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日清戦争で日本軍が使用していた兵器類は、どの程度国産だったのですか? 日露戦争の場合も知りたいです。

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A 回答 (1件)

 日清戦争の歩兵の小銃は、前線の兵士は村田経芳が開発した村田銃(新旧を含め)を使用していました。


 後方の部隊には、戊辰戦争の頃にも使われたスナイドル銃が配備されていましたが。
   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E7%94%B0% …

 大砲に関しては、明治3年には後の大阪砲兵工廠となる造兵司が設置され生産を開始しています。
 (野砲や山砲を生産)
   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%98%AA% …

 海軍の主力の大部分は海外製です。
 (砲艦など小型艦の一部に国産がある)

 日露戦争になると有坂成章による三十年式歩兵銃や三十一年式速射砲を用いています。
 (有名な二十八糎砲も大阪砲兵工廠製)
   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%8D%81% …
   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%8D%81% …
   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E5%8D%81% …

 海軍の主力艦は依然として海外製ですが、巡洋艦などは一部国産に成りつつあります。
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Q何故、日清戦争で清国は敗れたのか

日清戦争についてですが、
清国の方が、金も有り、装備も良く、人口も遥かに多く、しかも戦地である朝鮮半島とは地続き、
たとえ日本が錬度が高く、近代的な軍編成をしていたとしても清国が敗れるのは不可解です。
清国が敗れた原因は何なのでしょうか?
又、清国が敗戦を回避する方法は無かったのでしょうか?

Aベストアンサー

軍事の点から見ると、当時の清国は日本のように各地に鉄道が引かれていません。つまり地続きといいますが、上陸時のリスク以外で見れば、海運のほうが量もスピードも速いのです。そういう状況で海戦で主力艦船に大損害を受けました。さらに傷ついた艦船を修理するにも、清に近代設備を持った港は、旅順しかなく、そこもすぐ日本に攻められてしまいます。制海権を取られたままでは、日本はいつでも清国の沿岸部に上陸作戦ができますし、清側はすみやかにそれに対応して兵を陸送できません(鉄道がないため)。国を焦土と化して陸戦する覚悟があるならまだまだ戦えますが、清にはそこまでの覚悟もなければ、北京近くで戦闘したり、北京に砲撃が加えられることさえ嫌がっていましたので、講和を結んだのです。

 平壌攻防では、激しく抵抗する前に清側が撤退しました。清側は海戦も有利と考えていたので、引いて補給線を延ばし時間稼ぎすれば、いずれ自分らに有利に働くという考えがあったと思います(士気が低いのも確かですが)。優勢に思えた自国海軍が見事に叩かれたのが敗因ともいえるでしょう。

Q太平洋戦争当時日本軍が三八式銃を使用していた理由は

三八式銃とは、明治38年 に発明された旧式の銃らしいですが、
これを太平洋戦争当時でも使用していたそうです。
戦争中の兵器の進歩は日進月歩なのが普通なので、
これは不思議なことです。
使用し続けた理由は何でしょうか?

大量に余っていたとしても新式に鋳直せばよいだけのことです。
現に戦闘機などはどんどん改良を重ねています。
なにか特別なことがあったのでしょうか?

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

銃は、航空機、戦車、潜水艦のいわゆる三大新兵器とは違う「熟練した兵器」ですので、寿命は桁外れに長いです。
ほかに寿命の長い兵器は、歴史的に見ると刀剣があります。日本刀は、太刀~打刀に変わったりと、若干の変更がありますがおおむね形は変わりません。これは刀は、熟練した兵器であり、戦術的な変革がなければ、仕様を変える必要がない代物だったといえるでしょう。

さて、三八式についてですが、これも似たようなものです。諸外国の兵器と比べた場合の旧式度合いについては、すでに前に語られていますね。
新しいともいえませんが、それほど古いともいえません。つまり、ボルトアクション式では、すでに三八式は「決定版」ともいえる代物だったのです(No12の方が言っているように日本人にとって扱いやすいのも大きい)。
決定版なので、それ以上のものは戦術的転換がないかぎりは不要です。現在でもピストル、小銃などは50年以上前の設計の物だって十分現役で使っている国もあります。これらは現代の戦術では決定版足りえる代物だからです。

