の時点で、フランスはパリを含む北部の過半がドイツの占領下にあり、残りはドイツの影響下のビシー政権の統治下にありました。そこにいる、武器も持たない「フランス人男性」は普通にフランス人として生活し、「一部は」レジスタンス活動をしていたようです。レジスタンス活動の実態は、戦後にかなり誇張されているようです。
なお、近代兵器を持たない一般人1万人は、完全武装の歩兵一個中隊に容易に制圧されます。こういう状態を「蟷螂の斧」と言います。

2) ド・ゴール将軍が指揮する「自由フランス軍」は、米軍・英軍に比べれば遥かに微弱な戦力しか有しません。敵前上陸、橋頭堡の確保と言うクリティカルな場面で最前線に投入するなど問題になりません。
例えば、スターリングラード攻防戦で、ソ連軍がスターリングラードに釘付けになっているドイツ第六軍を包囲しようとした時に、第六軍の後方を守備していたルーマニア軍を蹂躙し、もって第六軍の補給路を断ったことを想起してください。
仮に上陸作戦に自由フランス軍部隊を投入したとします。脆弱な自由フランス軍がドイツ軍に蹂躙されて戦線に穴が開けば、上陸した米軍・英軍全体が「海に追い落とされる」危機に曝されます。
「フランスのメンツのために」そのような危険な作戦を立てるほど米英軍首脳はアホではありません。

3) これは一概に否定できませんが、国際関係というのはドライなものですので致し方ないでしょう。

1) ノルマンディー作戦の時点で、フランスはパリを含む北部の過半がドイツの占領下にあり、残りはドイツの影響下のビシー政権の統治下にありました。そこにいる、武器も持たない「フランス人男性」は普通にフランス人として生活し、「一部は」レジスタンス活動をしていたようです。レジスタンス活動の実態は、戦後にかなり誇張されているようです。
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2) ド・ゴール将軍が指揮す...続きを読む

Qノルマンディー上陸作戦

映画 プライベートライアンでノルマンディー上陸作戦が行われたことを知ったのですが、なぜわざわざ敵の真正面から上陸したのですか。
上陸用ボートの扉が空いた瞬間に機関銃で蜂の巣にされていますし、海岸には鉄骨の残骸しかなく、とても敵の狙撃から隠れられそうにありません。アメリカ兵が持っているライフルでは、要塞内の敵を狙い撃ちできなさそうですし、上陸前に、スナイパーライフルで機関銃を撃っている敵兵を狙撃すれば、時間稼ぎにはなりそうなのになぜそうしなかったのですか。もっと敵の守備が手薄な所から侵入すれば、こんなに犠牲者は出なかったと思います。

Aベストアンサー

オマハ・ビーチ正面に位置するドイツ軍352師団正面の、爆撃と艦砲射撃に失敗したからです。
また、鉄骨の残骸に見えるのは、ドイツ軍が設置した障害物ですが、連合軍はわざと引き潮で浜辺が広がり、攻撃側が遮蔽物のない浜辺にさらされるタイミングで上陸したので、映画でも見えています。
この時間帯は攻撃側(上陸側)が丸見えになり著しく不利なので、護るドイツ側は部隊の交代に充てていた時間帯でした。
要するに、奇襲だったのです。

プライベートライアンの上陸シーンは、ここはオマハのドッグ・グリーンであると字幕が出てきます。
オマハビーチは西からC(チャーリー)・D(ドッグ)・E(イージー)・F(フォックス)の各セクターに分けられ、更にドッグセクターはドッググリーンとドッグホワイト、ドッグレッド、イージーセクターはイージーグリーンとイージーレッド、フォックスセクターもフォックスグリーンとフォックスレッドに分割されています。
初日に上がる部隊はチャーリーとドッグ、イージーグリーンに第29歩兵師団第116連隊、イージーレッドとフォックスに第1師団第16連隊が割り当てられました。
とりわけ激戦区となったのは東端のイージーグリーン、イージーレッド、フォックスグリーン、フォックスレッドです。
とくに第29師団の部隊は、潮流の関係と事前に伏せていた英軍の豆潜水艇(Xクラフト)の位置標定の誤りから上陸地点を3kmあまりずらしてしまい、イージーレッドとフォックスグリーンで第1師団の部隊と混じりあって混雑と混乱を招き、損害を増すことになりました。

