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私は人を陥れるとカルマになるという思想がとても怖くて、
何も出来ません。
例えば、自分が利用されているのに気づいても、やめて欲しいと言えばカルマになるのではないかという気がして当然の権利さえも主張できません。
告白されていやだから断りたくてもカルマになるのが怖くて断れません。
その理由は小さい時から色々なことにおびえ暮らしてきたからだと思います。こんな境遇に、
生まれたのもカルマのせいだと思うので来世で今より不幸にならないためになるべくカルマを増やしたくないのです。

いったい何がカルマになって何がカルマにならないんでしょうか?
ラーメン屋を評価するサイトで「まずい」と書いてしまっただけでもカルマになりそうで怖いです。でもまずいものはまずい。
また、当たらなかった占い師を「おおはずれだった」とブログに書いただけでもカルマになりそうで怖いです。でも外れているのは確かなので、そんな悪党に他の人が引っかからないためにも自分が書くのは正しい事だという気がするんですが、陰で泣く人がいるのも確かなのでカルマになる気がします。このような事はカルマになりますか?

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A 回答 (11件中1~10件)

物事は必ず功罪の両面を備えていますし、


捉え方によって、どうとでも意味を変えるので、
実の所、カルマについて考えると言う事自体が、
あまり意味の無い事だったりします。

それでも良し悪しやカルマ云々が気になるのであれば、
自他の本心を騙し、裏切る事こそが真の悪であり、
罪であると考えれば良いかと思います。

アナタの個性が、本心が、どうしたいと望んでいるかが、
アナタにとっての判断基準や、行動原理となるべきで、
そこは他の誰でも同じ事です。

自分に正直である事や、他人の本心を尊重する事が、
何の罪であるものかと開き直っちゃえば、
多少は気持ちが楽になるのではないでしょうか。

ただし、本心に忠実である事と、
欲望に忠実になるのは違いますので、
そこはお間違えの無き様に・・・。
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カルマを罪という言葉に置き換えます。



怠りによる罪、思いによる罪というのも
存在します。

何もしなくても罪になるのです。
(大きな罪にはなりませんが)

罪の赦される方法は色々あります。
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カルマは、仏教では『業』、キリスト教においては『罪』或は『罪の意識』と云う解釈で良いと感じます。

平たく言うならば、『生きてゆく事に苦しみを覚える』と云う事と感じています。

仏教においてならば『一切皆苦』と云う意味で、キリスト教においては、桑田圭祐の『飛べないモスキート』の歌の中の言葉『暗い教室の隅で、彼は泣いてる、重い十字架を、彼は生きる為に抱いてる。』と云う事になると思います。

或は『心を病んで』マイナス思考の悪循環に陥っていると云う意味と思います。生きてゆく事が重荷になって、心に圧迫を受けていると云う意味と感じます。

宗教の目的は、『魂の救済』と感じます。それは『生きる為の業に喘いでいる、或は生きる事によって、心の底に圧迫を受けて、身体も心も、不安に怯えていると云う意味になると感じます。

その苦しみからの救済を、宗教は教えていると感じます。『心に感じる、何処からもたらせられているかも分からない、漠然とした不安』鬱や神経症や自律神経失調症の患者達が訴えている、『漠然とした不安』です。

心の持ち方を、どうしたら良いかと云う不安です。昔は『心に圧迫を受けた場合』今の様に精神科医も、心療内科も存在していな事から『宗教家』の元に走ったと感じます。

今の時代は『頭の良い人達が増えたために』宗教では、『心の苦しさを緩和出来ないと、決めてしまって』『脳の専門家』或は、『心の専門家』のところに走っているように見えます。

頭の良い人は、自分の考えが間違っていないと確信しているからです。そうして生真面目な人は『思い込みが解けない』人と言う意味でもあります。

心が圧迫を受ける場合、或は心が苦しくなる事を、『今の頭の良い、生真面目な人は』今の脳科学では解明出来ていない、と固く信じています。心を病む事には『寛解が限度で、完治はありえない』と固く信じています。

例えば『鬱』等の原因は、脳内にセロトニンが不足するために、発症していると信じています。医師達の見解を鵜呑みにしています。

ですが、医師達は、その原因が分かっていないと云う見解を示しています。原因が特定出来ないために、『その原因である事には触れないようにして』その結果である、セロトニンが不足している事を取り上げています。

本来ならば、『本末転倒』と言っても良いかも知れません。セロトニンが不足する原因が分かっていないと云う意味です。分かりやすく言うならば、『心が如何して、誰から、圧迫を受けるのか?』と云う事が判らないと云う意味です。

その原因を取り除くならば、又以前のようにセロトニンが、出やすくなると云う意味です。その原因を取り除く事が出来た場合には『寛解』を通り越して『完治した』と云う意味です。

