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私は今浪人生です。
受験生にとっては夏が終わりラストスパートがかかるときなのですが、
伸び悩んだり不安になる事が多く、
私もその一人で、過去問を見ても「こんなの解けるわけない」なんて負の感情をもってしまいます
そういうときは昔から自分より大変な人たちを思い浮かべる事で自分にやる気を出させてきたので今回もそうしてみようと思って質問しました!
歴史で有名な人物で(国内外&ジャンル問わず)
・子供でも働かなければいけないほど家が貧しかったり、普通ならとても勉強ができる環境ではない
・なのに必死に勉強して一流大学に入ったり大学教授になったり、その他なにかを成し遂げた
そんな人物のエピソードを教えてください
例:二宮尊徳
勉強をすることを伯父に邪魔された為に、薪を拾う道中に勉強をしたりして農民を救い幕府に用いられた。など
No.1ベストアンサー
- 回答日時:
孔明は、どうやって自分をつくったのか。
後年の大活躍の「原因」は、どこにあったのか。孔明の生い立ちには諸説があるので、それらを勘案して語りたい。孔明は九歳くらいで母を亡くした。少年には大変なショックであった。この世から光が消えたような─。父は後妻を迎える。父は、ある郡の副知事(丞)であった。その父も、孔明が十二歳くらいで死んだ。孔明は、こうして幼くして母を失い、父を亡くした。特別の財産があるわけでもない。残されたのは、父の後妻である継母、そして孔明の兄、姉、弟であった。どう生きるべきか、一家は途方に暮れた。相談の結果、叔父の諸葛玄を頼ることになった。一家は徐州の故郷を捨て、叔父の住む荊州へ向かった。南へ、南へ。中国は広い。移動の途中、少年は多くの流民と出会った。世は乱世である。戦乱によって殺された人々。焼かれ、破壊された町々。流浪する難民の数も限りなかった。〈後漢末期。王朝は衰え、群雄が覇を競っていた〉少年は、民衆の惨状を目の当たりにした。「何ということか。人間は幸福になるために生まれてきたのではないのか?なのに、どうして人間は、こんなにも不幸なのか?」「国はどうしてこんなにも乱れているのか?」少年は悩んだにちがいない。そして、乱れた世を救う"何か"を求めていった。
やっと叔父の家に着いた。しかし、ここにも落ち着くことはできなかった。叔父が、さらに南の揚州の知事(太守)に任命されたからである。また移転 ─ 孔明は、兄とも別れ、さらに南へ、叔父とともに移っていった。
生きた学問智慧の学問
このように広い中国の各地を転々としながら、生命の危険を乗り越え、風雨と闘い、空腹を耐え、そのなかで孔明は勉強したのである。豊かな自宅の、きれいな机で、悠々と学んだのではない。それでは、あの「常勝将軍・孔明」は絶対にできなかったであろう。孔明の学問は「生きた学問」であった。苦しむ民衆と交わり、語り、庶民の心の機微も学んだ。自分の生命を守る智慧も身につけた。精神を練った。肉体を鍛えた。渡り歩く各地の風土・地理・人情・風俗を調べ、鋭い目で観察し、自分のものとしていった。また各地の様子から指導者の善しあしを見抜いた。「我れ以外、皆我が師」 ─ 作家・吉川英治氏の言葉の通りであった。そのなかで、彼は「書物」を学んだ。書物の教えを、体験を通して、ひとつひとつ身につけていった。「知識」を「智慧」に変えていった。ここが偉大である。
しかも彼の「学び」は、目的がはっきりしていた。この乱れた世の中をどう救うか。未来をどうすれば一番よいか ─ ここに焦点があった。目的が明確だったゆえに、学んだことが何ひとつ無駄にならなかった。こうして苦労が全部、孔明の成長の「こやし」となったのである。
孔明は、叔父とともに、叔父の任地・揚州についた。しかし、そこには思いもかけぬ事件が待っていた。他の実力者から任命された別の「知事」がやってきたのだ。「私こそ本当の知事だ」「いや私こそ」.…。そのころ国の命令系統が乱れ、こうした混乱が少なくなかった。
"二人の知事"が争うことになった。戦争が始まった。実力で決着をつける以外になかった。しかし叔父は敗れた。追放されてしまった。孔明は敗戦の惨めさを骨身に徹して知った。
彼は敗れた兵隊たちとともに、命からがら逃げ回った。叔父も逃走中に殺されたという説もある。「よし!」。孔明は誓った。血涙にまみれて、我が身に言い聞かせた。「二度と負けてはならない。絶対に勝たねばならない。負ければ、これ以上の不幸はない」
孔明は再び、流浪の身になった。その時、十七歳と言われる。荊州に戻り、その後、十年間、晴耕雨読の生活で、弟妹を養いながら、自分を鍛えに鍛え、「一剣」を磨きに磨いた。「不敗」「常勝」の智慧と力を養った。立ち上がる「その時」を目指して、苦労し、勉強し、あらゆるものを吸収した。そういう彼を知るものは、例えば村の長者は娘と結婚させ、親友徐庶は、劉備に、彼の登用を薦めた。ついに「その時」が訪れた。二十七歳、主君となる劉備玄徳と出会う。ここから「三国志」の、あの大活躍が始まるのである。
「鞠躬して尽力し、死して後、已む」と。身をかがめて真剣に尽力し、死ぬまで戦いをやめない、との意味であります。鞠躬─頭を下げ、礼をもって接する。偉くなればなるほど、身をかがめて、相手を敬い、力のかぎりを尽くしていく。
あの「三国志」の大英雄・諸葛孔明も、名指導者の要件として、「天よりも曇りのない目をもって、人物の善悪を見極めること」を挙げていた。
そして、国土のすみずみまで心を配りながら、公平かつ厳正な目をもってへ優秀で善良な人間を登用し、貪欲で惰性の人間は退けていくことを強調した。
そうすれば、良き人材は雲のように集まってくるというのである。
孔明は、恩を忘れて自分の繁栄ばかりを考え、全体のことを心配する気持ちを全く持たない人間、また、自分は何もしないくせに、威張って他の人々を非難する人間に対しては、まことに厳しかった。
そうした人間を放置しておいたら、将来に破滅と禍をもたらしてしまうからである。厳しいようであるが、大切な歴史の教訓である。
〈『中国古典新書続編 諸葛孔明語録』中林史朗著・明徳出版社、『諸葛孔明の兵法』守屋洋編訳、徳間書店などを参照〉
※徐庶は水鏡先生(司馬徽の翁)の弟子でしたが、孔明は
働きながら学んだ刻苦勉励の人です、偉いな(^-^)
こ、こんなに長い文をありがとうございます!
