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 神武天皇は、「東方に美し地がある」と聞いて、東征(東遷)を開始します。でも、どうして、東征(東遷)の地が大和(現在の奈良県)なのでしょうか。奈良ってそんなに魅力的な土地だったのでしょうか。教えてください。

A 回答 (7件)

 学生を卒業してかなりになりますので、細かな点はご容赦ください。


 「美し」という表現がポイントになります。記紀その他の記録によると、「ウマシ」は「可美」と書かれ、代表的な名に「可美真手(ウマシマテ・ウマシマチ)」がいます。ウマシマチは、神武東征(一応、このように表現しておきます)前にヤマトに君臨したニギハヤヒ王の子とされます。
 「可美」は、素直に読めば「カミ」すなわち、朝鮮語で「剣」・「神」。
 「真手」は、「マチ」すなわち、朝鮮語で「槌」・「椎」。
 つまりは、鍛冶神を意味する言葉です。ニギハヤヒ自体が朝鮮語では鍛冶神を意味する言葉になるそうです。
 と、すれば「東方に鍛冶神を祭祀する国がある。豊富な資源と技術の国がある。ぜひとも手に入れたい。」ということでしょうか。
 実際に、九州から四国、紀伊半島へと鉱脈が走っているのです。神武の不可思議な熊野迂回もこの鉱脈と深い関係があったようです。
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神話に対する観点が違うようなので、補足質問に対し下記の回答を最終とさせて頂きます。



現代の感覚、常識で神話を解釈すべきではありません。全ての神話は現代感覚では理解しがたい事や矛盾に満ちています。特に神の属性、距離感覚、年代のずれなどが気になったら読み進めなくなります。

1.だまし討ち
だまし討ちかどうかは相手をどう見ているかによって決まるでしょう。例えば19世紀の米軍のインディアン討伐はだまし討ちの連続です。対等な戦いでは一度も米軍に負けなかったインディアン部族は多数います。また我々が狩をするときは如何に
騙すかに専念します。だまし討ちは文化が異なる集団を制圧するときの常套手段です。(同じ文化の場合は非難される)
2.何故神武は日向出身か
専門家ではありませんので私見になりますが、神武神話は征服した日向に伝わる伝承を取り入れたものと考えられます。九州は朝鮮半島や南洋諸島からの移住者がもたらした伝承説話が多いので、大和朝廷の歴史編纂担当者は他の征服地の神話より
優遇したのでしょう。出雲地方も文化先進の地として魅力があったでしょうが・・
3.政権の正当性
正当性は神武天皇が如何に戦ったかではなく、天孫降臨の直系である神武天皇以来続く今上天皇が治める大和朝廷は・・・にあり他の話はそれを納得させるために補足したものでしょう。

神話を読む場合は、専門家は別として、素直に神話として受け止め当時の時代背景、文化レベル、交通の発達度合い、武器、集団の関係などを読み取って楽しめればよいと考えています。
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美々津をご存知とは相当の歴史ファンですね。

伝統行事が残っているものの戦後は
天孫降臨の地という神話そのものが否定、無視されたので戦前の美々津とは異なります。

さて、神武天皇の東征はなかった、大和朝廷が権威づけのため、征服した各地に伝わる伝承を巧みに編纂したものであるという観点から大和を見れば、何故特に征服の意欲もわかないところにという疑問が消滅します。むしろ何故大和のような地方の豪族が朝廷を樹立するような力を持ったのかという疑問に変わりませんか。勇み足を恐れず想像すれば、大和ー河内ー難波を制したものが朝鮮半島の渡来人と結びつき、優れた武器、兵制、稲作技術等で他の豪族を服従させていったと
考えられないでしょうか。一豪族が他を征服、服従させるとき、政権の正当性を
(武力が優れていた以外に何もない大和の豪族で終わらせないため)示すために
神話(非征服民の神話も取り入れて)が生み出されたと思われます。

