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まったくの素人で素朴な疑問ですが。

九州説だとか近畿説だとか言われていますが、そもそも邪馬台国って本当に有ったのでしょうか?

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A 回答 (7件)

当時の日本に何らかの国家群があったのはたしかですが、「邪馬台国」という呼称は、中国人が勝手に音をもとにつけた卑称なので、実際に魏志倭人伝の記述に相応する国家が日本にあったかは、わからない状態です。



あったのか、なかったのか。あったとして何と呼ばれていたのか、日本や朝鮮の書物に書かれている何にあたるのか、わからないというわけです。

だから魏志倭人伝の記述によく似ているものが見つかる可能性があったとしても、それが邪馬台国だと断言できないところが苦しいところなのです。

現実的に実証不可能といっていいでしょう。

歴史学では基本的に、書籍に記述がないものは、何も分からないのです。考古学では、遺物などを調査して類推することはできますが、それと書物の内容とを結びつけるほどの明確さを求めることはできません。

結論としては、永遠に答えのでない問題ということです。
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邪馬台国の記述の典拠である「魏志倭人伝」は、魏の次の王朝である晋の時代に編纂されたいわゆる正史『三国志』の一部です。


従って、邪馬台国の存在した時代と同時代の史料ではなく、編者の陳寿が何らかの史料をもとに記述したものと考えられます。
現在その史料は確認されていませんので、もとになった史料そのものがそもそも信用できる史料だったのかどうかは不明ですし、陳寿が誤記した可能性もありますし、陳寿が創作した可能性もありますし、正確な事実が記述されている可能性もあります。
しかし、悪魔の証明と同じように、邪馬台国が存在しなかったことを証明するのはきわめて困難です。
歴史学としては、倭国内で史料が残されていない以上、他国である中国の歴史書に全面的に依拠せざるをえません。
そこにある記述を使用しなければ、この時代の歴史は空白だらけになってしまいます。
歴史の流れを意識すれば、「魏志倭人伝」に依拠するだけではなく、邪馬台国とはどこにあって、朝廷の前身である大和王権とどのような関係であったかを考える作業が必要になってきます。これが現在の論争につながります。

まとめますと、邪馬台国があったかどうか確実なことは言えないが、日本の歴史を記述するにはあったことを前提にせざるをえない、です。
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この回答へのお礼

歴史の空白を埋める為に必要なのでしょうか

お礼日時:2011/04/23 17:23

そもそも、日本語に文字はありません。

漢字は中国の文字ですよね。ひらがなもカタカナも漢字を変化して作った文字なので、日本語独自の文字というのはないのです。
え、じゃ何をもって「邪馬台国」なるものが出てくるのか?質問者さんが聞きたいのはそういうことですよね。

中国の古代王朝である魏が、「魏志倭人伝」という書物を残しています。これは、国家の公式文書です。ちなみに魏は三国志の英雄のひとり曹操が作った国です。つまり邪馬台国は三国志とほぼ同時代の話なのです。
その魏に、「東から倭人というのがやってきて魏に挨拶しに来ました」と記録が残っていたのですね。そこに「邪馬台国」の記載があったのでその存在が記録に残っているということです。
国家の公式文書に記録が残っているわけですから、そこの信ぴょう性を疑うのはやめよう、というスタンスです。そりゃ、公式文書も改ざんや捏造は起こりますが、事実関係(そういう事件が起きたとかそういうこと)が全くの捏造というのも考えにくいですからね。