さて、先ほどから「戦術」という言葉を使っていますが、これが、三八式におきた一つ目の悲劇です。
時代は第1次大戦、火器は「小銃による打ち合い(砲は補助的)」から「重砲と機関銃(小銃は補助的)」による戦術に「転換」しました。

つまり三八式の作られた時代の戦術概念と第2次大戦では大きく様相が変わったのです。
基本的に新しく作られた戦術というのは、前に使われていた戦術よりも優れています(優れているから採用される)。
つまり、三八は世界的な戦術である、火砲、機関銃の大量使用による弾幕戦と戦うようには対応していません。
諸外国のようにそれらの「補助兵器」として使うならば十二分の性能だったでしょう。

当時の戦術において勝利を決めるのは火砲、機関銃、戦車といった兵器で、小銃はすでに勝利を左右する兵器ではなくなっていました。
しかし、日本軍にはそれらで力のある兵器はありません。

勝利を左右する兵器を持っていない軍隊と、勝利を左右する兵器を大量保有している国が戦えば・・・どうなるかはわかりますね?

日本軍が、(あくまでボルトアクションから進歩した存在であり、補助兵器の域を出ない自動小銃はともかくとして、です。諸外国がこれの更新を遅らせたのは、他に国力を注いでいたためです)火砲や機関銃の大量配備を嫌ったのは、塹壕戦による経験が薄かったために有効性を信用しきっていなかったのもありますが、最大の理由は、工業力がこれらの兵器を「全軍にいきわたらせて、かつ戦えるだけ」の力を持ち合わせていなかったことです。
国力と軍事力の兼ね合いが著しく悪いとも見れます。海軍でもいえますが、国力以上の軍事費は維持費や更新費用の面で国家を破綻させます。弾薬についてもそうです。自国の国力でまかなえる以上の弾薬を使う軍隊を持てば、補給にひずみが生じて、供給が追いつかなくなります。
かといって軍隊を減らすわけにもいかない状態ですし、そのおかげで更新(つまり戦術転換)に使う国力もない。新しい戦術では弾薬を多く使うので、転換したところで維持できるだけの国力もない(諸外国は生産量を増やしたのですが、日本ではそれができるだけの国力すら残っていなかった)。
日本軍が抱えていたひずみとかゆがみが、小銃にも現れているのです。

もう一つの悲劇が、1つ目の後半とかぶりますが日本の工業力の低さです。
当時、日本の技術力はとにかく欧米に追いつけということでタッチアップを図っていましたが、まだまだ追いついていません。
よく「日本の技術力は世界一だった。アメリカに物量で負けた」なんていう人がいますがこれは大間違いです(空技廠から上がってきた航空機の図面で、「この部分は鋳型をつかった鋳造で」となっていても金型が作れずに削り込み部品にしたというのはよく聞く話です。つまり当時の技術はその程度)。
中でも惨憺たる分野が重工業全般の中でも最重要分野の鉄鋼業でして、製鉄も自国では補完できない、鋳型技術も低い状態です。
さらには、精密機械技術が発展途上でして、とにかく精度が悪い(戦前の日本兵器において「統一規格」はありません。というより作れなかったのです。精度が維持できないのですね)。そのため小銃ですら調整しないと命中精度が維持できない上、部品の互換性がない。これは前線において問題です。
別々の箇所が壊れた銃をばらして一つの壊れていない銃にするというのは、軍隊ではある程度普通ですが、日本ではこれが出来ない。つまり不経済な状態です。
また、弾薬の製造精度も悪いため、弾詰まりが多い。これは自動小銃のほうで批判されますが、こちらについては「吐き出す量が多いためハズレに当たる確率が高い」だけなのです(まあ、自動小銃のほうが若干弾詰まりを起こしやすいというのはありますが・・・)。

ながくなりましたが、結局は日本と日本軍の構造上の問題なのです。
日本において三八式が評判が悪いのは、本来的に責任はない三八式に、日本の抱える問題を添付してしまっているからです。結局問題は日本自体にあるのです・・・
というわけで、三八自体の設計は優秀ですし、ボルトアクション式小銃の決定版でもあります。

