神が天地をつくったのか
(α) そう表現したに過ぎないとなぜ言わないのか? すべては表現のもんだいであるとなぜ見ないのか?
◆ (創世記1:1-5) ~~~~~~~~~~~
1.初めに、神は天地を創造した。
2.地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。
3.神は言った。
――光あれ。
こうして、光があった。
4.神は光を見て、良しとした。神は光と闇を分け、
5.光を昼と呼び、闇を夜と呼んだ。夕べがあり、朝があった。第一の日である。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
(β) 《光あれ》と神がその文字どおりに《言った》のか?
んなわけはない。時空間を超えている〔敢えて擬人法で言えば〕存在にとって 《初めに》とか《つくる》といった時間的行為がどうして必要なものか。
(γ) 光が《ある・ない》つまり 《なかった状態からある状態に移る》ことは 時間的・経験的・相対的な現象である。
経験世界を超えている神にとって 質料(物質)の運動はその自己運動にまかせるはずである。モノの動きは神としても手に負えない。
人としても モノはその自己運動にしたがってうごいていただくように加工し誘導するよりほかない。そもそも手に負えないことより その存在や性質を知るようになる。相手をうやまってこそ 人はおのれの自由を手にすることが出来る。
という当たり前のことを 神の物語――人間にとって非思考の場――はかたっているのではないか。
(δ) もしこの非思考の場にわづかにでも《のぞみ》があるとするならば それは
◆ 5.・・・夕べがあり、朝があった。第一の日である。
☆ と書かれたところである。その後《第六の日》まで同じ表現で書かれている。
◆ ゆうべがあり あさがあった。
☆ 《光を昼と呼び、闇を夜と呼んだ》ところの《夜》は現象しているにもかかわらず 人は《ゆうべがあ》ってから その夜へは渡されずに 眠りを経て《あさがあった》と知る。その自然本性において人は 夜へ渡されないというのである。
◆ 2.地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。
この主題をめぐって どうか忌憚のないご見解をおしえてください。
No.2
- 回答日時:
・権力者による権威付け
・コミュニティ維持のための人工的カリスマ
・個々人の精神安定のためのシステム
等など、実際的な利益があるからこそ宗教は形を変え、あらゆる時代に蔓延してるわけですね。
貴方は聖書の描写に悩まれてるようですが、聖書ってようするに娯楽小説ですよ。
現代のファンタジーやSFに劣らない愛あり陵辱あり神や悪魔や天使に超能力が暴れ狂うハイスペクタクルファンタジー小説じゃないですか。
まさしく古代人の『ぼくのかんがえたちょうすごいしはいしゃさまのおはなし』ってやつです。
娯楽小説の描写にいちいち突っ込みを入れるのはあまり有意義とは言えません。
肩の力を抜いてそのまま楽しんではいかがでしょうか?
まあ、突っ込みまくって強引に解釈するというのも娯楽小説の楽しみ方の一つではありますね。
とすると、私のこの回答はいささか無粋かもしれませんが。
ご回答をありがとうございます。
そうですね。集団の宗教と個人の信仰とを分けて欲しいんですが まづはご議論に沿ってお尋ねして行きます。
★ ~~~~~~~~~~~~~~~
・(あ) 権力者による権威付け
・(い) コミュニティ維持のための人工的カリスマ
・(う) 個々人の精神安定のためのシステム
等など、実際的な利益があるからこそ宗教は形を変え、あらゆる時代に蔓延してるわけですね。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ まづ(う)も 《個々人》のことを扱っていますが 《システム》ということで個人の信仰というよりは組織の上に教義をもった宗教と見なします。
(い)は 《人工的》ということによって何を意味するか問題になりますが 《カリスマ》と言えば ひととして扱っていますか? でもそのときにも ここでは組織の長を言うととれば やはり宗教のことと見なせます。
そのつてで (あ)も宗教団体とのつながりであると見なします。
だとすればみな 組織宗教そのものにおいてとともに 外部の人びとにとっても 組織宗教に拠ることによって
★ 実際的な利益がある
☆ という見方であるようです。
ところで そのようにいわゆる現世利益のために組織内外の人びとが宗教を持ちあげるというのは いったいどんな得があるのでしょうか?
権威づけが出来るのですか? コミュニティ維持が出来ますか? 精神安定がかないますか?
