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個人的にとても疑問に思い悩んでいます。是非皆様御自身の意見をお聞きしたいです。

少し遠回りにお話します。

一般論として、「自分を客観的にみる」といったフレーズがあります。主に、冷静さをいつでも保つ目的等の為にいわれますが、では客観的に自分を見ているのは何者なのか?という疑問があがります。つまり「自分を客観的にみる」を、自分を思考とその他に分けて主体、客体を定め、前者が後者を観察することであるとするならば、結果的に観察する側もされる側も自分の一部ということになります。よって、「自分を客観的にみる」ことは原理的に不可能であるといえます。

デカルトは「我思う故に我あり」、と言いましたが、では「我思う故に我あり」と考える自分は何者なのか?我思う、という現象を観察している時点で、自分を主体と客体に分割していますので、先に申し上げた通り、どちらも自分の一部であり、自分全体の存在や性質は語れません。デカルトの命題では、「我思う故に我は思考回路をもつ」、としか言えないと思います。

では自分とは何者なのか?これを考えてみます。もし、自分とは何かに言葉として、~だというものがあったとすると、その時点で自分を~と定義している主体と、その主体に~と定義されている客体に自分を分割してしまいます。そう考えてゆくとどこまでも無限に分割が出来、
「自分とは何者か?」という疑問には言葉でこたえることは絶対不可能という結論に達しました。


このことについて、ご意見や感想を聞かせて頂きたいと思います。よろしくお願いします。

A 回答 (18件中1~10件)

自分を捉えるとしたら、それは過去の自分になります。


なぜなら、思考の対象とできるものは、常に過去に作られた情報だけだからです。
過去に作られた情報は、「過去そのもの」ではなく、そこから引き出されるものを抽象化したり引き剥がしたり、さらに古い過去の情報と組み合わせたりしてできたものです。
その過去の解釈が完全に自分かと言えば、必ず何かをそぎ落としており、完全なものとはなりえません。
しかし、思考の対象とするにはその程度のもので十分なのです。

自分を対象に捉えようとしたとき、それは自分自身ではなく、自分自身を対象にしようとした自分であり、永遠に自分を捉える追いかけっこが終わらない。
しかしそもそも、何かひとつでも完全に捉えられるものがありますか。
人間が捉えられるものはすべて「そのもの」ではなくて、それの一部分だけを抽象化して概念にしたものだけです。

何も完全に捉えられないのだから、自分がその程度のものでも今更驚くことはないと思います。
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哲学の悪いところは簡単な話を難しく語ることです。

? それが面白いところかもしれませんけど、、、。

自分を客観的に観るというとき、「観る」の主語が自分だと話がおかしくなります。
自分を客観的に観るためには、他人からどう見られているかを想像することが重要です。

「俺は二流大学卒だからなあ、、、」(依然として主観的)
「あの人は大学出だしな、、」(客観的)

「もう40歳になってしまったし、俺の人生、もうあまり可能性が無いなあ。」(自分の目線)
「○○の息子はまだ四十じゃけん、夢が有って良いのぉ。」(親戚のおじいさんの目線)

愚拙は、自分の能力や、立場、可能性などに限界を感じた時に、他人の目からどう映ってるかを考えて「悪くないじゃん」と慰めることがあります。
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 自分は、完全な理系です。



>つまり「自分を客観的にみる」を、自分を思考とその他に分けて主体、客体を定め、前者が後者を観察することであるとするならば、結果的に観察する側もされる側も自分の一部ということになります。

 全くその通りだと思います。


>よって、「自分を客観的にみる」ことは原理的に不可能であるといえます。

 ここからが、理系人間の意見としては違います。


>では「我思う故に我あり」と考える自分は何者なのか?我思う、という現象を観察している時点で、自分を主体と客体に分割していますので、先に申し上げた通り、どちらも自分の一部であり、自分全体の存在や性質は語れません。デカルトの命題では、「我思う故に我は思考回路をもつ」、としか言えないと思います。