では、如何してセロトニンが出難くなっているのか書いてみます。それは『不安を感じているからです』湧き上がった不安を、身体にも心にも『体現しています』

では不安とは何かと言う事を詳しく書いてみます。不安とは『自身の心に湧き上がる感情です』

ではその感情が何処からもたらせられているのかが『究極の原因』と云う事になります。その原因とは、『自身のもう一つの意識』からです。『何時も、自問自答している時の、問答をしている相手です』その相手は、自身の心の中に内在しています。ですが『自我意識』破棄が付きません。

どうして気が付かないかと云う理由です。その意識は『無意識を動かしている意識』だからです。言葉を替えるなら、『意識』は無意識になった時の自分を『意識』出来ないからです。

湧き上がる感情は、『無意識』からの情報を元にして、感情が湧き上がるシステムを取っています。怖い事も、安心する事も、高い所にいる事も、狭い所にいる事も全て、無意識からの情報を元にして感じています。

この者と、この者からの『情報』を嫌って受け取ろうとしない場合『心を病む』と言います。一人ぽっちでも、孤独を感じない場合は『この者と一体となっています。』

家族や、愛する人といた、としても孤独な感じを味わう場合『この者と仲違いしている事』を意味します。

一人になる事が怖かったり、漠然とした不安に怯える場合も『この者と仲違いしている事』を意味します。自身の心が怖いと云う意味ですが、この意味は『心の矛盾』を、自我意識が感じていると云う意味です。

不安に怯える原因は『自身の心に怯える』事を意味します。自身の『感情を湧き上がらせる情報』を送るもう一つの心からの情報を、怖がっている事を意味しています。

人間の不安とは『心の矛盾』を怖がっている事を意味します。『心の矛盾』の解消が、医師の使命、或は宗教家の使命と云う事になります。

感情を湧き上がらせる情報を、遮断する薬のみで対処しようとする事が、今の医師の役割に見えます。
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カルマというのは 確か 業 のことだったと思います。



業には良い業と 悪い業があり、あなたは悪い業をカルマと思っているのだと思う。

で仏教では偽善というものがある。

例えば自分がよかれと思って、義援金を寄付したとしますよね。
これで被災下人を救ってやってって。

ところが、義援金がヤクザや反社会組織の手に渡ったら、その組織が資金的に潤うことになり、資金を得たことで、前より活発に活動ができるようになるわけです。

そうなると悪徳金融を開業して、返せそうにない人に「お宅の土地を担保にするのなら、お金を貸しますよ」って言い寄るわけです。
「大丈夫 毎月の返済額はたったのこれだけですから」って。
ところが、雪だるま式に増えていき、ぜんぜん借金は減らないばかりか、利子を返すので精一杯になる。
「返せないなら土地は契約とおりもらう」ってシメシメとなり、土地を奪って転売。

もし、資金が無ければ、悪徳金融は誕生することはなく、人を不幸にしなくてすんだ。
よかれと思って渡した義援金が、自分の意図とは違うところに使われ、結果間接的に人を不幸にした。
もしくは 善業と思って寄付をしたものが、めぐりめぐって 自分が土地を取られる結果をもたらした。
善が化けて偽の善になり、自分のやった行為で、自分が不幸になった。

これも業です。


しかし、自分の出したお金が、どのような結果をもたらすかは、全部把握できるものではなく、寄付をするときは「どうかこのお金が悪に使われませんように」と願うしかない。


仏教では施す側が施される側に深く頭を下げる。
「良い業を積ませてもらって感謝します」という意味で、寄付する側がもらう側に頭を下げるんです。


で、意図せず自分のやった行為で、人を不幸にすることもあり、その時は自分のやった行為の結果に対して、黙って跳ね返りによる不幸を受け取らなければならない。

結果がよかったら、良いやった行為は良い業だったために、徳を積んだとなり、不幸になった場合は「知らないうちに悪い業を積んでいたのだ」と不幸に抵抗せず結果を需要する。

悪い結果になった場合も、自分のやった行為によってなってしまったと思い、「なんでやー」と思わないことで、、、、
なんでしょうねぇ  悪いことが起こっても、心を乱れさせず悪い報いに耐えるというか。。。。

そういう思想がカルマの法則みたいなものだったと思います。

良い業なら良い報いを受け、悪い業なら悪い報いを受ける。
これがカルマ(業)の法則。

オウムの場合、人々は悪い業を積んでいるとして、これ以上悪い業を積むと、来世はもっと不幸な人生になってしまうからってことで、もうこれ以上悪い業を積まないで済む様に殺してあげた というもの。
ポア思想の変形。
だからオウムはたくさんの人を殺しましたが、救済目的で殺してあげたので良い行いだって主張しているんです。
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でも相手が不愉快なことを言ったりしたりしてきた時にちゃんと伝えないと、質問者様と