食料事情まで説く根拠は持ち合わせていませんが、稲作到来後、湿地が多い大和
では、渡来人も多く十分な食料生産の技術があったと考えられないでしょうか。

この回答への補足

 またまた、新たな疑問が生じます。
 大和朝廷樹立者たちにとって、始祖神話ともいえる「神武」をなぜ九州の高千穂出身にしなければならなかったのか。しかも、大和入りに際して、「神武」という名をもつ天皇とは思えないほど、長髄彦に散々にやられています。とても、すぐれた武器・兵力を持った集団とは思えません。大和朝廷側の勝利の法則は、「だまし討ち」が多いように思います。この神話で政権の正当性を示すことができるのでしょうか。

補足日時:2001/03/30 00:20
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何故大和か?といえばmartinbuhoさんのお答えでしょう。



神武天皇は実際には2~3世紀ころ(魏志倭人伝に卑弥呼が登場する時代とそれほど代わらない時代)の天皇だろうと考えられているようです。ではなぜ、紀元前660年などと数百年も鯖を読んだかといえば、推古天皇の時代に聖徳太子&蘇我馬子が天皇記を編纂するに当たり、讖緯説に基づき推古天皇9年(西暦601年)の1260年前(紀元前660年)に神武天皇が即位したと解釈されたことによるようです。そのため古代の天皇は異様に長命として記録されていますが、ごまかした数百年を何代かの天皇に負担(?)させたためでしょう。逆にこのことから居なかった天皇を捏造してはいない(=登場する天皇は年代はともかく実在はした)だろうと考える人もいるようです。

参考URL:http://village.infoweb.ne.jp/~fwhp7108/iroiro.ht …
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神武天皇は日本書紀と古事記に書かれた古代天皇の一人で、日向の国(宮崎県)の高千穂の峰に天下った天孫のひ孫にあたるといわれます。

後に東征して大和を征服し政権を築くわけですが、この時を明治政府は紀元前660年の2月11日と定め、建国の日としました。
何故大和が舞台になったかという疑問は次のように考えれば理解できます。
記紀では日向を起点としていますが、本当は大和政権を作った人々が政権維持,強化の必要性から、当時既に交通路の確立していた奈良ー大阪ー瀬戸内海ー九州を舞台にして、各地の豪族や国に伝わっていた伝説、説話の類を引用、編集して作り上げた当時なりの歴史書だと思います。書かれてある一つ一つは事実や又聞きかも知れませんが、大和朝廷に都合よくかつ支配下の豪族や国のメンツも考慮しながら
大和朝廷に都合よく編集したものと考えられます。どこの国の建国神話も似たようなものだと思います。(例。ローマやギリシャ)
政権のあるところは当然理想の地であるべきで、2,700年後の今日の目で見る大和とは異なるでしょう。神武東征は神話と理解しながらも、今日でも東征の艦隊(?)が出発したときの故事を守り、祭りを行っている町が宮崎にあり、記念碑もたっています。(日向市美々津町)訪ねて見ませんか。

この回答への補足

 美々津は、何年か前に訪問しました。「何なんだ?これは・・・」状態になってしまいました。(笑)
 今だ納得できないものがあります。高い文化水準になるためには、それを支える食料基盤がしっかりしていなければならないと思うのです。大和盆地は、弥生時代には、湖沼であったと聞きます。そのような土地で食料確保はできたのでしょうか。
 もしかすると、大和の地にあった都市は、martinbuhoさんのおっしゃる「理想の地」あるいは「宗教国家」のようなもので、この地を征する(欲する)目的は、別の所にあったのでしょうか。

補足日時:2001/03/26 18:31
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私も非常に興味が有ります。

HPを検索してみたら下記のURLが見つかりました。ここでは奈良地方に台頭していた銅鐸文明を滅ぼし、日本統一を目指したと書いて有ります。奈良に魅力が有ったと言うより、滅ぼさざるをえなかったということでしょうね。でも古いことですので、本当のところは???

参考URL:http://member.nifty.ne.jp/Washizaki/03.htm
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 神武天皇が実在したら、卑弥呼より古いはずです。

邪馬台国がどこにあるかわかっていないのに、どこからどこに、なんて解るはずないですが、まあ、日本書紀がかかれた時代には魅力的な場所だったからでしょう。
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