また、チャーリーには主力は指向されず、断崖上の砲台を潰すためのレインジャーと戦闘工兵の一部が上がったわけです。
ミラー大尉の隊はレインジャーでしたから話の都合上チャーリーに上げなければならなかったのでしょうが、海岸での大混乱はそこから3~5kmあまり東の情景ということになります。
ミラー隊を乗せた舟艇も位置を間違ってイージーレッドかフォックスグリーンのあたりに着いてしまったということなのかもしれないのですが、それでもオマハ・チャーリーではないですね。
DDシャーマンが沈没しまくったのもドッグホワイト・ドッググリーン間とフォックスレッド・フォックスグリーン間でのことで、チャーリーには向かっていません。チャーリーでは装備を積みすぎた工兵隊のアリゲーターはいくつか沈没していますが、レインジャーはほぼ無傷で揚陸を果たし、「史上最大の作戦」の方で描かれているように砲台の制圧に向かっています。
「プライベート・ライアン」でのあのシーンは映画制作上での演出ということになります。

この日オマハに上陸させようとした兵力は約7000から8000であり、損耗率としては35%を超えていて部隊戦闘力喪失と認定できる非常に高い水準です(20%で、普通は壊滅扱い)。
 6個中隊からなる、第2レンジャー大隊はチャーリー地区のオック岬とぺリセー岬を攻撃目標とし、大隊長ルダー中佐がDEFの3個中隊を率いてオック岬第一陣、シュナイダー中佐がABの2個中隊を率いてオック岬第二陣、ゴランソン大尉(劇中ミラー大尉)率いるC中隊が単独でぺリセー岬という計画で舟艇を進めますが、ルダー中佐の第一陣以外はチャーリーの崖を登って攻撃する計画をチャーリー沖の土壇場で変更してドッグの方面に転進しました。C中隊はドッグとチャーリーの継目付近のドッグ・グリーン西端、シュナイダー中佐の二個中隊はドッグ・ホワイトかイージー・グリーン付近に上陸しています。この変更は単に舟艇が流されたのではなく、意図してドッグに向かったとされています。(シュナイダー中佐の二個中隊はドッグ・グリーンに向かったものの東に約1キロ流された)
従って、実際にはもっとチャーリー寄り、開鑿予定地点D-1のVierville sur Merの村への入り口の谷より更に西だったと思われますが、映画で第2レンジャー大隊C中隊がドッグ・グリーンにいたのは史実通りです( 映画ではVierville sur Merより東にいると受け取れる会話を交わしている )。
その時、このドッグ・グリーンでは第29師団 116連隊第1大隊A中隊が機関銃弾の中で全滅した直後でした。中隊長フェラーズ大尉は舟艇内で同乗の部下全員31名と共に戦死、A中隊は最初の舟艇が前扉を開いてから15分間で死傷率75パーセントに達し事実上消滅。映画でも指揮官なしでおびえるばかりの第29師団の兵隊達が出てきますが、これも史実通りと思います。第2レンジャーC中隊もここで135名中58名の死傷者(死者ではない)を出し、以降の作戦( D-1から入って陸路をぺリセー岬に向かう)を放棄せざるをえなくなります。116連隊第1大隊はA中隊の30分後、第2レンジャーC中隊にかぶさるようにB中隊を送り込みますが、これも中隊長が渚で戦死して戦闘力を失います。ドッグ・グリーンは『血なまぐさいオマハ』を象徴する戦場でした。

この映画はそういうドッグ・グリーンの惨状を描いて、出てくる部隊ともどもほぼ史実通りだと思います。

では嘘はなしか?。嘘というか、大変な誤解を招きそうなのは、ミラー大尉指揮下に小火器だけ、約30分間でD-1を開鑿して状況終りと、なんか小競り合いみたいな描き方なので、上陸軍の第一波だけで185000人が参加したという『史上最大の作戦』の規模が理解できない事。

