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問う人:
 一つ訊いてもえーか。

「人の道」:
 何でも訊いてみい。
 ここは質問し答えを出す場所や、なんにも遠慮は要らんのや。

問う人:
死とは何や。

「人の道」: 
死とは命が終わることや。

問う人:
命が終わると次に何が来る。

「人の道」: 
何も来はせん。

問う人:
では人は死ぬとどーなる。

「人の道」: 
どーもならん。

問う人:
どーもならんとはどーゆーことや。

「人の道」: 
つまり人は死ぬと消えて無くなるちゅーことや、消滅するんや、消滅して無になるんや。
無になったら、もう何も起こりようはない。
だからどーもならんちゅーとるんや。

問う人:
皆んな、死んだらただ消えて無くなるだけか。

「人の道」: 
そーや、皆んな死んだら消滅し無になるだけや。

問う人:
では死んだ人間を供養しても無駄なんか。

「人の道」: 
そーや、死んだ人間など供養しても無駄や。

問う人:
では死んだ人間はどーすればえー。

「人の道」: 
土に帰し、速やかに消滅させることや、
それが一番えー、そして忘れることや。

問う人:
死んだ人間を供養もせんで忘れてしもーたらバチが当るんと違うか。

「人の道」: 
あのなあ、
死んだ人間などどーでもえーから生きとる人間を大事にせーちゅーとるんや。
これが自然界の掟、宇宙の法則や。
どーや、これで死が何か判ったか。

問う人:
はい、判りました。
人は死んだら消滅し、無になるんや。

「人の道」: 
死んだ人間はどーすればえーかも判ったか。

問う人:
はい、判りました。
人は死んだら土に返し、速やかに消滅させ、忘れるのが一番えー。

「人の道」:
人が死んだら供養などせんでもえーから、生きとる人間を大事にせーちゅーことや。
もしこの考えが何かおかしいと思うんやったら皆にも訊いてみるとえー。

問う人:
人が死んだら供養などせんでもえーから、生きとる人間を大事にせーちゅーこと、皆はどー思うか聞かしてくれ。

A 回答 (33件中11~20件)

 No.17&18です。



 ☆☆(No.18お礼欄)~~~~~
 生きとる人間を大事にすることは、死んだ人間を供養することより遙かに難しい。
 だからわしは生きとる人間を大事に出来れば、死んだ人間を供養する必要は無くなると言うとるんや。
 それ以外に何か答えが有るんか。
 ~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この命題について 論理的に批判することはやさしい。
 でも 別の問題を それでは出して さらなる探究へのあゆみを祈って筆を擱きます。(どうしてもお答えすべきご返答をうけたときには 考えますが)。

 すなわち こうです。
 ○ 《生きとる人間》とは どういう状態を言うのか?
 ○ 言葉をしゃべっていれば《生きている》と言えるのか?
 ○ つまり生まれてから息を引き取るまでは 無条件にその人間は《生きている》と言えるのか?

 ☆ こういった問いが たぶん正当にも挙げられ得るゆえに 《生きているあいだに人を大事にする》ことがしばしば悪戦苦闘になるという問題が生じます。

 すなわちもし
 ★ 生きとる人間を大事に出来れば、死んだ人間を供養する必要は無くなる
 ☆ と断定することが出来るとすれば やはり《生きている間に互いに互いを人間として大事にする》とはどういうことか? これが むしろ先決問題である。こう考えたものでした。

 くどかったかも知れません。
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この回答へのお礼

 
>《生きとる人間》とは どういう状態を言うのか?

生きとる人間とは枕を並べて一緒におねんね出来る人のこという、これが一番正しい。

>言葉をしゃべっていれば《生きている》と言えるのか?

あのなあ、
言葉をしゃべれん言語障害者もおるちゅーこと、忘れたらいかん。

>つまり生まれてから息を引き取るまでは 無条件にその人間は《生きている》と言えるのか?