で、なにがその九州説とか近畿説とかと揉めるのかというと、その記録にあった「邪馬台国がある場所」なんです。北九州の場所まで間違いなく記録がされているのです。そこは分かっている。「朝鮮半島の先に対馬があって、その先に国があってー」となっているのです。問題はそこから先。
「その国から南に船に乗って10日、歩いて1ヶ月のところに邪馬台国がある」と記載されているのです。その通りに南下すると、鹿児島のずっと先の海になってしまうのです。
そこで議論になりました。これは何かを間違えて記載したのだろうけど、どこが間違えていたのかとね。
で、近畿説の根拠は「これは南と東を書き間違えた」と。方向を東にするとちょうど近畿あたりになるので収まりがよくなります。それに、古代大和って今の奈良県あたりにありますよね。
一方、九州説では「これは船に乗って10日、歩いて1ヶ月が間違っている」と考えています。本当はもっと近いのでは、と。そりゃちょっと無理がねえ?と考えがちですが、当時は九州のほうが朝鮮半島との交易があって先進国でした。佐賀県で吉野ヶ里遺跡が発見されたとき、すわ邪馬台国か!?と非常に盛り上がりました。しかし、結局邪馬台国ではないことが分かりましたが、九州説論者はこれだけの大都会が佐賀にあったので邪馬台国も九州のどこかだろうと主張しています。

今のところ、近畿説のほうが有力です。しかしそうはいっても近畿説の最も痛いところは「それっぽい遺跡が全くない」ことです。というわけで、どちらも決定的な根拠がないのでいまだ結論が出ないということです。
宮崎県に高千穂という場所があり、地名から日本神話との関連の深さが指摘され、いわゆる「神武東征」の話なんかもあるのでそういう関係も考えると九州の存在も無視できないんですよね。

邪馬台国から古代大和にかけても日本の古代史というのは矛盾だらけで謎が深い時代でもあるのです。
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この回答へのお礼

「その国から南に船に乗って10日、歩いて1ヶ月のところに邪馬台国がある」と記載されているのです。その通りに南下すると、鹿児島のずっと先の海になってしまうのです

ここからが何だか素人には理解できなくて・・・・

こじつけたような気がするのですが・・・

お礼日時:2011/04/23 17:19

和歌はもともと倭歌(わか・やまとうた)と呼ばれていたという説があり、日本の祖先が倭という名を自称(もしくは受け入れていた)ということは言えるかもしれません。



ただ、福岡市東区の志賀島で発見された「漢委(倭)奴国王印」については、個人的には納得のいかないことがあります。 倭奴(ウェノム)は倭寇以来の日本についての蔑称であり、意味的には「こびとの国の奴ら」的なものです。 なぜそのような名を自称じたのか、あるいは受け入れたのか。 非常に疑問の残るところです。 まさか捏造でもないでしょうが、その後に「倭」の文字を嫌って「和」に転じたのはいつだったのでしょうか? 大きな和と書いて「やまと」と読むのはなぜなのでしょうか。
邪馬台国と「ヤマト」の発音の近さも鑑みると、邪馬台国は、渡来人に対する過渡的な日本人集団としてあり得た存在ではないかと思います。
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この回答へのお礼

発音による説はよく聞くのですが「和」は現代の北京語では「わ」とは全然ちがう発音ですが当時はどうだったのでしょう。

お礼日時:2011/04/23 17:16

「確実に」という証明は難しいですよね。

何と言っても昔過ぎてますし。
私もまったくわかりませんが、面白い質問でしたので、お邪魔しました。

このような小説もあります。

鯨統一郎著
邪馬台国はどこですか? (創元推理文庫)

面白い論理展開で、邪馬台国は東北にあったんじゃないかという話です。
読むと、「なるほど~」と思えるので面白いです。

他にもいろいろな歴史的事項を仮説の積み重ねで、今の有力視されている説を覆す話です。
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この回答へのお礼

考古学や古代史はまったくの素人なんですが、諸説を読むとみんな何処かに無理が有るような仮定が有るような・・・・・

そうなると存在自体が怪しいなとしか思えないのですが。

お礼日時:2011/04/21 10:37

・九州説だとか近畿説だとか言われていますが



日本ではないという諸説もあり、どこかは
定かではないのですが、
邪馬台国の記述は、
中国の国定公式史書である
有名な三国志の
「魏書東夷伝」に、東夷の一つ倭人の国として
書かれています。架空のものなら
そのような史書には、公式記録の引用として
記載されないでしょうから、何かが存在したのは
間違いないでしょう\(^^;)...
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この回答へのお礼

やっぱり日本列島ではないという説もあるのですね。

「倭人」と言うのがどの様な民俗かは知りませんが私たちの祖先なのでしょうか?
出来れば「倭人」が私たちの祖先だという根拠みたいな物をしりたいのですが・・・

お礼日時:2011/04/21 10:20

>本当に有ったのでしょうか?