おそらく答えは イエス&ノ―であるでしょう。
ノーであるというのは いっさいがっさいその組織の活動はくだらんということが分かっていると考えられるからです。
イエスというのは その教義は もともと個人の信仰から得られた観想(=テオーリア=理論)あるいは実践をめぐる命題から規範化して成ったものだからです。言いかえると 個人の信仰については 《くだる》のであり 意義があると考えられるからです。
趣旨説明に挙げた(δ)の観想は もしそれに意義があるとすれば おそらく信仰(非思考の場)からしか得られない命題だと考えます。
もしこのイエスの側面 つまり個人の信仰としての意義のある側面 これがなかったなら 宗教を
★ 宗教は形を変え、あらゆる時代に蔓延してるわけですね。
☆ というかたちで したい放題にさせているわれわれ人間は よほどの阿呆になるでしょう。バカと阿呆の化かし合いでしかなくなります 世界は。そうではないでしょうか?
★ まさしく古代人の『ぼくのかんがえたちょうすごいしはいしゃさまのおはなし』ってやつです。
☆ 趣旨説明の(γ)などを見てください。神は《支配者》などではないと言おうとしています。
★ 現代のファンタジーやSFに劣らない愛あり陵辱あり神や悪魔や天使に超能力が暴れ狂うハイスペクタクルファンタジー小説じゃないですか。
☆ という読みは なぜ起きるのか? なぜ文字どおり〔のみ〕に読んでしまうのか? これが問いです。《神が天地を創造した》という文字どおりの読みしか なぜひとは出来ないのか? これです。
No.3
- 回答日時:
>>だったら その神は人工のもので おそらくまやかしであるでしょう。
要らないはずです。なぜ《神を信じる・信じない》というようないさかいが今なおつづいているのでしょう?
われわれ人間は それほど阿呆なのでしょうか?
こちらに回答するのを忘れておりましたね。
私の見解ですが、宗教というのはさっき言った通り、実利が絡むものです。
ようはお金や権力です。
聖書なんて世界中で売れてるでしょ。
これだけでも相当の利益ですよ。
ここまで言えばお分かりでしょう。
金が絡めば既得権益を求めて争いも起こります。
神様云々だけでは戦争は起きませんよ。所詮神様なんて紙様にすぎないんですから。
宗教は莫大な利益を生むエンターテイメント事業です。
なのでその事業の利権を求めて争いが起きます。
なのでその際、聖書なり経典なりの中身の分析はあまり意味がありませんね。
戦争の理由を拳銃の科学的分析に求めてもしょうがないでしょう?
自分で宗教を開くための参考にするのならともかく。
つづいてです。
わたしのお応えも同じようになります。
★ ここまで言えばお分かりでしょう。 / 金が絡めば既得権益を求めて争いも起こります。
☆ なぜ《既得権益》がいまだに続いているのか? こういう問いです。
★ 聖書なんて世界中で売れてるでしょ。
☆ なぜ売れるのでしょう? そんな《実利》だけを生む宗教団体だけの教典であるならば あほらしくて買わないでしょう。それともいわゆるキリスト教という権力に 人びとは屈しているというのでしょうか? なにゆえに?
★ 宗教は莫大な利益を生むエンターテイメント事業です。 / なのでその事業の利権を求めて争いが起きます。
☆ なぜその活動だけの問題であるのならば 人びとはそこに群がるのか? 細かいことを言えば なぜ課税で優遇される公益法人として扱われるのか?
人びとが群がるのは その組織のたくみな勧誘その他の活動にだまされ食い物にされるだけであったのなら 社会問題になってしかるべきです。直前のやり取りで触れましたが わづかにその教義は もともとは個人の信仰から得られた観想や実践的命題だったそのことの意義を基礎としているからではないでしょうか?
宗教の教義は ところが個人の信仰より得られた観想や観照を文字化し規範化したものです。《わたしの心の窓をおとづれた神とのかかわりにおいてわたしはわたしであることが成った。そのわたしは おのれの能力を超えて無理にまでむさぼることはしない》という理論を得た。これを《むさぼるなかれ》という戒律として規範化して教義とするのは 組織宗教です。
《エンタテインメント事業》を超えた始原のいのちが もともとは あるはずです。
★ なのでその際、聖書なり経典なりの中身の分析はあまり意味がありませんね。
☆ というときの《その際》というのは あくまで組織化した宗教として活動する際なのではないでしょうか?