元々の自然界においてはそのとーりや。
ところが最近のアホな医者と間違った医療のおかげで植物人間ちゅーのが大量生産されとる。
本来の自然界には決して起こりよーのない最悪の事態が今この瞬間にも大量に生まれておるんや。
何というアホらしさ、何という下らなさ、あー哀れ。
 
《生きとる人間を大事にする》ことが悪戦苦闘になるちゅーのは、人が自然界の掟、宇宙の法則を理解しよーとせんが故に起こる当然の成り行きや。

「大事にする」とは、既に述べた通り誰でも判ること、簡単なことや。
そーゆー枝葉を追求したところで何の価値も生まれんのや。
 

 

お礼日時:2011/02/06 19:37

死んだ人を供養することについて述べる前に、確認したいことがあります。



他のスレッドでも触れましたが、
g3452sgp氏は自らのサイトで、宗教について以下のとおり言及していますね。

---------- 宗教の本質 ----------
       十ヶ条
一.宗教は人類の誕生とともに自然発生的に生まれました。
二.宗教は全世界に隈なく分布し、その数は数千にも数百万にも及びます。
三.宗教は神、天国、地獄の3つの概念により構成されます。
四.宗教は心地良いものであり、悩み、苦しみからの逃避手段です。
五.全ての宗教は宇宙は有限であると説きます。
六.宗教は人の死に際を整えるための儀式です。
七.宗教はもともと人間社会を統治する道具として生まれました。
八.宗教は利益を追求するものです
九.儀式や統治の道具としての宗教は力を失い、宗教の時代は終わりに近づいています。
十.宗教の次に来るもの、それは「人の道」、つまり真理の探究であり、思想と哲学の時代です。
ttp://www.geocities.jp/g3452sgp/honsitsu.html

色々疑問を感じるのですが、
まず、最初「一.宗教は人類の誕生とともに自然発生的に生まれました。」の根拠はなんですか?
人類は、一挙に今の人間のように知性を獲得したわけではなく、ゆっくり知性が高まったはずです。
ピテカントロプスとか、北京原人を見れば分かるように、知性は低かったはずです。

例えば、進化の途中で、今の猿ぐらいの知性の時期もあったと思われます。
今の、猿が宗教を持っているとは思いません。

繰り返します。一.の根拠を教えて下さい。
想像ですか?
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この回答へのお礼

 
あのなあ、
人間が猿やった時期もある。
しかし更に元を辿れば、猿である前にネズミやった、そのまた前はオタマジャクシやったんや。
しかし、そんなことはどーでもえー。
わしが「人類の誕生」ちゅーたのは、人が人としての体裁を呈して以来ちゅーことや。
 

お礼日時:2011/02/06 19:51

「人の道」の話は、ある意味、格好良すぎますね。

生きている人を大切にすることができたら、それはその方がいいでしょう。一般的にいって、死んだ人の供養に莫大なお金や労力をかけるより、泣いている友達を助けたり、アフリカの飢饉に瀕している人に募金を送ったりと、生きている人に労力やお金を割いた方がいいだろうと、私は思います。
死を悼む極致にあるピラミッドやタージマハルは壮麗ですが、文化の結集だという以前に、こんなことをやられたらたまったものではない、王は阿呆だなと私個人は思います。靖国も私は支持していません。死者を弔うのは自分自身の心を落ち着かせるためにするのですから、基本的にはナルシスティックな行為だろうと思います。

とはいえ、身近なところで、生きている人を大切にすることは難しいものです。私は高校の時に友人を自殺で亡くしましたが、生前は彼に冷淡だった級友らが、死んだとなるや否や、掌を返すように死を悼み始めました。私は怒りを感じて、「お前ら、今頃惜しむくらいだったら生きてる時に大事に何でしてやらなかった?!」と怒鳴ったものです。ただこの言葉は、逆に、私自身にも向けられたものであったと言えましょう。もっと何かしてやれたら、死にはしなかったのではないかと思えました。それ以来、やれる範囲で、生きてる人を大事にしています。しかし、これは案外、しんどいのですよ。

人間というのは俗物ですから、我儘いい放題の相手だと、受け入れられなかったりするのです。まぁそれが家族だったら、仕方ないかと忍耐もしましょう。しかし赤の他人となれば、友人であったにせよ、難しいのです。自分も生きて行かないとなりません。生活を侵害してくるようなら、相手が阿鼻叫喚しようと、バッサリ切っていかないとならない時もあります(最近、このウェブ上で私が見切ったのをご覧になったでしょうね。それは生死に関係ない話ではありますが、細々とした日常でも起きうる事例ではあります)。
さて、自分が手を引いた後、悪意はないけれども、結果が悪い方向に行き、見殺しにする結果になってしまった時、どうしたらいいでしょう。私はささやかな形にせよ、弔うしかないのではないかと思います。大々的に葬儀をするということではなく、命日が着たら、線香を立ててと手を合わせるくらいは必要だと思えるのです。「見捨てる」など、実はしょっちゅうやらざるを得ないことですから、この微妙な罪悪感を忘れたら、人は人で無くなるような気もするのです。今になってみると、私は級友らを責めましたが、死んでから大切にし始めた気持ちもわからないのでもないのです。