>>「二度と負けてはならない。絶対に勝たねばならない。負ければ、これ以上の不幸はない」
のところで涙が出そうになりました(汗
最近の三国志ブームのおかげで孔明が劉備と行動を共にしてからはよく知っていたんですが、幼少時代にこれほど苦労していたのは知りませんでした
「勝つこと、負けないこと」に対する情熱のようなものは三国志では感じられなかったんですが、やはり心のうちには燃えるような思いがあったのですね
「我以外皆我が師」は孔子も同じことを言っていましたが、孔明も同じ心構えだったのですか……
回答ありがとうございました!自分も頑張ります!!
No.4
- 回答日時:
秋山好古 陸軍大将 日本騎兵の父
好古は松山藩の下級武士の子として生まれるが、明治維新により秋山家の生活は困窮、弟の真之(後の日露戦争時の連合艦隊作戦参謀)は寺に出されかけるが好古は将来自分がお金をたくさん稼ぐと言って反対した。好古は藩校の小学部には入ったが、松山に中学が設置されても経済的に厳しいため入ることはできなかった。銭湯の水汲み、釜焚き、番台の仕事をし、その賃銭で書物を買い勉強した。
官費で学ぶため大阪師範学校に入校、一年で卒業後小学校勤務、陸軍士官学校に入学し未熟な日本軍騎兵の発展をすべての面で担っていった。また弟の真之の学費の面倒を見て、さらに上京させている。
日本騎兵は馬も貧弱で日本人の体格も他国の軍隊に比べて良くない。好古は騎兵の研究を行い、日本騎兵の戦術、装備にいたるまで工夫をこらし、日露戦争では沙河会戦、黒溝台会戦、奉天会戦などで騎兵戦術を駆使し世界最強のコサック騎兵を打ち破った。
遅くなってすいません
経済的なハンデの人ですか……
自分がどれだけ恵まれた状況にいるのか再認識しました
回答ありがとうございました
No.3
- 回答日時:
ジョージ・S・パットン。
失読症という当時は認知されていなかた学習障害をわずらいながらも、持ち前のガッツと根性で、独力で克服して、ウェストポイント士官学校を一年留年しながらも、最終的には学年二番目の好成績で卒業。五種競技のオリンピック代表。メキシコ戦争、第一世界大戦と第二次世界大戦で活躍。パーシング将軍の肝いりで、第一次世界大戦では最初の戦車師団を指揮し、アメリカの機甲師団の父としても知られ、第二次世界大戦での活躍により、アメリカ陸軍最高の将軍として有名です。
No.2
- 回答日時:
まさに「蛍雪の功」ですね。
「蛍の光、窓の雪」で始まる歌をご存知ですか?
かつては日本中の学校で卒業式に歌われ、今でもNHK紅白歌合戦の最後に、この曲の全体合唱が行われます。
歌詞冒頭の「蛍の光 窓の雪」は、「蛍雪の功」と言われ、貧しくとも一途に学問に励む事を褒め称える古代中国の故事が由来となっています。
「東晋」の時代の車胤(しゃ いん)は、家がとても貧乏で、灯りに燈す油が買えなかったために蛍の光で勉強していたそうです。同じく、同じ頃の孫康(そん こう)は、窓の外に積もった雪に反射する月の光で勉強していました。
そして、この2人はその苦労を重ねて学んだ学問により、車胤は吏部尚書、孫康は御史大夫という高官に出世し、「蛍雪の功」といわれる故事になったのです。
ありがとうございます。
そういえばこの話を以前学校で習ったのを思い出しました
受験雑誌の蛍雪時代もこの故事からとったのでしょうね
回答、ありがとうございました!
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