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哲学は理屈、それとも屁理屈なのでしょうか?

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り‐くつ【理屈/理×窟】

1 物事の筋道。道理。「―に合わない」「―どおりに物事が運ぶ」

2 無理につじつまを合わせた論理。こじつけの理論。へりくつ。「―をこねる」

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へ‐りくつ【×屁理屈】

まるですじの通らない理屈。道理に合わない理屈。「―を並べる」「―をこねる」

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上の辞書(「大辞泉」)では理屈も屁理屈も同じにみえます。

例えば理屈を言う人は屁理屈を言う人に対し「それは理屈だ」とは言いません。逆も然り。
客観的にそれがすじが通っているか、通ってないかを決めるのは何でしょう?

理屈も屁理屈も理屈、または屁理屈であるのでしょうか?

理論なのか、哲学なのか、それともただの言葉遊びなのか。それは主観なのだとしたら主張する自由があるのか?それともそれをジャッジする客観的理論があるのか?・・・知りたいです。

A 回答 (7件)

屁理屈

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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2010/07/27 01:14

人間の思考は基から明確な形が、あるわけではなく曖昧模糊としたものでしょう。


その曖昧模糊としているものに、明確な形や構造を与えるもの「ことわり」「哲」を学び追求することが、「哲学」でしょう。
「帰納」的に理屈を考えても、それを「演繹」的に当てはめて、その思考が明確な形や構造となって現れないものを「屁理屈」現れてくれば「理屈」と考えてはいかがでしょうか?
理屈も屁理屈も初めは理屈であり、その自由は大いにあるが、それを分かつものは、思考に形や構造を与えるものであるかどうか?と言うことではないでしょうか?
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この回答へのお礼

お礼が遅くなりすみません。

>「帰納」的に理屈を考えても、それを「演繹」的に当てはめて、その思考が明確な形や構造となって現れないものを「屁理屈」現れてくれば「理屈」と考えてはいかがでしょうか?

なるほど!私が求めていたのはそれかもしれません。
逆に「演繹」から「帰納」が成立しなければ同様だと思います。

しかしながら

>その自由は大いにあるが

この自由というものを履き違えて、攻撃のための理論材料にしている輩がいます(「荒らし」と呼ばれるような人種)。「思考に形や構造を与えるものであるかどうか?」つまり彼らのもっともらしく高尚な議論であって、また感情を排して百歩下がって眺めたとき、学ぶところは確かにいくつかあろうが、薄っぺらい平面的な単なるテキストに成り下がっています。

私の結論では、その議論が弁証法的な発展に至らず、反論や意見と称し、出されたカードを裏返しにするだけのような方法は、理屈という形だけをとり、中身は破たんした理論、すなわち屁理屈、と考えることにしました。例えていえば、仮面夫婦が表立っては「仲の良い夫婦」を気取る、形骸化した結婚生活のようなもの、でしょうかw

お礼日時:2010/07/27 01:14

ひとつの体系的な哲学や思想が出現するときには、次のような二つの主要な要因が複合的に作用するのです。


その一つは主体的要因であり、他の一つは対象的要因です。
主体的要因とは、思想家や哲学者の心理、性格、個性および彼がそれまで培ってきた人生観、世界観、歴史観などの精神的条件を意味し、
対象的要因とは、政治的、経済的、社会的、宗教的なあらゆる状況や事態、すなわち、社会的、環境的条件を意味するのです。
その時(代)に、ある課題があって、それを中心に以上のような二つの要因が相互に作用する時、ここに一定の思想や哲学が形成されるのです。
一つの思想や哲学を定立するに際しては、その時代背景としての社会的環境的条件の影響も大きいが、それよりもっと決定的な要因は、その人物の心理、性格、個性などと、それらを基盤として培ってきた人生観、世界観、歴史観である。
いかに思想や哲学が客観的に存在しているように見えても、それを生み出した主体者が、感情を持つ一人間である以上、主観的内容の含まれない思想や哲学は存在しないのである。
したがって、ある思想、哲学が出現するに当たり、ある課題を解決するために彼がどう考え、どう決着させたのかという結論がその思想や哲学である限り、それを換言すれば、自分がどう納得したかの答えに過ぎないのである。では納得はどこでするものか?納得は感情の領域でするものである。
したがって、哲学や思想は、姿こそ客観的然としているが、自分から生まれた自分の感情を納得させるための理論(理屈)、すなわち「自己正当化理論」だと言える。
というわけで、自分の感情を納得させるための理論であるから、どんな理屈も取ってつけるようにつけられるのである。つまり、哲学とは「屁理屈」の範疇に属すると言える。
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なんらかの法則性の問題点と解決策を明確化したもの…整合性あるものが哲学です。

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#1です。



具体例をあげましょう。

Wittgensteinの哲学が前者の一例で、
Mokuzo100nennの哲学が後者の一例です。
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この回答へのお礼

Mokuzo100nennさんはあなた様、ということはわかりましたが、
Wittgensteinさんが誰だかわかりませぬw

お礼日時:2010/05/27 19:58

辞書の通りです。



理屈には、屁理屈の意味もある、というだけです。

だから、屁理屈を言っている人に、「それは理屈だ」と言うこともあります。
が、逆はありません。理屈(1)を言っているとわかっている人に、「それは屁理屈だ」とは言いません。
が、理屈(2)を言っていると思った人には、「それは屁理屈だ」とは言います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

理屈と屁理屈は一方方向ということですね。

お礼日時:2010/05/27 16:16

屁理屈は理屈の部分集合ですね。



不味い飯は飯の部分集合であるのと同じです。

不味い飯は飯でないというのは論理学では誤りとなりますが、心情的には理解できます。
「こんなん、食い物じゃねぇ」とかね。

で、哲学は理屈か?
理屈は必要でしょう。
でも、理屈であればなんでも良いわけでなくて、主観が重要です。
主観を必要としない理屈は、たとえば数学や記号論理学でよろしい。

哲学は理屈で裏打ちされた主観的主張であり、うまい飯とまずい飯があるのと同様、人口に膾炙される哲学と、だれも見向きもしない哲学があって、両方とも哲学です。

蛇足ながら、だれかの主観的発言が哲学か哲学でないかをジャッジする客観的理論はありません。

この回答への補足

ご回答ありがとうございます。

>人口に膾炙される哲学と、だれも見向きもしない哲学があって

それらはどのような哲学ですか?具体的に教えていただけたらさいわいです。

補足日時:2010/05/27 16:14
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この回答へのお礼

>哲学は理屈で裏打ちされた主観的主張であり

私は逆で、客観で裏打ちされたのが哲学だと思います。

お礼日時:2010/05/27 16:15

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