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 哲学として定義してくださいませんか?

 宗教を信じるだのキリスト教を信じるだのブディズムを――浄土系などを除いて――信じるだのとよく聞きます。おかしい。哲学としてただしてください。


 質問者の考えをたたき台にしてもらってもよいです。宗教について触れたところは 情報交換をねがいます。

 1. それは 思考に非ず つまり非思考という行為であると。

 2. 思考は 経験合理性にもとづき――その反合理性をも人間の境地で引き受けつつ――考えをすすめること。

 3. その思考に非ずなら 或る種の賭けという行ないに似ている。無根拠を心に受け容れるということ。

 4. そのときのわが心の伸び もしくは――どこへ伸びたのだと言っても分からないから――心の〔窓の〕明けのこと。

 5. 非思考と言うからには それは 経験世界を超えて非経験なるナゾを――想定の上で――相手にしている。しかもその無根拠を心に受け容れるという時点では 経験的な行為である。言わばその賭けるという決めにおいて領収証を発行していることになる。

 6. 一般に受け容れる相手は 《かみ》と呼ばれている。ちなみにこのとき《無い神》を心に受け容れているなら それは 無神論としての《信じる》である。

 7. 無根拠にかかわることゆえに この《信じる》については 良心・信教の自由として その自由が公理と見なされ認められている。

 8. 言いかえると 信仰は内面のもんだいである。その中身を――観想や瞑想として――ことばに言い出すことはあるかも知れないが その表現内容は あくまで非経験のナゾを仮りに表わした覚え書きである。

 9. この信仰としての覚え書きを わざわざオシエとしていただきそのうえ教義や道徳規範とするやからがいる。組織宗教である。

 10. キリスト者やブディスト――有神論であれ無神論であれ――の個人としての信仰を わざわざ人びとにとっての倫理規範としてかかげるやからがいる。ありえない。言葉で表わしたオシエは すでに経験思考の対象であり それ以外ではない。

 11. キリスト教や仏教を《信じる》ということはありえない。それらオシエは 《考える》ことであり もし信じるに到ったというのならそれは 《思い込み》のほかのことではない。

 12. せいぜい信念・信条として持たれる行動規範であり その場合に社会的に有益でりっぱなことが成し遂げられる場合があるだろうが けっきょくそれは オシエの奥なる個人としての信仰であろうと考えられる。

 13. ゆえに組織宗教は ただ群れているだけである。

 14. 結社の自由はあるけれども もし組織が個人に信仰を有無を言わさず強要し個人の信仰を組織の権限関係によって左右することがあるとすれば それは個人の信仰の自殺行為であり 違法行為である。

 15. 仮りにひとはよわいとすれば そしてそれゆえ群れが必然だと考えるなら 見えざる教会(エクレシア)としての――信教を分離したところの――ムラ(共同体)こそがそれだ。

 16. すべての宗教団体は 自主的に解散するのが 人間的なふるまいである。ローマ教会は 欺瞞である。

A 回答 (52件中31~40件)

「初めに言葉有き」なる文言の意味の無謬性が認められていませんと、


此の質問への回答は酷く難しくなりますね。

オーケストラでのセッションが現代の言語論理に依存しているのか否か、
という点にも注目なさっておく価値がないでしょうか?
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 むつかしいご見解ですね。あるいは 感情として言えば ややこしい見方ですね。視点がいくつもあって 互いに錯綜さえしているかも知れません。

 ★ 「初めに言葉有き」なる文言の意味の無謬性が認められていませんと、 / 此の質問への回答は酷く難しくなりますね。
 ☆ (1) 《初めにことばがあった》という聖書記者の記事は 大いにこの《信じる》という行為にかかわっていて けっきょくそれらは互いに側面こそ違っていても けっきょく同じことを指し示しているとさえ捉えられます。たしかに です。