私のいう「見捨てざるを得ない」ことは、ほんの一例です。他にも、戦争だとか交通事故のように、どうしようもないものに巻き込まれて死んだ者もいるでしょう。あるいは不治の病で助けられない若い友人を失ったらどうしたらいいのか――。
問題は死にゆくものへ、自分が何もしてやれなかったという罪悪感です。何かしてやれるなら、それをやってあげればいいでしょうが、何もできない時に、どうしたらいいのか。無念を抱えつつ、弔うことで、次が起きないように祈ったり、努力するしかないでしょう。
弔わなくても記憶に留めればいいというかもしれませんが、それは極論で、格好良すぎると思うのです。宗教というフィルターなしでは、死者の全部を受け止め、背負うしかないでしょう。それは重すぎるというものです。背負えても、せいぜい、一人という風に思えます。複数を背負うのなら、重みに耐えるべく、思想家にでもなるしかないでしょう。でも誰もが思想家になれるわけではありません。

>人が死んだら供養などせんでもえーから、生きとる人間を大事にせーちゅーことや。

この主張が、当てはまるのは、家族の介護などの問題でしょう。何かしてあげられることがあるのに、死後には労わるが、生前に手を惜しむのは、よくないことです。その場合、おっしゃることに異論はありません。ただ一般論として、死に関すること全部に対して言える議論ではないと思います。それに現実問題として、家族であっても、姥捨て山に連れて行かざるを得ない人もいるでしょうね。合理性を追求したら、そういう不幸な時代になってしまったと思います。

本当は誰もが「人の道」のいうようにできたらいいのでしょうが、そうはできないから、無念を抱えつつ弔うのだと私には思えてなりません。「格好良すぎる」と冒頭で私は述べましたが、上述の理由から、これは議論に生の重みを感じられないという皮肉なのです。

この回答への補足

 
タージマハルは壮麗かもしれん。
しかし、その壮麗なタージマハルを建造するのにどれだけ多くの低層カーストがこき使われ死んでいったことか、そーゆーことが最初に問われねばならんのや。
 
ピラミッドは壮大かもしれん。
しかし、エジプトではクフ王のピラミッド建造のためにどれだけ多くの奴隷がこき使われ死んでいったことか、そーゆーことが最初に問われねばならんのや。
 
現在でも国民の税金が無駄に使われるとき、必ず似たよーなことが起こっておるはずなんや。
 

補足日時:2011/02/07 06:24
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この回答へのお礼

「人の道」に至るのは、簡単なことではないんや。
「人の道」に至るには、真理を探求せんとする強く正しい意志を必要とするからや。
そのためには坊主の考え出した供養とか何とか、そーゆー形ばかりのものに拘っておっては真理の探究はできんし、世界は進歩せんのや。
格好良すぎるとか何とか、そーゆー問題ではないんや。
 

お礼日時:2011/02/06 19:10

>憲法で保障する信教の自由は完全に崩されたことに等しい


ないで。自由なんぞ
どっかの国では、昔の日本みたく、焼かずに海に流す供養しとったら
先進国から激しく非難・・じゃなく、ご指導されたとか、どうとか・・
葬儀、埋葬、仏壇、残した財産、なんもかも本人の意思なんぞ・・
遺言なんて残しても・・相続の権利だのなんだので、
やりたくない奴に持っていかれる。
自由なんぞ、どこにもない

同時に、どう死ぬか、の自由もない
言葉が使えなければ、されるまま、どんなに苦しくても、痛くても

昔、死にそこなった時に言われた
そこらで死なれちゃ困る。

>供養という言葉は、本来、生きている人に対して使われる言葉です。
今の日本・・これ、どこ行っちゃったんだろうね~。
生きてる人は、どんなに必要でも
養生すんのは「ぐうたら」と言うらしい。
ほんとの、ぐうたらと、そうでないのとの区別もできん。


こぉ~ゆ~のを考え始めると
止まらなくなりそうなんだが・・

たいていはこのへんで、お邪魔虫が出てきそうなもんだが・・

自由に書かせてもらいまして。
おぉ~きに♪
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この回答へのお礼

