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 ( a ) 《第二の死》とは 《第一の死が死ななくなった状態》を言うとします。

 ( b ) 第一の死を死なせて復活するのをみづからこばみ 第二の死の状態にみづからすすんで突っ込むうごき これを《アッキ(悪鬼)》と呼びます。

 ( c ) アクマ(悪魔)とは アッキたちを従えて 人びとを第二の死の状態へ是が非でもいざなうその作用を言います。

 ☆ この質問は
 【Q:《第二の死》とは?】
 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6530755.html
 を承けています。また次の質問ともつながります。
 【Q:麦と毒麦 またはメフィスト―フェレス】
 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6499521.html

 趣旨説明を再び掲げて 表題つまり上の( c )の命題について問い求めるという魂胆です。

 ○ 〔( a ・ b ・ c )についての説明〕 ~~~~
 死は われあやまつならそのあやまちに気づきわれに還り われ有りとして 死ぬものである。 

 わが心に背きわれを離れあやまてるわれは われ無しとして 死である。
 これがわれに還れば われ有りとして 死が死ぬ。

 このあやまちとしての死は 人間の経験的・相対的にして限りある存在にとって なおまだ相対的にして変わり得る。その死が われに還るとき 死なしめられる。

 つまり この《第一の死》は 死ぬことが出来る。
 《第二の死》とは この第一の死が死ななくなることである。

 あやまちをなぜ《第一の死》と言うか? 
 それは わが心にさからうあやまちの一瞬に わが存在としての時空間が経験存在であるそのままに実際に区切られて来るからである。うつろいゆくわが身ながらも物ごころのつく前には広大な宇宙が広がっていたのが あやまちの瞬間にふと《とき》を見出しこの時間によってわが存在の歴史が区切られるということは 死によってその世界が限られることだからである。
 あやまちは 心を失くしわれ無しとなる死である。ただし われに還るとき われ有りとして この死は死ぬ。ゆえに 第一の死と言う。

 われわれは 人生において 第一の死に時には突っ込むようにして落ち入りそこから這い上がり再生するという死と生の循環のごとき繰り返しを生きる。
 ところが この第一の死が死ななくなると言う。如何にか?

 かんたんである。われに還ることがなくなるときである。
 あやまちに気づいても それを認めなくなるときである。
 われ有りの状態に復帰することがなくなるときである。
 心にさからうわれ無しの状態が・つまり第一の死が 固まってしまうときである。
 そのときには ひとは第一の死から再生しなくなる。
 
 第一の死が死なない。第一の死が 固定する。という第二の死。

 
 基本的に言って それは 心のたかぶりによって起こると思われる。のではないか?
 ほんとうにそうか?
 それだけで 第二の死が起こるものか?
 果たして 第二の死は あるのか?
 ~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ さてここでの問いは
 ( b ):この第二の死を三度の飯よりも好きだというアッキなる心の負の作用 そして
 ( c ):この《第二の死》の舞踏を人びとをしてみづからの演出のもとに踊らしめるアクマという心(?)の負の作用――これらは あるか? あるとすれば いかにあるか? 

 であり しかも

 ( d ) アッキにしろアクマにしろ この《うごき》や《はたらき》を人間がみづからそっくりその身と心に修め得て ドクター・アクマとしてのごとく町を歩いているか? そう言えるか? それは果たして現実か?

 です。次は たたき台としての考えです:

 ( d-1 ) おそらく アッキは 人間の心ないし意志によってみづからのもの(ウゴキ)とし得ると思われます。破れかぶれに成り得ますから。

 ( d-2 ) アクマは どうか? 

 ( d-3 ) 要するに 第二の死に人々をいざなうということは 何事にもあやまちの道を用意しそこへといざない あやまちに落ち入ったなら その姿を固まらせるというハタラキ これを生身のニンゲンがおこないうるか?

 こういう問いです。

 先に掲げた質問【Q:麦と毒麦・・・】でのやり取りとも 照らし合わせてくださるとありがたいです。

 ( d-4 ) アクマというハタラキは 人間〔の心や意志や努力〕を超えた力から来るのか? それともやはり――モノや環境のみによるのでないなら―― ニンゲンが好き好んでそう成り そういうドクターであり演出家に成って《活躍する》ということなのか?

 みなさんの思惟の自由なつばさを広げてご見解を述べてください。

A 回答 (40件中11~20件)

 こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。

Hidocchiでございます。

> 軌道修正とまでは行きませんし そうであってもなくてもよいという考えでいますが 別の角度から話を整理してみたいと考えました。

 了解致しました。今後とも、愚見お聞きいただければさいわいでございます。

> ( ζ ) ならば 悪魔はもう要らない。一世代ごとのアッキたちがいるのみ。というようにも考えられて来るが どうか?

 実を申しまして、”悪魔”たるものは(霊的存在の可能性もあるため)分からない。この実像を迫っていきましても、また仮に仮説が成立致しましても、検証が不可能。 これらの点から、少し別の観点から攻めてみられるのもよろしいかと存じます。

> かの全能者は 最初の人(アダム)からであれ その後に加えられたわたしたちの意志からであれ わたしたちに起こっている悪をその満ちあふれる(神による)恩恵によって滅ぼしている。

 まさしく至言かと存じます。

 明日にでも、各論につきまして、また回答をお寄せしたいと思っております。

 それでは、よろしく願い申し上げます。
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この回答へのお礼

 ありがとうございます。
 こちらも了解しました。

 またこちらも各論でお応えできるところにお応えしてまいりたいと思います。直前のご回答にです。

お礼日時:2011/03/11 03:34

 続きからでございます。



> ☆ 《命の木》としては捉えていなかったのですが もしそうであればやはり《復活》ということではないでしょうか? 

 以下に、黙示録に見られます”復活”の様子(2回の復活)を示してございます。最終的には、子羊に選ばれた(”命の書”に記載された)ものたちが、「命の木」を得られるものと解してございます。

”第一の復活”
黙示録20章 4から5節
わたしはまた、多くの座を見た。その上には座っている者たちがおり、彼らには裁くことが許されていた。わたしはまた、イエスの証しと神の言葉のために、首をはねられた者たちの魂を見た。この者たちは、あの獣もその像も拝まず、額や手に獣の刻印を受けなかった。彼らは生き返って、キリストと共に千年の間統治した。その他の死者は、千年たつまで生き返らなかった。これが第一の復活である。
ヨハネによる福音書 6章 54節
わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。

”第二の復活での悪魔に関わったものたちの裁き”
黙示録 20章13節
海は、その中にいた死者を外に出した。死と陰府も、その中にいた死者を出し、彼らはそれぞれ自分の行いに応じて裁かれた。

> じっさい聖書記者ヨハネが記すには 《恩恵の上に恩恵を〔あたえる〕》わけですから。初めの恩恵は 原罪のあがないでしょうし さらなる恩恵は 復活のすがたであると捉えます。

[原罪のあがない(贖罪論)について]
参考
http://www.geocities.jp/todo_1091/bible/jesus/do … 
http://en.wikipedia.org/wiki/Atonement_(satisfac …
Wikipedia 贖い

 愚生の理解では、カトリックの贖罪論は、主にアンセルムスによるものかと記憶してございます。この問題につきましては、上記Wikiを読み終えた後に、再度ご報告できればと思っております(未だ全て読めてございません。誠に申し訳ございません)。

> そう言えば パウロは こう言っていませんでしたか?わたしたちは 天使たちよりもえらいのだと。

 詳細は存じていないのですが、神から“愛”を一身に受けるという意味におきましては、天使よりもひとの方が上かと推察されます。

 (B)としましては 原罪のあがないのあと 何が起こるのか? このありさまをしっかりと捉えるなら 死の制作者である悪魔について――つまり罪は 死の棘としてあり それが根本的につぐなわれたのですから 死に対する勝利にさえみちびかれると思われ―― もっと明らかになるようにも思えて来ました。

 了解致しました。さらに進んで参りたいと そう思ってございます。

 最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。

この回答への補足

 ☆☆ イエスは天使にまさる / 人間は天使にまさる
 ☆ についてです。ヘブル書のみになりましたが。

 ◆(ヘブル書1:5)~~~~
 いったい神は、かつて天使のだれに、

  「あなたはわたしの子、わたしは今日、あなたを産んだ」
   (詩篇2:7――《あなた》とはダヰ゛デのこと)

 と言われ、更にまた、

  「わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる」
   (サムエル記・下 7:14――《彼》とはダヰ゛デのこと)

 と言われたでしょうか。
 
 ★(同上1:7) ~~~~~~
 また、天使たちに関しては、

  「神は、その天使たちを風とし、
   ご自分に仕える者たちを燃える炎とする」
   (詩篇104・4)

 と言われ、
 ・・・
 天使たちは皆、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになっている人々に仕えるために、遣わされたのではなかったですか。

◆(同上2:5-9)~~~~~~~
 神は、わたしたちが語っている来るべき世界を、天使たちに従わせるようなことはなさらなかったのです。
 ある個所で、次のようにはっきり証しされています。

   「あなたが心に留められる人間とは、何者なのか。
   また、あなたが顧みられる人の子とは、何者なのか。
   あなたは彼を天使たちよりも、
   わずかの間、低い者とされたが、
   栄光と栄誉の冠を授け、
   すべてのものを、その足の下に従わせられました。」
    (詩篇 8・4-6)


 「すべてのものを彼に従わせられた」と言われている以上、この方(* イエスを示唆する)に従わないものは何も残っていないはずです。しかし、わたしたちはいまだに、すべてのものがこの方に従っている様子を見ていません。
 ただ、「天使たちよりも、わずかの間、低い者とされた」イエスが、死の苦しみのゆえに、「栄光と栄誉の冠を授けられた」のを見ています。神の恵みによって、すべての人のために死んでくださったのです。

 ◆(同上2:16) ~~~~~~~
 確かに、イエスは天使たちを助けず、アブラハムの子孫を助けられるのです。

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~

補足日時:2011/03/11 11:52
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この回答へのお礼

 項目別に覚え書きです。

 エレミヤ書については 次のように《神を父とする子どもたちという境遇》に注目していただいたかたちですが その次のように 《すでに神は人びとの罪を覚えていない》と言うまでになっていることにも注目していただきたいとは思うのですが?

