出産前後の痔にはご注意!

 先日、とある掲示板で『竜馬がゆく』におけるフィクション部分指摘の書き込みを見つけました。
 以下はやはり司馬氏が勝手に創作したフィクションでしょうか?

・大政奉還後に竜馬が新政府の太政大臣・参議・議奏の人選をした際、自分の名前を書かなかったのはフィクションである。
(竜馬はちゃんと自分の名を書いていた?)
・桂小五郎と剣術試合をしていたのはフィクション
・勝海舟との師弟関係が順調だったのはフィクション
(勝の金を竜馬が返さないまま勝の門下から出ていった……らしい)
・小説内における新撰組:藤堂平助(北辰一刀流で竜馬と同門)と竜馬のやり取りはフィクション
(そういったものはなかった? そもそも新撰組との関わり自体ないのではないか?)

上記をふまえて、三つの質問があります。
1.以上が本当に司馬氏が勝手に作ったフィクションであるかどうか教えてください。
(明確には答えられず、グレーゾーンかもしれないというお答えでもかまいません)

2.上記のほかに、小説内で明らかなフィクション部分があれば教えてください
(セリフのひとつひとつといった小単位でのフィクションではなく、挿話・寓話・文章で言えば段落にわたるような大きなフィクション部分を教えてください。司馬氏の作品はあくまで娯楽のための『小説』であり、フィクションが大前提だということは重々承知してます)

3.これがフィクションの証拠だと納得できるような根拠・文献名・参考URLがあれば教えてください。
よろしくお願い致します。
(質問内容はやや司馬氏に批判的かもしれませんが、私は氏の作品が大好きです)

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A 回答 (4件)

No.1です。

お返事が遅くなり申し訳ありません。会社の監査があったものですんませんでした^^

ご質問の件は、すなわち竜馬対桂は作家(不特定多数とします)の創作かということでしょうね。

これは、私ごときには断定しかねます。

理由は、多くの作家が同じような場面と内容を書いているからです(だから正しいとはなりませんが^^;)。

例えば、豊田譲と邦光史郎は同様の内容で日時を安政4年としています。これなら、可能性としてはありえます。ただ、両方とも小説ですから、つじつまを合わせただけとも考えられます。

結局、ネタはなんなのかということにいきつきます。

そして、そこが難しい所です^^。本題とそれますが、歴史の資料の取材について少し、述べます。私の仲人は「松川事件」の判事の息子さんなんですが、司馬さんの代理人が日記を売って(取材)させてくれと言ってきたことがあったそうです。彼は断わったそうですが、見せれば相当定説がくつがえるから見せなかったといってました。そして、歴史の研究者(プロの史学者)はきたこともないし、存在も知らないだろうと言ってました。

なにが言いたいかというと、少なくとも司馬さんの資料収集力はその資力に比例してとんでもなかったろうということです(他の作家もそれほどでなくとも高いでしょう)。プロは往々にして貧乏なので、新しい資料の取材には不利であろうということです。

ということで、回答はなんとも言えないとしか言い様がありません。
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この回答へのお礼

 何度も質問にお答えいただき、感謝の極みです。
 なるほど……なんとも言いようがないということですね。
 
 作家が歴史小説を書く時、どういう形にせよ資料収集したうえで、こういう仮定がもしかしたらあるんじゃないか? と考え、自身の仮説をの小説内に盛り込んでいる。そのため読者が正当な史実として、誤認する可能性がある。その仮説が信頼に足る場合もあるし、全くそうでない場合もありましょう。
 司馬氏の小説の場合、「まるで自身がその場面を見てきたかのような文章」を創作部分おいても描くので、その誤認が強く起こってしまうのかもしれません。
 そういえば作家の創作・または誤認した偽りの史実が、世に正当な史実として広まった例がありますね。そういった事態をまねくことは、僕の意見としては好ましくはありません。ちょっと無粋ですが、作家はある程度、自身の創作部分を指摘し、あとがきにでも書くか、どこかで告白するべきだとも思います。司馬氏は創作部分の告白を「あれは小説だから」といった簡単な説明で片付けてしまうために、僕のような誤認者が出てしまうのでしょうw。
 
 この質問をした真意は「果たして歴史小説でどの程度の創作を、作家が折り込んでいるか?」「どの程度の文献・確証があれば、話を創作してもかまわないのか?」という点を考えたかったためです。
 雑誌編集に携わっていたこともあり、最近僕はは小説を書くようになりました。そのためにこの質問をさせていただいた次第です。
 納得いたしました。ありがとうございます。

お礼日時:2009/09/16 04:55

No.1です。

お礼ありがとうございます^^

さて、質問者さんは質問するまでもなく、お詳しいようですね、軽く返答してはずかしいかぎりです^^;