>同時に、どう死ぬか、の自由もない
言葉が使えなければ、されるまま、どんなに苦しくても、痛くても

現代医療ちゅーもんは元々そーゆーもんや、全てが金儲け、諸行無常の至りや。
真理を探求すればこの現代医療が如何にアホらしいもんかちゅーことが判ってくるんや。


>供養という言葉は、本来、生きている人に対して使われる言葉です。
今の日本・・これ、どこ行っちゃったんだろうね~。

わしはずーっと言うとるんや、坊主のせーでこうなったと。
 

お礼日時:2011/02/06 01:41

最終章に入られましたね。

g3452sgp様 こんにちは。
bragelonne様 v4330様お久しぶりです。

供養という言葉は、本来、生きている人に対して
使われる言葉です。

空腹の人あれば、食べ物を差し出し、足元が暗い人あれば
明かりを持って側に立ち

お金が必要な人あれば、お金を渡して、使っていただく。
これが供養の本当の意味です。

死んでから、急に、「おいたわしい」とか
「供養させて下さい」だとか来られても

死んだ人にしてみれば「あんた誰?」て、なります。

供養が、いつから死者に対してのみ、使われるようになったのか?
そこには坊主の企みが見えますね。


本題は死についての問答でした。

死を説くは、これにてお別れを意味しますね。

死をもって、生きるを説く者あり。
生きるをもって、死を説く者あり。

私は、これまで、死については{ 未だ成らず }と
申し上げて来ましたが

問答に参加したからには、何かしらの答えを出さなければ
いけない気が、しましたので、自分なりに解いてみます。


外に在りて、内なるもの。 そこに在りて、そこに無きもの。
限りに在りて、無限なるもの。

死とは、パンニャの法にて大なり
永遠の慈愛にて、唯一不変のものなり。

よって、死、是即ち、問答無用と申すが如し。
是即ち、”空”なり。

空 には色々な意味が有る(無い)そうです。
少ない知識を、振り絞って考えましたが、これしか思いつきませんでした。

なんか頭の回転が遅いです。お金の計算なら、早いんですけど ^^
欲でしょうか。
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この回答へのお礼

 
>供養という言葉は、本来、生きている人に対して使われる言葉です。

全くそのとーりや。
ところがこの本来の供養を坊主がよってたかって捻じ曲げた挙句、いつの頃からか死んだ人間を奉る行事になってしもーたんや。
くそ坊主どものせーでこーなってしもーた。
全て悪いのはこのくそ坊主、信長の時代以来ずーっと変わっとらんことや。

それとなー、
死は{ 未だ成らず }ではのーて、{ 既に成った }でえー。
 
あとなー、
生きとる人間が死ぬとき、次のように変わり、最後に無になるんや。

  生 → 空 → 無
 

お礼日時:2011/02/06 01:19

>生きとる人間を大事にせーちゅーこと




生きている人は死んだ人を大事にします。
これは生きている自分自身の心を安寧にするためです。
これ生きている人間を大事にしていることです。したがって

「生きとる人間を大事にせーちゅーこと」equal「死にとる人間を大事にせーちゅーこと」

なのであ~る(o^∇^o)
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この回答へのお礼

 
あのなあ、
生きとる人間を大事にするちゅーことは難しいんや。
もし生きとる人間を大事にすることが出来たら、そいつが死んだ後はもーどーでもえーんや。
死んだ本人も生きとる間に大事にされたら、死んだ後のことなどどーでもえーと思うもんや。
生きとる人間を大事に出来んもんが、死んだ後のことをとやかく考えるんや。
 