 ★★(回答No.29)この“新しい契約”では、以下の記述にも見られますように。“父”と“子”の関係という親密強固な関係となっていることが示唆されます。

 ◆(エレミア書 31:31-34) ~~~
   ・・・
   彼らはそれぞれ自分の同胞に、
   それぞれ自分の兄弟に、
   『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。

   小さな者から大きな者に至るまで
   彼らはすべて、わたしを知るようになり、
   わたしは、彼らの不義を赦し、
   もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。」
  ~~~~~~~~~~~


 ★ 黙示録に見られます”復活”の様子(2回の復活)を示してございます。最終的には、子羊に選ばれた(”命の書”に記載された)ものたちが、「命の木」を得られるものと解してございます。
 ☆ 留意しますし おおむね妥当だとは思います。思いますが なにせ黙示録は全体としてわたしにははっきりしません。ですから腑に落ちたという感覚がありません。と率直にお伝えいたします。
 疑いがあるとしますと 次のふたつを挙げます。
 1. 《千年》というその数字にこだわるわけには行かないと考えます。仮りにそのように神の予知があって まったくそのままに歴史が進んだとした場合 それでもそのようなあらかじめの観念をいだいて人びとは生きるのではないと考えるからです。つまり 仮りにそうだったとしても それを知っていようといまいと 何の変わりもないと考えられます。
 つまり もしその数字を観念としていだいていた場合 その観念(あるいは思考)と信仰とどちらに基づいて生きるのかと問われなければならなくなります。

 2. 《終わりの日。またそのときに裁きが行なわれる》という同じくあらかじめの観念 これは もしそうだとすれば この《いま・ここなる〈わたし〉》にこそ当てはまる。つねにそうである。と考えます。それ以外に思考としては 用を成さないと考えるからです。
 物語として読んで 気休めになるとは思います。

 ☆☆ 《恩恵の上に恩恵を》
 ☆ について詳しく知りたいと思います。

 ◆(ヨハネによる福音書1:14-18) ~~~~~
 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。

 ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」

 わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、≫恵みの上に、更に恵みを受けた≪。

 律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現われたからである。

 いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。
 ~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ すなわち
 ○ 第一のめぐみは 原罪をあがなったこと。みづからも死の制作者である悪魔に勝利し その悪魔のハタラキ全般に対して人びとが打ち克つ力をあたえた。
 ○ 第二のめぐみは 肉の身体から霊の身体に復活すること。肉は朽ちて行くが 霊において生きるということ。しかも どうも旧約の預言をも合わせて考えるに この地上で身体をもって再生すると読める節もある。《あたらしい天とあたらしい地》。

 ☆ わたしにいま考えられることは 寿命が二百歳になることです。これなら 二百年は人間が生きることにとって言わば永遠であるように感じられます。
 第二の恵みは 神直視とも言われます。すでに顔と顔を合わせて見るようになると。そのときには信仰は要らなくなる。信じているのではなく すでにこの目で見ている。ただし愛はそのまま残ると言っていますね。《真理をわが身にじゅうぶんに帯びる》というようなことでしょうか? 判断力のもんだいであるようにも考えられます。

 第二の恵みのほうも
 ◆ (コリントの信徒への第一の手紙 15:55) ~~~

  死よ、お前の勝利はどこにあるのか。
  死よ、お前のとげ(=人びとの罪)はどこにあるのか。
  
 ~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ですから 悪魔のもんだいに大いにかかわっています。

お礼日時:2011/03/11 11:19

 こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。

Hidocchiでございます。

(A) 天使について。というよりは 堕天使=悪魔説について。なぜ《天使》の話になっているのか?
 ですが 問題は 堕天使からの悪魔の生成説にあります。
> 初めから霊的存在であれば 悪に落ち入り染まるというのも分かりにくいです。

 いわゆる“堕天使説”でございますが、以下のWikipediaのように、明確な聖書による記述が見当たらないのが、混乱を招いているものかと思われます(幾分、ユダの手紙は参考になるかもしれませんが)。

An explicit reference to a "fall" is found in Luke 10:18, often read as concerning the "fall" of Satan himself, although the New Testament never explicitly identifies Satan himself as an "angel"
http://en.wikipedia.org/wiki/Fallen_angel からでございます。
Luke 10:18 イエスは言われた。「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。」)

ユダの手紙 6節 (共同訳)
一方、自分の領分を守らないで、その住まいを見捨ててしまった天使たちを、大いなる日の裁きのために、永遠の鎖で縛り、暗闇の中に閉じ込められました。

 もし、天使が堕したと致しますと、天使にもまた“感情” and/or “自由意志”が存在していたと考えざるをえないと察せられます。
 その前提に立ちますと、以下のような種々の「仮説」が成立するものかと考えられます。

“傲慢”、“嫉妬”、“自由意志”によるもの
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%95%E5%A4%A9% … 


(B) イエスは第二のアダムであるとする理論について。
> ヘブル書は パウロの書いたものではないと言われていますが いま引きます。つまりエレミヤ書31:31以下の文章についてです。つまり 第二のアダムの出現によってあたらしい契約が成るというくだりです。

 「彼らと結んだ契約のようなものではない。」の“契約”とは、モーゼとの契約(シナイ契約)のことかと推察されます。
 そこで、“新しい契約”でございますが、これは、以前の主従関係のような契約ではなく、さらに深い絆といった関係を示しているものと推察されます。この“新しい契約”では、以下の記述にも見られますように。“父”と“子”の関係という親密強固な関係となっていることが示唆されます。おそらく、ヘブル書で言わんとされていることは、エレミアの未来における契約成就の預言を引用し、そして第二の罪無き子として、イエスを定義付けしたものと思われます。

エレミア書 31章9、16から17説 (共同訳)
彼らは泣きながら帰って来る。わたしは彼らを慰めながら導き流れに沿って行かせる。彼らはまっすぐな道を行き、つまずくことはない。わたしはイスラエルの“父”となりエフライムはわたしの長子となる。   <中略>
主はこう言われる。泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる。“息子たち”は敵の国から帰って来る。あなたの未来には希望がある、と主は言われる。“息子たち”は自分の国に帰って来る。

 続きを述べさせていただきます。

この回答への補足

 ★ ルカによる福音10:18
 ☆ についての資料を覚え書きします。《堕天使》の事項です。

 ▲ (wikipe.:Fallen angel) ~~~~~
  http://en.wikipedia.org/wiki/Fallen_angel

 ルカ10:18は 
 (1)サタンが天使だと はっきりは言っていない。
 (2)天からの墜落が サタンのことを言ったのかは定かではない。

 Luke 10:18, often read as concerning the "fall" of Satan himself, although the New Testament never explicitly identifies Satan himself as an "angel".

 (2-1)《稲妻のようにサタンが天から落ちる》のか《天からの稲妻のごとくサタンが落ちる》のかが 決められない。

 The translation "fall from heaven, like lightning" or "fall, like lightning from heaven" is disputed.
 ~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ ルカのこのくだりは 考えさせられます。《悪霊が屈服する / サタンが落ちる》という事柄です。

 ◆(ルカによる福音書10:17-20) ~~~~
 〔イエスがおとづれる町々へ前もって遣られたところの〕七十二人は喜んで帰って来て、こう言った。

  「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。」

 イエスは言われた。

  「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。
  蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしは
  あなたがたに授けた。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つ
  ない。
   しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではなら
  ない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びな
  さい。」

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ しかるべき時には 神の国の外交官に対しては悪霊も服従し その元締めというべきサタンも 力を落とすものだと知られましょうか?
 つまりこのように弟子たちがイエスから力を与えられ 悪霊に向かい合う場合にそのサタンが《天から落ちた》という必要はないように思われるからです。天から落ちる(もしくは 善き天使であることを棄てた)のは それ以前においてサタンがサタンになったときのことを言うと思われるからです。そのあとサタンも イエスらの前に屈服すると言っているようだからです。
 けれども そのように神に背き刃向かうまでになったと言っても そのサタンも キリスト・イエスの前に力なき者であることは初めから分かっています。わづかにその力を発揮してもよいよと許されたときに出番があるだけなのだと初めから分かっています。ヨブ。

 そうしますと
 ★ もし、天使が堕したと致しますと、天使にもまた“感情” and/or “自由意志”が存在していたと考えざるをえないと察せられます。
 ☆ といった物語が編まれるというのは 確かに許されてサタンがサタンとしてのハタラキを行使することがあるということを人びとは言いたかった。
 それは 人間の能力と努力とでは容易に克服することが出来ないと見るので 《天使》という概念が想定される。しかも善き天使では話が合わないので 悪い天使である。ただし初めから悪いのではなく 善き天使であったものが みづからに逆らい神に逆らいついに神に刃向かうようにもなった堕天使だと捉えた。
 ★ ~~~~~~~~~~
 その前提に立ちますと、以下のような種々の「仮説」が成立するものかと考えられます。

  “傲慢”、“嫉妬”、“自由意志”によるもの
 ~~~~~~~~~~~~
 ☆ というように《天使》の想定から派生して来たものごとであるように考えられます。
 《傲慢・嫉妬・自由意志》というように擬人化して捉えるなら 《人間の能力と努力を超えたハタラキ》という認識から逸れます。(または 人間のものとは別種のそれらだという定義になるように思われます)。

 いづれにしましても キリスト・イエスに就くその外交官たちに対しては すでにサタンらのハタラキは原則として通用しないということになっている。
 ただしその《通用しない》ことが (1)まづただちに現われるわけではない。(2)ただちにではないどころか 長いあいだ実効性がとぼしい場合もあるだろう。(3)おそらくそれは 相手とのかかわりにおいて 相手の境地に《ときが満ちる》のを外交官のほうもいっしょに俟つのであろう。

補足日時:2011/03/11 10:34
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この回答へのお礼

 そうですね。どうも質問者が司会進行役であるとすれば うまくこの役目をこなしていない。まづはこの自戒から入ります。

 ひどっちさん こんにちは。昨晩からはかなり時間が経ちました。応答のために時間をいただきました。ご回答をありがとうございます。

 軌道修正とまでは行きませんし そうであってもなくてもよいという考えでいますが 別の角度から話を整理してみたいと考えました。

 ( α ) イエス・キリストの十字架上の死とは何を意味するか?