 (2) ただしその《文言の意味の無謬性》については それほどこだわらなくてもよいと考えます。単なる言葉による表現だと捉えてかまわないのではないでしょうか? もっともそのあとに続く文章(ことばは神とともにあった。・・・)と一体として 扱われなければならない性質の一文であることは はっきりしていると思います。

 (3) ということは 《初めにあったという言葉》を前提していなくてもこの問いに答えられないことはないと思われることには この質問は けっきょく《何が〈信じる〉という行為ではないか?》 これを明らかにすることのほうに重心がある。とも捉えられるからです。

 (4) ほんとうは《信じる》というコトではないのに 世間では やすやすと使われている。それは おかしいではないか。こんな物言いのために設問されたと言っても 間違いではないかも知れません。

 (5) 言われれば確かにそのような物言いを提出できるのも ヨハネによる福音が冒頭に《ことば》のことを提起してくれているからであるかも知れません。

 ★ オーケストラでのセッションが現代の言語論理に依存しているのか否か、 / という点にも注目なさっておく価値がないでしょうか?
 ☆ むつかしい。
 《セッションが》ですか? つまり《音楽が》ではなくという意味ですが。
 しかも《現代の言語論理に依存しているのか否か》ですか。この場合の《言語論理》とは どういう中身を言うのでしょう?
 言語じたいのことなのか? それとも 日本語なら日本語の論理をめぐる特徴を言うのか? 
 音楽と言語との関係や如何に? という問いでもないのですよね?

 すみません。分かりません。乞うご説明を。

お礼日時:2011/05/17 18:33

信念に衝動的な行為を肯定させる効果が含まれていますね。



だから、良い意図で信念を貫いてほしいものですが、
こういう方の存在を考えますと…。
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/5466279.html
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 まづその質問と趣旨説明を掲げます。
 【Q:復讐に意味はあるのでしょうか。】 ~~~
 復讐に意味はあるのでしょうか。
 憎しみとは一体なんなのでしょうか。
 どう捉えれば良いのか、どう解消すれば良いのか、黙って飲み込むしかないのか、それとも復讐してすっきりした方が良いのか。
 別の形で昇華させるなどとはとても考えられません。

 また社会的にも倫理として反しているという事は知識として知ってはいても、その意味までは分かっていない状況なので、どなたか分かりやすく解説して頂けるのであれば幸いです。
 宜しくお願い致します。
 ~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ 短いので あなたのご回答を掲げます。
 ★★ (ANo.47 SakuraiMisato) 価値の欠如は有り得ますが、意味が無ければ言葉を存在させられません。

 ☆ わたしの回答は 次です。:No.14&19&41

 そうですね。わたしは 分からないと言っていますが 案外答えははっきりしているのです。
 ほかの人のことについては 何を答えにしてよいかは分からない。と同時に 自分の人生にとってのこととしては 分かっている。
 すなわち 復讐をするということを知らずに復讐という行為をおこなうといった行動のかたちは いわば人類が物ごころがついてからは なくなったと分かっていることが ひとつ。もうひとつには たとえば復讐を受けて命を絶たれた人がもう一度生き返るというのであれば 復讐をしてもよいのかも知れない。
 あるいはたとえば 人は人の行為としてのあやまちを赦したり裁いたりすることはあっても 人を赦すあるいは赦さないといったことは 出来ない。能力によって出来ない。つまり 人が人を赦すという能力は 人にはない。赦さないという能力も人にはない。
 あやまちとしての行動を批判し その行動に横たわる《死の所望》としての罪なる思想を批判することはあり得るし むしろ大いにすべきであるが あやまちや罪の主体としての人間存在については 赦すも赦さないもその能力が 人間にはない。

 もしこの考えによるとすれば
 ★ 信念に衝動的な行為を肯定させる効果が含まれていますね。
 ☆ には その行為を分ける必要があると思います。あやまちとしての行動は 肯定し得ません。一般的にそうなると考えます。主観的に 肯定することがあるかも知れませんが それは出来ないと考えます。
 ただし その衝動的な行為の相手もそして自己をも 人間存在としては どんなあやまちがあったとしても 人が赦すも赦さないも 出来ない。こう見ます。