銃は、航空機、戦車、潜水艦のいわゆる三大新兵器とは違う「熟練した兵器」ですので、寿命は桁外れに長いです。
ほかに寿命の長い兵器は、歴史的に見ると刀剣があります。日本刀は、太刀~打刀に変わったりと、若干の変更がありますがおおむね形は変わりません。これは刀は、熟練した兵器であり、戦術的な変革がなければ、仕様を変える必要がない代物だったといえるでしょう。

さて、三八式についてですが、これも似たようなものです。諸外国の兵器と比べた場合の旧式度合いについては、すでに前に語られてい...続きを読む

Qイデオロギーって何ですか???

イデオロギーとはどんな意味なんですか。
広辞苑などで調べてみたのですが、意味が分かりません。
どなたか教えてください。

Aベストアンサー

イデオロギ-というのは確かに色んな解釈をされていますけど、
狭義ではそれぞれの社会階級に独特な政治思想・社会思想を指します。

つまり分かりやすく言えば、人間の行動を決定する根本的な物の考え方の
体系です。一定の考え方で矛盾のないように組織された全体的な理論や思想の事を
イデオロギ-と言うんです。

例えば、人間はみんな千差万別であり色んな考えを持っています。
だから賛成や反対といった意見が出てきますね。
しかし、イデオロギ-というのはみんなが認める事象の事です。
イデオロギ-には賛成・反対といった概念がないのです。

例えば、環境破壊は一般的に「やってはいけない事」という一定の考えに
組織されています。つまりみんなが根本的な共通の考え(やってはいけない事)として組織されているもの、これがイデオロギ-なんです。
しかし、社会的立場によってはその「やってはいけない事」を美化して
公共事業と称して環境破壊をする人達もいますけど。
ここでイデオロギ-という概念に対して色んな論説が出てくるわけです。
一応これは一つの例ですけど。

というかこれくらいしか説明の仕様がないですよ~~・・。
こういう抽象的な事はあまり難しく考えるとそれこそ分からなくなりますよ。
この説明で理解してくれると思いますけどね。

イデオロギ-というのは確かに色んな解釈をされていますけど、
狭義ではそれぞれの社会階級に独特な政治思想・社会思想を指します。

つまり分かりやすく言えば、人間の行動を決定する根本的な物の考え方の
体系です。一定の考え方で矛盾のないように組織された全体的な理論や思想の事を
イデオロギ-と言うんです。

例えば、人間はみんな千差万別であり色んな考えを持っています。
だから賛成や反対といった意見が出てきますね。
しかし、イデオロギ-というのはみんなが認める事象の事です。
イデオ...続きを読む

Q日中戦争の頃の中国の武器はどのようなものでしたか?

日中戦争の頃の中国側の武器はどのようなものでしたか?
古い映画をみて、機関銃と迫撃砲くらいしか出てこないので、貧弱だったのかなと想像しています。
戦車や飛行機、戦艦、潜水艦などなかったのでしょうか?
飛行機などあれば日本本土を空襲したはずですよね。

中国の装備が貧弱であったので、日本はやすやすと侵入できたと考えてよいでしょうか?

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

当時の中国軍の装備はドイツの軍事顧問の指導により改善の途中でした。
チェコより輸入した機関銃は当時の最高級で、揚子江河口地区の防御陣地はトーチカなど近代陣地の装備でした。
この為上陸した名古屋師団はこの陣地に肉弾戦を挑み大損害をうけました。

当時中国軍は蒋介石の政府正規軍と軍閥の私兵からなっており、正規軍はかなりの近代装備を有していましたが軍閥の私兵は貧弱な装備でした。
正規軍は37ミリ以下程度の対戦車砲も有しており日本軍の軽戦車は撃破されたのです。
しかしこれらの装備を有していた正規軍が初期の防衛戦で消耗すると、彼我の兵器差は大きく開きました。

中国空軍は海外の義勇軍の混成で機種も2戦級でしたが奥地の重慶に遷都しての防衛ではかなり活躍し日本の護衛のない爆撃機は大きな損害をうけました。
開発直後のゼロ戦が護衛についてからは日本軍の一方的な勝利になったのです。