   ( α‐1) 神がいわゆる原罪を犯したというじんるいをそこからすくうためには いろんな方法があったであろうが この・罪無しでの磔刑という方便がいちばんふさわしかった。

   ( α‐2) もしイエスがキリストとしてのみ・すなわち神の子であり神である存在としてのみ振る舞って たとえばその十字架から降りて来たとしたら どうか? そのように奇蹟のごとく救われて(つまり自分を救って)しまったなら それは神だからこそ出来るのだと人びとは思ってしまう。つまり自分たち人間はけっきょく 危機に遭っても逃げ道はないと考えてしまう。

   ( α‐3) もしキリストであるのに 人間イエスとしてのみ振る舞ったなら どうか? つまりキリストなる神として自分からこの盃を飲むという方便を用いるということでなかったなら どうか? そのときには すべては人間の心と意志と努力とによって人は生きるのだと思ってしまう。神としての光ではなく 人間のいわゆる理性や精神の光のみなのだと思い込んでしまう。

 ( β ) この磔による死でもしアダムらからの原罪があがなわれたとすれば 人間に根本的な誰もが避けられない《前科》は 消えた。か?

 ( γ ) モーセに与えられた律法そして人がこれに拠って神の子らとして生きることという生き方は 揚棄された。なぜなら 経験的相対的な歴史時間を超えたところで――つまり神の子なるキリストとしても振る舞ったと見るかたちで―― 死が起きたと人びとは捉えたなら。人間の心や意志や努力によって 律法にかなう人生を送るという生き方は止揚された。

 ( δ ) アブラハムの信仰という立ち場が あらためて言挙げされた。

 ( ε ) ところでこの原罪とその世代ごとの受け継ぎが超えられたというのは 死が克服されその死の棘としての罪が揚棄されたことではないか? つまりは 悪魔に対するキリストの勝利ではないのか?
 悪魔は このイエスの死の淵にまではよう来なかった。来ることはなかった。おそらくほんとうの死に接すると悪魔は 一たんそのそれまでの死の状態からよみがえって再生するのだが 再生した途端に ほんとうに死んでしまう。だから 死をおそれる。ドラキュラは 十字架をおそれる。

  ( ε‐1) したがって 第一のアダムらに代わって キリスト・イエスは第二のアダムとなって 原罪ののろいの世界からじんるいを《エクソダス(出エジプト)》させた。(しかもその導き手であったモーセのふるい契約に取って代わる《あたらしい契約》:エレミヤ書31:31以降)。

  ( ε‐2) ただし 世代ごとの・個人ごとの悪ないし罪は その個々の行為として行なわれつづけている。ちなみにアウグスティヌスの見るところでは 次のようだと言う。
   ▲ (ユリアヌス駁論 1・5〔16〕) ~~~

  かの全能者は 最初の人(アダム)からであれ その後に加えられた
 わたしたちの意志からであれ わたしたちに起こっている悪をその満ち
 あふれる恩恵によって滅ぼしている。
  (金子晴勇訳=アウグスティヌス著作集) 
   ~~~~~~~~~~~~~~~~

 ( ζ ) ならば 悪魔はもう要らない。一世代ごとのアッキたちがいるのみ。というようにも考えられて来るが どうか?

お礼日時:2011/03/10 15:43

 続きからでございます。



> 8.イエスの歴史的な出現によって アブラハムからのユダヤの神の信仰も ほかの民族における・もともと人間にそなわる自然本性が有効であるとする神学ないし信仰も すべての人に共通の 非思考の庭として 普通のことと受け取られるようになった。つまり原罪をことさら持ち出さなくてもよいようになった。この見方はどうか?
> 9.★(「色合いの付いた紙」に生来的になってしまった)。――☆ これは人間にとって《前科》であり 後ろめたいことであり われわれはそこにやましさを感じなければならないことなのか? 
> 18.そう見ないなら あいつは病んでいる。こいつもおかしい。と個々ばらばらにいつまでも互いに切り離された前科を突つき合っていることになる。

 ここでの“罪”とは、「神に対して信義を犯した」ということでございます。つまり、ひと同士で裁きあうことなど全く必要ございませんし、そもそもお門違いと思われます。また裁くこと自体、避けるべき行為であると解してございます。
 ですが、(神の)子羊を通してしか、“命の木”は得られないものと推察してございます。

> 12. つまり 自我も超自我もお望みなら無意識ないしリビドーも みんな自然本性の一環でありしかもおのおのの《わたし》である。《わたし》の感性であり理性としておもむくところである。 

 まったく、異論はございません。仰るとおりかと存じます。

> 14.むしろ原罪をどうでもよいと思っていた人びとのあいだにこそ このけっきょくは原罪に絡めて人間観を捉えるような精神分析の追求した内容が 人びとの心に食い込んで行っている。人びとはそのことにこだわろうとしている。
> 15.無意識が動けば 人はどうすることも出来ないのだという神話が出来てしまっている。

 非常に残念なことと思っております。後世の科学者等が、その無意味性を証明してくれることを切に願っております。

 最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。
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この回答へのお礼

 ★ 非常に残念なことと思っております。後世の科学者等が、その無意味性を証明してくれることを切に願っております。
 ☆ あたかも《無意識》が けっきょくのところ《原罪》を背負うような人間存在のあり方として言い換えられたようなかたちではないかとも思えます。
 そうして むしろ良心的な考え方のもとに この衝動などとしての無意識に対するものとして抑圧的な超自我を立てることになるものというふうにです。
 これではかえって 袋小路に入っていくようだと考えます。一たんは分かったというさとりを得たようにも思うと思うのですが それは つねにリビドーと超自我とのつり合いのもとに得られるさとりであって つねに揺れ動いている。こう見られると思います。
 ★ 非常に残念なことと思っております。後世の科学者等が、その無意味性を証明してくれることを切に願っております。
 ☆ と重ねて引いてしるします。


 ★ ここでの“罪”とは、「神に対して信義を犯した」ということでございます。つまり、ひと同士で裁きあうことなど全く必要ございませんし、そもそもお門違いと思われます。また裁くこと自体、避けるべき行為であると解してございます。
 ☆ 直前のご回答でのやり取り そこでのエレミヤ書31:31以下の聖句 これについてご見解をたまわれればさいわいです。

お礼日時:2011/03/08 23:32

 こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。

Hidocchiでございます。

> 天使は 被造物か? つまりこれもにゅうとらるさんが書いていたところですが あの《へび》が出て来るくだりでは それまでに・書いてあるとおりに《野の生き物》は創造されていますが 天使は触れられていません。どこから天使は現われるのか?

 以下の創世記の“我々”とございますが、(勝手に)天使も含められうると思っておりました。

創世記 3章22節から
主なる神は言われた。「人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。…」

> またそもそも《天使》とは何か? 
 神の み使いであるなら それは人と神との媒介ということであり その媒介というものにわざわざ存在性を持たせた。そしてそれだけのことではないか?
> ☆ なぜ《霊的?》な存在であるのか? です。たとえばただ神の声と言ってはいけないのですか?

 別段、“神との媒介”等としてもよろしいかと思われます。ただ、以下の福音書には、その記述が見られております故、用いても別段差し支えはないものとも考えております。

ルカ 1章26から28節
六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」

> 1.神による否定命令(禁止)に背いたという所謂る原罪をおかしたとき そもそもの自然本性のおもむくところとしての善とそれにさからうマイナスの善(つまり悪)とを知った。
> 2.言いかえると この原罪をおかすというのは そうすることがなくてもエデンの園で生きていけたのに しかもそうする可能性もそなわっていた。つまりそれが自由意志であり この人間の意志によって神ないしおのれの心にさからった。

 自由意志はありましたし、また、その意志によって神ないしおのれの心にさからった と考えております。つまり、意見を等しくさせていただきます。

> 3.善としての《ウソでないこと》と善ではなくなる《ウソをつくこと》が生じた。
> 4.そこで人間は《色合いのついた紙》になった。つまりは自由意志は 自然本性そのままに善という心つもりを持ちそれをおこなうことも出来れば それにさからう内容をも意志として持ち得てこれを行ない得ると。

 残念ながら、愚生には“善”は分からずにおります。とりあえずは、次にすすめさせていただきたく存じます。

> 5.つまりはこの《色合いがついた》というのは 原罪としておかした悪が言わば前科として人類に世代を超えて受け継がれるのか? それとも 自由意志が悪をおこないうるという可能性を持つということ自体を言うのか?
> 6.わたしは後者を言うとしたほうがよいように思うのです。
> 7.しかも――なぜなら 特殊な歴史物語になりますが―― イエスの出現とその十字架上の死によって 原罪はあがなわれた。チャラになったなら 《前科》としての色つき状態は 消えたのではないでしょうか? 
> 10.けれども原罪はチャラになったのではないか? (エレミヤ書 31:31~)

 後者のみならず、愚生は前者も正しいと考えております(参考:ロマ書)。つまり、イエスの出現により(さらにはイエスを通して)、創世記では禁じられた“命の木”を手にすることが可能にる と解してございます(参考:コリント人1、マタイ伝、黙示録)。

ロマ書 5章12節
このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。

コリント1 15章22節
つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。

マタイ 7章19から21節
良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける。」「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。

黙示録 22章1から2節
天使はまた、神と小羊(イエス)の玉座から流れ出て、水晶のように輝く命の水の川をわたしに見せた。川は、都の大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があって、年に十二回実を結び、毎月実をみのらせる。そして、その木の葉は諸国の民の病を治す。

 以下、続きます。

この回答への補足

 ひどっちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 そうですね。もう少しかたくなを押しとおしたいと思います。

 (A) 天使について。というよりは 堕天使=悪魔説について。

 神との媒介に存在性を持たせて 天使としてもそれほど奇異なことではないとわたしも思います。
 ですが 問題は 堕天使からの悪魔の生成説にあります。
 特別ここがおかしいというわけでもなく さりとてなるほどこれで合点が行ったともなりがたい。ように思います。
 初めから霊的存在であれば 悪に落ち入り染まるというのも分かりにくいです。被造物であるなら 神がその天使を《われわれのひとり》と呼ぶのも 何となくしっくり来ません。

 けっきょくもし神のみ使いに 善い天使と悪い天使がいるのだとすれば たとえばこうすればよいとも考えられます。善い悪いを別として ともかく天使に 善いことを告げる役目も 悪いことを試練のごとくに人に与える役目も ともに担わせれば済むことのように思われるからです。
 言いかえると ことさら悪魔と呼ぶ謂われはないように思われます。人をきたえるために悪いことを内容とする試練をも神はあたえるのですから いちいち悪魔と呼ぶ細分化は要らないように思います。

 (B) イエスは第二のアダムであるとする理論について。

 ▲(ロマ書 5章12節) このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。
 ☆ この第一のアダムに対して この罪をあがない死に対して勝利するイエスが 第二のアダムであるという説です。
 ヘブル書は パウロの書いたものではないと言われていますが いま引きます。つまりエレミヤ書31:31以下の文章についてです。つまり 第二のアダムの出現によってあたらしい契約が成るというくだりです。
 ▲(ヘブル書8:7-13) ~~~~~~~~
 もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。
 事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。

   「見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、
    新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。

   「それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、
    エジプトの地から導き出した日に、
    彼らと結んだ契約のようなものではない。
    彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、
    わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。

   「それらの日の後、わたしが
    イスラエルの家と結ぶ契約はこれである」と、主は言われる。

   「すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、
    彼らの心にそれを書きつけよう。
    わたしは彼らの神となり、
    彼らはわたしの民となる。
    彼らはそれぞれ自分の同胞に、
    それぞれ自分の兄弟に、
    『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。
    小さな者から大きな者に至るまで
    彼らはすべて、わたしを知るようになり、
    わたしは、彼らの不義を赦し、
    もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。」
     (エレミア書 31:31-34)

 神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。
 ~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ すなわち
 ★ ~~~~~~~~~~~
 >5.つまりはこの《色合いがついた》というのは 原罪としておかした悪が言わば前科として人類に世代を超えて受け継がれるのか? それとも 自由意志が悪をおこないうるという可能性を持つということ自体を言うのか?
 > 6.わたしは後者を言うとしたほうがよいように思うのです。

 後者のみならず、愚生は前者も正しいと考えております(参考:ロマ書)。
 ~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ すなわち《前者》の内容が一たん成って そののち第二のアダムのあとには 《後者》がさらに上書きされるかのように成り立ったと思うのですが?

 すなわち
 ▲ (コリント1 15章22節) つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。
 ★ つまり、イエスの出現により(さらにはイエスを通して)、創世記では禁じられた“命の木”を手にすることが可能にる と解してございます(参考:コリント人1、マタイ伝、黙示録)。

 ☆ 《命の木》としては捉えていなかったのですが もしそうであればやはり《復活》ということではないでしょうか? 

補足日時:2011/03/08 23:11
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この回答へのお礼

 パウロが言うように 自然の身体で生まれて来て 霊の身体に復活する。しかもこのいま此処なる現在の《わたし》としてです。むろんその現われは 時間差があるわけですが。
 じっさい聖書記者ヨハネが記すには 《恩恵の上に恩恵を〔あたえる〕》わけですから。初めの恩恵は 原罪のあがないでしょうし さらなる恩恵は 復活のすがたであると捉えます。

 そう言えば パウロは こう言っていませんでしたか? 

   わたしたちは 天使たちよりもえらいのだと。

 《えらい》というのは 卑俗ですが この際そうしときます。

 

 (B)としましては 原罪のあがないのあと 何が起こるのか? このありさまをしっかりと捉えるなら 死の制作者である悪魔について――つまり罪は 死の棘としてあり それが根本的につぐなわれたのですから 死に対する勝利にさえみちびかれると思われ―― もっと明らかになるようにも思えて来ました。

 (A)は そのとき なぜ《天使》の話になっているのか? だと思います。話として理解しますが 果たしてどういうふうに腑に落ちるのかは まだ分かりません。

お礼日時:2011/03/08 23:22

 こんばんは、ご返答いただきましてどうもありがとうございました。

Hidocchiでございます。

☆(No.24お礼欄) ~~~~~
 ( a ) 悪魔の生成の過程はいかにあるか?
 ( b ) またその霊としての悪魔に拠ってそのハタラキをわが身につけようとする人間のアクマ成りは どうであるか?
 ( c ) そこにおける決定的な要因は何か?
 ( d ) 悪霊という場合は 別の意味合いが添えられているか?
 ~~~~~~~~~~~~~~~~