さて、ご指摘の話しは私も知ってはいます。竜馬関係の本はしまい込んでしまっていたので、ちょいと出せるのだけで確認してみました。

(2)について、古川薫氏の桂小五郎の伝記では、土佐藩邸で行われた撃剣集会 (安政5年9月か10月)に坂本、桂両君が参加。ただし、この時は対戦はなし。同11月はじめ桃井の士学館での大会で対戦し、激戦のすえ坂本勝ちという記述がありました。しかし、宮地佐一郎氏の竜馬の書簡集によれば、安政5年の7月か8月に姉の乙女に出した手紙に無念流との他流試合の前日に竹刀の小手を作りながら書いてるという記述がありますが、これがどの試合かは不明です。さらに、同年11月19日に土佐の自宅から土佐入りを望んで土佐の国境に待機していた水戸藩士への手紙が掲載されていました。解説では、竜馬は安政5年9月には江戸での剣術修行を終え、土佐へ帰還していたとのことでした。相反する記述で困った^^
内容の信用度は後者のほうが高いでしょうかねえ。ということで、限りなくグレーですかね。

(1)については、池田敬正氏の著作(これは正当な学術書)には記載なし、寺尾五郎氏の著作(彼は竜馬をボロクソに言ってる人です)でも記載なし、風巻絃一氏の著作ではいわゆる定説を記載してありました。陸奥の伝記はどこかに埋もれて確認できず^^;
ただ、書簡集の同時期の何人かへの手紙の内容を見る限りは、政府構想への意見はまったくなく、いわゆる世界の海援隊を想像させるような希望が述べられているのが見られます。ということで、これは淡いグレーですかねえ。

参考になれば幸いです。竜馬に心酔しすぎて息子に直柔と名ずけてしまったアホより。
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この回答へのお礼

 詳しいご説明、ありがたい限りです。
 ずばり今回のような、ご回答を求めておりました。

 たびたびで申し訳ないですが……最後に1点だけ質問がございます。
>(2)について、古川薫氏の桂小五郎の伝記では、土佐藩邸で行われた撃剣集会 (安政5年9月か10月)に坂本、桂両君が参加。ただし、この時は対戦はなし。同11月はじめ桃井の士学館での大会で対戦し、激戦のすえ坂本勝ちという記述がありました……(中略)

質問:つまり古川氏はこの部分を完全創作で書いたということですよね?(桂小五郎の手記その他には竜馬との試合の言及はないのですよね? 手記を読んでないので、知らずにすみません)

(1)についての意見
 数年前、僕も大学でいろいろ竜馬の功績を調べ、書簡集その他を読み、かつ各地の竜馬の書簡が見れる博物館などへ見学に行ったことがあります。その中にも「世界の海援隊をやる……云々」「参議・議奏候補の下書き」についての書状・書簡は見覚えがありませんでした。淡いグレーでしょうね、やはり。しかし、もし竜馬がこういった台詞をいったならば、その姿は惚れ惚れするものがありますね。個人的に『竜馬がゆく』のなかで一番好きな場面です。

 息子さんに直柔と名付ましたか……ダイレクトに竜馬や龍馬としないあたり、配慮あるすばらしい限りの名前ですね! きっと大物になりましょうや。
 僕も子供ができたら『東行』とか名付けようかしら。 

お礼日時:2009/09/10 00:01

お田鶴さまは架空の人物でしょ。


だからお田鶴さまがらみのシーンは、フィクション。
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この回答へのお礼

なるほどですね。ありがとうございます。

お礼日時:2009/09/09 23:16

(1)新政府の閣僚名簿の件



これの出典は、陸奥宗光(海援隊の伊達小次郎、のちの外務大臣)の維新後の発言のはずです。彼が嘘を言っていなければ真実です。

(2)桂との剣術試合

これは、幕末の江戸の剣術道場の大寄せ(対抗試合)の記録があったはずですので真実でしょう。

(3)勝との関係

これは順調をどう見るかですが、勝の言行録「氷川清話」を読む限り、勝は西郷と龍馬は別格に扱ってますね。嫌ってた風は感じられません。

(4)藤堂平助の件

これはフィクションである可能性が高いと思います。


あと、フィクションと明確な所ですが、福岡家のお田鶴様に関する内容はすべてフィクションです。モデルになった人物はいますが、話の内容はフィクション。
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この回答へのお礼

なるほどですね。ありがとうございます。
fudousinさんの回答を拝見し、曖昧な根拠と今までに読了した書籍からの、私見を述べたいと思います。
(1)新政府の閣僚名簿の件
 書籍名は失念しましたが、数冊の本のなかに以下のようなことが書かれていました。
『陸奥宗光の「このときの竜馬は西郷よりも一枚も二枚も大人物に見えた……」発言・話は、明治政府における薩長二大派閥の牛耳りを皮肉したものである。維新に貢献した他諸藩がなぜ新政府に冷遇されているのか? というやっかみ発言の色が濃い。陸奥は薩長派閥を攻撃するために、あえてこの話を創作したのだろう』
 この話の大部分が陸奥の゛創作″ならば、「竜馬が自分の名前を書かなかった」という下りは信憑性に乏しいと考えざるをえない。
(2)桂との剣術試合
 これは全くの司馬遼太郎による創作だと、何度か見聞きしたことがあります。
http://ryoma.web5.jp/question/form.html
 によると、『安政の御前試合のもようは、武市半平太が小南五郎右衛門に宛てた安政5年10月29日付の手紙に詳しく書かれています。「桂は連戦連勝、向かうところ敵なしだったが、龍馬と立ち合うと10本までが相打ち、11本目に龍馬がもろ手に付き勝利を収めた」ということになっています。しかし、龍馬は安政5年それによるとの9月に帰国、桂も10月に帰国、試合を実見した武市も安政4年9月に土佐に帰っています。「坂本龍馬のすべて」の著者平尾道雄氏は「手紙はまったく偽文書だ」と指摘しています』
(3)と(4)についてはfudousinさんに同意です。
 フィクションか否かの決定的な証拠となる書簡画像・参考文献・参考URLをご存知あらば、是非教えてください。

