「一気に最後まで読んだ」本、教えて下さい!

快慶について歴史を調べています。

1600~1700年間に権大僧都法印快慶が存在してますが

活躍状況等ご存知の方お教え下さい。

A 回答 (3件)

下記のURLをご参照下さい。



参考URL:http://www.bunkaken.net/index.files/kihon/bushi/ …
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この回答へのお礼

お礼を遅れ申し訳ありませんでしたがお調べありがとうございました。

おかげさまで色々な情報を調べる事が出来ました。

下記の情報は和歌山県文書でNETと同じでした。

http://www.mason-kitani.co.jp/jiin/no31.htm

お礼日時:2011/02/21 16:07

断片的に過ぎませんので既に御存知であられたり、


全くの見当違いの場合には御容赦下さいm(_"_)m

江戸期頃の「快慶」の場合…

一人目は時期外れの大穴候補の「快慶」(文祿二<1593>年仲秋寂)
◆(高野山真言宗)総本山金剛峯寺 座主
http://www.koyasan.or.jp/kongobuji/zasu/zasu_rek …
212世 快慶 天正17(1589)年晋山(就任)

◆『紀伊続風土記[第3冊]第4輯 高野山部 上/
仁井田好古等編/帝国地方行政会出版部/明治44』
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/765520/357
「紀伊續風土記高野山之部 巻之三十一/山主次第之二」(701頁)<357/472>
<以下部分抜粋>
第二百十二世寺務檢校法印快慶 長仁房無量壽院 淡州人天正十七年
八月十三日寺務職に補す執行代頼旻 賢榮房北室院 同十九年十
二月日寺務職を辭す治山三箇年 文祿二年仲秋卒す(任日月日失)山務の間天正
十八年九月廿八日興山寺落慶供養導師檢校快慶職衆四十
二口此四來住山の客僧學寮とす天正十九年十月廿一日 太
閤一萬一千石の御朱印を賜ふ使臣二人 片桐東市正早川主馬頭 來登 別記に詳なり

※別記『紀伊続風土記[第4冊]第5輯 高野山部 下/
 仁井田好古等編/帝国地方行政会出版部/明治44 』
 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/765521/79
「紀伊續風土記高野山之部 巻之五十一/寺領沿革通紀之下 天正年中危安」(149~152頁)<79~81/418>
(ただし「快慶」の記述はなし)

二人目が本命候補、僧官位まではわかりませんが、
17世紀ど真ん中の「快慶」なんとも凄まじい御様子…
ただ、辻信俊が中心のお話なので手懸かりが少なく最期も曖昧。
~小比叡騒動~
慶安五(1652)年三月十三日に、小木町の小比叡山蓮花寺で起こった騒動。
佐渡奉行の所の小木番定役だった辻信俊(藤左衛門)とこれに加担する同寺住職の快慶上人らが寺に立て篭もり、
奉行所から留守居役岡林伝左衛門を軍奉行、町奉行の坪井六右衛門らが軍艦となって、
同心など十八人侍の他、鉱山の山師とその手勢五百人(うち七十人は騎馬)が、相川から攻め入った。
戦は一日で終わり、辻信俊(42歳)、長男市之丞(19歳)、次男新弥(17歳)と若等五人など、十人が陣中で討ち死にし、
快慶ら七人が生け捕られた。相川の中山では二十人の首が晒された(「佐州地役人分限由緒書」)
とある様子。

◆wikipedia>蓮華峰寺>小比叡騒動(蓮華峰寺の乱)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%93%AE%E8%8F%AF% …
(なおwikipediaでは「辻・藤左衛門・信俊」を「辻藤」と誤記の様子)

◆(真言宗智山派佐渡國)弘仁寺>弘仁寺歴代録>41世 弁英
http://kouninji.jp/rekidai_list.html#041

◆「がらくた置き場」by s_minaga>日本の塔婆>佐渡蓮華峯寺大塔
http://www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/ato_rengebuji …
<以下部分抜粋>
 ◇宝暦11年(1761)「小比叡山手鑑」(「小木町史 上巻」)
 「一、御朱印 高90石5斗……
  一、住持 快慶代 …慶安4年御朱印始寺並什宝焼失仕候住持快慶も焼死被致候…

 ◇「佐渡寺社境内案内帳」(「佐渡叢書 第5巻」):
 当寺往古越後西津吉祥寺末、元禄9年智積院末に改。
 辻藤左衛門信俊一乱、慶安5年本堂焼失、…
 御朱印高90石5斗…
 歴代 中古 長鏡(長鏡以前は不知)、二 長快、三 頼純、四 快禅、五 快宥、
 六 快慶(文禄の初入院、…慶安5年死す。)、七 弁栄(明暦元年…入院)、…