 分割された「主体と客体」は、結局は自分の一部に過ぎないのだから、自分全体は語り得ないというのが、あなたの論拠だと思います。でも、語れると思うのです。それは「やり方」によります。それは、あなたが、ご自分で仰ってます。


>・・・そう考えてゆくとどこまでも(自分を)無限に分割が出来・・・

 ()は私が勝手に入れました。そうです人間は常に、どこまでも自分を細分化しています。主体/客体を瞬時に移り変わり、常に自分自身を自分でモニターしています。この意識現象としての「無限のフィードバック機構」が、自意識の根拠だろうと、勝手に思っています。
 そして、自らが「主体となる瞬間」と「客体となる瞬間」は、同時ではありません。たとえ{意識的には}瞬間であろうと、そこには「物理的には」有限のタイムラグがあります。脳の神経機構は、物理的にそう出来てるからです。

 という訳で、分割された「主体と客体」の「全部」は、「メタ主体」によって語れるのです。何故なら、限りなく分割された「主体と客体」の「全部」は、物理的に脳の「海馬域」に記憶され、それが「その主観の、意識された主体によって」読み取られるからです。その瞬間の意識された主体は、メタ主体と同じだと思います。そういう事が出来るのは、人間は常に、自分自身をモニターする「限りないフィードバック」を常に、物理的に(脳の中で)行っているからだと思います。
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自分を主観と客観に分けるから無限ループするんじゃないですか。


鏡の前に立てば自分で自分の全体像を見ることができますよ。
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単純に人間であること。

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 自分とは何者なのか?の疑問についての答えを得たら、その答えを得ている自分って何者でどんな存在性なのかというお話でしょうか?


 
 其処になっているもの、化しているもの、反射しているもの。見つめているもの。
 
 五歳のときそのような疑問で、誰かが見つめている感じになり不思議になって自分の四肢や体を確認しました。
 客体対象たる、その存在が経験し知覚し、認識した内容や結果を自己としていることが多く、そういう知覚と認識の仕方と延長で把握する事は、主格の自己把握は不可能と存じますが。
 だから、其処になっているもの、化しているもの、反射しているもの。見つめているものが自分である。
 それは何物か。創造意識が創造客体に反射した意識であると存じます。
 それは実は一であり、多とすることは見かけ(経験認識の方式に過ぎない現われ形式)だと存じます。

 私はhttp://www.yogananda-srf.org/というSelf-Realization Fellowshipのギータで学びました、いえ学んでいます。まだ40年しか精進していません。
 個々たる自分っていないようです。私自身の幼いときの思いに合致しているので正しいのかと存じております。
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 No.12です。



