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太平洋戦争は回避する事が出来たでしょうか?

第二次世界大戦が始まる直前、
日本の政局も混沌と
していました。

次々に短命内閣が現れては潰され
現れては潰されました。

そして昭和天皇が一番信頼し頼りにされていた
最後の元老西園寺公望も90歳で亡くなりました。

西園寺の最期の言葉は
「いったいこの国をどこへもってゆくのや」
期待していた近衛と袂をわかち
近衛を首班指名した事を後悔し続けたそうです。
そして西園寺の予言通りになってしまいました。
今現在も無責任体制で民主党政府は
「いったいこの国をどこへ

確かに近衛が首相のときに
支那事変がおこり、
高邁な理想とは裏腹に主体性なく思い付きの
行動を取り続け、軍部のつきあげもないのに
勝手に軍拡しながら「不拡大方針」を唱えたり
挙句は「国民政府を対手とせず」といって
断固膺懲路線に転換。いってることと
やってることがちぐはぐなままずるずると
支那事変は拡大の一方をたどります。
近衛は汪精衛を擁立して日中宥和をはかるも
失敗。辞職します。

その後平沼内閣の時に独ソ不可侵条約が締結され
「欧州情勢は複雑怪奇」の名言を残し内閣総辞職
しました。

続く阿部内閣は第二次大戦の勃発があり、
三国同盟を陸軍部内から突き上げられますが
日米関係を考えて棚上げにするという功績を
残したものの統制経済の影響と
凶作の影響からコメが流通不足になり、
米価引き上げを図ってコメの出回りを
引き出そうとするが物価高騰物資不足となり
民心が完全に離反。
阿部はしぶとく内閣総辞職と解散総選挙で
局面の打開を図ろうとするも陸軍が民心の
反軍化を恐れて指示せず、内閣は総辞職。

新内閣の首相には当初陸軍大臣畑俊六が噂されますが、
昭和天皇が当時の日独伊三国同盟締結を
求める風潮を憂慮したために、
米内光政に組閣の大命が降下。
米内は組閣と同時に自ら現役を退き予備役に入り、
親英米派で日独伊三国同盟反対論者だったこと、
近衛文麿らによる新体制運動にも
冷淡な姿勢を貫いたこと等により
陸軍や親軍的な世論から不評を買います。
斎藤隆夫の反軍演説も陸軍の反発を招きました。
組閣から半年たって仏が独に降参すると
独伊への接近を企図し、
近衛文麿を中心とする新体制に期待して
倒閣の機会を窺っていた陸軍は、
畑俊六陸相を単独辞職させ
三長官会議にて後任を推挙しなかったため、
軍部大臣現役武官制により、
総辞職に追い込まれました。
昭和天皇は米内内閣総辞職について
「もし米内内閣があのまま続いていたなら
戦争にはならなかったろうに」と、
後年まで悔いておられました。
そのあとを継いだ近衛内閣は
北部仏印進駐、三国同盟締結、
日ソ中立条約、南部仏印進駐も決定。
日米交渉を開始したが暗礁に乗り上げました。
近衛の理想とした近衛新体制は
骨抜きにされ、大政翼賛会も骨抜きにされ
どうにもこうにもにっちもさっちも
行かなくなった状況に近衛はさじをなげて
総辞職。
時局収拾のためには誰からも横槍の入りにくい
皇族内閣が適任だろうという事で
東久邇宮稔彦王(当時は現役軍人で
軍部の受けもよいだろうという理由)
を首班候補に東条と近衛は推戴していたが
木戸が「皇族の指導によって
政治・軍事指導が行われたとして、
万が一にも失政があった場合、
国民の恨みが皇族に向くのは
好ましくない」として反対し
重臣会議を諮り、結局、
「強硬論を主張する東條こそ、
逆説的に軍部を抑えられる」という
木戸の意見を採択して東条に大命降下しました。
そして東条内閣の時に太平洋戦争が起きてしまいました。

現役大臣武官制がなければ
米内内閣の倒壊はなかったでしょうし
宇垣内閣の流産もなかったでしょう。

皇族初でおそらく最後の皇族内閣として
戦後の敗戦処理にたった54日の
短命内閣とはいえGHQと小競り合いもなく
見事なまでに時局収捨して降伏事業を
混乱もなく収めることができた
東久邇宮稔彦王殿下が東条内閣の
かわりに組閣出来ていたとしたら
戦争には至らなかったかもしれません。

そこで質問です。

※東久邇宮稔彦王殿下の皇族内閣が
 第三次近衛内閣の後に組閣されていたとしたら
 太平洋戦争は回避できていたでしょうか。

※現役大臣武官制が復活していなければ
昭和天皇の信任厚い米内内閣が長期政権を
維持して、太平洋戦争を回避できたでしょうか。

※太平洋戦争を回避できたとしたら現在の日本は
どうなっていたでしょうか。

以上3点についてお答え願います。

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A 回答 (4件)

 国内事情だけで開戦が決まったわけではありません。

むしろ日本の歴代内閣は戦争回避のために尽力しています。最終的に開戦に至ったのは、何がどうしても戦争をやりたかったルーズベルトの思惑とコミンテルンの陰謀によるものです。

 7月の御前会議で9月までに交渉がまとまらない場合は開戦やむなしとなっていたので、第3次近衛内閣は最後の頼みを日米首脳会談に求めて交渉を続けましたが、アメリカ側にまったく相手にされずに失敗。ここに及んで開戦するしか無くなったので、近衛は開戦の責任を負うのを嫌がって辞職しました。
 要するにこの時点でいったんは開戦方針が決まっていたわけです。で、後任は誰が担当してもババを引かされることになっていました。近衛と東條はそれでも皇族内閣ならどうにかなると東久邇宮を推選しましたが、皇族がババを引かされることを恐れた木戸内大臣が、陸軍からの働き掛けもあってすべてを東條に押しつけました。
 東條は組閣にあたって天皇陛下から御前会議の決定は白紙に戻して開戦を避けてほしいと言われ、改めて日米交渉に臨みましたが、アメリカは交渉に応じるどころか最後通牒のハルノートを押しつけて来たため、開戦するしか無くなったというのが史実です。
 東條がいかに万全な構えで日米交渉に臨んだかということがわかると、東條以外の人間がとても開戦を阻止できたようには思えません。皇族内閣が出来たところで、やはり日米交渉に行き詰まったところで近衛と同様に政権を投げ出す結果に終わったと思います。

 米内内閣が続いた場合は三国同盟は阻止できたかと思いますが、一方で日中戦争の長期化による社会不満や資源問題が出て来るのは避けられず、2・26事件のようなクーデターが再発した可能性は否めません。日本の政党政治が崩壊したのは2・26事件によって政党政治家が委縮してしまい、軍人の横暴が利くようになってしまったためですが、これはその傾向に拍車を掛けます。これではもうこの後に近衛や皇族内閣が出来るわけも無く、完全に軍人政治が支配するようになってしまいます。
 すると、やはり陸軍強硬派の主張が通り易くなり、三国同盟は復活し、日米交渉などに労力を掛けることなくまっすぐ戦争に向かっていった可能性が高いです。もっとも、陸軍は自分でアメリカとの戦争はできませんので、対米開戦ではなく対ソ開戦を行い、独ソ戦開始すぐにドイツと挟撃を行っていた可能性はあります。ま、いずれアメリカの方から宣戦布告してくることになるでしょうが。

