哲学として定義してくださいませんか?
宗教を信じるだのキリスト教を信じるだのブディズムを――浄土系などを除いて――信じるだのとよく聞きます。おかしい。哲学としてただしてください。
質問者の考えをたたき台にしてもらってもよいです。宗教について触れたところは 情報交換をねがいます。
1. それは 思考に非ず つまり非思考という行為であると。
2. 思考は 経験合理性にもとづき――その反合理性をも人間の境地で引き受けつつ――考えをすすめること。
3. その思考に非ずなら 或る種の賭けという行ないに似ている。無根拠を心に受け容れるということ。
4. そのときのわが心の伸び もしくは――どこへ伸びたのだと言っても分からないから――心の〔窓の〕明けのこと。
5. 非思考と言うからには それは 経験世界を超えて非経験なるナゾを――想定の上で――相手にしている。しかもその無根拠を心に受け容れるという時点では 経験的な行為である。言わばその賭けるという決めにおいて領収証を発行していることになる。
6. 一般に受け容れる相手は 《かみ》と呼ばれている。ちなみにこのとき《無い神》を心に受け容れているなら それは 無神論としての《信じる》である。
7. 無根拠にかかわることゆえに この《信じる》については 良心・信教の自由として その自由が公理と見なされ認められている。
8. 言いかえると 信仰は内面のもんだいである。その中身を――観想や瞑想として――ことばに言い出すことはあるかも知れないが その表現内容は あくまで非経験のナゾを仮りに表わした覚え書きである。
9. この信仰としての覚え書きを わざわざオシエとしていただきそのうえ教義や道徳規範とするやからがいる。組織宗教である。
10. キリスト者やブディスト――有神論であれ無神論であれ――の個人としての信仰を わざわざ人びとにとっての倫理規範としてかかげるやからがいる。ありえない。言葉で表わしたオシエは すでに経験思考の対象であり それ以外ではない。
11. キリスト教や仏教を《信じる》ということはありえない。それらオシエは 《考える》ことであり もし信じるに到ったというのならそれは 《思い込み》のほかのことではない。
12. せいぜい信念・信条として持たれる行動規範であり その場合に社会的に有益でりっぱなことが成し遂げられる場合があるだろうが けっきょくそれは オシエの奥なる個人としての信仰であろうと考えられる。
13. ゆえに組織宗教は ただ群れているだけである。
14. 結社の自由はあるけれども もし組織が個人に信仰を有無を言わさず強要し個人の信仰を組織の権限関係によって左右することがあるとすれば それは個人の信仰の自殺行為であり 違法行為である。
15. 仮りにひとはよわいとすれば そしてそれゆえ群れが必然だと考えるなら 見えざる教会(エクレシア)としての――信教を分離したところの――ムラ(共同体)こそがそれだ。
16. すべての宗教団体は 自主的に解散するのが 人間的なふるまいである。ローマ教会は 欺瞞である。
No.51
- 回答日時:
此方にも協力(慈愛)を提供してあげて下さいませ。
知っておいたほうがよさそうな主題でしたので 調べてみようかと思いましたが やめました。
よく知りませんから。付け焼刃は控えました。
No.50
- 回答日時:
他のページで酷い文言を盛り込みまして、失礼を致しました。
此方では冷静に進めていきます。
でも、難しいですね。
最初に我々の御先祖様達が言語の共有を開始した時に、
御互いの思考基盤(フォーマット)の共通性を、
言語に頼らずとも信じ切れたのか、
それとも「疑い方」を知らずとも半自動化されたのか…。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1% …
http://www.sophia-it.com/content/%E3%83%95%E3%82 …
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%BB%E5%83%8F% …
________________________
因みに、綺麗な写真ですね。
この回答への補足
● ( OKWave 様のサイトを利用する際のマナーについて) ~~~
哲学のカテゴリで独自の見解を頑なに主張なさる回答者の方々がいら
っしゃいますが、質問者に【回答者の自説】を押し付ける遣り方は、
「マナー違反」なのではないでしょうか。
~~~~~~~~~~~~~~~~
ご投稿をありがとうございます。
★ ~~~~
他のページで酷い文言を盛り込みまして、失礼を致しました。
此方では冷静に進めていきます。
でも、難しいですね。
~~~~~~
☆ 《酷い文言を盛り込むこと》が 《冷静に進めることがむつかしい》場合には 控えがたいとは思われません。
後者の場合には 一般にただおのれの推論などに不十分なところが出たりするだけです。酷い文言を盛り込むというのは ひとつに質問の趣旨を把握していないから もしくは 把握していてもそれをないがしろにするから。ひとつにもともと質問に回答しようとしているのではなく 難癖をつけようとしているだけだから。といったところでしょう。
《酷い文言が盛り込まれた》のは 一再成ならずなのですから。むろんこちらからもその指摘をして来ています。いったいどういう料簡なのでしょう。けんかを売りたいのですか?