その時代にいないので「わからない」が正解。

それをいろいろな発掘等で証明しようと
がんばっているんです。
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この回答へのお礼

それをいろいろな発掘等で証明しようとがんばっているんです。

何が発掘されると邪馬台国の存在の証明になるのか知っていたら教えて頂けませんでしょうか。

お礼日時:2011/04/21 10:12

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Q最初の天皇はなぜ誕生したのか?

初代天皇は、どういう経緯で出来たのですか?
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Aベストアンサー

実はそのことについてわからないので困っているんです。
というのも3世紀に活躍したとされる邪馬台国の卑弥呼という女王の解釈により、最近では神武天皇でさえ紀元前660年前の人物とすることには異論がありながらも、その存在自体はありえて、だからこそ正史である『日本書紀』に記載されているのでは?といった論調もあります。
神武天皇そのものというより、神武の伝承として伝わる物語の核になる史実が存在した。それは現存はしていませんが『日本書紀』編纂の主な材料となりえた『帝紀』などに書かれていたのであろう。と予測する立場があるんですね。
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ですから率直に申し上げれば「初代天皇は、どういう経緯で出来たのですか?」という質問については「こっちが知りたい部分です」といった頼りない回答になり、せっかくのご質問に明確にお答えできないことを心苦しく思いながらも、現状をご理解いただければありがたいと思う次第です。

実はそのことについてわからないので困っているんです。
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Q邪馬台国はなかった??

お願いします。
今さらですが、いまだにどっちだなんてやっている邪馬台国論争のなかの、『邪馬台国はなかった』という説について、「『邪馬台国』は『邪馬壱国』」の間違いだというものがありますが、では『ヤマイチコク』というクニの実態は考古学的に実証されたものなのでしょうか。

ヤマタイであろうとヤマイチであろうと中国の文献にしか出てこないもので、実態がよくわからない条件は変わらないし、どちらの名前が正しかろうと文献に書かれている、倭国の政治機構や国々との相関関係が変わるわけではありません。ヤマタイでなかった場合、「どちらの名前が正しい」という論争は単に畿内のヤマト政権または九州のヤマト郡などの語呂合わせのご都合上の問題だけに思えてしまいます。
初めからヤマイチコクならば、「邪馬壱国○○所在説」などと言う、今と全く同じ論争があるだけだろうし、逆に「邪馬壱国は邪馬台国の間違いで、邪馬台国こそヤマトである!」なんてセンセーショナルな説が話題になってたりして、何ら今と変わらないでしょう。

実際に主張する先生方の著作を読めばいいことかもしれませんが、この論争を紹介する文面を見ても、間違いだという説の紹介だけで、『もし間違いだったらどうなのだ』ということが書かれていません。
『邪馬台国』が『邪馬壱国』だった場合、邪馬台国(という古代日本の政治形態解明や所在地)について考古学あるいは歴史学上どのような影響があるのでしょうか。
単に言葉の遊びならば、確かに「ヤマタイコクはなかった」ことになるので一般人にとってはすごく大変といえば大変ですが‥‥

お願いします。
今さらですが、いまだにどっちだなんてやっている邪馬台国論争のなかの、『邪馬台国はなかった』という説について、「『邪馬台国』は『邪馬壱国』」の間違いだというものがありますが、では『ヤマイチコク』というクニの実態は考古学的に実証されたものなのでしょうか。