 戦争を回避できた場合と言うのは、いつの状況で回避できたかで違ってきます。例えばハルノートが出て来た時点で受諾やむなしとなった場合、日本はやたら軍の力が強いだけの経済的には貧しい三等国に成り下がってしまいます。世界的なブロック経済体制の中で、おこぼれのようなわずかな資源を輸入するだけでは工業の発達とかはあり得ません。満州の権益を失えば、戦後の引き上げのように多くの移民が帰国してこなければならなくいなるので、国内では失業者があふれ、食糧不足が起こります。
 日本がこんな状態なら、アジアアフリカ諸国の独立なんかはとうていあり得ない話なので、21世紀になっても世界中は西洋の植民地に分割されていたことでしょう。
 ただし、日本が大陸から撤退したら、あっという間に中国は共産党の天下なので、共産主義の勢力がアジアアフリカを呑み込んでしまう恐れもあります。さしあたりは朝鮮が赤化され、日本から分断される可能性が高いでしょう。その後もじわじわと共産主義が勢力を伸ばし、貧しい日本で共産革命がおこり、ソ連や中国の支配下に入ってしまうのも時間の問題です。
 共産主義の日本では経済は発展しませんから、ずっと貧しいままの状態が続きます。ま、共産化されなくても列強のブロック経済に締め出されているから変わりはありませんが。あと、人種平等も実現しないので、世界のありとあらゆるところで有色人種は差別されます。共産主義日本でもソ連からやって来た白人の指導者が絶対権力を握り、日本人は虐げられるでしょう。

 ブロック経済の西洋列強が無血勝利したようなものなので、世界的なブロック経済は長く続き、自由経済はやってきません。したがって非共産圏でも著しい経済の発達は無いので、共産圏との力関係は開きません。冷戦が起こるかどうかは欧州大戦の結果次第ですが、冷戦になった場合はそれで長期安定してしまいます。きっと今でも冷戦の真っただ中でしょう。
 日本はその中の共産主義国側の、それも貧しい弱小国でありつづけるでしょう。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

細かい分析ありがとうございます。

確かにハルノートを受諾して
日本が全面撤退していたら
北朝鮮以下の国として
世界の最貧国としてほそぼそとした
国に落ちぶれていた事でしょう。

当然アフリカアジアの植民地解放は
遅れてしまい、いまだに白人の搾取が
続いていただろうと思います。

ドイツが2次大戦で勝てる可能性は
ソ連侵攻で不可能となりましたから
社会主義と資本主義の冷戦が長く
続き、ソ連に近い日本では赤化の
勢いを止められず共産革命が
起きていたかもしれません。
それで北朝鮮以下のミャンマーのような
国になっていたでしょうね。

お礼日時:2010/10/08 21:04

日本が「弱腰外交」をやる事を国民が認めれば避けられたかも知れません。

まあ軍部も強硬派だった事もあります。今の北朝鮮と同じような政治体制になっていましたから、まづ開戦は避けられなかったでしょう。

回答者様は色々分析されていますが、歴史にもしもはないので、これから死にたくなかったら政府の「弱腰外交」を支援しましょう。

あの大戦に少国民として加担した者としての忠告です。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

幣原外交の反動で急速に世論が反動化した
あの時代と今がちょっとダブって感じましたので
このような設問を作ってみました。

確かに戦争直前の日本は北朝鮮みたいでしたから
あのまま回避しても今の日本とは打って変わって
北朝鮮屋中国の様な恐ろしい国になっていたでしょうね。

お礼日時:2010/10/08 20:51

そもそもアメリカ政権が日本を潰してでもの中国利権を奪い取る事を望んだのですから、国内体制がどう変わろうと戦争は避けられません。


それこそアメリカ日本州になるまでアメリカの要求は続きます。
国内の軍部とアメリカ両方との折り合いをがつくラインは初めからありません。

イラクを徹底的に調査し武装解除したあとでも、結局戦争起こしたでしょ。
同じことです。要求はエスカレートし続け、どこかで戦争が必ずおきます。

当時の日本がセクショナリズムでグダグダであったことは明らかですが、太平洋戦争について言えばあのタイミングで戦うことが最善だったんですよ。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

確かに中国の利権をアメリカが横取りしようとして躍起になっていましたから
アメリカから日本に一方的な宣戦布告で戦争をおこしていたでしょうね。

またタイミング的にもあの時期で戦うのが最善だったでしょうね。

お礼日時:2010/10/08 17:23

帝国憲法を施行した時点で、欧米の帝国主義のパクリを始めました。


太平洋戦争直前になって回避と言われても無理があります。
寧ろ、軍事クーデターで粛正されていたかもしれません。

ただ、戦争を仕掛けなくても、資源のない日本には生き残るだけの選択肢がありません。
軍事費が高すぎて経済が不健全になり、民衆に負担が大きすぎました。しかし、
この路線のまま継続していれば、日本が北朝鮮のようになっていたかもしれません。

戦中の日本と現在の北朝鮮はよく似ていますよ。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

確かに、北朝鮮か中国の様になっていたでしょうね。

それと日本を含めた植民地の独立が大幅に遅れていたでしょうね。

お礼日時:2010/10/08 17:21

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Q太平洋戦争は政治力で回避できましたか?

先の戦争で亡くなった方は日本人で330万人と聞いております。なんと言う惨状でしょうか?今更なにも始まりませんが、避けられたのでしょうか? 回避はできたとしても理不尽な要求を呑んで日本人としてのプライドも無くなっていたのでしょうか?歴史に”もし”は禁句ですが、色々想像しています。

Aベストアンサー

どこまで歴史を振り返るのかで変わってくると思います。

NHKの番組やその取材班の日米開戦の本などでは「南仏印進駐」を戦争不可避の分岐点としています。
私もその考えに賛成です。

そもそも、日本の大陸進出が先鋭化しなければアメリカと戦争になる事は回避できたと考えます。

1932年の満州事変ではアメリカを含め国連が日本の行動に反対しましたが、決定的になるところまではいきませんでした。

1937年に日支事変が起きた時も、アメリカ政府はすぐには中国に味方しませんでした。
日支事変発生を受けての九カ国条約会議の開催で、中国側が日本への経済制裁を提案した時、アメリカは反対に回りました。
なぜなら、日支事変発生によって、日本も中国もアメリカから購入する戦略物資の量が増えたからです。
つまり、戦争する両者に物を売ってぼろ儲けする立場にアメリカはいたのです。
だからアメリカは一方的に中国に味方する事はありませんでした。