★ 戦争の理由を拳銃の科学的分析に求めてもしょうがないでしょう?
☆ ひとりの人間・その《わたし》を たとえ集団にうずもれていたとしても 取り出し取り上げこれを顕揚しなければなりません。そこには むさぼるように戦争を起こすといったひとりの人はいないでしょう。それが 反対に出てくるのは 《神が天地をつくった》を文字どおりにしか読むことが出来ないという哲学の貧困に原因があるのではないか? こういう問いです。どうでしょう?
No.4
- 回答日時:
既回答とは違いますが、・・・
私もbragelonneさんのご質問に答える事はできません。
見解はないのですが、やはり(当時の)人間に説明となるように、人間界の思考やことばに沿って語られているのだと存じます。
そして教え、宗教のための書ですから、その見解とその目的で書かれているのでしょう。
宗教はいつの時代も現状のままを是認できないことがあり、人間の宗教心と向上を教えます。
世界は機械でオートマティックにがたんごっとんとなんとはなしにできてきているのではなく、神の意図でその意志で作られてきたのであるというお話の突端だということを感じます。
それをどう表現するかですが、やはり人間のことばと思考の形式しかなかったし、ないのだと存じます。
そういう神の意図ということ、そして意志と目的ということを強調しているように思えます。
そういう願い、次元から解釈するか、#1さんや#2.3さんのように外部から見るかの問題でしょう。
ところで、bragelonneさんのご見解をご提示賜りたいことが二点あります。
1. 光のある昼と、光のない夜とはbragelonneさんは具体的にそれぞれが何を指示しているのでしょう?
2. 光のある昼と、光のない夜の境は朝と夕べということにつきますか?
この境、境界がどんなものか、朝と夕べという言葉でなく、教えてください。
或いは皆さんにbragelonneさんのご質問に加えて更に教えてもらいたいことです。
この回答への補足
質問者の言っていることをことごとく否認する回答者からの補足要求を受けて 答える気は起こりません。それは ふつうに認められる人間としての対応だと考えます。
補足日時:2010/08/31 17:34 わたしの提示した趣旨説明および初めから三つの回答への応答 これらで明らかにした考え方が
★ 世界は機械でオートマティックにがたんごっとんとなんとはなしにできてきている
☆ ものだとは思ってもいません。理解なさっていないと見なします。
No.5
- 回答日時:
教義的な間違えとおぢぢ様の個人的間違えは、見過ごすことが出来ないことです。
基本中の基本として、前提が間違っているのにその前提にしがみつき、
何かを説明しようとすることで更に間違いが広がります。
創世記は善良な視点で見たとしても、あくまで、云い様であって、本気で信じるべきものではありません。
そういう伝説があるという視点で捉えるべきであるということです。
信仰の対象ではありえません。
I)時・場所は、学問的に見て存在しないのに、誰かが創造したと主張するのは誤謬です。
学問的には、時・場所ともに存在しません。存在しないものを創りあげたと主張し「始める」ことが、
基本的「トリック」です。
この世が物語的に存在しないのであるなら、
創世も言いたい放題の内容を展開できる。
主観的なものは、創造されたものではありません。「神の創造」自体が相対的なものであるがゆえに、
信用・信仰という点から見ると、
偶像崇拝に近いものとしての信仰という道しか残されていないのです。
基礎付けとしては、イエス以外の救世主(キリスト)は存在しないという考え方です。
「ゆいいつ」という信仰自体にも根拠がない。棒読みに対する妄信はいつでもどこでもできますが、
教義も万全ではないおぢぢサマの想定を万人に当てはめようとすることには、無理があります。
お気をつけください。
II) mente ...(sed) contemlpareについて、
アウグスティヌスを読み間違えている翻訳者の言葉をに依拠しながら、
おぢぢさまは、「mente contemplare (de trinitate XV,25,46)」は、わたしの霊による観照であるといって べそをかき それ以外の教示・訂正事例をききつけません。
この観照は「神の霊の観照」です。ラテン語欠点をつけられてもまだ「おいらの考えは正しい」と
云い続けているだけではないでしょうか?