 こうだとしますと
 ★ だから、良い意図で信念を貫いてほしいものですが、
 ☆ という願いは 保障がされていないと分かります。それでも 存在は 言うとすれば 善であり擁護すべきです。そのあやまちを含む思想や行為 これについては どこまでもその間違いであることをきちんと説明して批判をおこなうべきだと考えます。
 罪を憎んで人を憎まずと言います。その徹底です。

お礼日時:2011/05/17 17:57

http://oshiete.goo.ne.jp/qa/6743300.html
諭してあげて下さい。
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この回答へのお礼

 投稿しました。




 りとるきっづさんと りとるきすさんと まぎらわしいですね。いいんですけれど。

お礼日時:2011/05/17 14:34

【アマテラス公民の世は終わらせるがは どうですろうか】


のベストアンサー判定の無謬性はどうですろうか。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 ツッコミますねぇ。

 ★ 無謬性
 ☆ を主張したことはありません。《妥当性》をうったえています。

 ただしお尋ねの質問でのベストアンサー選択にかんしては それをえらぶとき確かにその選ぶわたしの内にも 迷いがありました。
 結論としては ちょうど今のご回答のようにツッコミとしての値打ちに重きを置いたものです。

 ちなみに一般にベストアンサーについては わたしの場合 特にこれが秀でていると思うものがない限り 投稿してくださったみなさんに差し上げたいという心つもりでいます。
 言いかえると むしろ回答者の人として選ぶ場合さえあります。そのときその時点では この方に BA が行くのがいちばんよいだろうと思ったときには そうしたりします。
 おかしいかも知れませんが 総合的に見て互いの問い求めにおいて貢献した方だという意味があります。案外その選定には タイミングもあるようなのです。ひとこと感謝の意を込めてというような意味合いになる場合のことです。

 ご斟酌くださるとさいわいです。(するどいですね)。

お礼日時:2011/05/17 13:43

言語の獲得に先立って概念規定が可能になっていたのですか。

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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ 言語の獲得に先立って概念規定が可能になっていたのですか。
 ☆ これはまた ツッコミますね。
 
 1. 言語の獲得がまだ成っていなくても 脳裡に概念なるものが芽生えてはいたでしょうね。

 2. 自然環界や人びととのかかわりとしての一応の社会環境を見て捉えて 何らかの思いが得られていたでしょうし その思いに或る程度の気持ちや意味が見て取れるように成っていたのではないかと。

 3. ところが
 ★ 概念規定が可能になっていたのか?
 ☆ と問うた場合 どうなのでしょう? よく練って得た考えではないのですが おそらく気持ちのかたちや意味のある思いを 何らかの概念として持ちつつあったと考えられるとき その概念を概念として規定したのは やはり言葉だったのでしょうか?

 4. 発声機能あるいは発音の仕組みがからだにあって 何らかの思いを抱いたときその思いのままに自己表出をしたら その発声の仕組みに意識においても気づき その音としての言葉が 思いとのあいだに対応関係を持ち始めて〔と気づいて〕 やがて概念規定を得て行ったか?

 5. 発声機能やら幼児の言語習得などなど細かいいろんな分野での研究について ほとんど知らないままでの憶測ですが。



 【Q:日本語とはどういう言語か。】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6422669.html
 ☆☆ (その趣旨説明欄) ~~~~

 奈良(ちなみに na-ra=地‐ら⇒奈良。cf. no-ra=野‐ら)の三輪山あたりの地で のちに《たたなづく青垣 山隠(ごも)れる》と形容されたその風景を見て われらが祖先の誰かが 

  HA.....