その状況が変化したのは、中国大陸で日本が中国を負かすため戦略爆撃を開始したからです。
当時、アメリカは中国に多大な投資を行っていました。
それが日本の空爆で被害を受けます。
アメリカは日本に中国での空爆を止めるよう何度も抗議しますが、日本は受け入れません。
怒ったアメリカは日本へ徐々に経済制裁を開始します。
始めは空爆を止めさせるための飛行機関連の輸出停止でした。
しかし、日本の空爆は止みません。
しかも、日本は空爆での民間被害の補償は行わない方針を打ち出します。
さらに、爆撃を強化すると通告し中国にいる外国人の安全も保障しない方針を打ち出します。
アメリカの苛立ちはつのり経済制裁を日本に段階的に行いますが、日本の行動は止まりません。
しかも大東亜共栄圏構想という日本の植民地拡大政策と判断される政策を打ち出してきました。
そこでアメリカは中国への支援に乗り出しました。

アメリカが中国への資金援助を開始したのは1938年12月という日支事変開始より1年5カ月も経った時点からでした。

その後も日本はアメリカを怒らせ続けます。
1940年9月にアメリカがイギリスと防衛協定を結んでドイツを潜在的敵と見なせば、その二週間後に日本はドイツとイタリアと日独伊三国同盟を結びます。
アメリカが敵と見なしている国と同盟を結ぶのですから喧嘩売ってるのと変わりません。
怒ったアメリカは鋼鉄の対日輸出を停止します。

最終的には南仏印に日本軍が進駐してアメリカを決定的に怒らせ、アメリカの対日石油禁輸となりました。
この南仏印進駐についてはアメリカは日本に対して警告までしています。
当時の日本の外相は南仏印進駐はアメリカとの戦争になるから止めた方がよいと主張しますが他の閣僚が甘い見通しで押し切ってしまいました。
そしてアメリカは石油を止め、日本は戦争の決断を。

アメリカによる段階的経済制裁の始まりの原因は日本の行動にあります。
アメリカの抗議を受け入れ日支事変での戦略爆撃を止めていたら。
また、日支事変の戦略爆撃においてアメリカに与えた損害について補償をすぐに行っていたら。
大東亜共栄圏構想という他国に日本の植民地拡大政策と捉えられる発表をしなかったら。
アメリカが中国を支援する事は無かったかもしれませんし、その後の日米開戦も避けられたかもしれません。
その後も
日独伊三国同盟を結ばなければ。
北仏印に進駐しなければ。
南仏印に進駐しなければ。
恐らくアメリカと戦争になる事は無かったでしょう。

アメリカのチャールズ・A・ビアードという歴史家の「ルーズベルトの責任」という本の中で、ハーバード大学のデートレフ教授がこの本の紹介文を寄せていますが、そこには
「日本がアジア大陸で膨張主義的な目的を追求した事からルーズベルト大統領は懸念を覚え、日本を押さえ込むために圧力をかけ始めた」と記しています。
この本を読めばルーズベルト大統領が表向きは不戦の姿勢を見せながらもハル・ノートという過度な要求を日本につき付け、日本を戦争へ追いやった事がわかりますが、その前に日本のアジアの膨張政策が問題であった事もわかります。

1941年8月1日、アメリカが日本に対し石油の全面禁輸を禁止を行いました。
その2日後、ニューヨークタイムズにギャラップのある世論調査の結果が載りました。
それは「アメリカは戦争の危険を犯してでも日本の膨張に歯止めをかけるべきか」というアンケートに対するものです。51%の人がYESと回答していました。
この時点でアメリカ国民も半数が日本のアジア進出に危機感を抱いていたのです。

そもそも当時のアメリカの好景気でした。

「ニューディール政策」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%AB%E6%94%BF%E7%AD%96

この上に貼ったウィキの「ニューディール政策」のところにあるアメリカのGDPのグラフと失業率のグラフを見ていただければわかりますが、戦争が開始される1941年12月よりも前の1940年以前において、既に世界恐慌前のGDPの水準に回復している事がわかりますし、戦争開始前に失業率が低下していっているのがわかります。
これはヨーロッパにおいて第二次世界大戦が始まったからであり、イギリス、フランス、カナダ等、連合国から大量の武器や物資の受注があったからです。
それだけではありません。イギリスはアメリカの軍需産業に投資を行い工場の拡大や設備の増強を求め、生産の拡大に動いています。
つまり戦争特需が発生していたのです。
自国が戦争を起こし戦争で経済を回復させるなどという必要はありません。
そもそも第二次世界大戦におけるアメリカの戦費は戦時国債です。つまり国の借金でしかありません。
それに一時的に景気が回復しても戦争が終われば軍需生産は萎みます。
その後は不況が来るだけです。実際、アメリカは戦後に戦後不況に陥っています。
上に貼った「ニューディール政策」のGDPや失業率のグラフにおいて、第二次世界大戦後に悪化を示しているのは戦後不況が起きたからです。
もし世界恐慌からの経済回復を目指して戦争を仕掛けさせる謀略を行うというのなら、そんな回りくどい事をしなくても1937年12月に発生した日本軍機によるアメリカ軍艦攻撃事件「パネー号事件」を利用していた筈です。
何せ、この時はアメリカ政府内から日本に宣戦布告するべきだという声が上がっていたのですから。

ともかく、日本がアメリカの敵視する独伊と日独伊三国同盟を結んだり、南仏印に進駐するなどの膨張政策を見せなければ、アメリカも日本に過度な要求を突き付け戦争に追い込んで来る事はなかったでしょう。

これらの事を考えれば、日本とアメリカの戦争を回避する可能性は南仏印進駐前までなら、その時、その時でありました。
日支事変での戦略爆撃の停止。
日支事変における戦略爆撃被害の補償。
大東亜共栄圏構想の公表を控える。
日独伊三国同盟の締結中止。
北仏印、南仏印進駐の停止。
そうした事が為されていたら、アメリカとは戦争にならず朝鮮も満州もそのまま日本の支配下で暫くは歴史も進んだのではないかと思います。

天皇陛下は日独伊三国同盟に反対していました。
また南仏印進駐にも反対で東条陸相に言いましたが受け入れられませんでした。
もっと天皇陛下の御意思を政府の閣僚が尊重していれば日本とアメリカの戦争は避けられたと思います。

どこまで歴史を振り返るのかで変わってくると思います。

NHKの番組やその取材班の日米開戦の本などでは「南仏印進駐」を戦争不可避の分岐点としています。
私もその考えに賛成です。

そもそも、日本の大陸進出が先鋭化しなければアメリカと戦争になる事は回避できたと考えます。

1932年の満州事変ではアメリカを含め国連が日本の行動に反対しましたが、決定的になるところまではいきませんでした。

1937年に日支事変が起きた時も、アメリカ政府はすぐには中国に味方しませんでした。
日支事変発生を受けての九...続きを読む

Q日本がハルノートをを受け入れ戦争しなかったら?