結論は出ているようですがごまかさないでください。
III) 経営学者の自己弁護として、この世の中は、物理的傲慢であり、すべては悪である:老いも若いも/貧富の差も、おいらの哲学を受け入れない限り、ダメ=元気がないということです。
無思考の神への信仰以外は、悪とすることで、善悪2元論を展開しているのに、自分は2元論者ではないと主張するのはなぜですか?
結局、金持ちも・老人も不幸である!自分(社会のダニ)を認めろ!ということではないのでしょうか?
お上も民衆もないといいたいだけのようです。
悪人も(その人がおかみでないのであれば)善人であると主張なさっているのと同じですよ。
お早う。
★ II 「mente contemplare (de trinitate XV,25・45)」 ・・・この観照は「神の霊の観照」です。
☆ そうですよ。ただ これの外延を取って《ひらめき》にも当てはめたというだけのことです。
★ III この世の中は、物理的傲慢であり
☆ 意味が取れない。モノやカネに群がりカネを持つ者は何でも欲しいものは手に入れられると思っているようだといった分析のことでしょうか? そういう分析を口にしたおぼえはないなぁ。その事実じたいには関心はない。
★ すべては悪である
☆ 【Q:悪は存在しない。その名で呼ぶ現象があるのみだ】と主張しています。ええ加減なことを言いやがって。
★ 老いも若いも/貧富の差も、おいらの哲学を受け入れない限り、ダメ=元気がないということです。
☆ 人びとそれぞれの生活態度を だいたいにおいてその基礎にかんして おいらの哲学は表現しているというふうには言える。
★ 結局、金持ちも・老人も不幸である!
☆ 幸不幸は その人の問題。
★ 自分(社会のダニ)を認めろ!ということではないのでしょうか?
☆ たしかに夏は ふとんをじゅうぶん干してもなお湧いてくるダニ。わたしにとってのあんたのようだ。
ここまで来て あほらしくなった。
No.6
- 回答日時:
#4 馬鹿らしいからほうっておいてもいいが、悉くひていしているのでなく、このサイトで遊ぶということはしていません。
よく読んでくれれば、わたしがブラジェロンさんに回答しているのであることが分ってくれるはずだし、このサイトでの論議の仕方に批判をしているが、これは否定とは違う。
【わたしの提示した趣旨説明および初めから三つの回答への応答 これらで明らかにした考え方が
★ 世界は機械でオートマティックにがたんごっとんとなんとはなしにできてきている
☆ ものだとは思ってもいません。理解なさっていないと見なします。】
ということは全く牽強付会もいいところで、文章を途中でぶった切りながら、勝手につぎはぎしている。
よく読んで趣旨をご理解されたい。
ここで#4のような書き込み投稿をしたのは、先にブランジェさんの投稿を自分なりに広げて質問をお越し、ブランジェさんの質問の解答欄にご報告したところ、首狩だとかなんとか言われたので、そういうことのないように、ここで一緒に質問をさせてもらったのです。
なお#4の私の書き込みを、ご理解されていないようですので、これはある意味でよかったと存じます。
実はあの部分は人間と宗教に関する私の所感を、拙く披瀝してありますが、あまりまた取り込まれて自己オリジナルのようにまた使われるのは困りますから。
まぁ自己オリジナルとしてきちんと受け取り、使ってくれるならいいのですが、誤解釈で一部を歪曲して使われるのはいやな気分ですから。
一定のときに私はみなさまのお教えをお願いする質問を起します。
どうぞよろしく。
★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
私が確認を求めていますのは、修行と訪れでなく、創造した結果の宇宙をブラフマンが含んでいるというご説明のことなのです。
ブラフマが創造した宇宙はブラフマンと同質なのか、一体なのか。
同じものなのか?ということでした。それとも、修行の成就や訪れ前の私達や、創造界自体、或いは創造界の様々なものはブラフマンには異物なのか、という質問でした。いかがでしょうか?