関わる人間は皆沢山のカルマを背負わないといけないことになりますね。
私は相手に沢山のカルマを背負わせないために、その都度言います。意外とそれが相手の
為になることもあります。
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思ったことを書きます。



カルマと言うのは宗教概念ですが、今回は平たく罪として置き換えます。

何もしないのも罪です。
できることをやらないのも罪です。
良い行いもめぐりめぐれば罪でしょう。
そして、罪に怯えている事自体が自分の事しか考えていないという罪です。
それは重いものではないでしょうか。

誰かが背負う罪なら自分が背負う。
そういう気持ちが人間の持つ業を少しでも減らすことに繋がるのでは無いでしょうか。

もうちょっといやな言い方をいうと、「ぐだぐだ言ってないで働け」と言うのもあります。
前世の償いは今やりましょう。その結果の罪は来世で償えばいいんじゃないでしょうか。
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>いったい何がカルマになって何がカルマにならないんでしょうか?


ラーメン屋を評価するサイトで「まずい」と書いてしまっただけでもカルマになりそうで怖いです。でもまずいものはまずい。

まずいものを食わされた怒りで「まずい」と書くのは悪い結果を導くでしょう。
ただし、「まずい」と指摘しなければ、改善することもなしにいずれ店を畳むことになるでしょう。
とすれば、自分の怒りではなく相手を思いやる感情を元に指摘すれば善い結果が生まれると言うことです。つまり、寛容のこころで優しく改善点を指摘してあげることです。
ただし、行動にはプラスとマイナスの影響が必ず伴いますから、プラスとマイナスを理性で比較し行動することが大切になると思います。
あ、もちろん周りにとってプラスかマイナスかということですよ。
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いったい何がカルマになって何がカルマにならないんでしょうか?



○そうだよね。これが正確にわからないと「私は人を陥れるとカルマになるという思想がとても怖くて、何も出来ません。」になることもありますね。
さて、カルマーとは何かですが。簡単に言えば「傾向性」のことなのですね。
「傾向性」とは例えば長い間同じことを経験すると、知らず知らずに自らの経験したことが出てくるということなのです。
例えば、ラーメンが好きで10年もラーメン食べ続けていると、今日、何食べようか。と考えたり、問われた時にラーメンと答えることが多くなる。これがカルマーというものなのです。あるいは短い間でも非常に刺激的な事象を経験した場合、何かの時にそれを思い出すというのもカルマーの一部ですね。
細かい日常の単発の経験がカルマーになることはありません。繰り返しの経験を通してカルマーが形成されるのですね。
いつもおびえていると長い期間を経てそれがカルマーになることになるわけですね。
傾向性はいつでも変えられるものです。今日から始めれば何年か後には変わっていますから前のカルマーはなくなるわけですね。例えば、はっきりものをいえない自分であればはっきりものを言って過ごしていけばはっきりものをいえる自分になりますね。それが新しいカルマーになるのですね。
悪さも一度や二度ではカルマーになりません。何度も繰り返すからカルマーになるのですね。だから悪いことは最初の内にしかってやめさせることが良いことなのです。人は皆、自分に甘いですから、此れぐらいと思って繰り返してしまうのですね。それが悪しきカルマーを作る原因になりますので、早めに直す必要があるわけです。しかったり、時において本当のことを言うのは相手に対して良かれと思っての愛の行為ですから、言うべき時は言うべきなんですね。
友達や隣人の悪しき傾向性を助長しないようにするということなのですね。
ラーメンのうまい、まずいは百人百様ですから個人的な感想として語ることは何の問題もありませんし、カルマーになることはまったくありません。
つまり、あなたが日々考え、行動している中にパターン化してくるものがある、それがカルマーになるわけですね。何があなたのカルマーかを見極める方法はすでに質問の中に出ていますので明らかですね。
一つ一つの細かいことではないのです。くだらないことを信じ安い、それに怯えるというのがカルマーですね。
私は立派なものだ、幸福な未来が待っている。間違っていることは間違っているといってやろう。と思って毎日勉強し、行動すると違ったあなたが生まれているはずですよ。それが傾向性・カルマーというものなのです。
傾向性はなかなか取れませんが、新しいことを始めていままでのことを忘れるという方法で変えることもできるのですね。良くまねるということが言われますが、理想の人物をまねることでその人の生き方や傾向性を自分のものにするという方法もありますね。
というように、細かいことはカルマーにはなりえないし、カルマーなど恐れるものではありません。またいつでも変えられるものなのですね。その程度のものです。
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カルマですが、日本語で業と言って全ての行動は業となるのですから、真面目に清く正しく生きていけばなにも恐いものはありません。