> ★ 偽メシア・偽預言者
 ☆ も加わりましたね。おおむね悪魔と同類としてよろしいようですが。現われ方などに違いが出るのでしょうか?
 そうしてもうひとつ 霊としての悪魔とあたかもその使者としてのへび(ないし そのアクマというハタラキを身につけた人間)の関係をめぐって 明らかにして捉えたい。

 以下の引用から、“アクマ=墜天使”説には、一定の説得力が認められるものと考えられます。またさらには、受胎告知をしたガブリエル等と同じような(霊的?)存在と推察されます。これに対し、“偽預言者”はれっきとした“ひと”としての存在と考えております。

エゼキエル書 28章13から16節 共同訳
お前は神の園であるエデンにいた。あらゆる宝石がお前を包んでいた。ルビー、黄玉、紫水晶かんらん石、縞めのう、碧玉サファイア、ざくろ石、エメラルド。それらは金で作られた留め金でお前に着けられていた。それらはお前が創造された日に整えられた。わたしはお前を翼を広げて覆うケルブとして造った。お前は神の聖なる山にいて火の石の間を歩いていた。お前が創造された日からお前の歩みは無垢であったがついに不正がお前の中に見いだされるようになった。お前の取り引きが盛んになるとお前の中に不法が満ち罪を犯すようになった。そこで、わたしはお前を神の山から追い出し翼で覆うケルブであるお前を火の石の間から滅ぼした。

 なお、愚生は、”善悪”につきましては、つぎのように考えてございます。
主なる神は言われた。「人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。…」(創世記 3章22節)

 つまり、それ以前は、ひとは”善悪”は知らなかった(「白紙」であった)。そして、そのとき初めて知ったと考えております。さらに申しますと、”善悪”に関する概念がそもそも存在しなかったものと考えております。ですが、結局は知るところとなり、その”善悪”の概念は以後の世代にも受け継がれていったものと推察しております(「色合いの付いた紙」に生来的になってしまった)。
 では、なぜ”善悪”を知る必要がないと神が考えたのかにつきましては、知る由もないのですが、おそらく、ひとに”善悪”の判断をさせまいとした、つまり、ひと(被創造物)同士で裁き合いをさせたくはなかった と解してございます(「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。 からの類推でございます)。

 本題の( b )、( c)そして( d )に関しましては、全く触れておらず、誠に申し訳ございません。明日にでも、( g )( h )および( i )とともに、ご返答できればと思っております。

 最後までお読みいただきまして、どうもありがとうございました。

この回答への補足

 ひどっちさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 聖書にもとづく神学として一般に共通の見解をおしえてくださったと思います。そしてこういったところにも わたくしの天の邪鬼は顔を出します。

 エゼキエル書にあったんですか。
 ★ 以下の引用から、“アクマ=墜天使”説には、一定の説得力が認められるものと考えられます。
 ☆ 解説を見ると ここは ツロ(レバノンでしょうか)の王という人物についてこの話は言い出されているのですね? ツロはエルサレムを従えていたということでしょうか。
 ▲(エゼキエル28:12) ~~~~
 「人の子(=エゼキエル)よ、ツロの王のために悲しみの歌をのべて、これに言え。

   主なる神はこう言われる、
   《あなたは知恵に満ち、美のきわみである完全な印である。 ・・・

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ですから 28:13に出て来る《お前》は この《あなた》つまりツロの王のことだという枠組みがあるように思います。
 ただし引いてもらったくだりとしては 所謂る堕天使の話そのものですね。そして《エデンの園》なのですから。

 しかもなおまだしっくり来ないところがあります。
 ▲(同上28:15) お前が創造された日からお前の歩みは無垢であったがついに不正がお前の中に見いだされるようになった。
 ☆ つまり《被造物》としてあるのですね?
 〔ちなみに にゅうとらるさんが《創造物》と書いておられたので 被造物か?とわたしは問うていますが いま辞書を見たら 創造物とも言うのですね?! 《神の創造物》とも。わたしには分かりにくいですが〕。
 天使は 被造物か? つまりこれもにゅうとらるさんが書いていたところですが あの《へび》が出て来るくだりでは それまでに・書いてあるとおりに《野の生き物》は創造されていますが 天使は触れられていません。どこから天使は現われるのか? 
 またそもそも《天使》とは何か? 
 神の み使いであるなら それは人と神との媒介ということであり その媒介というものにわざわざ存在性を持たせた。そしてそれだけのことではないか?
 と考えてしまうのです。

 この疑問は むろんアウグスティヌスにも逆らっていますし 異端っぽくさえあるとも思います。でもまだ腑に落ちません。
 堕天使となり それゆえ悪魔になった。この見方についてです。
 ★ またさらには、受胎告知をしたガブリエル等と同じような(霊的?)存在と推察されます。
 ☆ なぜ《霊的?》な存在であるのか? です。たとえばただ神の声と言ってはいけないのですか?