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 宇宙の生成について ブラフマンが見守っているという説明も仮りの表現ですが ブラフマーが創造したというのもさらに――分かりやすくしているかとも思いますが―― そこから派生したあくまで仮りに説明する表現だと考えます。
ですから《宇宙はブラフマンと同質なのか 一体なのか》については 基本は《ブラフマンは生成する宇宙を超えており言うなれば見守っている》だと考えます。《超えているブラフマンの側から その宇宙と一体であると言えなくはない》でしょう。《同質》かは 同質である部分もあるのかも知れません。たぶん次元が違うとは見ます。
《異物》は 第一にそれがあるとすればそれをもブラフマンは覆いつつんでいるはずです。蚊や蝿ですら創世記で《神が良しとした》被造物に入るという見方もあります。
異物がもしあるとしたら 人間にとってであるかも知れません。となると まったく収拾のつかない主観だけの見方にもなります。
ただいわゆる善悪だけは その悪がブラフマンの心〔を体した人間の心〕にさからって人間がその自由意志によってつくったものであり そのときにはこの自由意志はブラフマンによって与えられていたのであるからには ブラフマンにとっても問題になると考えられます。
つまり 基本はそれをも覆いつつんでいますが 悪はブラフマンにさからうことにより現われたからには ブラフマンにとっても異物である部分を持つと考えることができるかと思います。
No.7
- 回答日時:
#6です。
ブラジェロンヌさんの以前の質問に触発されて、そのご質問にお断りと報告をしてして質問を起したら、首狩だといわれたので、今回、やはり大変触発されましたので、今度はここで回答しながらお教えを請いましたが断られました。
ブラジェロンヌさんのこのご質問にも関連あるかと存じますので、報告と紹介をさせていただきます。
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/6150667.html
という質問です。ご回答が頂けるかどうか分りませんが、ヒンドゥ聖典の私の勉強に関連しておりまして、お少しでもコメントいただけるとありがたいです。
聖書は無論、聖典は神や不可視、或いは超経験的・超物証的なことを何とか人の言葉とその思考原則で伝えようとするものですので、通常の理屈だけで理解把握していくことがとても困難や誤解をもたらします。
ここのブランジェロンヌさんのご質問もそういうことを配慮しながら読み解く必要があるのかと謹考しています。
聖書の枠を出ることができれば、もっと具体的にブランジェロンヌさんにご参考にしてもらえる投稿もできるのですが。
申し訳ありません。
ブランジェロンヌさんには、必ずしも私の真意が伝わりにくい状況になっているようですが。
★ ~~~~~~~~~~~~~~~~
私達の教えでは、人の経験能力や認識能力、あるいは紡ぎ能力ですね。
そういうものとして機能し、働いている二重性の原理の中の一つ、或いはそういうものの象徴的代表として光と影、とか、夜と昼が表現方法が出されているという見かたをします。
そして更にこれとは異なり、昼はwakeful意識界、つまり創造界の意識であるという象徴ということでもあります。
進歩の人は、この照り輝く仮想の意識界ではなく、もっと根源界に自己を持つということであります。
そして光と闇の境界を地平線として、地平線を見つめることが勧められています。
そういうことからbragelonneさんの創造のご質問に関心を持ったのです。
ともかく私達は境界というもの性格について大きく重点をもちます。
さて、昼と夜、闇と光ですが。
この境界があるとすればなにかというコメントが欲しかったのです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ もし《人の経験能力や認識能力、あるいは紡ぎ能力・・・そういうものの象徴的代表として光と影、とか、夜と昼》が捉えられるとしたら。
もしそうだとしたら 《異物》の問題と重なり たしかに善悪という主題だと考えます。
わたしの善悪を判断する基準は いたって簡単です。
こころの中にやましさを感じるときの意志決定 それは善ではないのだと。自然本性にさからうなら やましさを感じ 顔をあからめ 心に動揺をおぼえる。つまりウソあるいはへそ曲がり これを強行するという意志の判断は 善ではないと。
自然本性とは 宇宙の生成にあたって《良しとされた》ものに共通の性質であり 人間にもそれがあるという捉え方です。
ただしこの自然本性のまま育った場合 そういう場合でもその身体=精神の能力(意志が中軸)がそのままで善だというわけには行かないと考えます。一度はウソをついているはずですから。(人間以外の被造物には このウソをつくという自由意志はないと見ます)。