 と発出した。この場合 ただ ハアーッという息の音を出しただけかも知れない。溜息をついただけかも知れない。でも その主観の内には何らかの心の動きが あったはずです。

  HA.....SI。

 というふうに続けて 舌や口の筋肉のはたらきにものを言わせて さまざまな形にして発声した。音で いま目の前の世界の風景を切り取ったわけである。また その心の状態を 取り立てようとしたことになる。

  HASI . / はし。

 こうなると 心の状態が あたかも意味をもって表わされたかに思える。

 ――愛(は)し。

 つまり これは 中心主題相の子音/ h / と指定相・断定相の子音/ s /が働いたと《あとづけ》して捉えられる事態ではある。ここに 自称相 の子音/ ’(=ア行子音)/で

   ’u = う。 
   'u-ru = うる(⇒裏・裡・心)。

 と作って これを添えれば

   うる‐はし。(心愛し・麗しい)

  とつなぐ。いまの心持ちをそれとしてさらによく取り立てて表わすことができた。

 ところで はじめの《 HA.....》は 主観内面のことでもあれば その心の動きを感じさせてくれる目の前の山々の姿でもある。つまりここで 一気に文として扱えば それは 主題の表明になる。
 そのための語彙を考えよう。《山》のことを どういうわけで《やま》と言ったか分からないが 人はこれを得る。そして さらに 《所》の意味の《と》を得て これらを合成すれば 《やま‐と》のかたちにつくった。
 文としては 主題(問い)と論述(こたえ)から成る。つまり