 ★ これに対し、“偽預言者”はれっきとした“ひと”としての存在と考えております。
 ☆ なるほどですね。これは はっきりしているというように受け取りました。アクマの役目を担うかのごとくであり ただし人間として登場するのだと。

 ★ ~~~~~~~~~~
 主なる神は言われた。「人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。…」(創世記 3章22節)

 つまり、それ以前は、ひとは”善悪”は知らなかった(「白紙」であった)。そして、そのとき初めて知ったと考えております。
 ~~~~~~~~~~~
 ☆ この善悪の中身についてはっきりさせたいと考えます。善と悪という概念をポーンと投げ入れるようにさづけたと仮りにしても その中身についてです。
 おのれの心にさからうこと――さからうなら 胸騒ぎを覚え顔を赤らめる――を 善に背くこととして悪と呼ぶ。こう受け取っていますが どうなのでしょう? つまり食べてはいけないと神から言われていたというところが おのれの心の面向くところであり それを善となづけるのだと。(つまりきわめて主観的な内容なのだと。ただし人には共通の感覚があり 主観が共同化されうるのだと)。

 ★ ですが、結局は知るところとなり、その”善悪”の概念は以後の世代にも受け継がれていったものと推察しております(「色合いの付いた紙」に生来的になってしまった)。
 ☆ ここが わたしのもっとも苦手とするところです。
 ○ ~~~~~~~~
 1. 神による否定命令(禁止)に背いたという所謂る原罪をおかしたとき そもそもの自然本性のおもむくところとしての善とそれにさからうマイナスの善(つまり悪)とを知った。
 2. 言いかえると この原罪をおかすというのは そうすることがなくてもエデンの園で生きていけたのに しかもそうする可能性もそなわっていた。つまりそれが自由意志であり この人間の意志によって神ないしおのれの心にさからった。
 3. 善としての《ウソでないこと》と善ではなくなる《ウソをつくこと》が生じた。

補足日時:2011/03/08 07:05
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この回答へのお礼

 4. そこで人間は《色合いのついた紙》になった。つまりは自由意志は 自然本性そのままに善という心つもりを持ちそれをおこなうことも出来れば それにさからう内容をも意志として持ち得てこれを行ない得ると。
 5. つまりはこの《色合いがついた》というのは 原罪としておかした悪が言わば前科として人類に世代を超えて受け継がれるのか? それとも 自由意志が悪をおこないうるという可能性を持つということ自体を言うのか?
 6. わたしは後者を言うとしたほうがよいように思うのです。
 7. しかも――なぜなら 特殊な歴史物語になりますが―― イエスの出現とその十字架上の死によって 原罪はあがなわれた。チャラになったなら 《前科》としての色つき状態は 消えたのではないでしょうか? たぶん母斑として――ほくろや痣として――残っているかも知れませんが。
 8. イエスの歴史的な出現によって アブラハムからのユダヤの神の信仰も ほかの民族における・もともと人間にそなわる自然本性が有効であるとする神学ないし信仰(あるいはさらに別様に 無神論なる信仰)も すべての人に共通の 非思考の庭として 普通のことと受け取られるようになった。つまり原罪をことさら持ち出さなくてもよいようになった。この見方はどうか?
 9. ★(「色合いの付いた紙」に生来的になってしまった)。――☆ これは人間にとって《前科》であり 後ろめたいことであり われわれはそこにやましさを感じなければならないことなのか? ひと(他人)に対して その・初めはウソをついたことから始まると思われるおのれの前科を隠さなければならないのか? その前科があばかれることをおそれこれに防衛機制をみづから敷かねばならないものなのか? 
 10. けれども原罪はチャラになったのではないか? (エレミヤ書 31:31~)


 11. 自我・超自我・無意識(衝動)は それぞれの要素として人間に見出されるかも知れないが わざわざそのような仕組みとして人間存在を規定しそのような機制としての精神を大前提に置くこと これは要らないのではないか?
 12.  つまり 自我も超自我もお望みなら無意識ないしリビドーも みんな自然本性の一環でありしかもおのおのの《わたし》である。《わたし》の感性であり理性としておもむくところである。 
 13. 自由意志が おのれの肉の欲求に勝てないからと言って それは前科者がどこまでも・死ぬまでもふつうの人間に還ることができないことを意味するのだろうか? 自然本性は有効でなくなったのか?
 14. むしろ原罪をどうでもよいと思っていた(そもそも知らなかった)人びとのあいだにこそ このけっきょくは原罪に絡めて人間観を捉えるような精神分析の追求した内容が 人びとの心に食い込んで行っている。人びとはそのことにこだわろうとしている。
 15. 無意識が動けば 人はどうすることも出来ないのだという神話が出来てしまっている。衝動にかられることと 衝動にかられるということを知っていることとは 別である。後者は人間の《わたし》である。それは 無意識を包みこんでいる。そういう自然本性である。
 16. 《ウソをついた》のも 《わたし》である。わたしとしての自然本性は 無意識の欲動の起こるそのつど その動きに屈服しつつも その灰の中からよみがえる。だから 自我も超自我もこの自然本性としてのわたしの一部であって わたしに包まれてある。それは 日本晴れの快晴である。
 17. その晴れた空の中に色合いがつくのであって 地がすべて色つきだとは思われない。もし空がすべて色つきであったとしても それは人間みながそうである。それとしての共生となる。互いの前科を互いに覆い隠すほどに包み込み合っている。
 18. そう見ないなら あいつは病んでいる。こいつもおかしい。と個々ばらばらにいつまでも互いに切り離された前科を突つき合っていることになる。
 ★ では、なぜ”善悪”を知る必要がないと神が考えたのかにつきましては、知る由もないのですが、おそらく、ひとに”善悪”の判断をさせまいとした、つまり、ひと(被創造物)同士で裁き合いをさせたくはなかった と解してございます(「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。 からの類推でございます)。

お礼日時:2011/03/08 07:49

 こんにちは、Hidocchiでございます。



 まずは第一幕が終了したところでございましょうか。以下、思うところを列記してございます。

(1)悪魔について

ヨハネ 8章 43から44節
わたしの言っていることが、なぜ分からないのか。それは、わたしの言葉を聞くことができないからだ。あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない。彼の内には真理がないからだ。悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。自分が偽り者であり、その父だからである。

ヤコブの手紙 3章 14から15節
しかし、あなたがたは、内心ねたみ深く利己的であるなら、自慢したり、真理に逆らってうそをついたりしてはなりません。そのような知恵は、上から出たものではなく、地上のもの、この世のもの、悪魔から出たものです。


 ヨハネ伝におけます”あなたたち”とは、文脈からファリサイ派の人々を指しています。一方、ヤコブの手紙では、「この世は悪魔の影響も受けている」といったところかもしれません。
 「悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない」(この人殺しとは、単なる生物学上の死ということではないと推察されます)、「悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている」、つまり、アプリオリに、”悪”にように読むことができます。さらに申しますと、悪魔になる要因をひとは持ち備えているともいえるのかもしれません。


(2)”偽預言者”についてです

ヨハネの黙示録 20章 10節
そして彼らを惑わした悪魔は、火と硫黄の池に投げ込まれた。そこにはあの獣と”偽預言者”がいる。そして、この者どもは昼も夜も世々限りなく責めさいなまれる。

マタイ 7章15節
「”偽預言者”を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。

マタイ 24章24節
偽メシアや偽預言者が現れて、大きなしるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちをも惑わそうとするからである

ヨハネの手紙一  4章5節
偽預言者たちは世に属しており、そのため、世のことを話し、世は彼らに耳を傾けます。

 黙示録では、”偽預言者”と悪魔とは同類のものとしております。そこで、マタイ伝、ヨハネの手紙では、その”偽預言者”の特徴を示しているように察せられます。こちらは、ひとにもじゅぶんに可能なものかと思っておりますが、いかがなものでしょうか。

 最後まで、お読みいだいまして、どうもありがとうございました。

この回答への補足

ひどっちさん ご回答をありがとうございます。

 課題はかんたんではないようです。
 まづ一般的に次のようだと確認します:

 ☆☆(No.24お礼欄) ~~~~~
 ( a ) 悪魔の生成の過程はいかにあるか?
 ( b ) またその霊としての悪魔に拠ってそのハタラキをわが身につけようとする人間のアクマ成りは どうであるか?
 ( c ) そこにおける決定的な要因は何か?

 ( d ) 悪霊という場合は 別の意味合いが添えられているか?
 ~~~~~~~~~~~~~~~~

 しかも今回
 ★ 偽メシア・偽預言者
 ☆ も加わりましたね。おおむね悪魔と同類としてよろしいようですが。現われ方などに違いが出るのでしょうか?
 そうしてもうひとつ 霊としての悪魔とあたかもその使者としてのへび(ないし そのアクマというハタラキを身につけた人間)の関係をめぐって 明らかにして捉えたい。

 ★ ・・・「悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている」、つまり、アプリオリに、”悪”のように読むことができます。さらに申しますと、悪魔になる要因をひとは持ち備えているともいえるのかもしれません。
 ☆ このとき:

 ( e ) 悪魔になる要因とは何か?
 ( f ) その要因をひとが持ち備えているとは どういう状態を言うのか?