歴史で”たら、れば”は持ち出す事は駄目なんですが、もし、太平洋戦争に突入しなかったら日本はどうなっていたでしょう? 戦争で余りにも多くの方がなくなりましたが、戦争しなかった方が日本の将来は明るくなる事が期待できたのでしょうか?

Aベストアンサー

戦争をしなかった、という選択肢は
無かったと思われます。
日本が例えハルノートを呑んでも、米国は
必ずや、日本を戦争に引きずり込んだと
思われます。
あのイラク戦争のようにです。
フセインは、米国相手に戦争などしても
勝てる道理がないことぐらい、百も承知していました。
それでも米国に無実の罪を着せられて戦争に
持ち込まれ、処刑されてしまいました。
米国とはああいう国なのです。

当時の米国は、1930年に続く大不況の真っ只中でした。
GDPは1/2に、株価は1/10に落ち、1200万の失業者が
街に溢れ、あちこちで暴動が発生していました。
ルーズベルトは、ニューデールなどの政策を打ちましたが効果は
さっぱりです。
それでどうしても戦争をやる必要があったのです。
戦争は最大の公共事業ですから。その証拠に戦後、米国
経済は見事な復活を遂げています。
その現れがハルノートです。

これは私の偏見ではありません。
米国歴史学の権威チャールズ・A・ビーアド元コロンビア大教授は
公文書を調べて、ルーズベルトが巧妙に日本を戦争に引きづり込んだ
過程を明らかにした本を出版しましたが、これは事実上の発禁処分
にされてしまいました。

31代米国大統領のフーバーが、ルーズベルトを、日本を無理矢理戦争に
引きづり込んだ狂気の男、と評した書見を残しています。
彼は、ルーズベルトは真珠湾を知っていた、とも書き残しています。


米西戦争では、 1898年 2/15 ハバナ湾で、
米国戦艦メイン号が謎の爆発沈没しています。
これで米兵266名が死亡し、スペインの仕業だ、
ということになり戦争が始まっています。

ベトナム戦争では有名なトンキン湾事件が発生しています。
1964年8月、北ベトナムのトンキン湾で北ベトナム軍の
哨戒艇がアメリカ海軍の駆逐艦に2発の魚雷を発射した
とされる事件です。
これをきっかけにアメリカは本格的にベトナム戦争に介入しましたが、
その後、ニューヨークタイムズが、米国のやらせであることを暴露し
真実が明らかにされました。

湾岸戦争 1990年 では
アメリカの駐イラク特命全権大使のエイプリル・グラスピーが
イラクのクエート攻撃に対して
「介入するつもりはない」と発言しており
これを信じたフセインがクエートを侵略しましたが、
米国軍等により撃退されています。
米国は約束の存在を否定していますが、当の大使は、それ以後、公式の場には
一切姿を見せなくなりました。

その他にも怪しいのはいくらでもあります。
以上が、日本が戦争を拒んでも、ダメだったろうと思われる理由です。

戦争をしなかった、という選択肢は
無かったと思われます。
日本が例えハルノートを呑んでも、米国は
必ずや、日本を戦争に引きずり込んだと
思われます。
あのイラク戦争のようにです。
フセインは、米国相手に戦争などしても
勝てる道理がないことぐらい、百も承知していました。
それでも米国に無実の罪を着せられて戦争に
持ち込まれ、処刑されてしまいました。
米国とはああいう国なのです。

当時の米国は、1930年に続く大不況の真っ只中でした。
GDPは1/2に、株価は1/10に落ち、1200万の...続きを読む

Q太平洋戦争は回避できなかったのか?

太平洋戦争を考える度、日本は随分無謀なことをしたものだと思います。 確かに、アメリカにハルノートを突きつけられ、止む無く戦争を開始したそうですが、 日本の勝算、また最悪のシナリオ(東郷7だけでなく天皇も処刑され、日本が分割統治される)を考えれば、無謀としか言いようがありません。
もし、東郷が信長や秀吉でも開戦していたかもしれませんが、家康だったら思いとどまったと思います。

Aベストアンサー

戦国時代の武将だったら、よほどのぼんくらで無い限り誰も開戦などしなかったでしょう。「信長や秀吉でも開戦していたかも・・」と言うのはあまりに失礼では・・。彼らは戦のプロですよ。負ける闘いは絶対にしませんし、あらん限りの方策を使って勝つことを考えます。秀吉はもちろんのこと信長でも、どんな辛酸をなめつくしてでも、まずはアメリカを懐柔することに努めたと思います。自分達のプライドのことなど構ってられません。

太平洋戦争を回避できなかった最大の原因は、明治の頃のように「戦争で負けたら国が滅びるんだ」と言うことを実感として理解している政治家・軍人が決定的に欠けていたことだと思います。日露戦争の頃までは、たとえ全国民から憎まれても、政府はロシアと講和して実利を得ると言う方策を取ることができました。それがノモンハンのあたりから、国としての骨格が固まって余裕が生まれたからか、安易な戦いをするようになっていったと思います。

太平洋戦争開戦の時でも、山本五十六のように「戦争をしたら負けるだろう」と言う予想ができていた軍人や政治家はまだ結構居たと思いますが、「戦争に負けるとはどういうことなのか」についてまでは実感が伴っていなかったのではないでしょうか。そこの実感があれば、万難を排してでも開戦をやめさせようとしたでしょう。そういう動きにならなかったのは、開戦反対派も含めて全員が「負けることの怖さ」を忘れてしまっていたからだと思います。

戦国時代の武将だったら、よほどのぼんくらで無い限り誰も開戦などしなかったでしょう。「信長や秀吉でも開戦していたかも・・」と言うのはあまりに失礼では・・。彼らは戦のプロですよ。負ける闘いは絶対にしませんし、あらん限りの方策を使って勝つことを考えます。秀吉はもちろんのこと信長でも、どんな辛酸をなめつくしてでも、まずはアメリカを懐柔することに努めたと思います。自分達のプライドのことなど構ってられません。

太平洋戦争を回避できなかった最大の原因は、明治の頃のように「戦争で負けたら...続きを読む

Qもし日本が太平洋戦争をしていなかったら・・

満州を放棄し、中国へ侵攻している全ての軍隊を引き上げて、
日米戦争を回避していたら、今頃(現代)の日本やその周辺国はどうなっていましたか?

例えば、
・今頃、韓国、北朝鮮、台湾やグアム、サイパン、パラオなどはパスポートのいらない日本国内旅行ですか?
・フィリピンはアメリカ領、インドネシアはオランダ領、インドやマレーシアはイギリス領、ベトナムはフランス領のままですか?
・今のような、日本は経済大国になっていないのでしょうか?

