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裁判員制度の対象が、重大な刑事事件に限定されているのは、なぜですか?

wikiぺディアを読みましたが、裁判員制度の目的の一つに、
「国民の司法参加により市民が持つ日常感覚や常識といったものを裁判に反映するとともに、
司法に対する国民の理解の増進とその信頼の向上を図ることが目的」
とあります。

国民が裁判と接する可能性が高いのは、実際は刑事裁判ではなくて、商取引や離婚問題などの民事裁判のはずです。
発生件数も桁違いに多いはずです。
なので、裁判員制度の対象には、そういった民事裁判を取り上げるほうが無理がなく、明らかに有意義だと思っています。

なのになぜ、わざわざ裁判員自身に負担が大きくて、判決自体も裁判員個人によって大きく振れ幅がありそうな
「重大事件」にだけ適用するのですか?

そもそも、日本国内では、死刑制度に対する賛成・反対の意見すら大きく2分している状態なのに・・・
重大裁判を一般国民が裁くことが、裁判制度に対する国民の理解と信頼の向上になるとは、到底思えません。
司法府が、自分たちの裁判制度の問題点を、一番厄介なものから順番に国民(裁判員)へまる投げしているだけではないでしょうか?
いまの裁判員制度は、国民のことを考えた制度とは到底思えません。

裁判員制度の対象となる裁判を重大事件に限定している意図や目的が全く理解できません。
何か、そうしないといけない特別な理由などがあるのでしょうか?

A 回答 (2件)

まず最初に、刑事事件と民事事件の裁判のあり方を考える必要があると思います。


大別しますと、刑事事件は「心の中」の問題を解析しないと結論はでません。
例えば、本当に殺す意志があったかどうかで裁量が違ってきます。
その点、民事事件では、例えば、商品代金の取り立てなどの事実関係は、証拠によって認定するので、心の中の問題は重要ではないです。
この民事事件を、私たち素人が結論を出そうとしても、「支払った」「相殺した」などの答弁の場合に、果たして、書証だけで認定できますか、また、その事実関係を法律に照らし、どのような法律論となるか等々とても私たち素人では結論はでません。
一方、刑事事件の場合は、例えば「殺すつもりはありませんでした。ただ、気がつくと血のついた包丁をもっていました。」と云う犯人に対して、それはウソか本当であったかと云う判断は素人の私たちでも可能です。(それが正しいかどうかは別ですが)
そのように、民事事件と刑事事件は大変異なります。
そして、少々のスピード違反や万引なども入れれば大変な数となり国民の負担は多くなるばかりです。
ですから凶悪事件だけ対象としているのです。
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まず大前提として、日本は国民主権の法治国家である、ということがあります。


その主権を国民が行使する手段として、民主主義的な手続きがあり、選挙や非選挙権を得て立法府と行政府を監視しています。一応、最高裁判所判事の国民審査がありますが、行政府に対する民事裁判権などから見ると、それ以外の国民(主権者)監視の方法がないのが実情でした。

ですので裁判員裁判を行なうことによって、法治国家の法治の根幹にも国民主権を入れようとしたのが、この制度の始まりなのです。また日本が特別なのではなく、民主主義的な手続きを持つ法治国家は大体どの国でも、裁判に国民が参加する方法があります。
アメリカなどは陪審員制度があり、とても有名ですが、実はアメリカの場合はもっとすごい制度があります。それは町の治安を選挙で選んだ保安官に託すことです。つまり警察権ですら、民主的な手続きを行なって選ぶのです、ただしこの制度の無い州・廃止した州もあります。
ですので国民が裁判に参加して判決に関わること自体は(どのように関わるかは別の議論になります)国民主権国家としてありうるべき姿だといえます。

次に裁判員裁判が刑事事件のそれも凶悪犯罪に限定されている点についてですが、まず民事裁判に裁判員裁判が適用されることは非現実的です。
なぜかというと、民事裁判というのは刑事事件と違いお互いの摩擦によって生じた問題を解決するところだからです。たとえば離婚裁判などの場合、当事者本人たちしか分からない事情などというものがあります。ですから裁判員などが判定するのにふさわしくないのです。民事裁判は争点となる事実の認定とそれに対する補償などが争点ですので当事者同士が和解すれば終わりになるものなのです。場合によっては裁判所が和解を勧告して裁判を終了することもあるので、裁判員が判断する部分がそもそも無いといえます。

それに対して刑事事件は決められた法律を破り、又は無視して治安に影響を与えたものへの罰を決めるものです。
そもそもこの「罰」は誰が与えることが出来るのかを考える必要があります。
もし地球上にこのような道徳がひとつしかないなら、裁判員裁判など必要なく、(犯罪事実の認定は必要ですが)罰をあえることに誰しも同意すると思います。
しかし、実際には国によって犯してはいけないとされる道徳規範自体が違い、法律もそれによって変わってくるのです。たとえばイギリスでは、空き家に入り警察に通報されると不法侵入ですが、入っても誰も咎めず、そのまま何十日か滞在するとその家に住む権利が生まれるという、日本人からすればおかしな法律だってあるのです。

法律自体は国会で定めるもので、それを多数決で決める国会議員は選挙で選ばれています。逆に言えば法律を作るとこだけ国民は権利を行使して、その後お任せでいいのでしょうか?ということにもなります。
事実、法律から見れば同じ「殺人事件」事件でも、まったく関係のない他者を身勝手に殺した殺人犯と、介護疲れから身内を殺さざるを得なかった者では、裁判員裁判になってから量刑に明確な差がでるようになってきています。
しかしそれ以上に、今まで新聞等でしか分からなかった、介護疲れによる殺人、などの社会的な問題意識国民が踏み込まざるを得ない、というところに裁判に参加する意義の大きさがあるのです。

今後、裁判員裁判が充実し、経験者が増えれば法律の入り口である選挙や政党の政策にも影響を与えるようになります。そしてその結果である裁判でまた国民は義務を果たすのです。
殺人事件などの重大事件ほど社会のゆがみが垣間見えるものはないのです。

だから裁判に国民が参加するのは有意義だといえます。
この国をよりよくする責任は国民全員にあるのです。
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