 というふうにも問いたいです。それはちょうどはこぶるさんとのやり取りで わたしが次のように答えたところに絡んでいるように考えるからです。長く引用します:


 ☆☆(No.23お礼欄) ~~~~~~~
  ● ~~~~~~~~~~~~~~
   >この世界はきわめて狭く区切りをつけられるようになった。
  :
  のは、一旦抑圧を抱え込んでしまった無意識が、それをいずれ吐き出さざるを得ない、といういつ終わるともしれないミッションを抱え込んでしまった、と自覚するからなのでしょう。
  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  ☆ ここで違いがあるとしたなら それはわたしの場合 初めには何も想定していないということです。そしてその状態が――自然本性として―― 言うとすれば善だと見るわけです。

  ● ~~~~~~~~~~~~~~~~
  こうしてみると、
  あくまで私的な解釈ですが、嘘というのも、防衛機制の一種なのでしょう。
  防衛機制の親分格である、抑圧にも似ていると思います。
  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  ☆ というときの《防衛》すべき問題などを何も初めには持たないという点です。初めのふつうの善 ここからウソをつくという見方です。ですから《防衛機制》をつくるためではなく それをつくる必要もない。それなのに人間は 自分の心にさからって 最初のウソをつく。
 ですから もし抑圧やその逆の混沌的衝動的自由を心に想定するというのは この初めてのウソの以前に何らかの後ろめたさややましさを持っていると見ることだと捉えます。
 つまりは逆に言えば 人間は白紙の上にウソをついて色を塗るのであって 前々から色がついていたのではないということ。ということは むしろどうしようもない愚かさのもとにあるゆえに アクマはその成り行きの果てとしての死をさとった。それゆえ 人びとみんなにそのさとりを伝授したくてたまらない。というとんでもないハタラキが生まれてしまいます。
 もしこのアクマがいないと見る場合には もともと人間はアッキになる素質があったということになります。白紙で生まれて来るのではなく人間は 何がしかすでに色がついている。アッキの色合いを帯びている。したがって 《その色つきを人に暴かれることをきらいこれを守ろうとしてウソをつく》とあなたは見る。そういう防衛機制を持つことになるのだと。
 こういう人間観ないし存在論の違いがあります。
 ~~~~~~~~~~~~~

 ( g ) 生まれたままの自然本性に《後ろめたさややましさ》あるいは《アクマになりうる要因》がそなわっているのか?
 ( h ) たぶんそうではなく ひとは自由意志をそなわっており この意志の自由な選択によって 心に逆らわない善をもそしてあるいは逆らうところのマイナスの善(つまり悪)をもえらぶことができる。その過程において《アクマになりうる要因》が発生する。ということではないか?
 ( i ) ちなみにですが その意味では(もしそうであるなら) ひとは自然本性としての心に 《超自我》も《混沌的衝動的な無意識》もそなえてはおらず むしろそれらふたつの間に位置づけるかたちでの《自我》 これすら 持ち合わせていない。つまりそれらは あくまで後天的な性格特徴として出来あがったものである。

補足日時:2011/03/06 16:02
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この回答へのお礼

 すなわち精神分析は 入門即卒業であるとき その意図した心の安定が得られる。すなわち 精神分析は その分析の道具や内容にこだわることなく ただちに卒業するとき 精神分析の必要のない・元の自然本性に還ることができる。のではないか?

 ( j ) ▼(ヨハネ福音8:44) 悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない。彼の内には真理がないからだ。悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。自分が偽り者であり、その父だからである。
 ☆ このようであるとき わたしはアウグスティヌスが次のように言ったのを記憶としては聞いています。
 ○ 悪魔も多少とも真理に触れ得たのである。
 ☆ たとえば無常観ないし諸法無我説は 経験的相対的にものごとを見るという空観であり世界観であり真理の一部を成すものと思います。ところが これを相対主義としてその極致に持って行ったときには 何事もやってみるのはよいが やってみたあとどうせ人は死ぬのだという仮説にみちびく手はずになっているのではないかと思います。
 ▼(マタイ福音7:15) ”偽預言者”を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。
 ☆ これにいくらか似ているとは思いました。ぴったりではないようですが。
 ★ ・・・その”偽預言者”の特徴を示しているように察せられます。こちらは、ひとにもじゅぶんに可能なものかと思っておりますが、いかがなものでしょうか。



 ただいまとしまして このようなところです。

お礼日時:2011/03/06 16:19

ぶらじゅろーぬさん、こんにちわ。


宙ぶらりん@休止中ですが
ずっと気になっていたことなので
ちょっとだけお邪魔します。
(空気ちっとも読んでません。)

相変わらず勉強不足でして、
「初めからの蛇(啓示12:9)」については
わたしにはちっとも分かりません。
どのように存在するようになったのか、
分からないままです。

創世記3:1の時点で、
なぜすでに存在してるんですか?
「完全な創造物」しか存在しない状況で、
み使いが「自ら」「わるく」なったのは何で?
・・・と不思議なんですが、
ぶらじゅろーぬさん、分かります?

「自由意志」を持っていたから、ということしか
わたしには分からないんですが、
どのように存在するようになったんでしょう。
正直で立派だった人が
唐突に泥棒になるみたいなもんですか。

たしか「悪魔」の原語は「中傷する者」、
「サタン」の原語は「反対者」、でしたか。
「悪魔」はなぜ俺様を崇拝させようと
考えるようになったのですか。
そもそもなぜ俺様を崇拝させることができる、
と思ったのですか。
わたしにはちっとも分からんのですが、
ぶらじゅろーぬさん、分かります?



話が飛ぶんですけどね、わたしは、
人間が悪魔になることは、な・い!
と思ってるんですがおかしいですかね。

「初めに光透波がおり、・・・。」(ヨハネ1:1)
「わたしの像に、わたしと似た様に霊止を造り、」
(創世記1:26)



また話が飛ぶんですけどね、
創造者が悪魔の支配を許しているくらいですから
呼気のようなわたしにできることといえば、
「悪魔」からなるべく離れている、
ように心がける、くらい、かなあ、
とも思うんですよ。
自由意志の使い方、の問題でしょうか。





「悪魔」が、
「俺様の失敗率は99.999999999%だ」と
自分で気付くには、






さらにたくさんの失敗と
さらにたくさんの時間、






が必要、ってことでしょうか。
まだ、とても長いですかねえ・・・。
いや他人事ぢゃないんですが、
覚悟しといた方がいいかなあ、
と思うだけ、ってことです。

しゃべりっ放しですが
またしばらく消えます。

この回答への補足

 こんにちは。しばらく振りです。ご回答をありがとうございます。

 むつかしいですねええ。おまえ ここらあたりをもっとしっかりと読んでみたまえと言われているようで。

 今回は できるだけ神学用語や聖書からのくだりを持ち出さないように表現するよう心がけていました。考えが止まったとしても あまり参考にでもちらっと紐解くということもしないで来ました。もっとも黙示録は 見てもきちんとした読みが出来ていませんので 単なる部分的な参照になるだけですが。
 いやぁ
 ★ 光透波(ことば) / 霊止(ひと)
 ☆ という言い方が昔からあるようなのですね。初めて知りました。

 ★ 創造者が悪魔の支配を許しているくらいですから / 呼気のようなわたし
 ★ 人間が悪魔になることは、な・い!
 ☆ いちおう次のようにいま認識しているところと呼応していると言っていいでしょうか?
 ☆☆(No.10お礼欄) ~~~~~
  ○ 【麦と毒麦】 ~~~~~~~~~~~~

   神――・・・―→ 良い麦〔その種 を蒔く〕
   〃――悪 魔―→ 毒麦〔その種を 蒔く〕:これをゆるしている。

  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ そしてつまり悪魔は やはり《霊》でしょうか。

 ★ 「初めからの蛇(啓示12:9)」
 ☆ あぁ ここに用語としてわんさか出ていますね。同格です。
 ▲ (黙示録12:9) ~~~~~~ 
 ὁ  δράκων  ὁ  μέγας ( the great dragon )
 ὁ  ὄφις  ὁ  ἀρχαῖος  ( that old serpent )
 ὁ  καλούμενος  Διάβολος  ( called the Devil )
 καὶ ( and )
 ὁ  Σατανᾶς  ὁ  πλανῶν  τὴν  οἰκουμένην  ὅλην
  ( Satan, which deceiveth the whole world )
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ★ たしか「悪魔」の原語は「中傷する者」、
 「サタン」の原語は「反対者」、でしたか。
 ☆ 次のようにそのとおりに確認します。
 ▼ ( Online Etymology Dictionary ) ~~~   
 http://www.etymonline.com/index.php?search=devil …

 "Devil( diabolus ), Satan" (scriptural loan-translation of Heb. satan), :
  in general use "accuser, slanderer,"
  from diaballein "to slander, attack,"
  literally "throw across," from dia- "across, through" + ballein "to throw"
 ~~~~~~~~~~~~~~~