考えてみたら、戦前の日本のほうが領土的に広いので、戦争していなかったら今とどう違っていたんだろうと、ふと疑問に思いました。

Aベストアンサー

戦前の軍事書籍を読むと分かるのですが戦前の日米対立とは即ち「中国市場を巡る対立」でした。
もともと市場規模が小さく、資源も少ない日本を支配しても米国の得にならない事は明白であり、そんなことは当時から分かりきった話でした。
このため戦前から日本では「米国の圧力は中国市場を獲得するために目障りな日本を潰すためのもの」という認識だったのです。
そして戦前の日本では日清・日露の両戦争を始め多くの戦争と犠牲を通じて獲得した「満蒙の特殊権益」はいかなる理由があろうと手放してはならない、という意識が極めて強かったのです(戦後で言えば「憲法9条を絶対に守れ」と似たようなものです)。
この結果、中国大陸での武力行使は国民の強い支持を得る事となり、必然的に中国市場を巡る日本と米国との対立を深める事になってしまいました。
しかし逆に考えれば、大戦後に中国が共産化してしまえばもはや、中国における利権対立も無くなるわけで、日米の対立要因も失われるでしょう。
そうなると戦後の日本はかつての韓国やインドネシアのように軍部が強い影響を持ちつつも、開発独裁体制の元で経済成長を遂げ、その後の民主化の発展に伴い軍部の影響力も次第に減少していくものと考えた方がよいかも知れません。

戦前の軍事書籍を読むと分かるのですが戦前の日米対立とは即ち「中国市場を巡る対立」でした。
もともと市場規模が小さく、資源も少ない日本を支配しても米国の得にならない事は明白であり、そんなことは当時から分かりきった話でした。
このため戦前から日本では「米国の圧力は中国市場を獲得するために目障りな日本を潰すためのもの」という認識だったのです。
そして戦前の日本では日清・日露の両戦争を始め多くの戦争と犠牲を通じて獲得した「満蒙の特殊権益」はいかなる理由があろうと手放してはならない、と...続きを読む

Q第一次、第二次世界大戦

課題で困っているので、教えてください!!!
第一次、第二次世界大戦はなぜ避けることができなかったのでしょうか?
そして、もし避けることができたならどのように避けることができたのでしょうか?

Aベストアンサー

根本的なところでは、他の方の回答は的を得ていると思います。各国が、軍事力を用いてまで領土を拡張するという意思を持たなかったならば、戦争は防げたというのは、基本だと思います。僕は、もうちょっと細かい技術的なところを書きます。

第1次世界大戦の場合、多分に偶発的な要素がありました。当事者たちも何がどうなっているのかよくわからいないまま、軍事同盟網を伝って戦火が全欧に広がっていったようなところがあります。軍事力の均衡による平和という考え方のもろさを第1次世界大戦は示した、ということもできます。
実は、1870-71年のプロイセン・フランス戦争の後は、第1次世界戦までヨーロッパで列強同士の大きな戦争は起こっていません。しかし、激しい軍拡競争は展開されていました。また、局地的武力衝突が起こったときに、前面戦争を回避するためのメカニズムが整備されておらず、電報で瞬時に情報が伝わっていくことにも不慣れなところがありました。

第2次世界大戦の場合は、先行して満州事変につづいて日中戦争が東アジアで起こっていたことはまず1つの前提となります。日本が、軍事力による領土拡張と国際連盟の脱退という点で、ドイツに先例を与えたことの意味は大きいと思います。
第2次大戦に先行する時期にも、ナチス・ドイツは戦争も覚悟の賭けを何回かしています(1935年のザールラント併合や徴兵制復活・再軍備宣言、36年のロカルノ条約破棄とラインラント進駐など)が、これを米英仏が容認したことが、ドイツの領土要求のエスカレートの直接の要因となっていて、ミュンヘン会談が有名ですが、英仏はその要求も認めます。この段階で、英仏がドイツに対してもっと強く出ていたならば、早期に戦争になっていたら、ドイツの軍備拡張が追いつかず、早々とドイツの敗北で終わっていたでしょうから、ドイツ側が戦争回避に動いた可能性があります。戦争が防げたかどうかはわかりませんが、もっと違った展開になっていたのは確かだと思います。
1939年9月のポーランド侵攻のときも、ドイツは英仏と全面戦争になるとは予想していませんでした。これに対して英仏は対独宣戦布告はしますが、ポーランドの独ソでの分割占領の段階では、ドイツと英仏の大規模な軍事力の衝突は起こっていません。それで、ドイツは英仏を恐れるに足らず、と考えるようになって、その後、北欧・ベネルクス3国・フランスを「電撃戦」で次々に占領下に起きますが、そこには英仏の油断があったことは否めません。英仏がドイツを甘く見たということです。これはソ連についても言えます。ドイツが、英仏やソ連に勝てないと思うような状況だったら、また違う歴史がありえたとは思います。

根本的なところでは、他の方の回答は的を得ていると思います。各国が、軍事力を用いてまで領土を拡張するという意思を持たなかったならば、戦争は防げたというのは、基本だと思います。僕は、もうちょっと細かい技術的なところを書きます。

第1次世界大戦の場合、多分に偶発的な要素がありました。当事者たちも何がどうなっているのかよくわからいないまま、軍事同盟網を伝って戦火が全欧に広がっていったようなところがあります。軍事力の均衡による平和という考え方のもろさを第1次世界大戦は示した、という...続きを読む

Qなぜ戦前の日本軍は暴走してしまったのですか?

なぜ戦前の日本軍は暴走してしまったのですか?

関東軍の暴走や、5.15事件、2.26事件…。
真珠湾攻撃の前には既に南方で勝手に戦端が開かれていたとか。
それから、敗戦時にも玉音放送を中止させようと陸軍のクーデターが起こるなど、なぜ戦前の日本では、軍事がコントロール不能になってしまったのですか?

当時の米国や英国ではそうならかったということは、戦前の日本の政治体制や統治機構に何か根本的な誤りがあったのですか?

※これはド素人の質問ですので、質問文中に認識違いなどがあった場合は遠慮なく指摘して頂いて結構です。その際はどうぞお手柔らかに…

Aベストアンサー

>当時の米国や英国ではそうならかったということは、戦前の日本の政治体制や統治機構に何か根本的な誤りがあったのですか?
一言で言えば大日本憲法の条文にある「統帥権」でしょうね。
米国・英国の軍隊は文民統制(シビリアンコントロール)が為されていました。
大日本帝国軍の指揮系統は建前上、天皇の命令だけしか聞き入れない制度になっていました。
これを「統帥権」と呼びます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%B1%E5%B8%A5%E6%A8%A9
明治天皇のように、自から指揮、命令していた時代はそれで良かったのでしょう。
内閣・国務大臣も戊辰戦争を戦ってきた人々でしたからね。

時代が進むにつれて、「統帥権」の変容したのが、軍部の暴走した要因だと思います。
大日本帝国陸海軍には行政組織の陸軍省と海軍省が有り、それぞれに大臣がおりました。
これらは内閣の一員の行政組織で、人事権、徴兵などを行政事務を行ないます。
それとは別に海軍には軍令部、陸軍には参謀部があり、軍令部総長・参謀総長がおりました。
実際の作戦立案、実行を一手に握っていました。