   やまと(山‐処)‐は うるはし。

 人間は その思いを 表わさずにはいられない(!!??)。その内容を充実させようとする。

   やまと‐は・・・・・ほ・・・・・うるはし。

 と表出する。《ほ》は 突出したものの相を表わし 《穂・帆・秀》であろう。ここにさらに《ま / ろ / ば 》をも添えて

  やまと‐は ま‐秀‐ろ‐ば〔なり。 それゆえ〕うるはし。

 と来る。こうなれば 意思表示としての言語は 文による表現を基軸として さらに文法規則としても やがてその現在にまで至る姿を現わしてくるものと思われる。
 ~~~~~~~~~~~

お礼日時:2011/05/17 13:34

こんばんは、bragelonneさん。




●すでに五月も半ばなりけり。




ですね。ヤバいってば。


「あっ?!」という間に


ヾ(★´∀`)ノ゜・*:. ☆夏休み☆.。.:*・゜ヾ(´∀`☆)ノ

http://zoome.jp/dennou/diary/10

ヾ(★´∀`)ノ゜・*:. ☆夏休み☆.。.:*・゜ヾ(´∀`☆)ノ



で、夏休みにつきものといえば…


「 宿 題 」 (||||||) ゾォーーー 


理科の観察実験
☆もののとけ方
http://kids.gakken.co.jp/kagaku/rika/index.html


●カレーライスについてですが、日本の市販のルーは甘口、中辛、辛口とマイルドなものから徐々にスパイシーなものと種類がたくさんありますね。私はS&Bとハウスを混ぜるのが好きです。

イイね!

【QNo.5575536《甘え》論再考 または 《聖なる〈甘え〉》】より一部抜粋
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/5575536.html
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この回答へのお礼

 りとるきすねえさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 それでは 《甘え》の理論のご紹介です。

 ▲ (土井:信仰と「甘え」) ~~~~~~~~~~~~~~~
 ヱ―バーが東洋社会の構成原理と考えたピエテート(ラテン語でピエタス 義務の感情 親子の相互に対する愛情を意味する)は大体《甘え》に相当するであろうと〔大塚久雄は〕言うのである。
 ヱ―バーはまた ギリシャ・ローマの世界は民族移動や戦争によってピエテートがこわされて成立したと述べているそうだが ここでピエテートを《甘え》とおきかえてみよう。するとこのような世界では《甘え》が通用しないことになる。
 言い換えれば そこでは連なりはあまり重視されない。したがってなんでも甘えていればことがすむというわけにはいかないのである。

 以上のごとく考えると ギリシャ世界またそれを引き継いだ西洋の特徴がはっきりして来る。例えばギリシャ最古の文学であるホメロスを取り上げると これは戦争およびそれに因んだ物語である。そこに書かれた世界において 親子および夫婦の間の情愛 そして特殊な友情を除けば あとはすべて闘争に他ならない。そのような世界ではとても他人の憐憫をあてにして暮らすわけにはいくまい。あらゆることに全力を尽くして戦うだけが人間に可能なすべてである。
 日本の社会では《甘え》が通用するので 勘弁してくれ ということでなんとかなり うやむやの中に妥協が成立するが 西洋ではとことん力試しをせねばならず であればこそ西洋で自由と理性が重んじられるようになったということができるのである。

 このような世界にキリスト教が伝播していった際 当然ピエテートは問題とならなかったであろう。多少は残っていたピエテートが キリスト教の浸透に好都合になるとしても 邪魔にはならなかったにちがいない。しかし理性は明らかに邪魔になった。なぜなら西洋人は昔も今も理性で勝負しようとするからだ。彼らは出来ることなら理性だけで事をすませようとする。かくして西洋のキリスト教において信仰と理性の関係が非常に早くから問題となったのである。
 いったいなぜ理性のほかに信仰がいるのか。信仰を得るために 理性は何の役にも立たないのか。また いったん信仰を得れば 必然的に理性はいらなくなるのか。このような信仰と理性の関係についての問題が 西洋人を何世紀も悩ましたということができるのである。
  (『信仰と「甘え」』1990  九 信仰と「甘え」pp.159-161)



 ところで これに反し日本人の場合は理性より《甘え》の方が信仰との関係において問題になると思われる。
 というのは西洋人が理性において自足的であろうとするように 日本人は《甘え》において自足的であるからである。もっとも《甘え》の場合は 理性の場合と対比して 信仰との関係がかなり異なったものとなる。
 というのは理性は信仰と対立的な関係になりやすいのに比して 《甘え》は信仰と並行的で重なりあう関係にあるので しばしば信仰と《甘え》と取り違えるということが起きるからである。