 ★ 創世記3:1〔* 《造られた野の生き物のうちで へびが最も狡猾であった》〕の時点で、 / なぜすでに存在してるんですか?
 ☆ だとすれば 次の書き込みをそのように(存在するというように)直します。
 ☆☆(No.12お礼欄) ~~~
  ● 悪魔
  1. ● 創世記には出て来ない。
  2. そこでの《へび》はどうか?
 ~~~~~~~~~~~~~
 ☆ つまりは 《黙示録 12:9》が《歳を経たへび( アルカイオス=初めからの・古い)=初めからの蛇》と言うからには この創世記のへびのことを言っているはずですから。

 ただし先ほど悪魔は霊だと考えましたが 創世記は《造られた野の生き物》としてこの蛇に関しては記しています。これは 霊としての悪魔とその言わば使者としてのへびという関係なのでしょうか?
 こういうことは 考えて来なかったです。
 もし被造物にもかわわるのだとしたら 確かに《自由意志》の問題であるようにも思われます。
 ★ ~~~~~~~~
 「完全な創造物〔* 被造物?〕」しか存在しない状況で、
 み使いが「自ら」「わるく」なったのは何で?
 ・・・
 「自由意志」を持っていたから、ということしか
 わたしには分からないんですが、
 ~~~~~~~~~~
 ☆ でも《み使い》であるなら 被造物ではない? ううーん。すみません。思考停止です。(あぁ でも意志はあるでしょうね)。

 ★ 正直で立派だった人が / 唐突に泥棒になるみたいなもんですか。
 ☆ これについては 同じような趣きで考えたことがあります

補足日時:2011/03/05 21:29
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この回答へのお礼

 ○ ~~~~~~~~~~~
 それはそれは 努力の人がいました。指導者を目指しており しかも同時に 謙虚です。
 人間的になろうとし 実際になり ますます人間的になり もうこれ以上は人間的になれないというほどの人間になったとき周りを見渡すと だれも この謙虚と見識の深さに重きを置いていないと気づく。勝手にやっていることだというわけです。
 そして自分自身も この《徳》の高さは けっきょく相対的なものであって みながどんぐりの背比べであると覚ります。
 ここから ふつうの生活をいとなむふつうの人間に立ち戻れば よかったのですが(そして そうした人びとも いたでしょうが)そうではなく 既存の秩序は守らねばならぬと考え 既得権益については失いたくないという方向へ走りました。
 ~~~~~~~~~~~~~
 ☆ というお話です。少しニュアンスが違うかとも思いますが。

 ★ ~~~~~~~~
 「悪魔」はなぜ俺様を崇拝させようと / 考えるようになったのですか。
 そもそもなぜ俺様を崇拝させることができる、 / と思ったのですか。
 ~~~~~~~~~~
 ☆ あぁ そういう見方からの切り口ですか。わたしは相対主義の極致として すべてはどっちもどっちだという見方(つまり ドングリの背比べだということ)を伝授し普及させようとした。という踏み出しを見ていました。その結果 のっぺらぼうなる死のしかも甘美の国にその人びとをいざなって そこで確かに崇拝される王さまになっているかとも見られます。

 ★ ~~~~~~~~~
 「悪魔」が、
 「俺様の失敗率は99.999999999%だ」と
 自分で気付くには、






 さらにたくさんの失敗と
 さらにたくさんの時間、






 が必要、ってことでしょうか。
 まだ、とても長いですかねえ・・・。
 ~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ここらへんが 今回のご回答のミソでしょうか。イエスは自分が《すでに勝利している》と言っていますから どうなんでしょう? とも思ったりしました。が 今回は保留とします。

 今回のはこぶるさんとのやり取りで直前のNo.23へのわたしの応答は 書いてみたら意外とうまく答えているではないですか。かれの精神分析論に対するちょっとした批判をも盛り込むことが出来たのではないかと 我れながら 出来すぎだというようにすら思えて来ています。

 悪魔の生成の過程はいかにあるか?
 またその霊としての悪魔に拠ってそのハタラキをわが身につけようとする人間のアクマ成りは どうであるか?
 そこにおける決定的な要因は何か?

 悪霊という場合は 別の意味合いが添えられているか?

 などなど できましたら よろしくお願いいたします。
 

お礼日時:2011/03/05 21:52

#22です。



別に怒っているわけではありませんよ。
極めて冷静です。

> たぶん ですが このアクマの風潮がただよっていると たとえば核装備の道にすすむ・中国やロシアや韓国・北朝鮮と戦争をしてでも領土を守れと言う・菅政権はどうにでもなれという合唱を繰り広げる・ワ゛-チャルなヱブ上では何をしてもいいのだと勘違いする・人の言うことを聞かなくてもよいと思ってしまう・・・とおそれられます。どうでしょう?

いや、それはそうなんですが、そもそも、自分を悪魔だと考えている人間はいないわけで、その点に着目する必要があるのではないでしょうか。
ヒトラー、ポルポト、フセイン、関東軍、仮に悪鬼でも良いですが、最初から悪鬼になろうという心積りはなかったはずでしょう。
みな、祖国の、果ては人類のためという思惑が当初はあったわけです。
しかし、こうした人間の内面に、悪魔のハタラキが兆してしまった。
人間を悪鬼に変えるハタラキを悪魔と呼ぶのであれば、こういうことでしょう。
特に歴史を顧みるまでもなく悪鬼に不自由しない世界にはなっているわけですが、なぜアクマ的ハタラキが顔を出すのか、という点を詰めない限り、アクマの存在証明のみに拘っても何の解決にもつながらないと思うのですけどね。

> そこで このアクマは どこでどうやって生まれたか?――分かりません。わたしたちに出来ることは そしてそうしたほうがよいと思われることは そのハタラキからみんなが自由になること この一事です。つまり アクマの生成する現場のことが分からなくても 対処していかなくてはならないとは思います。

視点というか論点の決定的な食い違いがここにあるのでしょうね。
悪魔から自由になること、逃げることはできませんよ、おそらく。
自らも(むろん、誰もがという意味ですが)その分身を常に飼っているわけですから。
飼いならしバランスをとっていく以外にないはずです。
とりやすいようにする知恵が求められることになるでしょう。
とりあえず、今回のご質問にたいするお答えとしては、このあたりをもって潮時とさせていただきます。
以下は余談です。

>ここでさらに特徴となることは 《死》という要因でしょう。むろん存在や生きることが善だとすれば その欠損としての死は 負の善 つまり悪です。

このことについて、特にここで論議するつもりはありませんが、存在や生きることが善だとは思われません。
単に、存在であり、生きることそれだけであって、無ではない、というだけの現象にすぎないと思います。
つまり、死も同様に悪でも善でもない、と思います。

> 人は 物心がつく前には・そして初めてウソを一つつくその前までは 世界はどこまでも続き宇宙は限りなく広がっていた。その意識すらなく 遊泳していた。ところが ほんの何気なくついた一片のウソから この世界はきわめて狭く区切りをつけられるようになった。

面白い考え方ですよね。しかし、わかりやすいです。こうしてみると、
あくまで私的な解釈ですが、嘘というのも、防衛機制の一種なのでしょう。
防衛機制の親分格である、抑圧にも似ていると思います。
嘘をつくことによって、明らかにしてはいけない(できない)真実を無意識下に押さえ込もうとする働きです。
ただ、嘘は(その根源を辿れば)何らかの他者からの規制によって発生します。
嘘をつかないと自分の中の何かしらを守れなくなるのではないか、という強迫観念に駆られてしまうのでしょう。
むろん、思い過ごしとしての強迫観念の場合もあるでしょうし、実際に守れなくなる場合もある。
>この世界はきわめて狭く区切りをつけられるようになった。

のは、一旦抑圧を抱え込んでしまった無意識が、それをいずれ吐き出さざるを得ない、といういつ終わるともしれないミッションを抱え込んでしまった、と自覚するからなのでしょう。
  
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この回答へのお礼

 そうですね。ここらで一幕を終えるところでしょうか。

 ご回答をありがとうございます。

 そうですね。アクマは たしかにアッキをつくるハタラキなのですが アッキが出来あがる前の段階では むしろ人間の善意やいわゆる愛に対して もしそうだとしたら激しい憎悪の火を燃やしてその愛や善意を消してしまおうとかかるのだと捉えます。
 活きた心や気持ちのみづみづしさ これを極端に嫌うのだと思います。
 そうして 均し棒でそのあふれ返る部分を均して顔をのっぺらぼうにしてしまう。そういう意味で 世界を死の状態に行き着かせる。

 そうして首尾よく出来上がったアッキたちは そうだとしたら 悪行をおこなうようになる。こう捉えます。
 アッキ製造の過程は アッキを直接に作り上げるのではないという特徴があります。
 のっぺらぼうの顔を見てしまった人間は 心が腐ってしまって――文字どおり腐ってしまって――そのあと ぢゃあもうどうでもいいや 悪でも罪でも何でもござれ もう怖いものはないのだうんぬんと言って アッキになって行くのだと見ます。

 ですからこののっぺらぼう宇宙を人に見させるそのハタラキを それはそういうアクマのハタラキなのだよと 互いに警戒するようになるとよいと考えます。枡からあふれ出る米なり豆なりを均し棒で――ちょっとブルドーザーを連想させますが――均していくハタラキのことです。
 いま《千日回峰行》の質問が上がっています。このような難行苦行について価値があるのだという論調は ぎゃくのかたちで均し棒を働かせているようにも感じます。善や愛といった価値のあることではなく そういう目に見えないものごとではなく 或る意味で即物的なものごととしての修行というコト これに目をやるように持って行こうとするのは 善や愛に対して均し棒を遣うことになります。即物的であるのにその中身があいまいなモノゴトへ目をやるようにさせる。これは アクマのハタラキであると見ます。