最初は海軍省>軍令部、陸軍省>参謀部の関係でした。
現役の軍人とはいえ、官僚ですのである程度の常識を持ちイケイケの軍人を抑えていたのですが
それに不満を持つ軍人が「天皇は陸海軍を統帥す」の文言を盾にとり、統帥権の独立を画策し始めました。
次第に省令等を改定し、海軍省<軍令部、陸軍省<参謀部の力関係になりました。
つまり、軍人の文が弱まり、武が強くなってきました。
国会議員が異議や反対意見を述べたりすると「統帥権干犯」を持ち出し、反対意見を封殺していきました。
つまり、建前上、天皇のみしか軍隊を指揮命令する事が許されない
神聖にしてだれも犯す事の出来ない武力集団に仕立て上げたのです。
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/tousuikennnokannpann.htm

しかるに、昭和天皇は皇太子時代、大英帝国を訪問し、英国の立憲君主制に触れ、それを模範にするお考えが有りました。

国王・皇帝が独裁的に指揮・指示・命令をするのではなく、それを輔弼する内閣・国務大臣の政策を承認する形を取りました。
それで、天皇の名の下に、自分の都合よく相手国に武力行使を独断専行で行い、全て事後承諾で戦争へと進んだのです。
結局は、降伏か戦争継続かで意見が分かれ、収集が付かなくなり、昭和天皇のご聖断となった訳です。

>当時の米国や英国ではそうならかったということは、戦前の日本の政治体制や統治機構に何か根本的な誤りがあったのですか?
一言で言えば大日本憲法の条文にある「統帥権」でしょうね。
米国・英国の軍隊は文民統制(シビリアンコントロール)が為されていました。
大日本帝国軍の指揮系統は建前上、天皇の命令だけしか聞き入れない制度になっていました。
これを「統帥権」と呼びます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%B1%E5%B8%A5%E6%A8%A9
明治天皇のように、自から指揮、命令していた時代はそれで良か...続きを読む

Q昭和天皇はなぜ軍部の暴走を止められなかったのでしょうか?

軍幹部や閣僚、枢密院の事実上の強制である「助言」に逆らえなかったのはなぜなのでしょうか?
天皇は、軍部を最終的に指揮・統括する統帥権を持っていたのですよね。
様々な事由で軍や政治家の意見を聞き入れなければならない状況もあったと思います。しかしミッドウェー以後の戦況を正確に知っていたなら、最早戦況は絶望的で、このまま戦いを続けたなら軍人のみならず、多くの国民の命が失われることは火を見るより明らかであったことは知っていたはずです。
軍・政治家の「助言」は飽くまで助言であり、例えそれに反したものであっても、最終の決断を下す権限を当時の天皇は持っていたのですよね。そしてそれは、何人たりとも妨げることはできなかったのですよね?
にもかわらず「本当の」統帥権を発動できなかったのは一体なぜなのでしょうか?

Aベストアンサー

>昭和天皇はなぜ軍部の暴走を止められなかったのでしょうか?

大日本帝国憲法の第4条には、「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ」とありますが、続いて「此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」とあり、55条に、「国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責任ニ任ス」、同2には「凡テ法律勅令其ノ他国務ニ関ル詔勅ハ国務大臣ノ副署ヲ要ス」とされています。天皇は憲法上「統治権の総攬者」ではありますが、輔弼と副署と言う制限された存在でもありました。これが「天皇機関説」の根拠ともなりますし、NO7の方が回答されていらっしゃるように、昭和天皇が自身を「立憲君主」として律していた根拠でもあります。
つまり、統帥権を含め国務は輔弼の臣の輔弼行為に依拠し、天皇は積極的な国政への関与を控えていたと言うことです。皆さんがおっしゃているように田中首相への叱責、二二六事件、終戦の決断以外には判断を下していません。終戦についても最高戦争指導会議構成員会議および閣議が意見の一致をみないために、最高戦争指導会議に枢密院議長を入れ、御前会議の形式をとり、天皇の判断を仰いだために天皇が決断したのであって、昭和天皇も決断を求められるのは本来の形でないと思っていらしたようです。
ですから、戦争がいかに不利になろうとも、国務・統帥の輔弼がない限り停戦・休戦・終戦にならなかったのではないでしょうか。また、統帥部の輔弼がない限り、終戦への統帥権の発動もなかったと思います。
このように輔弼を受けることにより、責任は輔弼の臣が取るべきもので、天皇自身には及ばない体制が成立しています。西園寺が天皇に田中首相叱責で注意したのはこの点であり、長い伝統を持つ公家社会(天皇を含め)の伝統的方策(生き残るための知恵)にも合致していたからです。

以上、参考まで。

>昭和天皇はなぜ軍部の暴走を止められなかったのでしょうか?

大日本帝国憲法の第4条には、「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ」とありますが、続いて「此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」とあり、55条に、「国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責任ニ任ス」、同2には「凡テ法律勅令其ノ他国務ニ関ル詔勅ハ国務大臣ノ副署ヲ要ス」とされています。天皇は憲法上「統治権の総攬者」ではありますが、輔弼と副署と言う制限された存在でもありました。これが「天皇機関説」の根拠ともなりますし、NO7の方が回答さ...続きを読む

Q太平洋戦争開戦時のイギリスへの宣戦布告について

太平洋戦争開戦時、在米日本大使館が、暗号の翻訳とタイプに手間取り、
日米の外交を断絶する文書をハル国務長官に渡すのが、
予定の時刻より1時間遅れてしまった事は有名ですが、
イギリスに対してはどうだったのでしょうか。

同じ方法、つまり在英日本大使館から文書を手交したのでしょうか。
(あるいはラジオでの宣戦布告や在日イギリス大使への通知?)

また、マレー侵攻は真珠湾攻撃より早かったのですから、
宣戦布告はその時刻に間に合ったのでしょうか。

ご存知の方がおりましたら、よろしくお願いします。

Aベストアンサー

 ハル国務長官に手交された「対米覚書」が「開戦に関する条約」第1条に定められた宣戦布告及び最後通牒のいずれの要件も満たしていないことは、すでに書かれているとおりです。ただ、「日本の同盟国であるドイツが英国と開戦した時点で、日英間も事実上交戦状態に入っていました」という意見は噴飯もので、悪い冗談というより他はありません。