 その結果 自分では信仰しているつもりでも はたから見れば甘えているということになり しかも当の本人は自分の甘えに気がつかないのであるから まことに始末が悪いのである。



 これは特に日本人のクリスチャンの場合心すべきことであるが もちろん日本人の信者だけが信仰しているつもりで知らず知らず甘えるわけではない。西洋の信者でも同じことが起こり得るが しかしたびたび述べているように 日本語に《甘え》という便利な言葉があればこそ 信仰のあり方について《甘え》の観点から分析的に反省することが可能となる。であるから西洋人がその信仰生活について同じような反省を行なうためにも やはり《甘え》の観点を自分のものにすることが必要であろうと考えられるのである。
  (『信仰と「甘え」』1990  九 信仰と「甘え」pp.161-162)



 次にキリストの言葉を取り上げて いかに信仰の世界が甘えに似ているか それでいて甘えを超越するものであるかを示したいと思う。

 ○ 《マルタとマリア》の話
 マルタとマリア姉妹の家をキリストが訪問する。マルタはもてなしで忙しい。マリアは手伝わないでキリストのそばに坐りこんで話に耳を傾けている。
 腹が立ったマルタがキリストに 私ひとり働いているのをなんとも思わないのか マリアに命じて手伝わせてほしい と告げる。するとキリストがマルタに あなたはいろいろ心を労しているが なくてはならないものはただ一つだけ マリアはそっちを選んだのだから取り上げるわけにはいかない と答えた。

 この話はちょっと考えると マルタが奉仕しているのに反し マリアは何もせず キリストの話を聞いて満足しているのであるから マリアの方が甘えているといっていいように見える。しかしよく考えると 自分ひとり働いていることに腹を立て マリアに手伝わせて欲しいとキリストに頼んだマルタに《甘え》があったことは 明瞭である。
 それからマリアが実際に《甘え》の感情を自覚していたかどうか明らかではないが もしそれが事実としても キリストが嘉(よみ)したのはマリアが甘えたことではなく 彼女がひたすらキリストの教えに聞き入ったことだったという点を忘れてはならないであろう。
 (pp.162-163)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ わたくしは 理性としての辛口と甘えとしての甘口とをブレンドしたところの《聖なる甘え》が好きです。そうすれば マイルドなものから徐々にスパイシーなものまでたくさんの種類の理論や意見に出会えてさらにまたブレンドして行けるかも知れません。


 宿題です。あなたは マリア型 それとも マルタ型?

お礼日時:2011/05/17 13:17

思考を外した→十分な検証をあえてせずに ということですかね。



ただ信じるという行為にも、いくつか種類があるように思います。
たとえば、スピーカーの中にたくさんの小人がいるわけではないと私は信じていますし、また地球のまわりを人工衛星が回っていることも、実際に見たわけでもないのに信じています。
しかし、それらを信じ込むのと、自分の価値観の根拠にあえて無根拠な虚構を置くことは、性質が大きく違います。
やはり前者については、まあスピーカーの例程度ならなんとかできますが、自分の力だけでは限界があることのように思います。そして自分の価値観の根拠に前者の「信じた」知識を置くことは、やはり後者とは質が異なるのだと思います。
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この回答へのお礼

 じょいわーるどさん ご回答をありがとうございます。

 そうですね。
 結論から申すならば 今回も(高飛車な言い分になりますが) 経験事物についての経験思考にかんして 特殊に《信じる》という言葉を文学的に(つまり哲学的にではなく)あてはめる場合を いくつか分析して示しておられる。こう受け取ります。

 いちばんの違いは 
 ★(あ) 自分の価値観の根拠にあえて無根拠な虚構を置くこと
 ☆ というとき むしろこの表現の仕方のほうが《信じる》のことに触れて説明しているようにも受け取れるのですが でも微妙に違っていると考えられ そこにあると思います。
 つまり微妙に違うというときが いちばん違うということにもなります。
 すなわち

 1. じつは そもそもの初めに《信じる》という行為は――じつは――
 ★ 無根拠な虚構を置くこと
 ☆ なのです。じつはおおむね そうわたしは定義しています。その虚構を受け容れることだと。

 2. ところが その《フィクション》は げんみつに言えば 《無根拠〔なるナゾの何ものか〕》をわが心に受け容れたあと その混沌としたイメージのような世界から何らかのヒラメキを得て そこからさらにその中身を膨らませたものだとも考えます。

 3. 次の順序です。
  (α) 無根拠のナゾの何ものか(非経験)
 ⇒(β) これをわが心に――その無根拠そのものとして――受け容れる。