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Aベストアンサー

邪馬台国はなかった、は吉田さんの著書ですね。
邪馬台(臺)国と邪馬壱(壹)国、PCで見ても紛らわしいので、台と壱を使用します。

魏志倭人伝は、三国志という歴史書の一部なのですが、この三国志は原本は既に失われており、宋代(だったかな?)に写されたものが残っているものの中で一番古いものになるのですが、これに書かれている国名が邪馬壱国なんですね。しかしそれ以外の歴史書などは邪馬台国と書かれている。

さらに卑弥呼の次の女王の名前は台与と知られていますが、宋代の三国志だけは壱与と書かれています。つまり何らかの理由で宋代の三国志だけ台の字を壱の字で書いた可能性が高いものなのです。

実はこのことは非常に昔(江戸自体とか)から知られていたことであったので、宋代の三国志だけに見える邪馬壱国ではなく、多くの写本に見える邪馬台国として扱っていたわけです。
で、その吉田さんが、(現存する一番古い本に)邪馬壱国と書かれているのだから邪馬台国ではなく邪馬壱国が正しいんだ!という主張をし、自分の主張がいかに正しいかをくどくどと書いたのがその本です。

まぁ国の名前が多少違っても、卑弥呼という当時の女王が居たという国がどこかっていう話には、まぁあまり影響はしませんから、それだけの話ってことでもあります。

さらに同書で、邪馬壱国=邪馬台国が福岡平野にあったって主張しています。簡単にいうと里程が徐々に短くなる、これは目的地に近づくにしたがい行程を詳しく述べるという当たり前のことと合致する、なのでその後の投馬国と邪馬台国までの日数の行程は無く、国と国とが隣接=行程0里だったので省略されたのだ、不弥国と投馬国と邪馬台国はくっつきあって共に福岡平野にあったのだ。という主張です。

まぁここまでは、納得できるのですが、そのあとに1万2000里の数あわせをするために、対馬と壱岐を方○○里をひし形2辺に相当する距離の移動だったと言ったり、韓国内は陸をじぐざぐに移動したなどと言ったりと、どんどん支離滅裂になっていったのを覚えています。


話を(吉田氏から離れて)国の名前に戻しますが、上記のとおり昔から邪馬壱国の記述も邪馬台国の読みもよく知られていました。(大体にして西暦300年くらいからある中国の正史の1つというこの世でも最もよく知られていた書物の1つなので、知らないほうがもぐりなわけです。)

邪馬台国をヤマタイ国と読み始めたのは非常に最近で、確か明治以降、というか近年の邪馬台国論争の白鳥庫吉さんだったかな邪馬台をヤマトと読むと畿内ヤマトと紛らわしいとして、わざとヤマタイと読んだのが始めだったと思います。このあたりは化学をバケ学と読むような感覚で個人的には悪くないのですが、このヤマタイの読み方が意外にも広まってびっくりしたのではないでしょうか。


ということで、邪馬台国の読みはヤマト国と読むのが妥当で、邪馬壱国ではない。でしょう。

なお5世紀ころの日本人も邪馬台国を”正しく”ヤマト国と読み、かの中華帝国では倭(和)の国のその王が居るところをヤマトと呼んでいると知り、自分たちの居るところをヤマトと呼ぶようになったのが畿内ヤマト王権、というのが私の持論ですw

邪馬台国はなかった、は吉田さんの著書ですね。
邪馬台(臺)国と邪馬壱(壹)国、PCで見ても紛らわしいので、台と壱を使用します。

魏志倭人伝は、三国志という歴史書の一部なのですが、この三国志は原本は既に失われており、宋代(だったかな?)に写されたものが残っているものの中で一番古いものになるのですが、これに書かれている国名が邪馬壱国なんですね。しかしそれ以外の歴史書などは邪馬台国と書かれている。

さらに卑弥呼の次の女王の名前は台与と知られていますが、宋代の三国志だけは壱与と書か...続きを読む


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