お礼日時:2011/02/06 00:47

 No.17です。



 ★ ~~~~~~~~~~~
 《大事にする》ちゅーのは格段難しいことではないはずやが。
 人を大事にするとは人の基本的人権を尊ぶ、人の価値を認める、人の自由を認める、そーゆー当たり前の事ではないんか。
 ~~~~~~~~~~~~~
 ☆ まったくおっしゃるとおりです。
 と同時に 実際には 順番ちゅーものがあるのとちがうんかな。

 たとえばすでに結論づけるような言い方をすれば
 ○ 相手を自分よりも一秒ほど先に気づかう。つまり《大事にする》。
 ☆ といった考え方が持たれます。具体的にはです。《ゆづる》という方法ないし思想です。

 ところがこれも なかなかむつかしいように思うんです。
 一歩あるいは半歩ほど相手にゆづったら もうじゅうぶんなのか?
 特に利害関係で対立する相手である場合には どうするか?
 そのとき 互いにどちらも個人であるだけではなく 組織の一員として行動しなくてはならないときには どうか?

 あるいはたとえば ひとの回答に対して 《無用でしょう》とのみお礼欄で答える人間について《その基本的人権を尊び その価値を認め、その自由を認める》ことと そのいわば無礼をたしなめることと どちらもじゅうぶんに表現して行かねばならない。と思われるとき どうするか?
 
 いったいどうひとを大事にするか?


 あるいはまた たとえ麦の中に毒麦が生えて来ても その毒麦を引っこ抜くときに麦もいっしょに抜いてしまいかねないというので 収穫のときまでそのまま生かしておくようにという命題があります。とは言うものの 実際にやろうとすると むつかしい。どうやればよいのか。きわめて試行錯誤の連続であると思われます。

 こういった或る意味で悪戦苦闘を 一人ひとりがじっくり大事に取り組んで生きて行くなら もう仮りに どこかで死者が出たとしても そのような悪戦苦闘の努力そのことで その死者を厚くほうむることが出来ている。かに思われます。
 そういう世の中のあり方を――実際の行動はむつかしいのですから―― いつも人びとが互いにその努力を振り返ったり話し合ったりして互いにさらにあたらしい知恵を出し合っていくのがよいように思います。そういう死者の扱い方を間接的にやれていればよいと思うのですが・・・。
 
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この回答へのお礼

 
生きとる人間を大事にすることは、死んだ人間を供養することより遙かに難しい。
だからわしは生きとる人間を大事に出来れば、死んだ人間を供養する必要は無くなると言うとるんや。
それ以外に何か答えが有るんか。
 
 

お礼日時:2011/02/06 01:57

 こんにちは。



 ★ 生きとる人間を大事にせーちゅーこと、
 ☆ この命題について実はいろんな考えがあります。《大事にする》その仕方つまり中身ですね。慈悲だの愛だのあるいはそんなものはまやかしだだの。

 この中身を一人ひとりがそれぞれ決めていわばその世界観を形作る態勢が出来たとき 死をどう考え死者をどう扱うかといった問題について たぶんおのづから 答えが出て来るものではないでしょうか?

 そういう順序で話しをすすめるのが よいという考えを持ちますが どうでしょう?

 つまり そのような世界観が決まらなければ 葬式仏教だろうが何だろうが 従来のやり方に いやいやながらも従って生きることになるでしょう。
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この回答へのお礼

こんにちは、bragelonneさん。
巷では皆あんたのこと立派やと言うとる。わしもそー思う。

しかし、あんたほどの人がなぜこのよーな簡単なこと訊くのかよー判らんのや。
《大事にする》ちゅーのは格段難しいことではないはずやが。
人を大事にするとは人の基本的人権を尊ぶ、人の価値を認める、人の自由を認める、そーゆー当たり前の事ではないんか。
 
 

お礼日時:2011/02/04 20:37

>後5年も経てば、世の中すっかり変わりそんなこと言うとるあんたはすっかり取り残されて浦島太郎になっとるかも知れんのや。



・・・5年じゃ・・無理だとおもうよ。
50年・・100年くらいは必要かも・・
それでも無理かもしれない・・って思ってしまうくらいに、
田舎の風習というか・・すごいのよ。
だから尚更、墓なんぞに入りたくない!!って、思ってしまう。
けど・・現実は・・・だから
たてまえ・・も、持ち続けていないと、周囲とうまくいかない。

おまけに現代では、人を灰にしても、勝手に海に撒いては・・いけないらしい。
お役所に申請しなければ・・
田舎では、このお役所に申請した時点で、村中に噂が広がることを覚悟しなければ・・・
こわいよぉ~~!!

そんなこんなを 見れば見るほど、長生きしたくないなぁ~って
思ってしまう。