 まぁ蛇足のようになりますが:
 ★ ~~~~~~~~~~
 自分が何者か?と問う自分こそ、自分ではないか?ということでありましたが、その問うてる自分を認識しているのは誰でしょうか? 
 それはまたしても自分の主体です。
 ではそう認識しているのは誰?・・・と考えてゆくと、無限に自分を分割してしまい、自分全体は何なのか?と捉えることは不可能だと思います。
 ~~~~~~~~~~~~
 ☆ このときにはですね もし《わたしがわたしである》という自己還帰を得ているなら 《わたし》は数字で《一》なのです。
 結論から言いますが:
 ○ わたしの自己表現をすすめていく動態(人生)は 我れに還った《わたし》の自乗を繰り返していくということになります。
 ○ ということは わたしが一であるなら 1^2=1 そして 1^n=1 として いつまでも・どこまでも・あくまで一でありつづけ《わたしがわたしである》なのです。
 ☆ どうでしょう? 

 
 * ものすごく乱暴に言えば 《客観》という概念すら この際 要らないということになるかも知れません。言いかえると 《一》であるわたしに ああぢゃこうぢゃ外から余分なものを飾りつけ過ぎるのではないか? これです。
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 こんにちは。



 質問のご趣旨がつかめないという感じを残してですが まづ次のように問い返します。

 ★ 「自分とは何者か?」という疑問には言葉でこたえることは絶対不可能という結論に達しました。
 ☆ という《何者》なのではないですか? こたえがそういうかたちで出ているのではないでしょうか?

 というのも――どういうわけか―― おっしゃるように言葉による表現 これを介してわたしたち人間は自分でも思惟を重ね ほかの人ともやり取りをするという成り立ちに発しそのままをいまも人間どうしの交通の仕組みとしているからです。

 《我れに還る》ということがあります。わがマチガイに気づくときです。大きなアヤマチをしたと気づいたときには 変な言い方ですが それにふさわしく《おおきな我れに還る》。
 このようにむろん 所詮は主観としての主観内面でのしかもただ言葉を介しての《自己の自覚でありその自己への到来であり また還帰である》のでしょう。この主観内面における自己の問い求めという過程を ひとはさまざまに通って言わば巡礼の旅路をあゆみゆく存在であるようです。
 ところが 巡礼の箇所を全部まわったとしても あるいはそれを何回積み重ねたとしても定まったおのれが いわゆる客観的に明らかになるかと言えば なかなかむつかしいことのようです。

 とうぜんのことながら 経験的な存在とは 相対的な存在です。すべては移りゆく・うつろいゆく世界であり わが存在も動態であると覚悟しなければなりません。
 あとは 確信です。これに尽きます。
 《我れに還った〈わたし〉》が 探していた自己なのです。しかも動態です。
 《われ考える ゆえにわれあり》というそのコギト(思考)は 《あやまつなら われあり》というときのその《あやまちをおかしたと気づくにあたっての思考》を言っています。
 このときの我れは 誰かがこう言ったとしても・つまり《なるほどおまえは我れに還ったのかも知れない。だが その我れなる自己は どうして人びとから見ても客観的なる存在としての自己であると分かるのか? ただの自己満足にしか過ぎないのではないか?》と言ったとしても そのことによって欺かれることはないのです。まして他人にそのことをおしつけてはいないし おしつけようなどと思っているわけではない。確信のもんだいに尽きるかたちになります。

 考えるに そのようなあいまいな表現を許容している交通の仕組みであるほうが 何かと便利なのではないですか? きわめて柔軟なまた自由な表現ができるはずです。むろん うそつきがときに横行するという別の便利さも持ち合わせておりますが。
 つまるところは おのれのついたウソ これに気づくとき 我れはある。これです。


 * もうひとこと:もっともわたくしなるものは きわめて人びとにも合っている存在の要素であるようです。(だから他方では わたしは神を見たというほら吹きが絶えませんが)。

この回答への補足

皆様ご回答誠にありがとうございます。bragelonne様、問い返しということでありましたので、私から回答させて頂きます。
 ★ 「自分とは何者か?」という疑問には言葉でこたえることは絶対不可能という結論に達しました。
 ☆ という《何者》なのではないですか? こたえがそういうかたちで出ているのではないでしょうか?
自分が何者か?と問う自分こそ、自分ではないか?ということでありましたが、その問うてる自分を認識しているのは誰でしょうか?それはまたしても自分の主体です。ではそう認識しているのは誰?・・・と考えてゆくと、無限に自分を分割してしまい、自分全体は何なのか?と捉えることは不可能だと思います。

それはさておき、貴方のご回答は論理だけでなく、感覚的な部分も言及されているので、新たな視点だと思います。多くの示唆を与えられています。ありがとうございました。

補足日時:2011/01/31 12:07
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つたない例えで恐縮ですが、主観的自己を暗闇のようなものとします。

今明かりをつけて見ようと消えてしまいます。自分の体は見えるでしょう。せいぜいこれが客観的自分ではないでしょうか。脳の解剖からいえば明かりをつけても変わらない部分というのが主観的自分(主体的自己)に対応しているのではないかと思います。
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「自分を客観的に見るのが不可能」だというのを自己チューの言い訳にせず、どのような過程によって主観的であるのかを可能な限り理解し、その弊害に対してフィードバックする事を、客観的だといえます。

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