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死後の世界がないとすると
私にとって私の死を自覚(確認)できないので
私にとって私の死は無いという事になります。

死後の世界があったとしても
私の死を確認している私がいますので
私は死んだことにはなりません。

結局、私は死なないという結論になりました。
理屈は正しいですよね?

A 回答 (12件中1~10件)

こんにちは(^^



呼吸が停止し、心臓が停止し、中枢神経の活動が停止する。
「死ぬこと」とは、これ以上でもこれ以下でもないです。
そして、生きている存在である以上、死ぬことから逃れることはできません。

よって、「私は死なない」というのは、ありえないと思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

うーん、普通すぎる回答ありがとうございます。

お礼日時:2009/09/16 18:16

レスありがとうございます。



メンタルの問題でないなら、このカテでアゲるべきではないとか、
決して厳しいことを説くつもりではなく、
ただメンタル的なお悩みにどう繋がっているのか分からず、「お役にでも立てば」
などとも思ったものです、念のため。
なんとかお気持ちを汲んで差し上げたいとも思うのですが…。

ただ、自身、何かに呼ばれたから回答したのだと思うのであり。
それは何だろうと考えてみれば、
まぁ、私も決して好き好んで死にたくはありません(苦笑)。
実は、肉体以外の「何か」が存在していて、
それが宇宙の彼方で、永遠に在り続けるものなのではないか、などと考えたりします。
そうあってくれればいいな、という願いなのかも知れません。
「ブラック・ホールとは?」というようなことを、純粋に科学的に捉えたものを検索したりして、
何かそんな「魂の場所」のようなモノが何処かにないのか? と考えたり…。

お気持ちを汲んで差し上げられたか分かりませんが、私なりに思いついたこと・思っていたことを
述べさせていただきました。的外れであったかも知れません。
この程度でご容赦下さい。失礼致しました。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

カテ違いの質問にお付き合いいただき感謝なのです。
私はこのカテで度々回答を書くのですが、よく思うのは違う視点で見れば今の自分の状況も違って見えるのにということです。
そもそも、他人に意見を求めるという事は他人の視点からはどう見えるのかを知るためのはずなのです。
だから、死という当たり前のことも視点を変えると違って見えるよと言いたい為にこの質問を立てました。
質問することで回答しているのです。
まあ、余計なお世話なのかもしれませんが。

袖すりあうも多生の縁といいますのでお互い縁があったのでしょう。

お礼日時:2009/09/15 21:44

>私にとって私の死



これは主観です。
しかして「死」という事実は主観の中にしか存在しないものではありません。
貴方が死んで傍らの誰かが客観的に貴方の死を確認すれば、
事実として貴方は死んだことになります。

>私は死なない

そんなことはありません。貴方は死にます。

貴方はそこにあった饅頭を事実として食べたが、食べたことは忘れた。
しかし饅頭は事実として貴方の胃袋にあります。貴方は饅頭を食べたのです。
ただ貴方が忘れてしまっただけです。
「主観」と「事実」をすり替えてしまっているところに、
理屈としての誤りがあると思うのですが。

以上メンタルな問題の解決に繋がれば幸いです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>これは主観です。

そうです、
私にとって私の死は無いということです。

>しかして「死」という事実は主観の中にしか存在しないものではありません。

逆にいえば客観の中にしか存在しないものでもないという事になりますね。
主観と客観をすり替えると当たり前のことも当たり前でなくなるということですね。
メンタルの問題はありません、この一見非常識な質問をあえてこのカテでしていることを汲んでもらえるとうれしいです。

お礼日時:2009/09/15 20:56

自覚(確認)出来ない事や死後の世界で死を確認している状態を死と呼ぶのであって結論はあなたは死ぬという事です。

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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

それも一側面では正しいです。

お礼日時:2009/09/15 12:43

理屈では間違ってはいないんですけど…


なんだか違和感が残る気がしますよね。

人の死 というのは、自分で決めるものではないものがします。
質問者様は知人がお亡くなりになったことはありますか?
もしあられましたら、思い出してみてください。

ココからはあるという前提で書かせていただきます。
自分が死んでしまっても、自分が確認(自覚)がどうだ、ではなく、自分以外の人に接することができる…ということが、"生"ではないかと僕は、感じることがあります。
お亡くなりになられた方とは、心の中以外で接する機会がありますか?
貴方の目、そのほかの人の目にその人が写りますか?
"生"と"死"の違いはココだと思うんです。

最終的に言いますと、死とは、本人の理屈ではなく、他人との接触(恨み等以外)が断たれてしまったこと
ではないでしょうか。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

ご回答の内容は正しいと思います。
私という存在は他者との関係の上で成り立っています。
関係という鎖が切れてしまえば私という存在は恐らく無くなってしまうでしょう。
ただ、それは生者にとってです。
死者にとっては新しい関係ができるのかもしれません。
10年前に死んだあの人との関係がまた始まるかもしれませんよ。

この質問に対する違和感は当然ですね。
しかし、当たり前のことも視点を変えると当たり前でなくなるということが示せればそれでよいのです。
とくにこのカテでは。

お礼日時:2009/09/15 12:24

肉体的な「死」も、哲学的(?)な「死」も、同じ「死」を使うからそんな結論になってしまうのです。



それぞれ別の言葉に置き換えれば、質問者さまは哲学的な「死」について、何一つ言及していないので、哲学的に死ぬ可能性は十分にあります。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

哲学的に死んだとしても、死を確認できないという意味では同じことではないでしょうか。
客観的な死ではなく主観的な死です。

お礼日時:2009/09/15 11:53

昔どこぞの武将が言ったらしいですが


「この身に果てはあろうとも名に果てはなし」ってことですね
寿命がある以上身は滅びますけど 後世に語り継がれるのなら風化することはないですね

ただ哲学的ってのならばカテゴリが違いますね
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

本当に哲学を必要としているのはこのカテだと思います。

お礼日時:2009/09/15 10:50

思考の過程で矛盾があるでしょう。


哲学的な死と、生物学的な死は、違います。生命の寿命は存在しますでしょう。
こじ付けが過ぎます。次元の違う物を同一線上で答えを出しています。明らかに間違いです。無(ゼロ点)という存在をおわすれです。死の自覚ができない(イコール 生の自覚ができない時点)がゼロ地点です、其れが哲学的な死です。
ただそれだけのことです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>哲学的な死と、生物学的な死は、違います。

もちろんです。
ゆえに、哲学的死を問うています。
このカテで質問したということはそういうことなのです。

お礼日時:2009/09/15 10:29

あなたの「死」の定義は一定でないので詭弁。



「死」の定義が自身により死亡を自覚することなら、
死後の世界があった場合には条件を満たしているので、
私は「死」んだことになり、確認した私は「死」とは別の状態ということに
なります。

なので、死後の世界があった場合には「死」ぬ。
があなたの条件の場合の結論になるはずです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

私という存在が無くならなければ死ではないという定義です。

ある意味肉体の有無はどうでもよいということですね。

お礼日時:2009/09/15 10:27

正しいと思います^^



死を意味するのものはなんでしょうか。
心(魂)でしょうか。 それとも肉体でしょうか。

私も質問者様と同じような事を考えましたが
死=肉体が朽ちていき無くなる

魂(心死を確認するしないの自分)は死なないということになります。

体は乗り物、魂は自分 肉体という乗り物に乗ってるだけと考えています。

体は無くなるというのが死であれば死にます。
魂として自分がいるのであれば死んでも死なないということだと^^
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

死ぬのはいつも他人ばかりですね。

お礼日時:2009/09/15 10:24

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