 さて、「対米覚書」が宣戦布告としての効果を持たず、しかも開戦前に手交しようとして結局失敗したとは言え、一応日本はアメリカに対してはこのような形での事前通告を試みてはいました。
 しかし、イギリスに対してはなんの通告も行われないまま戦闘行動に突入しています。(日本軍がマレー半島に上陸してイギリス軍と交戦状態に入ったのは真珠湾攻撃の1時間半前でした。)
 これについては以下のような解釈が試みられています。
 すなわち、太平洋戦争の開戦判断自体に「イギリスはまもなくドイツによって打倒される」という観測があり、対英戦については完勝が見込まれていた。(参謀本部が1941.9.6に作成した「帝国国策遂行要領ニ関スル御前会議ニ於ケル質疑応答資料」による)一方、アメリカに対しては誰も米本土を占領して戦争を終えられるとは思っておらず、「開戦初期に大打撃を与えて継戦意欲を喪失させ、和平」というシナリオを描いていたので、米国世論を刺激しないために完全無警告攻撃でなく、対米覚書によって事前通告のようなことをして配慮しようとした…というものです。
 アメリカとの間には長々と日米交渉が繰り広げられる一方で、イギリスとの間には特に何も無かったのは、イギリスはまもなく舞台から消えるという判断があったわけですが、ドイツはすでに対ソ戦に全力を注ぎ込んでおり、この誤判断が日本を危険な対米英戦に踏み切らせることになったわけです。

 太平洋戦争開戦経緯については、
・日本外交史<23>日米交渉(鹿島研究所出版会)
・真珠湾奇襲論争(講談社)
などを読まれるといいと思います。

 ハル国務長官に手交された「対米覚書」が「開戦に関する条約」第1条に定められた宣戦布告及び最後通牒のいずれの要件も満たしていないことは、すでに書かれているとおりです。ただ、「日本の同盟国であるドイツが英国と開戦した時点で、日英間も事実上交戦状態に入っていました」という意見は噴飯もので、悪い冗談というより他はありません。

 さて、「対米覚書」が宣戦布告としての効果を持たず、しかも開戦前に手交しようとして結局失敗したとは言え、一応日本はアメリカに対してはこのような形での事前通...続きを読む

Q戦後、軍隊の偉い人達は切腹したのですか?

特攻攻撃を命じたり、明らかな無謀な攻撃をさせたり、捕虜になるぐらいな自決させたりなど、旧日本軍は非人道的すぎるほど規律が厳しかったと聞きます。
そういった命令を下した人間は、敗戦が決まったとき自決したのでしょうか?
戦艦の艦長や、硫黄島だったかの司令官は自決したと聞いた事がありますが、軍部でも最高位地にいて権力が強い人間は戦後どうしたのでしょうか?
映画ローレライだったかで、地位の高い軍人に自決を迫るも誰もやらないというシーンがありましたが、実際もそういう感じだったのでしょうか?

Aベストアンサー

いろいろです。

した人。
大西瀧治郎
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%A5%BF%E7%80%A7%E6%B2%BB%E9%83%8E
「生き残るようにしてくれるな」と医者の手当てを受ける事すら拒み、特攻隊員に詫びるために夜半から未明にかけて半日以上苦しんで死んだという。享年54。

橋田邦彦
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%8B%E7%94%B0%E9%82%A6%E5%BD%A6
この方はとてもよくできた方です。
http://d.hatena.ne.jp/realjazz/20090815
今回戦争責任者として指名されしこと光栄なり。さりながら勝者の裁きにより責任軽重を決せられんことは、臣子の分として堪得ざる所なり。皇国国体の本義に則り茲に自決す。或は忠節を全くする所以にあらずと云はれんも我は我の信念に従うのみ。大詔煥発の日既に決せんと思ひしも、邦家の将来に向って聊か期するところあり忍んで今日に到り、敵の召喚をうけて時節到来せるを歓ぶ。

本庄繁
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%BA%84%E7%B9%81

しなかった人。
辻政信
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BE%BB%E6%94%BF%E4%BF%A1

牟田口廉也
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%9F%E7%94%B0%E5%8F%A3%E5%BB%89%E4%B9%9F
# インパール作戦が敗色濃厚となり部下(参謀の藤原岩市といわれる)に「陛下へのお詫びに自決したい」と相談した(もとより慰留を期待しての事とされる)。これに対し部下は「昔から死ぬ、死ぬといった人に死んだためしがありません。 司令官から私は切腹するからと相談を持ちかけられたら、幕僚としての責任上、一応形式的にも止めないわけには参りません、司令官としての責任を、真実感じておられるなら、黙って腹を切って下さい。誰も邪魔したり止めたり致しません。心置きなく腹を切って下さい。今回の作戦(失敗)はそれだけの価値があります」と言われ、あてが外れた牟田口は悄然としたものの結局自決することはなかった。
# 前線では補給不足で苦戦が続くなかで司令部に清明荘という料亭と芸者を随伴させ、遊興に耽っていた。しかも、作戦中も毎日5時を過ぎると自宅へ帰り、そこで浴衣に着替えて料亭へ出向く生活ぶりは英軍に筒抜けであった。英軍はこれを前線でスピーカーを通じて流したため日本軍将兵の士気を著しく下げた。また、これらに対して諫言を呈した部下を最前線に送り玉砕命を下した。
# 敗色濃厚と見るや司令部の裏手に祭壇を築かせ、作戦指揮そっちのけで毎朝戦勝祈願の祝詞をあげていた。
# 「失敗したら腹を切れ」と部下を難詰するも、自身は自決することなく、余生をまっとうした。

東條英機
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%A2%9D%E8%8B%B1%E6%A9%9F
孫に当たる方も東條英機著の本出版に際してコメントをしており、私としては複雑な心境なのですが、一応。

その他:
http://www.geocities.jp/m_karitto_sakutto/politics/D02_jisatsu.html

いろいろです。

した人。
大西瀧治郎
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%A5%BF%E7%80%A7%E6%B2%BB%E9%83%8E
「生き残るようにしてくれるな」と医者の手当てを受ける事すら拒み、特攻隊員に詫びるために夜半から未明にかけて半日以上苦しんで死んだという。享年54。

橋田邦彦
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%8B%E7%94%B0%E9%82%A6%E5%BD%A6
この方はとてもよくできた方です。
http://d.hatena.ne.jp/realjazz/20090815
今回戦争責任者として指名されしこと光栄なり。さりながら勝者の...続きを読む

Q日本が太平洋戦争で犯した最大の失策

みなさん、日本が太平洋戦争で犯した最大の失策はなんだったと思いますか?