史実では、ドッグで最初の突破口D-3が開かれたのは、ドッグ・ホワイト付近で第29師団副師団長コータ准将の陣頭指揮下で、時間は上陸開始から2時間半後の事でした。D-3に続いて、映画のミラー隊の突破口 Vierville sur Mer の東側あたりにも小さな突破口が開けられ、D-3から入ったコータ准将指揮の混成部隊と合流、西に向かって進撃、D-1を内側から開きます。時間は12時半頃といわれ、上陸開始から6時間が経過、オマハビーチ・ドッグ地区の制圧は分隊レベルの小競り合いの結果ではなく、師団規模の兵力が投入され、艦砲の近接支援も受けながらの長時間の大規模戦闘の末の事でした。この映画でノルマンディ上陸作戦を理解しようとしても無理で、その目的なら『史上最大の作戦』の方が、いかに大規模な作戦であったかが判って良いと思います。それでも、まなかじさんのおっしゃっている、イージーとフォックスを受け持って、大損害を出しながら、オマハ最初の突破口を開いた、歴戦の米第1師団の戦闘は全然出てこないし、空挺もプライベートライアンとは逆に82師団ばかりで101師団は殆ど描かれていません。

チャーリー・セクターでの死傷率

チャーリー・セクターで戦闘を行った唯一の部隊である、ルダー中佐の三個中隊は終日孤立無援で戦闘を続け、D-Dayだけの死傷率30パーセントといわれていますから、約130人というところでしょうか?。D-Dayの長い日が暮れる頃(21時頃?)、ドッグに上陸したシュナイダー中佐の二個中隊の内A中隊の一部が内陸を回ってオック岬に到着します。

ドイツ軍の兵力

オマハに向かった米第5軍団の第一波は、二個師団(第1と第29)、二個レンジャー大隊(第2と第5)、プラス海軍の施設部隊(海岸の障害物をぶっとばすからどけ、とミラー大尉にどなる東洋系の兵士が属していた部隊)、支援艦砲射撃の弾着観測班など約25000人。

これに対して、ドイツ軍はオマハ(これは連合軍の作戦名ですが)に再編成中ですが、基幹要員が東部戦線経験者で編成された、第352師団を配備していました。
しかし、第352の守備範囲は広く、かつ制空権を完全に握られていた為、戦闘開始後、機動を行う事も援軍を送り込む事も著しく制限され、D-Day当日、米第5軍に対して海岸で発砲したのは、当初から配置についていた正面陣地の600人から800人であろうといわれています。従って、米軍が渚での混乱から体勢を立て直せば、勝負あったで、実際にオマハの米軍死傷者は最初の30分間に集中しています。

オマハ・ビーチ正面に位置するドイツ軍352師団正面の、爆撃と艦砲射撃に失敗したからです。
また、鉄骨の残骸に見えるのは、ドイツ軍が設置した障害物ですが、連合軍はわざと引き潮で浜辺が広がり、攻撃側が遮蔽物のない浜辺にさらされるタイミングで上陸したので、映画でも見えています。
この時間帯は攻撃側(上陸側)が丸見えになり著しく不利なので、護るドイツ側は部隊の交代に充てていた時間帯でした。
要するに、奇襲だったのです。

プライベートライアンの上陸シーンは、ここはオマハのドッグ・グリー...続きを読む

Qロンドンのホテル

年末年始に母と二人でロンドンに観光に行きます。
目的は
ロンドン観光
大晦日のカウントダウン
ロンドンにあるビートルズにゆかりのある場所への観光
です。
ロンドンの地理がよくわからず、約10年前に一度行ったときは「キャベンディッシュ」というホテルに泊りましたが、側に紅茶屋さんがあったのしか覚えていません。
どの地区のホテルを選べばよいのかわからず困っています。

メインはロンドン観光なので効率よく観光ができればよいのではと思っていますが
おすすめホテルがあれば教えてください。
予算は1泊(大人2人、一部屋)日本円で20000円~40000円で考えています。