中国戦線での迫撃砲の脅威は唯一の大口径砲として日本軍を悩ませました。

しかし戦争末期にはビルマ経由の援将ルートで米英の近代重火器が到着しこれを装備した中国軍に北ビルマの防衛拠点を次々に奪われ玉砕が続きました。

中共軍とはゲリラ戦で困らせられ、かなりの兵力を貼り付けざるを得なかったのですがここでも戦争末期に
中共軍の百団大戦攻勢で板垣師団は大損害を受けました。
決して中国戦線では勝利だけではなかった事実は知っておく必要があります。

当時の中国軍の装備はドイツの軍事顧問の指導により改善の途中でした。
チェコより輸入した機関銃は当時の最高級で、揚子江河口地区の防御陣地はトーチカなど近代陣地の装備でした。
この為上陸した名古屋師団はこの陣地に肉弾戦を挑み大損害をうけました。

当時中国軍は蒋介石の政府正規軍と軍閥の私兵からなっており、正規軍はかなりの近代装備を有していましたが軍閥の私兵は貧弱な装備でした。
正規軍は37ミリ以下程度の対戦車砲も有しており日本軍の軽戦車は撃破されたのです。
しかしこれらの装備...続きを読む

Qローマ帝国が崩壊した理由。

ローマ帝国が崩壊した政治・経済・宗教上の理由ってなんですか??

教えて下さい。。。

Aベストアンサー

まず言っておきたいのは、領土(図体)が大きくなりすぎた事を念頭に入れておいて下さい。

政治的には領土が広すぎた為に軍司令官や属州総督を派遣するといったシステムが多かった様です。と言うのも東西だけで言うと最盛期にはスペインのジブラルタル海峡からロシアの黒海沿岸やイラク北部に跨っていました。今でこそ飛行機で何時間といった距離ですが当時は風任せ・人力便りのガレー船と徒歩や馬で街道を進むしか方法が無かった時代です。そんな交通事情では例えば蛮族(周辺住民)の組織的な侵略や略奪。或いは自然災害や飢餓等で一々首都ローマの皇帝に指示を貰って動いていたら今の日本のお役所仕事よりも状況は悪化します。なので担当者を派遣して急場は彼らが処理して根本的な対処(立法や公的資金の注入。軍の配置等)は事後報告を受けた皇帝が担当することになりました。
しかし皇帝が後継者を残さずに死んだりネロ等の様に住民や元老院に見放された皇帝が出てきたらついムラムラっと支配欲に燃える人も多かったりします。それが上り坂の時代ならば多少は許容されるのですが下り坂で蛮族の侵入が重なったりしたら内乱に乗じられたりする訳です。

経済的には政治的な内容と重なりますが内乱と蛮族の侵入が重なるとどうなると思いますか?
ここでは北アフリカを挙げたいと思います。内乱等で軍隊が指揮官の皇帝即位の為に他のライバルを武力討伐する為に他の地域へ移動すると周辺民族が侵入してきます。彼らは簡単に言うと銀行強盗の群れだったので街や村を略奪して回ります。そうすると住民は暴力を嫌って難民となり他所へ流れて行くことになります。基本的に経済は農作物や鉱山からの収益或いは貿易で成り立ちますし農業はそれらの基本です。そして農地は常に人が手入れしないと荒れる物です。信じられないかもしれませんが当時の北アフリカは砂漠では無く穀倉地帯だったんです。で荒れるに任せて砂漠化しました。これは他の地域では荒地になったり森林になったりして収穫は激減していったのです。
しかも強盗は略奪する物が無ければ支配して搾り取る方法にして居座り続ける事を始めたので二重の意味でダメージになりました。