ゆえに その心に神のおとづれを俟つことになり その神を受け容れたとき善なる自然本性がよみがえると見ます。わたしがわたしであることをよみがえらせます。
この善を傷つけるのは 悪とよばれる或る種の仕方で異物であり 光に対して影ないし闇 昼に対して夜にあたるものと思われます。
《境界》というよりは ですから 意志による判断のあり方だと見ます。心かそれに逆らうかだと。
ほかにも見方があるかも知れません。分かりません。わたしの関心と見方は このようになります。
No.8
- 回答日時:
ヒンズー教では、神が半径138億光年以上の空間そして4×10の26乗の星の宇宙をつくったといわれています。
信じるか否かは、個人の自由ということになるのでしょう。
サットさん ご回答をありがとうございます。
ブラフマンでしょうか。
その《宇宙をつくった》というのは そう表現しているということのように捉えますが いかがでしょうかという問いになっています。
言いかえると 《信じる》のは 非思考の場としてこのいま《ブラフマン》という名で呼ばれる神をであるでしょう。《つくる・つくらない》にはかかわりがないのではないか。こういう問いです。どうでしょう。
つまり《宇宙が出来た》と言っても《宇宙を神がつくった》と言っても 非経験の神にとっても経験世界の歴史にとっても 事実じたいに変わりはないと考えます。
No.9
- 回答日時:
bragelonneさん
No.8です。
ブラフマンでしょうか。その《宇宙をつくった》というのは
⇒仰る通り、神々を束ねる神、ブラフマンのことです。
《信じる》のは・・・《つくる・つくらない》・・・事実じたいに変わりはないと考えます。
⇒変わるか変わらないのかわかりません。それを検証するために、一歩踏み出しました。
ご回答をありがとうございます。
★ 〔* 神が宇宙をつくったかどうかによって 宇宙が生成したという事実が〕変わるか変わらないのかわかりません。それを検証するために、一歩踏み出しました。
☆ まづ つぎのようなご回答でした。
★★ (回答No.8) ~~~~~~~~~~~
ヒンズー教では、神が半径138億光年以上の空間そして4×10の26乗の星の宇宙をつくったといわれています。
信じるか否かは、個人の自由ということになるのでしょう。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ わたしが言おうとしたことは:
《信じる》のは その宇宙の創造かどうかにはかかわりないのではないか です。誰がつくったかにかかわらず 宇宙の生成というのは 経験事象です。経験事象を《信じる》ということはないと見る立ち場です。
ですから ふたたびかかげてみます。
☆☆ (No.8お礼欄) ~~~~~~~~~~~
その《宇宙をつくった》というのは そう表現しているということのように捉えますが いかがでしょうかという問いになっています。
言いかえると 《信じる》のは 非思考の場としてこのいま《ブラフマン》という名で呼ばれる神をであるでしょう。《つくる・つくらない》にはかかわりがないのではないか。こういう問いです。どうでしょう。
つまり《宇宙が出来た》と言っても《宇宙を神がつくった》と言っても 非経験の神にとっても経験世界の歴史にとっても 事実じたいに変わりはないと考えます。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ どうでしょう? 検証と言っても すべがありますか? 論理的な把握ということに限られるように思います。
No.10
- 回答日時:
神話的仮説がその時代、文化圏の科学的エトスを代表するか?
それとも、ユダヤーキリスト教の存在観の問題なのかはっきりしないですね。
という感想です。
ご回答をありがとうございます。
★ 存在観の問題
☆ としては じゅうぶんにその――アブラハム以来の――《信仰および実践》の成果を表わしていると思いますね。アブラハムはその心が練りに練られたと思いますよ。その基礎にもとづき アダムとエワあるいはこの天地創造の物語を――その当時得られるだけの情報を活用しつつ――書いたと思います。
その後 この《非思考の場》としての信仰から得られる観想(および実践的命題)を モーセは法学(律法)として明らかにしたことでしょう。
でも イエスのときには――そのあとのパウロをつうじて―― ふたたびのごとく信仰のアブラハムに戻ったという見方もできるはずです。
★ 神話的仮説がその時代、文化圏の科学的エトスを代表するか?
☆ 情報ということでは《時代を反映している》でしょうが 科学的――とくに宇宙の生成にかんする自然科学的な――エトスが いまでもかなりいい線を行っていると思われることは どうでしょう 偶然の要素があるかも知れませんね。いえ 調べたわけでも何でもなくそう感じただけですけれど。
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