しかし、同時に、どう死ぬか?
と、考えてしまう。
運動嫌いの私は、まず、寝たきりになる可能性大!!
やだなぁ~~!!

とか・・考えていると・・現代は医療も随分進化しているが・・
時々・・そこまでするの・・・と思う時もある。
死して尚、他人の役に立つ人は、少なくない。
(臓器提供、献体・・・)
もちろん、生きているうちにいろいろ残す人も多いが・・・
とりあえず・・・体
医者が医者になるには・・・人、の助け無しにはなれない。
時には、
*自分が医者になれたのは”献体”してくれた人のおかげ
だから・・今、自分の親の死を前に・・親の体を・・・
自分が全部見届け後は元通り綺麗にするから
と・・親族、兄弟姉妹を説得しようものなら・・
なんて酷い子どもだ!!
と言う奴は必ずいたり・・
本人が一番辛いのに、追い打ちかける・・・

90にもなろうか?ってなお年寄りが風邪をこじらせて
「奇蹟的に助かってよかったですね」
しかし・・徘徊もはじまり・・
畳の上で用をたす・・・
介護に疲れて、家族崩壊


生きる

って・・何だろう?
死ぬ自由の無い、自由な世の中

自分が寝たきりにでもなったら、
病院でも、施設でも、迷わず入れてくれよ!
毎月面会なんて、無駄なことすんなよ、
自分の家族を最優先にするんだぞ!

子どもに・・ふと、言い聞かせ・・・

人は皆・・何の為に生きてるのかな?

身近でも、首吊った人もいる、
癌で亡くなった人も

最期に・・笑って逝かれる人は
あまりにも・・・少ない。

私は・・笑って死ねるだろうか???
それとも・・・苦しみ抜いて???
最期の瞬間に思い出すのは・・楽しいことかな???


あいや・・いつもこんなこと考えてるわけじゃないぞ!!
でも、時には・・考えてもいべさ。
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この回答へのお礼

 
>田舎の風習というか・・すごいのよ。

田舎の風習とか何んとかそんなことはどーでもえー。
大体なー、田舎ちゅーのは甘えがあるんや、国に対して。
これからは地方自治の時代なんや、田舎も地方もよー考えなあかんのや。
そーでないと日本はもー滅びるしかないんや。

>おまけに現代では、人を灰にしても、勝手に海に撒いては・・いけないらしい。

もしそーであれば葬儀の仕方まで役所の許可えなあかんちゅーことになるな。
葬儀の仕方を役所が取り仕切ることはできんはずや。
もしそーなったとしたらこれはもー重大な人権侵害なんや。
憲法で保障する信教の自由は完全に崩されたことに等しい。
そんなことは絶対にあってはならんと言うとく。

>しかし、同時に、どう死ぬか?と、考えてしまう。

なぜどう死ぬかなんちゅーこと考えなあかんのや。
わしにはさっぱり判らんのや、その辺りが。
どーでも自分の死にたいよーに死ねばえーんやないんか。
そーではないんか。
 





 

 

お礼日時:2011/02/04 19:45

>わしが死んだら墓も作らんでえー、葬式も供養もせんでえー、わしの骨は全部太平洋にばら撒けと。


さすが鄧小平は偉大やと思うた。

私が「生きている人間が納得」と云ったのは葬式やら埋葬やらをする家族だけの話では無い。
都会では希薄になっているが田舎だとそうもいかない。
例えば夫が死んで妻が遺言通り墓も造らず骨を海に撒いたとしよう。
しかし夫の両親は怒り心頭なんて話は幾らでもある。
たとえ親族が納得して遺言通りにしたとしても今度は狭いコミュニティの田舎では「あそこはまともに葬儀もしない」と後ろ指を指される。
そうなると生きている方はそれを跳ね返すだけの気力があれば良いが、普通は年寄りばかりなので辛いばかり。
俺の墓は要らんと云うのは簡単だが、残された方はたまったもんじゃない。
偉大でも何でもなく単なる我儘。

実際私の家内の身内の死でも通夜、葬式の料理の質から初七日、四十九日と都会では有り得ない「本当に七日」たってやらなければ周りからとやかく云われかねない(実際に云っている人がいた)ので義母は頑張ってやっていた。
そんな現状を全く知らないから呑気に云えるのだ。
個人的には死んだら霊とかの存在は全く信じていないので「無」だと思っているが、現実はそうも行かない。

まぁ回答者へのお礼を見る限りでは理解出来ないようだけど。
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この回答へのお礼

 
この世界は常に移り変わるもの、無常なる世界や。
あんたが言うそんな古い世の中が何時までも続くと思うては間違いや。
後5年も経てば、世の中すっかり変わりそんなこと言うとるあんたはすっかり取り残されて浦島太郎になっとるかも知れんのや。
しかし形や権威に捉われることのない心は世の中がどー変わろーと常に成り立つんや。
 


 

お礼日時:2011/02/04 07:23

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