宗教的には色々ありますが政治的・経済的行き詰りとキリスト教の普及が重なった事が大きいでしょう。ローマ古来の神々は我々を見捨ててしまった。そんな思いに駆られたローマ人の心のスキマにキリスト教は漬け込んだんです。曰く、今の状況は真の神を蔑ろにしたローマ人の所業のツケである。曰く、しかし真の神に帰依すれば救済されるとでも言ったのでしょう。ここで最後の審判で救われると言うのがミソです。来るかどうかも分からない最後があると言って置きながらそんなものは20世紀が終わってもありはしなかったのですからね。まぁこれは今だから言える事ですし当事者はパニックで冷静に考える余地が無かったのですけど。
それからカトリック教会とローマ法王という形で国家内にもう一つの国家を作り上げて寄生されたのも痛かったですね。飢饉で神父やシスターが難民にパンを配る・・・美しい光景ですが何の解決にもなっていません。解決するには行政サイドが動くしか無いのですがガタガタの帝国にはそんな力は残されていなかった。これでは教会に入る人が増えるし帝国に見切りをつける人が増えるのは止め様がありません。


最後に追加ですが戦争のやり方が変ったのも重要です。かつては重装歩兵が主力を担っていたのが騎兵に取って代わりました。単純に考えて甲冑と槍で済んでいたのが追加で馬が加わります。これがクセモノでして俗に牛飲馬食と言う言葉がありますがこれは飲み食い意が激しいのを牛馬に例えた言葉ですが馬を飼うには餌場を順々に回る遊牧生活か金で買って入手するしか方法がありません。しかも手綱や鞍を付けないと乗れませんし牧場や厩舎を作ったり練習の為の馬場も必要です。
これは何故かと言うと大陸の東のモンゴルとかの遊牧民が食い詰めてヨーロッパ方面に移動しました。と書くと穏やかですが戦争しながら原住民を土地から追い出して居座ると言う形で成されました。それでゲルマン人も食い詰めてローマに・・・と言うわけです。なので力関係では負けてるので弱ってるローマで略奪や居座りして新生活を始めよう・・・とそういう次第なんです。



纏まりが無く内容が重複した文章ですがそう私には見受けました。

まず言っておきたいのは、領土(図体)が大きくなりすぎた事を念頭に入れておいて下さい。

政治的には領土が広すぎた為に軍司令官や属州総督を派遣するといったシステムが多かった様です。と言うのも東西だけで言うと最盛期にはスペインのジブラルタル海峡からロシアの黒海沿岸やイラク北部に跨っていました。今でこそ飛行機で何時間といった距離ですが当時は風任せ・人力便りのガレー船と徒歩や馬で街道を進むしか方法が無かった時代です。そんな交通事情では例えば蛮族(周辺住民)の組織的な侵略や略奪。或...続きを読む

Q最初の天皇はなぜ誕生したのか?

初代天皇は、どういう経緯で出来たのですか?
神武天皇は、国王(日本で一番偉い人)みたいなものだったのですか?

Aベストアンサー

実はそのことについてわからないので困っているんです。
というのも3世紀に活躍したとされる邪馬台国の卑弥呼という女王の解釈により、最近では神武天皇でさえ紀元前660年前の人物とすることには異論がありながらも、その存在自体はありえて、だからこそ正史である『日本書紀』に記載されているのでは?といった論調もあります。
神武天皇そのものというより、神武の伝承として伝わる物語の核になる史実が存在した。それは現存はしていませんが『日本書紀』編纂の主な材料となりえた『帝紀』などに書かれていたのであろう。と予測する立場があるんですね。
ですから国家や天皇の成り立ち自体はよくわかっていない中で、神話などの古伝承から国家や天皇の成り立ちを整合性を以って説明できるのでは?と目下奮闘中といった人々もいる。とのあり方が現況では一番進歩が見られるスタンスであり、逆にそのような暗中模索な状況こそが、現在の学界における日本国家成立の研究、ないし天皇支配の淵源の研究などの現状だと思います。

そして天皇(大王)を中心とした国家といった概念が表れたであろうとされるのが、いわゆる4世紀の古墳時代と呼ばれる時代であったことは、考古史料から、特に前方後円墳などの規格性の強い墓制の出現で見当がつきつつあるのですが、そこの詳しい実態は、日本はもとより、3世紀段階における日本の国情を伝えた古代中国の史書などが4世紀時点ではないためよくわからないんです。いわゆる「謎の4世紀問題」ですね。

