
No.4ベストアンサー
- 回答日時:
日本人というのは昔から筆まめな民族で、幕末に近い時代になると町人など様々な人々が今でいうブログみたいな記録を残していて当時の庶民の暮らしや出来事などが結構分かっています。
江戸詰めの下級武士、まあ今でいうところのサラリーマン武士でしょうか、彼らの勤務は基本が一勤一休です。その代わり朝は早いです。夜明けが基準なので、天然のサマータイム制と申しますか、夏の出勤時間と冬の出勤時間はだいぶ違うことになることを理解しておいてください。
で、退勤がだいたいお昼過ぎだったようです。だから一勤つーても半勤みたいなもんですわな。
庶民(町人)も似たようなもので、例えば大工みたいな仕事でもほぼ昼過ぎでおしまいです。まるまる一日働くと「アイツはまるまる働かねェと金にならねェ腕の悪ィ野郎だ」と馬鹿にされたそうです。
仕事が終ると風呂に行ったり、寄席に行ったり、芝居を見たり。吉原などの廓街をぶらつくこともあったでしょうね。江戸の町は現代でいうところの戒厳令の町だったので夜になると木戸が閉められてしまいます。原則的に以降は行き来は禁止なんですが木戸番に断ったりすれば横の小さい扉から通してくれることもありました。木戸番は不審者が来たら通報する決まりになっています。だから、木戸が閉められると吉原にいる人たちはもう夜を明かす(泊り客になる)しかないのです。終電なくしたようなものですね。
町人の多くがフリーターでありました。これといった定職は持たず、口入れ屋という今でいう人材派遣会社のところに行って「なんか、いい仕事ないすかあ」と聞きます。
「夏だからなあ、風鈴屋なんてどうだい?」なんていうと、「ああ、いいすねえ」となって今日は風鈴屋やったりします。んで、明日は飴屋をやって明後日は貸本屋をやったりね、そんな感じだったそうです。
フリーター町人も大工なんかの職人も「宵越しの金」があると働かなかったそうです。だから職人の親分衆はバクチなんかをやる。するってえと職人はバクチでスッてしまうので金がなくなるので仕方なく翌日も現場に来たそうです。
春は飛鳥山や御殿山で花見、初夏は初鰹を楽しみ(季節モンなので高価だったらしいです)、夏は隅田川の花火に舟遊び、秋は中秋の月見のときはすしや天ぷらの屋台が出たそうで、冬は雪見をしゃれ込む。毎日の娯楽も歌舞伎あり、人形浄瑠璃あり、落語あり、吉原を筆頭に品川や新宿などの宿場街では色気も楽しめる。江戸庶民(町民)の暮らしを見ると、同じ時代のパリやロンドンの庶民の暮らしに比べるとはるかに(特に精神的に)豊かだったことが分かります。
No.5
- 回答日時:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%83%E6%9B%9C% …
に一応書いてあります。
七曜というので検索しました。
ここには平安とかに遣唐使あたりがもってきたとか書いてあったと存じます。
江戸は武士、職人、商人たちですね。
この人たちの間では、日曜を含む七曜ってのは生活の区切りをするものとはなって居なかったというのが、皆さんのご回答ですね。
私も戦前からの職人の家に生まれていますが(浅草)、一日、十五日が休日。
おたなから賃金をもらうのは晦日と十四日。
後、屋内の仕事でも、雨が降る日は仕事しない。
仕事できるんですが、しない。
そんな生活でした(家具職)。
No.3
- 回答日時:
江戸時代には、日曜日にあたる物はありませんでした。
一般人(奉公人)は、年に2回だけの薮入りを
励みに日夜、奉公をし続けていました。
詳しくは以下URLを、参照して下さい。
薮入り
http://sikitari.kenko-daijiten.com/archives/%E6% …
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