もし《信じる》ことは どういう行為か。これを問い求めるおつもりがあるなら お応えしましょう。
概して言って 概念がいくつか違う系統のものなのに互いに入り組んでいるように思われます。
○ 言語の生成および使用と 《信じる》とを同列に扱って論じていまいか。
○ 言語による相互理解と《信じる》とを同列に並べていまいか。
★(あ) 最初に我々の御先祖様達が言語の共有を開始した時に、
☆ 細かいことですが 《言語の共有》があるということは すでに互いに基本的には意思疎通が出来るようになっていると考えられます。《言語の共有を開始した》とするなら 相互理解が 相手の考えとの間での同じところも違うところも両方をふくめて成り立つようになったことを意味します。
★(い) 御互いの思考基盤(フォーマット)の共通性を、言語に頼らずとも信じ切れたのか、
☆ 上の(あ)の意味するところに基づけば 言語に対応するかたちでの思考形式は 基本的に相手とのあいだで共有されるようになったのだと見られます。つまり
★ 御互いの思考基盤(フォーマット)の共通性
☆ が基本的に見て つちかわれたのだと言ってよいはずです。
★ 言語に頼らずとも信じ切れたのか
☆ 《信じる》という言葉が使われているところは あとに回します。思考形式を互いに共通のものとして持ち得たならば それは《言語に それとして 頼っている》ことです。上に触れましたように 意思疎通がうまく行かない場合には その理解のむつかしいということを共有することが出来ている。またそういうフォーマットが出来ていると言っていいのでしょう。
ここで・つまり言語をつうじての交通の場で 《信じる》という用語は げんみつに言えば ふさわしくありません。あくまでこの場は《考える》の範囲内にあります。それぞれの主観の内には おのれの《神への信仰》が持たれている場合があり得ますが 社会としての交通においてはあくまで基本は経験思考が基軸となります。(《信じる》にかんしても いまわれわれがここで行なっているように 経験思考として明らかにしようとすることになります)。
★ それとも「疑い方」を知らずとも半自動化されたのか…。
☆ ですから相互理解が得られないという場合には 確かに《うたがい》も持たれていましょうし その場合が重なるなら《疑い方》も人それぞれにその内面に形作られて行ったとも考えられます。けれども一般に自動化はしないでしょうし
★ 半自動化
☆ も しないと考えます。なぜなら人は 自分が疑っているということの妥当性についてもみづから疑うという能力と境位を持っていましょうから。
つまりたぶんお分かりのように ことをコンピュータの世界の事柄にあてはめて捉えようとしておられる。そういうアプローチはというよりは いろんな観点や角度から捉えることはそういうアプローチを含めて まったく有益だと考えますが 考えるのですが それと同時にいま目の前の問題は何なのかそしてその焦点はどこにあるのか これを同時に考え合わせるのでなければ その思惟はなんのために為しているのかと問わなければならなくなります。
早い話が この質問に回答する気はあるのか。となります。
ご高察を願います。
No.49
- 回答日時:
> ☆ 《事前に心の準備があった》かも知れないのですが それについて《知っていた》ことはなかったです。
《わたしは 準備がある。準備が出来ている》とは思わなかったし むしろ知りませんでした。解釈はこれでOKですよ。心の準備とはまさに心の準備の事で、頭で準備されたことではないという意味でもあります。私もほかに表現方法を思いつかなかったので心の準備と言うことにしたのであって、100%言いたいことを表現できているわけではありません。肝心のところから一歩引いた表現となっています。もっと表現を推し進めるなら喩えを使うことになります。きっと余計わかり難くなると思いますが、喩えば、孤立した空間があるとします。その空間には一枚の水面があって、それは完全に静止しているとします。外部要因はゼロの孤立した空間です。この水面に、たった一滴の水が落ち、波紋が広がるような瞬間が、ブラジュロンさんの言う信の瞬間ではないかと思うのです。初めて水面が励起したということは、初めて水面の存在が知られた瞬間の事です。初めて自分が○○であったことを知る。と。
>もう少し語り足りないと感じるところもありますが ひとまづお返しします。どうでしょうか。
