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 芭蕉はこの紀行の終着地を、なぜ大垣に決めたのでしょうか?

A 回答 (3件)

回答への補足とは質問者さんがお書きになったものでしょうか?



>大垣には「おくのほそ道結びの地記念館」もあります。
 「蛤のふたみにわかれ行秋ぞ」 曽良との再会の地に建つ「蛤塚」です。

はい、それは私も知っています。

>その後、芭蕉は曽良とともに伊勢の遷宮に興味を持ち、伊勢に旅立ったことは十分承知しています。
 これは当然「・・ほそ道」とは分離したものと考えています。

一度No.2で薦めた著書をお読みになるといいと思います。
分離したものとは考えられていません。
 
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この回答へのお礼

 詳細な御説明に感謝申し上げます。

 まだ読んでいない文献も数多くあるようです。

 ご紹介いただいた物もぜひ読んでみたいと思います。

 大変ありがとうございました。

お礼日時:2009/08/13 08:37

大垣と忍者説は直接関係はないでしょう。


それに最終地は大垣ではありませんよ。
詩を読んだ最後は大垣ですが、舟に乗り伊勢神宮へ向かっています。
「伊勢の遷宮おがまんと、又舟にのりて」

これは旅立ちの深川から隅田川をさかのぼり、千住で舟に降りる、と対応関係になっていると考えられています。
「奥の細道をよむ」長谷川 櫂 ちくま新書 などを参照ください。


忍者説は、むしろ同行者の曾良でないかとも言われていますね。
ときどき同行からはずれています。
二人忍者説もありますが、いずれにしても伊達藩の江戸幕府への反逆を
探るために旅立ったのか?その謀反の兆候はなかったということです。

この回答への補足

 深川から大垣まで巡った、芭蕉ファンの一人です。
 大垣には「おくのほそ道結びの地記念館」もあります。
 「蛤のふたみにわかれ行秋ぞ」 曽良との再会の地に建つ「蛤塚」です。
 芭蕉は大垣を一つの最終地に決めていたのだと思います。
 故郷の伊賀上野を意識したものか・・

 その後、芭蕉は曽良とともに伊勢の遷宮に興味を持ち、伊勢に旅立ったことは十分承知しています。
 これは当然「・・ほそ道」とは分離したものと考えています。
 

 

補足日時:2009/08/12 19:19
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場所で選んだのではなく、時期で選んだと思います。



それは、芭蕉の忍者説からきています。

芭蕉の1日の移動距離が、年齢の割に長距離すぎることなどからきています。

以下、その当時の歴史背景があやふやなので、説明に矛盾があるかもしれません。

徳川の命を受け、敵の多い東北に赴き、俳人の振りをして、敵国の情報収集をおこなっていたが、徳川の天下統一により、その必要がなくなったので、「では、この辺にして帰りましょう」となった。

これが徳川の放った忍者説だったと思います。
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