 ★ ~~~~~~~~~~~~~
  >この世界はきわめて狭く区切りをつけられるようになった。
 :
 のは、一旦抑圧を抱え込んでしまった無意識が、それをいずれ吐き出さざるを得ない、といういつ終わるともしれないミッションを抱え込んでしまった、と自覚するからなのでしょう。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ここで違いがあるとしたなら それはわたしの場合 初めには何も想定していないということです。そしてその状態が――自然本性として―― 言うとすれば善だと見るわけです。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~
 こうしてみると、
 あくまで私的な解釈ですが、嘘というのも、防衛機制の一種なのでしょう。
 防衛機制の親分格である、抑圧にも似ていると思います。
 ~~~~~~~~~~~~~~~ 
 ☆ というときの《防衛》すべき問題などを何も初めには持たないという点です。初めのふつうの善 ここからウソをつくという見方です。ですから《防衛機制》をつくるためではなく それをつくる必要もない。それなのに人間は 自分の心にさからって 最初のウソをつく。
 ですから もし抑圧やその逆の混沌的衝動的自由を心に想定するというのは この初めてのウソの以前に何らかの後ろめたさややましさを持っていると見ることだと捉えます。
 つまりは逆に言えば 人間は白紙の上にウソをついて色を塗るのであって 前々から色がついていたのではないということ。ということは むしろどうしようもない愚かさのもとにあるゆえに アクマはその成り行きの果てとしての死をさとった。それゆえ 人びとみんなにそのさとりを伝授したくてたまらない。というとんでもないハタラキが生まれてしまいます。
 もしこのアクマがいないと見る場合には もともと人間はアッキになる素質があったということになります。白紙で生まれて来るのではなく人間は 何がしかすでに色がついている。アッキの色合いを帯びている。したがって 《その色つきを人に暴かれることをきらいこれを守ろうとしてウソをつく》とあなたは見る。そういう防衛機制を持つことになるのだと。
 こういう人間観ないし存在論の違いがあります。

 人間は白紙で生まれて来る。それなのに 畏れを知らないかのようにウソをつきイツワリを言う。それゆえ その果てとしての死が 思想の根幹に据えられ アクマはここに人をみちびく。
 もしそうでなければ 適当に(と言っても極悪も出ますが)悪人をアッキとして出すだけであるから 互いにその悪の取り扱いを自分の内外においてうまく均衡させて世の中を渡っていけばひとまづ安心であり 人間万歳! というところまで行けるかも知れない。死は善でも悪でもないと見る。
 こういう違いであるように思われます。

お礼日時:2011/03/05 00:54

#21です。



> アッキは もしそういうアクマのことを少しでも知ったら そんなことでよいのだろうかと心のどこかに思うことがある。そういうキャラクターであり アクマとは一線を画している。こう考えます。どうでしょう?

そうですね。
アクマをそのように定義すること自体に特に異論はないのです。
つまり、頭の先から爪先まで、一片の隙もなく全身悪で覆われている、というか全身、それ自体が100%の悪という組成である、そういうものですよね。
言ってみれば神の対極としてでしょうから、そういったものを想定してもよいでしょう。
絶対善の象徴として神、絶対悪の象徴としての悪魔、ということになるでしょうか。
しかし、私が言いたいのは、人間=神ではないように、人間=アクマでもないでしょう、ということです。
これではちょっと弱いかもしれませんね。
さらに言えば、
仮に神となる人間がいたとしても、最初から神であったわけではないはずで、それと同様に、最初から悪魔であったわけではない、ということです。
この例には異論がおありかもしれませんが、いずれにせよ、悪魔の成り立つ、そこには「過程」があったわけで、その過程が何の因もなく生じるはずはありません。
仮に意志だとしても、その意志が生じた因が必ずあります。
しかし、ブラジュさんは、そこには一切目を向けず、つまり、それは悪鬼に対して適用できる理屈であると強弁するばかりです。
「悪魔生成の過程」はない、あるいはその過程が生じた原因については無視しても構わない、というお立場でしょうか。
その因を無視して悪魔を定義しようとしても、果たして何が得られるのか、私には全くわかりません。
どうしようもない徹底的な徹頭徹尾の悪というハタラキを悪魔という言葉で象徴する。
これだけの話でよいと思うのですが、悪魔に関しては。
悪鬼こそを検証の対象としてなぜダメなのかよくわかりません。
(このように分類した功績?は認めていますが)

>社会環境や世の中というもの・あるいはこの人間としての自分というもの これらをさとりの一瞬には超えたのだと考えます。

たとえば、そういった過程があるわけですよね。
なぜ、
>一瞬にして超えた

のでしょうか?

たぶん、水掛け論になりそうなので、特に新しいご見解が示されない限り、私の出番はここまでとさせていただいたほうが、貴重なお時間の浪費を防ぐことにもつながるでしょう。
お邪魔しました。
どうぞ、温泉に入りなおしてください。
  

この回答への補足

 おぎないです。

 ★ 悪鬼こそを検証の対象としてなぜダメなのかよくわかりません。 / (このように分類した功績?は認めていますが)
 ☆ たぶん〔の連続ですが〕 アッキだけなら どうせ死ぬのだから〔核兵器を持とう・おとなりの国とドンパチをやってもよかろう・相手が目に見えないヱブ上なら 何をやってもいいんだよ 遠慮しなさんな・・・〕と言ったやぶれかぶれは ひとまづ食い止められるのではないかと考えます。
 ですから アクマというハタラキの問題をも いま現実のこととして 哲学の主題として俎上に載せたほうがよいと考えられます。

補足日時:2011/03/04 20:35
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この回答へのお礼

 はこぶるさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 まあ そんなにお怒りにならないでください。
 わたしにしても 急所は分からないのです。
 どんなことでも疑問を出し合うことは いいことだと考えます。

 ただしこのところ アクマ特殊論の一辺倒で その根拠を示し得ず 候補者の名前のみを喚呼しているという状態がつづいているということ。これを残念ながら みとめます。

 今回のご指摘について 分かっていること・あるいは違いとして捉えていること これらをしるします。

 ★ ~~~~~~~~~
 〔アクマは経験世界を〕なぜ、
  >一瞬にして超えた
  :
  のでしょうか?
 ~~~~~~~~~~~
 ☆ 分かりません。そう解釈しなければ アッキとは違う何らかのハタラキが実際に受けとめられることがあるというわたしの経験を理解し得ないからです。そして ちょうどクリスチアニズムの系譜では このアクマ論があったので それとも照らし合わせている。こういった道半ばにあります。

 ★ 「悪魔生成の過程」はない、あるいはその過程が生じた原因については無視しても構わない、というお立場でしょうか。
 ☆ ですから 分からない。という現状です。その過程について いくらかの想像と推測をおよぼしている。この現状です。

 ★ その因を無視して悪魔を定義しようとしても、果たして何が得られるのか、私には全くわかりません。
 ☆ このおっしゃる方法が ふつうの経験科学なり哲学のものです。
 つまり現状は 経験事例と神学のアクマ論とを突き合わせて問い求めている。となります。たぶん ですが 《原因》は書いてないのではないでしょうか?
 天使のうちのひとりが 悪の道に堕ちた。その堕天使に始まるといった仮説はあるようですが。
 この仮説は いまのわたしには ただただ頭からそのままの内容をかぶることでしかないので ほうっておいてあります。

 ★ どうしようもない徹底的な徹頭徹尾の悪というハタラキを悪魔という言葉で象徴する。
 ☆ ここでさらに特徴となることは 《死》という要因でしょう。むろん存在や生きることが善だとすれば その欠損としての死は 負の善 つまり悪です。
 あるいは この物語を広げるなら:
 人は 物心がつく前には・そして初めてウソを一つつくその前までは 世界はどこまでも続き宇宙は限りなく広がっていた。その意識すらなく 遊泳していた。ところが ほんの何気なくついた一片のウソから この世界はきわめて狭く区切りをつけられるようになった。そう見えるようになった。この区切りというのは 煮詰めて言えば この生の終わりつまり死ということです。
 この死にかかわることはすべて 便利な言葉としてアクマを持ちそこに集めて処理しようと思ったかも知れません じんるいは。

 善を損なう思惟や行為 これを負の善として悪と言う。この悪を犯したとき 何ものかに対して(つまり自己に対してか隣人に対してか社会に対してかあるいは畏れをいだくべき何ものかに対してか)わたしはあやまちましたと述べて悔いるとき それを罪と言う。
 ですから この悪ないし罪は けっきょく死へとみちびくきっかけであり 死の棘と名づけられています。

 悪ないし罪を犯すことを好むようになるアッキたちがいるとき このようなアッキたちになるよう人びとをさそいみちびくハタラキ これはアクマであると定義します。人びとよ 死んだ状態になれという誘いの言葉を つねにささやくというハタラキだと見ます。むろんその実際の表現は もっと甘い中身として表わされるのでしょうが。

 ★ どうしようもない徹底的な徹頭徹尾の悪というハタラキ
 ☆ たぶん これは アッキの極致ではないかと考えます。アクマのハタラキは もうほうっておいても このアッキの動きをするようにみちびくそれだと思います。死を甘美なものとして あたかも蚕が繭の中につつまれたというように見させるその力であり実際のテクニックであろうかと考えます。

 そこで このアクマは どこでどうやって生まれたか?――分かりません。わたしたちに出来ることは そしてそうしたほうがよいと思われることは そのハタラキからみんなが自由になること この一事です。つまり アクマの生成する現場のことが分からなくても 対処していかなくてはならないとは思います。

 たぶん ですが このアクマの風潮がただよっていると たとえば核装備の道にすすむ・中国やロシアや韓国・北朝鮮と戦争をしてでも領土を守れと言う・菅政権はどうにでもなれという合唱を繰り広げる・ワ゛-チャルなヱブ上では何をしてもいいのだと勘違いする・人の言うことを聞かなくてもよいと思ってしまう・・・とおそれられます。どうでしょう?

お礼日時:2011/03/04 20:30

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