 ⇒(γ) そこでわが心には非思考の庭が成った。心の明けまたは伸び。
 ⇒(δ) 窓の明けられた心に 描像が得られる。観想。瞑想。ヒラメキ。
 ⇒(ε) このイメージから 言葉で表わす内容が得られる。預言。
 ⇒(ζ) ヒラメキ(観想・預言・イメージ)から 命題が得られる。

    たとえば アブラハムは 神からわが子をいけにえとして捧げよと
   命じられた。泣く泣く従って わが子をほふろうとしたそのとき や
   めなさいと言われた。
    これは ただの夢の中の話であり 幻想や妄想であるかも知れない。
   つまりは 混沌とした描像でしかないかも知れない。しかも子をほふる
   ということは ふつうの心ならしないものだと ヒラメキを得た。
    すなわち 《人は人をころさないものだ》という命題を得る。
    これを 《なんぢ ころすなかれ》という倫理規範(十戒)とするこ
   とが起きた。
    また ここにはアブラハムにとって或る種の《神についての物語》す
   なわち《虚構》が編まれていることになる。

 ⇒(η) このような命題から 人間の合理性にもとづく思考が始められる。
 
 4. 上の(η)から 経験思考においては 証拠を示したり論理をたどって証明したりするという《根拠》にもとづく推論が始められた。

 5. そこで
 ★(あ) 自分の価値観の根拠にあえて無根拠な虚構を置くこと
 ☆ ですが この命題は 次のふたつの部分に分けられると見ます。
 一方で《自分の価値観などなどの思考や思想についてそれをみちびいたところの根拠を示すこと》と 他方で《無根拠を受け容れること。およびその非思考の庭において 虚構を編むこと》であり これらは互いに 分けて捉えるべきものと考えます。

 6. むろん じつは 上の二つの事柄は 人間という存在においてつながっているとさえ言えると思いますが それでも基本としては 別である。つまり 《非思考の庭において無根拠を受け容れていること》と《経験思考において根拠をどこに置くかということ》とは やはり次元が違っており 別である。
 
 7. 早い話が 神を信じることと これこれのように生きるという思想(生活態度)とは――《わたし》という人間存在においてつながってはいますが―― やはり《非思考=信じる》と《思考=考える》とでは 隔たりがあると言わねばならないと考えます。

 8. おそらくその上で――つまり ふたつの事項は互いに隔たりがあると言った上で―― けっきょくわが人格としては 一体となっている。と見ることになるのではないか?

 ☆ スピーカーの中の小人や人工衛星が回っていることなどは 経験思考の扱う主題であると考えます。文学と科学とです。

お礼日時:2011/05/15 15:04

こんにちは、bragelonneさん。




無根拠ときますか?


そうきたならば、無根拠の大家としては耳が痛い(-_-;)uuu…

はい、「何の根拠もないけど」と、

しょっちゅう言い放ってます(TT)


たとえば… ココ↓とか… ♪≡≡≡ヘ(o^-^)ノダッシュ-☆


【QNo.6397358継体ヲホドは雄略ワカタケルの子ではないか】
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/6397358.html
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この回答へのお礼

 りとるきすねえさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 ところが ちぃーとばかし はなしはちがうんよ。

 歴史学にしても――つまりは この雄略ワカタケルの場合には 文献学や考古学や民俗学もしくは神話学 そして古代日本語に言語学 あるいは世界の古代史との比較対照などなどをひっくるめた歴史学にしても―― これは 経験科学でありやして 大いに経験思考をはたらかせてやってください。隅々にまで 推論をおよぼすのがよいでしょう。

 ただし 継体ヲホドなどの場合には それほど資料があるわけではありません。少ない資料から けっきょくは推論というより想像力をはたらせて推測するということにはなります。
 そして ときには そのように突拍子もない飛躍をして想像したほうが 学問としてもよく進展することがなきにしもあらずということがあるようです。


 つまり《信じる》の場合には 文字どおり・額面通り・掛け値無しに・寸分たがわず・まったくそのまま《根拠のない何か》を わが心に受け容れることを言うんよ。つまり 阿呆みたいになのら。
 ☆☆(趣旨説明欄) 4. そのときのわが心の伸び もしくは――どこへ伸びたのだと言っても分からないから――心の〔窓の〕明けのこと。
 ☆ という定義でござぁーい。いかがでございましょうか? 



 すでに五月も半ばなりけり。

お礼日時:2011/05/15 14:06