いい感じなんじゃないでしょうか。語り足りないところも、語りたいと思われるならばどうぞ。その方がたぶん私の質問者に対する理解は深まるはずです。はじめ、質問文だけを読んだだけのときはかなり意味が不明でしたが、やり取りによって随分理解が進みました。体験談などを聞くと、ふむふむと思います。いくつかの答えを提示してきましたが、それらは理解の進み具合によって変遷しています。
ご回答をありがとうございます。
★ きっと余計わかり難くなると思いますが
☆ とご推測のとおりでした。水滴では ピンと来ないですね。
たとえばもしその比喩で行くとすれば
★ 外部要因はゼロの孤立した空間です。
☆ というように設定する必要がないと考えられるのです。つまり 外部要因と接しており 激しく行き来していてもよいはずなんです。
あとは 個人的な体験の問題に狭められるかも分かりませんが こうです。
★ この水面に、たった一滴の水が落ち、波紋が広がるような瞬間が、ブラジュロンさんの言う信の瞬間ではないかと思うのです。
☆ つまり 信の瞬間は――これまでのわたしの説明と錯綜するかも分かりませんが―― まったく知らないあいだにその信を与えられたという瞬間のあとに意識において来るわけです。信を与えられた一瞬のあとに それに気づいて言わば受け容れましたという領収証を発行したわけです。
ですから 信の瞬間は あたまがすっきりしたという時でしょうか。いえ その前に与えられてそのあと頭がすっきりしたと感じたのでしょうね。そうして これは 信じるという人間の持つ行為なのだと知った。こういう経過だと捉えます。(信じるとは何かとそれまで尋ね求めて来ていたのですから その気づきは早かったです)。
語り足りないというのは 感覚だけのことでした。まだはっきりしません。
No.48
- 回答日時:
こんばんは、bragelonneさん。
●同感・共感そして反感の三分法の最後の三分の一に入る人ですから
ふつうに相手をする人間ではないという意味です。
丁重におもてなしなさいって?
はーい、かしこまりい~♪
= = = = ( ^^)_旦~~~ ささ、どうぞ 一服
『茶まつり囃子』
http://kanayakomyunithi.web.fc2.com/kokoro/hayas …
●ということは その見方はふるい。
↑
べつに、ちゃかしちゃいませんてば( ̄^ ̄)キッパリ-☆
それよか―――――
●ねえさんは ふるい考えに浸っている
● 平成の今に到っても。甥っ子さんになじられるわけだ。
↑
手揉み美味しいよ~♪
●甥っ子さんになじられるっていうけど…
「若手が製茶技術競う 八女で手もみ大会」なんてのもあったようだよ
【製茶技術の将来について】
http://www.ochakaido.com/juku1/13-5fut.htm
【お茶の博物館】
http://www.kaburagien.co.jp/museum/museum/museum …
●この二月三月の第五次世界大戦を経て そういうふうにすでに人を捌く――白黒や善悪の裁くではなく 仕分けするかたちの捌く――ようになりました。実行しています。
国土交通省 メールマガジン 平成23年2月3日http://www.mlit.go.jp/page/kanbo01_hy_001362.html
携帯電話
http://homepage1.nifty.com/samito/phones1.htm
http://ad.impress.co.jp/special/923sh/
あぁ 一服すると リフレッシュですね。ねえさん ご回答をありがとうございます。
★ ~~~~~~~~
手揉み美味しいよ~♪
● 甥っ子さんになじられるっていうけど…
「若手が製茶技術競う 八女で手もみ大会」なんてのもあったようだよ
~~~~~~~~~~
☆ そうですか。おっしゃるとおりかも知れませんね。
でも それでも口答えしますが
★ 丁重におもてなしなさいって
☆ これについては じゅうぶん 充分過ぎるほどおもてなししたあと 採った行動でしたよ。相手もじゅうぶん分かっていますよ。というよりも 相手は あまりにも充分過ぎるほど慎重にていねいにおもてなしをし続けたので かえって不思議に思っているくらいではないですかね。そんなやり取りを経て来ています。( ̄^ ̄)キッパリ-☆
それでは きょうは そろそろお休みですね。
なんか答えが少ないようにも感じますが。
No.47
- 回答日時:
こんばんは、bragelonneさん。
●分かりません。
それに その質問者は わたしのふつうに相手する人間ではありません。
あしからず。
理不尽なシチュエーションその3
|(><)|キャーッ!!ってね。
(*^^*)肝が据わってます。
そうきますか?なかなか出てこない相手を燻って出てこさそうって作戦ですか?