お礼日時:2009/09/05 14:33

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Q「竜馬がゆく」はノンフィクション?

現在、「竜馬がゆく」(司馬遼太郎著)を読んでいますが、この歴史小説はどのくらいの割合が真実(ノンフィクション)と思ってよいのでしょうか?
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

どうも今晩は!

司馬遼太郎さんの『竜馬がゆく』は、坂本龍馬のイメージを決定付けたと言われる氏の
代表作ですが、作品中において「龍馬」ではなく「竜馬」と表記したのは、司馬遼太郎さ
ん自身がフィクションとしての彼を描いたためとも言われています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%9C%E9%A6%AC%E3%81%8C%E3%82%86%E3%81%8F

キチンとした記録が残っていて、信憑性の高い事柄以外は殆んどがフィクションだと
思います。
残された真実にイマジネーションを働かせて肉付けをし、魅力的な小説として書き上
げるのが、歴史作家の真骨頂です。

ご参考まで

Q江戸時代、藩がどう分布していたかがわかりやすい日本地図を探しています。

たとえば、
今の山口県のあたりには長州藩があり、藩主は毛利家
ということが見てわかりやすい日本地図を探しています。
そのような地図がおいてあるサイトをご存知の方はいらっしゃいますか?

Aベストアンサー

江戸時代初期は大名の取り潰しが多かったので、いつの時代が必要なのか難しいですが、一応300藩と言うことで参考URLをご覧ください。
地方ごとに分かれています。

参考URL:http://www.asahi-net.or.jp/~me4k-skri/han/hantop.html

Q本日天気晴朗ナレドモ波高シ……は何故名文なのか?

東郷平八郎が丁字戦法を使ってバルチック艦隊を破った時、
秋山参謀という人が東京にこんな打電をしたそうです。

「敵艦見ユトノ警報ニ接シ 連合艦隊ハ直チニ出動 コレヲ撃滅セントス、
本日天気晴朗ナレドモ波高シ」

高木彬光先生の歴史小説の中で「名文中の名文」と謳われていましたが、
どうもしっくりきません。

だって、単なる指令と天候を伝える平叙文じゃないですか。
これだけシャープに必要なことをまとめた、ということが
賞賛されているのでしょうか?

教えてください。

Aベストアンサー

この電文はロシアの大艦隊を迎え撃つ前に打電されたものです。大国ロシアを相手に小国日本が寄せ集めの軍艦で海戦を挑む直前の決意を示したものです。

名文として後に有名になったのは
1.先ず海戦に勝ったこと。(負けたら名文も残らない)しかも世界が驚く一方的といってもいいくらいの勝利をおさめた。
2.これから出撃します。と短く報告すると同時に海の実戦経験者だけに分かる短い言葉で、これから起こる戦闘がどのようなものになるかをうまく伝えているからです。

つまり、兼ねて準備していた連合艦隊は予定どおり、故障艦も脱落艦もなく、直ちに出撃し敵を撃滅することを前文で伝えています。後半の天気の文章も海軍の現場の人にはいろいろな情報を伝えています。即ち、本日は天気に恵まれ海上の見通しは非常に良い。砲撃戦に理想の天気である。しかし、海上には高波が見られるので、魚雷艇などを使った細かな作戦を実行するには難がある。本日の戦いは砲撃で決着がつくだろう。

ようやく近代国家の仲間入りをしたばかりの日本の存亡を賭けた戦いを前にして、七、五調の短い電文でこれだけの情報を送れるのは名文でなければ出来ません。しかし、これが決意表明ではなく作戦の変更や指示を仰ぐ電文であれば、決して名文とはいえないでしょう。読む人によって理解が異なるような文章は戦時に使用すべきではないでしょう。やはり戦争に勝ったということと決意表明の電文だったからこそ後世まで語り継がれたのでしょう。

この電文はロシアの大艦隊を迎え撃つ前に打電されたものです。大国ロシアを相手に小国日本が寄せ集めの軍艦で海戦を挑む直前の決意を示したものです。

名文として後に有名になったのは
1.先ず海戦に勝ったこと。(負けたら名文も残らない)しかも世界が驚く一方的といってもいいくらいの勝利をおさめた。
2.これから出撃します。と短く報告すると同時に海の実戦経験者だけに分かる短い言葉で、これから起こる戦闘がどのようなものになるかをうまく伝えているからです。

つまり、兼ねて準備していた連...続きを読む


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