プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

どうしてポーランド侵攻で開戦?

第二次世界大戦の直接的なきっかけは、ドイツによるポーランド侵攻だと教わりました。
ところがよく調べてみると、ポーランドに攻め込んだのはドイツだけでなく、ソ連やスロバキア、リトアニアも含まれるようです。

ポーランドとの互助協定を根拠に英仏がドイツに宣戦したのなら、ソ連に対しても宣戦する義務があったのじゃないですか?

どうして英仏はソ連に宣戦せず、あまつさえ、後にかの国を連合国に迎え入れたのでしょうか?

回答よろしくお願いします。

A 回答 (5件)

時系列的な意味でも考える必要があると思います。



ドイツのポーランド侵攻が9月1日、英仏の対独宣戦が9月3日、ソ連のポーランド侵攻が9月17日です。
また、ポーランドに対して独立保証を与えたのが3月31日、独ソ不可侵条約の締結は8月23日です。

その一方で、9月3日に宣戦布告をしたものの、フランス軍は9月5日にザールラント地方に少しばかりの攻撃を加えただけで、ほとんど「座ったままの戦争(Sitzkrieg)」状態でした。9月27日にヒトラーは陸軍に「黄色作戦」と呼ばれる西部戦線侵攻作戦の作成を命じます。作戦自身は10月27日に固まっていますが、ヒトラーが実際に転進したのは1940年5月10日です。この転進は、西欧諸国を混乱させ、オランダ、ベルギー、フランスまでドイツは大きな苦もなく占領していきます。パリ占領が6月14日と一ヶ月あまりで占領してしまったことを考えても、西欧諸国の「宣戦布告」が形式的なものであったことが分かるでしょう。

ポーランドに対する独立保証は、拡大政策を取る独伊枢軸に対する牽制であったと考える方が適切です。(1939年4月13日にはルーマニア、ギリシアに対して同様の独立保証を与えています) この時点で英仏は独ソ不可侵条約とそれに付随する極秘ポーランド分割計画を予測することは不可能です。ドイツがポーランド侵攻したことに対して、保証履行のための対独宣戦は行ないましたが、ソ連に対する宣戦布告は恐らく独ソ両国との全面戦争になる不利を避けるために見送られたものと思います。

この背景には、ナチが反共政策を政権獲得以前から推進していること、ヒトラーの国家計画が東方進出を基盤としているため、独ソ同盟が一時的なものであり、遅かれ早かれ独ソ対立が再発すると予想していたことも挙げられます。ソ連に対しても宣戦布告をしてしまえば、この独ソ対立再発の芽を摘んでしまうと考えたはずです。

以上、簡単ですが。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

回答ありがとうございました。
とても詳しい説明、たいへん参考になりました。

ソ連のポーランド侵攻は対独宣戦後だったのですね。初めて知りました。
意外に英仏は名目上ドイツに宣戦はしたが、本気で再びの世界大戦をする気はなかったということでしょうか。

だとしたら、やはり当時の世界はヒトラー一人に振り回され、それに付き合った日本が地獄を見る結果となったのだと思うと、大きな悲憤を覚えます。

お礼日時:2010/08/13 00:17

1.ドイツは第一次大戦で大きな被害をヨーロッパにもたらした。


2.ドイツはヒットラーが率いるナチス党が勢力を拡大し、それは英仏に脅威であった。
3.ドイツはベルサイユ条約を無視してラインラントに進駐した。
4.ドイツはチェコに侵入し、ヨーロッパを震撼させたが、ミュンヘン会談で英仏が最大限に譲歩しヒットラーもこれ以上領土の要求はしないと約束したので平和が守られた。

そこでポーランド侵略では、いくら弱腰の英仏でも宣戦布告するでしょう。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

やはり一番の理由はミュンヘン会談の約束をドイツが破ったことにあるみたいですね。
ヒトラーは弱腰の英仏は宣戦しないと思っていたと言われていますが、結果論で言えば大きな誤算だったということですね。

お礼日時:2010/08/13 00:08

イギリスの対ヨーロッパ大陸外交の基本は、対岸に強大な国家をつくらせないこと。


基本はこれです。
違う言い方をすると、低地地方、オランダやベルギーのあたりが弱小国のままでいること。
英蘭戦争 17世紀後半では、オランダ自体が兄弟だったので、必死に戦った。
スペイン継承戦争 18世紀初頭 フランスがスペインと合体しそうになったので戦った
七年戦争 18世紀半ば フランスが宿敵オーストリアと結んだので戦った
ナポレオン戦争 18世紀末から19世紀 フランスの強大化を阻止
ベルギー独立と永世中立国化 1830年~1839年
第一次世界大戦 ドイツが大陸の主要国になったので叩く

19世紀からのフランスの基本は、ドイツの弱体化、そのためにイギリスと結び、ドイツの背後の勢力と結ぶ。この背後の勢力がポーランドだろうと、ロシアだろうと関係ありません。
ロシアがソ連になる前に、もっともロシアに投資してたのはフランスです。ドイツの背後の勢力を強化するために。

ヒトラー政権下のドイツの強大化に対して、どこまでガマンできるか、どこまでなら叩けるか?その判断が、ポーランド侵攻の段階であったということになります。

チェコ解体の段階で、隣接するフランスは反対したが、イギリスが「まだ、大丈夫だよ」と説得したというのが1938年のミュンヘン会議となります。

チェコスロバキアへの義理とか、ポーランドへの義理とかそんなもんではありません。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

要するに、ポーランドとの協定はドイツを攻撃する名目にしていただけなのですね。
ただ、その名目もソ連を野放しにしたためにくすんでしまい、とても正義は我にありとは言えないものですね。

お礼日時:2010/08/13 00:05

 ドイツを勝たせない為には、味方は多い方が良いです。

イギリス、アメリカにしてみれば自分たちだけ戦って被害を出すのは損で、ソ連も積極的に戦わせようとしたと思います。
 ソ連を東から攻撃させるようにすればドイツは両方で戦う必要があります。
 ソ連のスターリンは領土拡大の野望がありましたので、協力する事にしました。ヤルタ協定にはそれがよく表れています。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
まあ、そういうことなのだと思います。

ただ、その目的のために国際条約を反故にできるものなのかが疑問だったのですが、英仏にとって国家存亡の危機にあったら、道義なんてどうだっていいのかもしれませんね。

お礼日時:2010/08/13 00:02

義務だろうがなんだろうが、決定権はイギリス側にあります。


対ソ宣戦布告したくないと言えばそれが通ります。
協定というものはそういうもんです。

イギリスの考えでは、あの防衛協定はドイツの拡大を防ぐ為でありポーランドを守るためでは無い、ということです。
つまりドイツ拡大が凄くイヤだからドイツからポーランドを守るんです。
だからポーランドをソ連から守るつもりはほとんどありません。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
ということは、イギリスは、ソ連が拡大政策を取り続けて東欧全域を支配下に置いたら、今度はドイツと防衛協定を結ぶことも考えられたということですね。
外交とは義理も正義もないものなのですね。

お礼日時:2010/08/12 23:59

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!