いずれにせよ『魏志』倭人伝などの記述から、卑弥呼が活躍する前後(3世紀)にあっては「倭国大乱」と評価できる内戦状態が、その規模は別として事実あったのでしょうね。もちろんその戦闘状態は天皇の出現と無関係であるとも思えないんです。その様な中、詳しい経緯はわかりませんが、倭国大乱と呼ばれる混沌とした戦乱の世にあって、統一的国家としてのヤマト政権を樹立するだけの武力ないし交渉力が、4世紀段階における天皇(大王)の祖先にあったことは疑う余地はないのかな?と思いますし、考古史料などが語る結果から帰納法的に糸を手繰りつつ明らかにしようと試みている、3世紀から4世紀にどのような経緯で歴史がつながるのか?といった問題は、識者はもとより僕に限らず古代史に興味を持つ者が一番知りたい部分なのです。

ですから率直に申し上げれば「初代天皇は、どういう経緯で出来たのですか?」という質問については「こっちが知りたい部分です」といった頼りない回答になり、せっかくのご質問に明確にお答えできないことを心苦しく思いながらも、現状をご理解いただければありがたいと思う次第です。

実はそのことについてわからないので困っているんです。
というのも3世紀に活躍したとされる邪馬台国の卑弥呼という女王の解釈により、最近では神武天皇でさえ紀元前660年前の人物とすることには異論がありながらも、その存在自体はありえて、だからこそ正史である『日本書紀』に記載されているのでは?といった論調もあります。
神武天皇そのものというより、神武の伝承として伝わる物語の核になる史実が存在した。それは現存はしていませんが『日本書紀』編纂の主な材料となりえた『帝紀』などに書かれていたの...続きを読む

Q第二次大戦でのライフル装弾数は何故5発なのか?

第二次大戦における各国主力小銃を見ると、装弾数が数発しかありません。
38式(日)・99式(日)・M1903(米)・Kar98k(独)・MAS 36(仏)・M1891(ソ)
このあたりの主力小銃はみんな5発です。もっと装弾数を増やせば、弾込めにかかる手間も節約できて便利だと思うのですが、なぜ各国示し合わせたように5発なんでしょうか?

それにM1ガーランド(米)なんてオートマチックなのに僅か8発です。少なすぎですよね・・・

Aベストアンサー

 元の銃を真似て作ったから、という元も子も無い答えになっちゃうんだが(^_^;

>もっと装弾数を増やせば、弾込めにかかる手間も節約できて便利だと思うのですが

この手の質問をするんだからある程度の知識があると思うけど

5発マガジンに装填が5秒としよう
10発マガジンが倍の10秒とすると、10秒で弾込めがができるかというと、そうではなく、もっと掛かるんんですよ。

マガジンの中にはバネがあって、それが次の弾を押し上げてくるっていうのは理解してるよね?

1~5発までを事前にマガジンに装填するのは楽だけど、7発、8発となってくると、押し返してくるマガジンの中のバネも強くなって、ギューと押し込んでるにの弾が入らない状態で10発も入れると相当な時間が掛かります。

そのマガジンを沢山用意しておけば戦闘時に次から次へと交換していけばいいんだけど

戦闘は、今日の午後3時に開始しますから、よろしくー
って敵味方が打ち合わせがあって始まる物じゃないのは判るよね?

3時になったのに、えー?!まだ8発しか詰めていないよー、戦闘するのはちょっと待って、と言っても待ってくれないですし

で、5発ぐらいの楽に装填できるマガジン(素早く装填できるマガジン)を多数持って、という事になるわけですが、弾を沢山持てば(マガジンを沢山持てば)重いので移動に難があって、というのになります。

で、徴兵で集められた兵士は、元はパン屋だったり、障子の張替えとかしてる人だったりとかで、沢山のマガジンを持ち歩くだけの体力が無かったりするし

ちゃんと狙って撃っても弾は敵に当たらないという状態になって、逆に敵に撃ち殺されたりするわけで、装弾数はあまり必要ではなくなります。

30連マガジンができても30人の敵が殺せるかというと、そうではなく錬度の低い兵士だと30発撃っても一発も当たらないですから、それなら錬度の高い兵士に5発だけ与えても5人は倒してくれますから、そちらのほうが効率はよくなります。