釈尊はその方法としてまず神や霊の話しをしないのが仏法者だといわれましたが、今全ての仏教は神や霊と関係してますので、家の仏教を捨てることから始めることが第一のステップです。神を元としているので占いもしてはいけません。当たり外れ以前です。

できなければ悪業となります。全ての宗教から離れないといけません。あなたが来世どころか今生で善因を積むにはここがスタートでしょう。
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 ところで……カルマはありえると思いますか? 誰かにとって完全に善となる事柄があるとは私には思えません。


 たとえば私は近所のゴミ拾いをしています。しかしゴミ拾いは『誰かのゴミ拾いという善の機会を奪う』悪い行為ともいえます。 こちらのサイトで回答して人に尽くしても、『他の回答者の善の機会を奪う』行為とも言えます。善行も他人の善行の機会を奪うという意味で悪い行為でもあります。そう考えた時、何をしてもカルマは増えると思いませんか? 毎日あなたは何を食べていますか? 毎日他の食物を食べている時点で、それは他の生物に対する虐待です。よって、食事をしなければならないので、生きているだけでカルマは増えませんか? もし食べ物はカルマに含まれない、とすればそれは矛盾しています。他の生物の軽視をしているのですから。他の生物を軽視するような思想はそれ自体が間違っていると私は考えます。
 輪廻転生で今生で悪い行為をすると来世で苦しむ、とあります。しかし考えてみてください。幸せな人生を送れる人がどれ位いると思いますか? 大多数の人間にとって、現世は『苦』です。仏陀という仏教の開祖もそのように仰っています。私の知人で幸せ満点の人はいません。幸せだと主張する人も自分の苦しみや悲しみを他人に見せないだけです。と、なると大多数の人間は前世で悪行を犯しました。もし輪廻転生が地球でのみ起こると仮定すると過去にいくほど悲惨だとは思いませんか? しかしいつの時代も同じほど苦しいのです。昔は肉体的苦しみ。現代は精神的な苦しみに溢れています。結局、現代も幸せな時代ではありません。日本の年間自殺者3万人はどの時代よりも悲惨です。環境破壊も一番悲惨な時代が現代です。口蹄疫や鳥インフルエンザというだけで鳥や牛を大量虐殺している時代です。現代は信仰自体も廃れています。歴史を下っていっても地球は決してプラスに変化してはいません。
 もっといえばなぜそもそもカルマを私達は持っているのだと思いますか? あなたが今生で持っているカルマ。それを生じさせた前世。その前世のカルマを生み出した前世の前世。それを遡っていった最初のカルマは何ですか? なぜ最初のカルマを説明せずに今生でいきなりカルマを持っている、と教えられるのでしょうか。
 そもそも他人を苦しめる、とあります。しかし考えてみてください。ライオンは生きるために他の動物を殺しています。ライオン同士でもメスを巡る争いなどもあります。なぜライオンはその様な醜い行為が許されて人間には許されていないのでしょうか。人間も生物ですから少しでも自分の子孫を残したいと考える『生物欲』があります。その醜い生物欲を否定することは悪ではありませんか? 悪を否定するのは悪ではありませんか? 本当の悪とは悪を許すことではありませんか? いじめっ子が誰かをいじめるのは悪です。しかしいじめっ子がいじめをしたからといって『悪い子』と呼ぶのも悪のように。
 また、不幸は本当に悪いと思いますか? 私は今不幸です。しかし不幸ですが幸せです。分かりますか? 人間は一度落ちぶれないと弱者の痛みが分かりません。一生幸せに生きると大体の人はホームレスを馬鹿にするものです。少なくとも私はそうでした。不幸になって初めて気づくことはたくさんあります。不幸になる前の幸せは不幸にならないと気付きません。また、不幸は人間の能力を上げます。人々に虐げられた苦しみは反骨心を生み、努力できる人間を作ります。お金に恵まれず、物で苦労した人はお金と物を大切に使うようになります。不幸を知らなければ幸せも分かりません。優等生には不良の本当の気持ちは分かりません。もっと言えば、不幸になったことの無い人間が不幸な人間の苦しみを本当に分かると思いますか? そう考えると不幸は悪ではないと思いませんか? カルマを増やして来世で不幸になるとしても、不幸になれば多くの宝物が見つかります。そうなると自ら不幸になりたがってカルマを積む人すら出現するとは思いませんか?
 ちなみに死後は皆が同じ場所へ行きます。私の手元のカプラン臨床精神医学という2万円の専門書では死後の輪廻転生は皆が同じ旨が記述されていました。その内容はWikipediaの輪廻転生の項と大体同じです。と、なると善人も悪人も死後は同じ場所へ行きます。
 と、なるとカルマという思想は間違っているとは思いませんか?
 あなたの今後の幸せをお祈りしています。長文を読んでくださって誠に有難うございました。
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