どうぞよろしくお願いします。

Aベストアンサー

「大晦日のカウントダウン」というのは、
ロンドンアイの花火をご覧になりたいのですね。

他のロンドン市内観光や
ビートルズゆかりの場所は
公共交通機関利用でどのホテルからも
回ることが出来ます。

しかし、このロンドンアイでのカウントダウンは
行きは大丈夫ですが、見終わってから
ホテルまで徒歩で帰らなければなりません。
その周辺の公共交通機関は規制されますので。

ですから、ロンドンアイ周辺の
ピカデリー、トラファルガースクエア、
ウェストミンスター、ビクトリア周辺に
宿泊なさるのがいいでしょう。

「キャベンディッシュ」もその中に
含まれます。紅茶屋さんというのは
フォートナム&メイソン。

1人1から2万円のご予算ですと、


http://www.parkplaza.com/london-hotel-gb-se1-7ut/gbwestmi
今予約すると、少し安くなります。

Thistle Trafalgar
http://www.thistle.com/en/index.html

後は、こちらのサイトもどうぞ。
早く予約すれば、それだけ安くなります。
http://www.allinlondon.co.uk/tube-green-park-hotels.php

又、グリーンパーク駅やピカデリー駅周辺ですと、
空港からは、ピカデリー線一本で来ることができますので
便利ですね。

「大晦日のカウントダウン」というのは、
ロンドンアイの花火をご覧になりたいのですね。

他のロンドン市内観光や
ビートルズゆかりの場所は
公共交通機関利用でどのホテルからも
回ることが出来ます。

しかし、このロンドンアイでのカウントダウンは
行きは大丈夫ですが、見終わってから
ホテルまで徒歩で帰らなければなりません。
その周辺の公共交通機関は規制されますので。

ですから、ロンドンアイ周辺の
ピカデリー、トラファルガースクエア、
ウェストミンスター、ビクトリア周辺に
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Qノルマンディー上陸作戦の艦隊のバルーンは?

ちょうどNHKでノルマンディー上陸作戦のBBCのドキュメンタリーが放送されています。
連合軍の艦隊の艦がそれぞれバルーンを上げているのは何の目的でしょうか?
敵の空からの攻撃の防御の役割でしょうか?

Aベストアンサー

阻塞気球(そさいききゅう)でございます。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BB%E5%A1%9E%E6%B0%97%E7%90%83

ただ、当日はドイツ空軍の活動極めて低調でしたので、杞憂におわりました。

Qソ連の前線戦闘機

ソ連の前線戦闘機

ソ連の戦闘機MiG23についてWiKipediaでは写真下の分類のところに、前線戦闘機、多目的戦闘機、迎撃戦闘機、戦闘爆撃機、練習戦闘機とあります。
前線戦闘機以外はWiKipediaに項目があるのでどういうものかはわかりました。
しかし前線戦闘機は項目がないので詳しい事がわかりません。
WiKipediaのMiG23の解説の中に「前線の制空権を確保するための前線戦闘機」という文があるのですが、これはF15が分類されている制空戦闘機と同じような意味にとれるように思えるのですが、前線戦闘機と制空戦闘機は同じようなものでしょうか?それとも大きな違いがあるのでしょうか?
知ってる方教えて下さい。お願いします。

http://ja.wikipedia.org/wiki/MiG-23_(%E8%88%AA%E7%A9%BA%E6%A9%9F)

Aベストアンサー

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%81%E6%92%83%E6%A9%9F

これのソ連を見て

Qノルマンディー上陸作戦の写真に写る気球について

何気にインターネットサーフィンをしているとwikipediaの「ノルマンディー上陸作戦」の記事がありました。
そこに掲載されている写真に気球が写っているんですが、この気球は一体なんの役目があるのですか?
単純な疑問ですが、知っている方がおられましたら教えてください。

写真(出典:wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Normandy_Invasion,_June_1944.jpg

Aベストアンサー

No.1さんが書かれているとおり、阻塞気球は敵航空機の進入予想地点に複数の気球を係留して、侵入を阻止する兵器です。
第一次世界大戦では、航空機の速度・飛行高度も低く有効だったが、昼間は機銃で破壊された。

日本でも夜間の都市防空などで使用されたが、有効高度が1500m程度であり、相手がB29では何の役にも立ちませんでした。
参考写真は日本軍が使用した91式繋留気球です。


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