以上 中間報告まで…って最終報告は無理ですが^^

この回答への補足

補足します。没年は宝永7年6月(1710年)でその後、同じく権大僧都法印快傳が享保11年12月におり高野山龍泉院過去帳に同名があります。前回質問した法印善亮が文政5年6月天満山地寶院であるが手掛かりありません。子孫が寛仁元年に奥州より当地に来た大きな碑が現存しいますので初代快慶との繋がりも否定できません。生家にあった1000年以上遥かに超えている杉の大木複数と更に大きい楢の木があった事やその他、色々あります。

補足日時:2011/02/12 21:25
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この回答へのお礼

dayoneさん 
詳しくお調べ頂き有難うございました。上記補足しておきました。

お礼日時:2011/02/12 21:35

アッチャ~見事に本命も大穴もハズしてしまいましたかぁ(TT)



ならば切り札の「第三の男」の御登場を…と思ったのですが、
補足の御様子から「高野山」確定のお話とすれば
またまた無駄なカキコミ必至ですが、これも何かの縁^^
今暫く御容赦下さいm(_"_)m

宝永7(1710)年6月まで御存命って事でしたら、「第三の男」は
「元禄年間(1688~1704)の頃、御存命」の「快慶法印」までは当て嵌まりますが…
高野山ではなく「武蔵國馬込村」に登場します。
(寺自体、当初は真言宗醍醐派で、現在は真言宗智山派の様子)

◆『新編武蔵風土記稿[第7冊]/内務省地理局/明治17.6』
「巻之四十六目録 荏原郡之八 馬込領(馬込村・桐ヶ谷村・中延村・碑文谷村)」
(馬込村・2~3葉)右頁最後4行~左頁最初2行<86/109>
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/763981/86
<一部抜粋>
別當長遠寺
除地六畝社地ノ北ニ隣レリ新義眞言宗 山城國醍醐三寶(?實?)院ノ末海岳山大乘院ト號ス
村ノ舊記ニ定海ト云僧當寺ヲ草創シテ後元弘二年ニ寂セリト見ユサレハ此人開山ナルヘシ
今寺ニテ開山トスルハ定尊法印ナリ此法印其事歴寂年ヲ傳ヘサレハ
何ノ頃トモ云カタケレト思フニ中興ノ僧ナルニヤ後元祿ノ頃快慶法印ト云
僧ノ住シ時當寺ヲ興起シテ檀林寺格トセシニヨリ今ハ此法印ヲ中興開基トス…

◆東京南部智山青年会>教区寺院>05長遠寺
http://tokyonanbu.web.fc2.com/temple-05.htm
「元禄年間に快慶が住持した時、当寺を再興して、檀林寺格としたので、この人を中興開基としている。」

なお、残念ながら今回はヒットしませんでしたが、色々お調べでしたら、
…同名異人(「快慶」「快傳→頼玄」など)は存在しますが…
『日本仏家人名辞書 増訂再版/鷲尾順敬著/光融館/1911』などが有効な場合もございます。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/990760/1

以上
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この回答へのお礼

有難うございます。快慶についてまだ新しい情報はございませんが生家の屋号が「タナ」であり関東地方では店の事を「タナ」と呼んでいたようで語詳しくはわかりません。快慶を調べてみると「タナ彫り」(古語)が地方で流行ったとも紹介されており当家に年代不明の荒削りの五輪塔などが複数ありす。他に阿弥陀堂(年代不詳)の移動、菅原神社(年代不詳)の転地など古文書も確認(4ヶ月前に県へ提出資料)  快傳は戸田領 里村の法福寺に・供養者姓 法福寺・供養者名 快傳・供養対象 自身 寛永6年で出ていました。
近世では明治初期に政府軍の一人が現政府と同様に埋蔵金探しにいち早く当家に入った可能性が種々の証拠から大きいと思っている。
他にも色々と情報があります。自分は歴史調査の勉強は学もなく半年弱で、全くの「ど素人」ですが生家の多くの文書の中の一部と祖母の言い伝えや村の長老・村史を担当した元村長様や多くの方々のお話を聴いたり、して多くの事を学びました。生家の過去帳の名前が読めず現住地の有名な弘法大師の祭ってある寺で解読して頂き、また此の欄でもお尋ねした次第です。
今後、関連情報がありましたら お教えください。有難うございました。

お礼日時:2011/02/14 17:12

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