30連発のマシンガンなんて沢山の人を殺せそうだけでど、実際は人と人の間に隙間があって、そこにも弾が飛んでいくので誰にも当たらなくて、数打ちゃ当たる、にはなら無いんです。

ということで、ちゃんと銃を使いこなせる人(職業軍人)になら、5発あれば、それで事足りるわけなので、5発や6発の装弾数の銃が偶然(まあ、元の銃をコピーしてるので似るのですが)同じように揃ったわけなんです。

M1ガーランドの8発は、錬度の低い徴用兵に合わせて数打ちゃ当たる作戦?で作られたんです、38でちゃんと撃てる人だったら、錬度の低い敵を5人は殺せて退治できましたからね。

 元の銃を真似て作ったから、という元も子も無い答えになっちゃうんだが(^_^;

>もっと装弾数を増やせば、弾込めにかかる手間も節約できて便利だと思うのですが

この手の質問をするんだからある程度の知識があると思うけど

5発マガジンに装填が5秒としよう
10発マガジンが倍の10秒とすると、10秒で弾込めがができるかというと、そうではなく、もっと掛かるんんですよ。

マガジンの中にはバネがあって、それが次の弾を押し上げてくるっていうのは理解してるよね?

1~5発までを事前にマガジンに装...続きを読む

Q日清・日露戦争が庶民に与えた影響を教えてください。

日清戦争・日露戦争は日本の勝利となっていて、戦場にいた人々の活躍はよくききます。
しかし、庶民への戦争の影響はあまりきいたことがありません。
いったい庶民にはどのような影響を及ぼしたのでしょうか。

質問の仕方が下手で申し訳ないですが、回答お願いします。

Aベストアンサー

日清・日露戦争の勝利により日本は「欧米列強と対等の国」と認められる事になり、明治維新以来の懸案であった不平等条約改正が行われるなど、日本の国際的地位向上に大きく役立ちました。
また安全保障面でも清とロシアという両大国を退け、朝鮮半島を支配した事で日本本土への直接脅威が取り除かれました。
更に日露戦争でもロシアから遼東半島の租借権を獲得し、満州鉄道を得るなどその後の日本の行方を左右する大きな成果が挙っています。
莫大な戦費や犠牲を考えればバラ色とまではいかなくとも、日清日露の両戦争は明治日本の発展に大きく貢献したのは確かです。
しかしながらこの両戦争がもたらした成果は昭和期に入ると逆に日本を追い込む事になります。
まず日露戦争で獲得した満州の利権は「多大な犠牲を払って獲得した特殊権益であり絶対に手放してはならない」という思考を国民や政治家に与え、それにより日本外交を硬直させる大きな原因となりました。
これは戦後の日本で「太平洋戦争の犠牲によって得られた憲法9条は絶対に守らねばならない」という主張が大きく幅をきかせていたのと相通じるものがあります。
更に戦争により国際的地位を向上させ、利権を獲得していった経緯はその後の満州事変などでも繰り返され、軍部は政府のみならず国民一般にも「戦争への期待」を広める事になってしまいます。
これが後々、日中戦争で泥沼に足を踏み入れ、太平洋戦争に繋がる大きな要因となってしまいました。
戦後の日本でもいわゆる「土地本位制」や「銀行の護送船団方式」などが戦後日本の高度成長に大きく貢献しつつ、それが最終的にバブルを生み、日本経済に大きな悪影響を残してしまったように時代に合わなくなった過去の「成功体験」が後々の破局を招いた一つの例と言えます。

日清・日露戦争の勝利により日本は「欧米列強と対等の国」と認められる事になり、明治維新以来の懸案であった不平等条約改正が行われるなど、日本の国際的地位向上に大きく役立ちました。
また安全保障面でも清とロシアという両大国を退け、朝鮮半島を支配した事で日本本土への直接脅威が取り除かれました。
更に日露戦争でもロシアから遼東半島の租借権を獲得し、満州鉄道を得るなどその後の日本の行方を左右する大きな成果が挙っています。
莫大な戦費や犠牲を考えればバラ色とまではいかなくとも、日清日露の両...続きを読む


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