また、アメリカとの国力差をみると負けるのは当然としても、もう少し善戦できなかったのかと考えてしまいます。



どうすれば、より善戦できたか。
また、善戦できなかった最大の理由はどこか、を教えてください。

Aベストアンサー

負けは当然ではありません。
ただ単に大本営の作戦指導にミスがあっただけの事です。
勝ち目はありました。

最大の失策はアメリカ1番の弱点を攻めきれなかった事です。
今も昔もこれからもアメリカの1番の弱点は人種問題です。
当時は現在よりもさらに人種問題は深刻でした。
その人種問題を謀略を用いて攻めきれなかった事。これが日本軍最大の失敗です。

当時の米国では黒人等の有色人種の権利は法的にも低いもので平然と差別が行われていました。
黒人等の有色人種はそれに不満をつのらせていました。
太平洋戦争が始まった時も黒人達は、対外戦争での勝利と、国内での人権向上の権利を得る戦いに勝つ、二つの勝利を目指す「2つのV」というスローガンを掲げていたぐらいです。
政府としては国内を平穏にしておくためと、不足する労働力を得る必要性から黒人への権利拡大に動きます。
その結果、それまで白人しか働けなかった職場に黒人が配置されたり、黒人がそれまで就けなかった地位に就くようになりました。
しかし、これに反発したのが白人労働者で「黒人と一緒に働くくらいならヒットラーやヒロヒトが勝ったほうがましだ!」とストライキや暴動を起こしています。軍需工場によっては白人労働者の9割が職場を放棄したり、2万人の労働者が職場放棄した造船所もありました。
1942年8月のライフには緊迫する軍需産業都市デトロイト(軍需物資の3割以上を生産していた都市)について「デトロイトでは人種対立が激化し、ヒットラーと戦う前に互いに憎しみをつのらせている。モラルの低下は国内でも最悪の状況で、デトロイトはヒットラーを粉砕する前にアメリカを吹き飛ばしてしまう危険がある」という記事を載せています。
実際、翌年にはデトロイトでは大規模な黒人対白人の人種暴動が発生し34人が死亡し1000人が負傷し、軍が動員され暴動が鎮圧されています。
こうした暴動はデトロイトだけでなく全米各地で発生しており47都市で100を超える人種暴動が発生しており、軍需生産にもかなりの影響を与えています。メキシコ系住民と白人との間にも暴動は発生しています。
人種対立は軍需産業における労働者だけではありません。
アメリカ軍内部でも発生しています。白人兵による黒人兵への差別、暴力は多く、それが暴動にまで発生した事件もありました。ルイジアナで起きた黒人兵の暴動では28人の黒人兵が射殺され3000人が逮捕されています。3000人といえば丸々1個連隊に相当する人数です。それが戦争に行く前に内部対立で失われているのです。
だから当時の黒人兵が回想で「我々が戦うべき相手はドイツ兵なのかアメリカの白人兵なのか」というような事を証言しています。
日本は白人と黒人、メキシコ系などの有色人種の対立を加熱させ利用するべきでした。
アメリカの国力は日本の10倍です。しかし、その巨大な工業力も人がいなければ動きません。
工作員を多数確保し白人側には黒人の社会進出の不満を煽り、黒人などの有色人種には白人支配の不満を爆発させるようにして、白人側、有色人種の側、双方から煽り対立を激化させアメリカ国内を紛争状態にし、その工業力を発揮させないようにするのです。有色人種が武器を持ち立ち上がり内乱状態にもっていければ最高です。
日本はスペイン人を利用して戦時中にアメリカ国内にスパイ組織を確保していますが、このように第三国を利用して工作員を多数確保するのもありでしょう。できれば戦前から工作員を確保しておくべきです。
日露戦争の時に明石元二郎大佐がロシア国内の反政府勢力を援助してロシア軍の大部隊を国内に釘付けにさせる事に成功していますが、そのような成果を狙えれば、なお良いでしょう。もしアメリカ最大の石油生産地帯である南部で大きな反乱が起こり、石油の流通に滞りがでればさらに良いでしょう。
日本も戦前からアメリカの弱点の一つとして黒人社会と接触していますが、その工作は規模が小さすぎ大きな力とはなっていないように見えます。これは完全な日本軍の手落ちでしょう。
なお、前述したデトロイトの暴動は日本人工作員によって発生したらしいという話しもありますが、確実な証拠に乏しく詳しい事は判明していません。

アメリカの国力は大きいですが、それが軍需産業としてフル活動するには時間がかかります。だから1942年10月には太平洋で無傷の大型空母は0隻になるという状況も発生しています。エセックス空母の1番艦が実戦に出て来たのは1943年からですし、アメリカ軍の戦力が大きく増強されるのは1943年以降です。
それまでの間にアメリカ国内で人種対立を激化させ内乱状態にまで持っていければ、アメリカは国内問題を先に解決しなければならず、日本に有利な態勢で講和という事もありえるかもしれません。
要は敵の内部を撹乱するのは兵法の常道でもあるにも関わらず、それを怠った大本営の作戦ミスです。

後はミッドウェー作戦での空母戦力の分散でしょう。
アリューシャン作戦を行い空母を分散させました。連合艦隊内部にもアリューシャン作戦は中止し、その空母を南雲機動部隊に合流させるべきだの意見がありましたが、採用されませんでした。
戦後、ニミッツ元帥もこの兵力分散を批判し、兵力を集中していれば日本が勝利していた可能性がある事を指摘しています。
ミッドウェー海戦では日本の暗号が解読されていた事を敗因に挙げる人もいますが、暗号を解読していたにもかかわらず空母ホーネットの爆撃隊は日本の空母を発見できず、20隻近いアメリカ潜水艦も空母を第1目標にするよう命令されていながら1隻も戦果を上げれなかった事からわかるように、必ずしも絶対的な要因ではありません。
もし、日本がミッドウェー作戦で空母を集中投入していれば勝利していた可能性はかなりあるかと思います。
そして、ミッドウェー海戦で勝利していれば、その後の展望も大きく違ってくるかと思います。

さらに日本潜水艦隊による通商破壊戦を全力で行う事でしょう。
アメリカは開戦時、Uボートの活躍で石油不足に陥っていますし、イギリスもUボートの活躍で海上交通路を攻撃され危機的状況にありました。これに日本の潜水艦による通商破壊戦の戦果が加われば、両国は一層苦しめられた筈です。
しかし、日本は潜水艦を全力で通商破壊戦に投入する事はしませんでした。潜水艦部隊から通商破壊戦実施の要望が出されてはいましたが採用されませんでした。

つまり・・・
(1)アメリカ本土での人種対立を激化させ国力を発揮させなくする。
(2)ミッドウェー作戦では空母を集中投入する。
(3)潜水艦による通商破壊作戦を全力で行う。
この三点だけでも成功すれば戦局は大きく動くでしょうし、日本の勝利の可能性もあるかと思います。

細かい事を言えば、まだまだありますが、多くの皆さんが言うように、日本の勝利が不可能だとは、少なくとも私は思っていません。善戦どころか勝利する可能性もあったのに、日本の軍部の作戦ミスで敗北したと私は判断しています。

負けは当然ではありません。
ただ単に大本営の作戦指導にミスがあっただけの事です。
勝ち目はありました。

最大の失策はアメリカ1番の弱点を攻めきれなかった事です。
今も昔もこれからもアメリカの1番の弱点は人種問題です。
当時は現在よりもさらに人種問題は深刻でした。
その人種問題を謀略を用いて攻めきれなかった事。これが日本軍最大の失敗です。

当時の米国では黒人等の有色人種の権利は法的にも低いもので平然と差別が行われていました。
黒人等の有色人種はそれに不満をつのらせていました。
太平洋...続きを読む


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