無根拠なままに、または根拠があってもそれに対する十分有力な反論があるのに、あることが正しいと思い込むこと。

―そういうことを「信じる」と言うのだと思います。
信じるというのは、思考を外した、心の弱さからくる行為というイメージです。

逆にちゃんと正しいとわかることは、「確信する」などと使い分けています。
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この回答へのお礼

 じょいわーるどさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 そうですね。
 ★ 無根拠なままに、または根拠があってもそれに対する十分有力な反論があるのに、あることが正しいと思い込むこと。―そういうことを「信じる」と言うのだと思います。
 ☆ 《無根拠》を非思考において受け容れること このようにひとつの見解を質問者としては出しています。その《無根拠》という言葉としては重なるところがありますが 
 ★ 正しいと
 ☆ の部分で やはり異なっています。――とまづ申し上げます。
 つまり《正しいと 少しでも判断した》のであれば それは 思考を経ています。非思考ではなくなります。

 すなわちおっしゃっている事例は 《考えたこと》についてその妥当性を強く意識した結果 相手に向けてそのことを強調したいがために《思い込んだ》のだと見ます。
 したがって――確かにじっさいにそれを《信じる》という言葉で表わすことはあるようなのですが それは けっきょくその心つもりの強さを取り立てて伝えようとしているだけだと思われ したがって―― ふつうには《思い込み》のことでしょう。《鵜呑み》とも言いますね。


 ★ 信じるというのは、思考を外した、心の弱さからくる行為というイメージです。
 ☆ というふうに表わすならば たとえば
 ○ 思考をおこなっておくべきところをその《思考を外した》
 ☆ と言っているようですし。あるいは
 ○ 心のあり方がふつうであれば いちいちそうしなくてよいものを 強く意識しその思いをも強めて行くこと
 ☆ と言っているようです。つまりは すべては この経験世界のことがらについて――感じたり考えたりするところを さらに意識しようとしていることとして――取り上げている。こう捉えますが いかがでしょう?

 すなわち
 ★ 逆にちゃんと正しいとわかることは、「確信する」などと使い分けています。
 ☆ これも《信》という語が入っていますが やはり経験思考の問題であると思われます。その思考が筋道立てて考え尽くしてあるから 確かなものだと安心して思っている。こういうことの事例であるようです。

 もしこうだとしたら やはり《信じる》は これら経験思考に非ず という定義の仕方にもとづけば 違う内容であると考えますが いかがでしょう?


 

お礼日時:2011/05/15 08:19

ノビタくんは意味不明です。

私も理解していません。ルックスの事とは思えません。ノビタくんは複数いるようですから。変哲がないって言う意味でしょうか?

この回答への補足

 ★ その共通善と言うのは例えばどのようなものが挙げられるでしょうか?
 ☆ 想定するわけです。そこはかとない何かを。

 その善に逆らうときには・つまりウソ・イツワリを言うときには 顔を赤らめたりしどろもどろになったりするという体からの知らせも人びとに共通であるところから そこには共通善があるだろうと。あるはずだと。 
 つまりはけっきょく 生きること ということでしょうか。

 つまりは 社会として生きるというからには 共生になるのではないですか。


 * つまりは 理論としては 悪は存在しないという命題が来ます。あるのは生きることとしての善と その善をそこねることとが起きている。負の善を悪と呼ぶというのみです。
 つまり 悪は マイナスの善として現象しているけれども 悪という存在があるわけではない。
 善の傷の部分が 悪であり その損傷を起こす行為も悪であると。

補足日時:2011/05/14 22:35
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この回答へのお礼

 ありがとうございます。

 感触としては どうもわたしの質問によろこんで回答を寄せてくださる方々を言うのではないかと思うのですが そのノビタくんは 複数いるのですか?
 同じ名前で 複数いるのですか? たしかドラえもんか何かのキャラクターですよね? ドラえもんと友だちだという意味でしょうか。と言っても ドラえもんが どういう存在か詳しくは分かりませんが。

 ま いいです。ありがとうございます。うっちゃっておきます。



 * 前身のななにすは 二度 反省したことがあるんですよ。ごめんなさいと。わたしに向かって。
 部分的に賢そうと見えたかも知れませんが 支離滅裂ですよ。

お礼日時:2011/05/14 22:25

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