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蜀を裏切って、ほかの国についた武将を教えてください。あとそのほかにも、自国を裏切って他国に降った武将もおしえてください。おねがいします。

A 回答 (4件)

許ユウ:俺様が裏切ったお陰で曹操が袁紹に勝てたのだぁww



許チョ:…五月蝿い。ホアチャー

許ユウ:ひでぶー!!


張松&法正&孟達:劉璋はもうダメポ。劉備に蜀を売り渡そうぜw

な感じかも・・・・
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No.1です。

No1の中でカンキュウケン(カン丘倹)のカンが”?”になって表示されてしまいました。カンは”母”の字の点々を上下の線にした字です。母を略して手書きにする時に出る形です。
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三国志に限らず、戦国の世の中は裏切りの連続でしたので


挙げればキリがないのですが、蜀漢から他国へ行った有名
どころを挙げさせていただきます。

糜芳
劉備が陶謙にお世話になっていた頃からの古株メンバーです。
関羽の配下で荊州の守りについていましたが、関羽の厳しい
軍律に恐れをなしていた様子。
呂蒙が南郡攻略を開始すると、たいした抵抗もみせずに降伏。
城が呆気なく落城したことで、関羽の戦死につながります。
兄の糜竺は、弟の不始末に憤慨し、自らを連座するよう訴え
たが、劉備が留める。でも、その怒りから年内に死亡。

士仁
糜芳が呉に降る前に、先に降伏。

孟達
劉備が蜀に入る際に、劉璋を裏切り劉備の配下に。
関羽の援軍要請を断り、劉備の怒りを買ったことで、魏へ降伏。
魏での冷遇に対して、孔明を頼りに再度蜀に返り咲こうと試みる
ものの司馬懿にばれて、討たれる。

張達・范彊
関羽の弔い合戦に、息をまいていた張飛。
張飛のムチャ振り(戦の準備を三日でしろ系)にビビって、
張飛を殺して、呉に投降。
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孟達;蜀書の劉封伝と魏書の明帝紀の註に記録があります。

関羽への援軍を出さなかったことについて、劉封、孟達は劉備の怒りをかっていました。劉封とも不仲になり、魏(文帝曹丕の時代)に寝返りました。振る舞いが優雅であり弁舌さわやかで人物とみられたようです。しかし文帝が亡くなるとよくしてくれた者もいなくなり、不安になり、そこへ諸葛亮からまたもどらないか、という連絡がありました。そうしようと準備しているところでことが漏れ司馬懿に斬られました。
黄権;蜀書黄権伝にあるとおりです。劉備が呉と夷陵の戦い(黄権はこのやり方に忠告していました。)で敗れたときに退路を断たれ魏に下りました。蜀で黄権の家族を捕える話もでましたが、劉備が「わしが黄権を裏切ったのだ。黄権がわしを裏切ったのではない。」と述べ、以前と同様に彼ら(家族)を扱った、という記述があります。
夏侯覇;夏侯淵の次男です。司馬懿が曹爽の一派を誅殺したあと、夏侯玄も殺されるはめに陥りました。この夏侯玄は夏侯覇の従子(一族の中で一つ下の世代)に当たり、さらに仲の悪い郭淮が、夏侯玄に代わって後任の征西将軍となりました。それやこれやで立場があやうくなり、蜀に下りました。
?丘倹;魏書?丘倹伝に記述があります。反乱をおこしています。これは当時いくつかあった事件の一つで、魏の実権が曹氏から司馬氏に移っていくなかで、曹氏に対する忠誠心とか、司馬氏の子分ではないことでの身の危険などによります。?丘倹は反乱前に子供の?丘宗などを呉に送っていますが、自身は殺されました。
文欽;?丘倹と一緒に反乱をおこします。彼も曹爽とよかったので身の危険を感じていました。彼は呉にのがれました。
諸葛誕;?丘倹と文欽が反乱をおこした時には味方につくように誘われました。しかしこの時は使者を斬りました。文欽とは仲が悪かったのです。けれども彼も夏侯玄などとは仲がよかったので身の危険を感じるようになります。そこで反乱をおこし呉綱と末子の諸葛?とを呉に派遣し、援軍を求めています。呉よりの援軍には文欽もおり、文欽は包囲された城に突入してくれました。しかし不仲はどうしようもなく、諸葛誕は文欽を殺しています。結局城はおちて諸葛誕も殺されました。
まだ他にいるかも知れませんがとりあえずはこんなところです。
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