人が悪いなあー、…人を食う?
人間ではない…魚…燻す…うまいっす!
燻製の作り方
http://www5.big.or.jp/~sakufu/kunsei.html
とかなんとかいっちゃって、好きなんですね?その質問者の方のこと~♪
モクモクモク)))))モグモグモグ)))))
★ とかなんとかいっちゃって、好きなんですね?その質問者の方のこと~♪
☆ というふうに見る見方を ほかにもうひとり はこぶるさんがしていました。でも今では わたしからの説明でかれとても《洗脳》されたかも知れませんよ。
ということは その見方はふるい。ねえさんは ふるい考えに浸っている 平成の今に到っても。甥っ子さんになじられるわけだ。
同感・共感そして反感の三分法の最後の三分の一に入る人ですから ふつうに相手をする人間ではないという意味です。
この二月三月の第五次世界大戦を経て そういうふうにすでに人を捌く――白黒や善悪の裁くではなく 仕分けするかたちの捌く――ようになりました。実行しています。
モクモクモク)))))モグモグモグ)))))
そう言えば 腹が減った。夕食まだだったぁ。
No.46
- 回答日時:
こんにちは、bragelonneさん。
●☆ こんがらがって来るように出来ていませんか?
1. ケムリ男(アキラと言うらしい)は クルマの整備士で整備するクルマから出る煙を浴びているし また煙草を吸っていたので そういうらしい。
2. そのアキラが リナの腕を握って 《いいから 放せってば》と言っている。まづこれがおかしい。リナが腕を握っているのではないから。
3. その光景を見た一人のひとは 《あ・誘拐》と――口に出してか心の中でか――つぶやいている。そんなバカな。往来で大きな声を出して《いいから 放せってば》といったやり取りを聞いたからと言って なんで誘拐に結びつくのか?
4. しかもそのあと何の説明もなく その経過ないし結果としては 《リナはケムリ男によって、めでたく酔っ払いから解放されました》と言うことらしい。ええっ? ひょっとしてこの四コマの前に 酔っ払いに絡まれていた場面があったのだろうか?
5. そうしてそのときリナは――お礼を言うこともなく――
★ 「ケムリ くさいじゃ ないのよ|||||」
☆ と言っている。それについての解説は こうである:
▲ せっかく助けてくれた王子様(?)に対して、お姫様はおカンムリです。理不尽ですね。
6. いったいどうなってるの?
7. 要するにお礼を言うべきところを 言わなかったという話ですか?
たしかに、不自然ですよね。
ってことは…逆に何かが隠されている?
とすると…
「ケムリ くさいじゃ ないのよ|||||」と。
これは、四コマ漫画のヒントにあたるとは考えられやしませんか?
英語のお勉強のところだからといって
英語だけでは味気ないと作者は考えていたのかも?
で、お話に何かを忍び込ませていたとしたら…
2コマ目を見てください
ケムリの臭いが体についた男の人の腕の中に女の人いますよね?
慣用句「煙に巻く」
(けむにまく) 相手がよく知らないようなことを一方的に言い立てて、
戸惑わせたり、茫然(ぼうぜん)とさせたりする。
モクモクモク
No.45
- 回答日時:
>わたしの経験から行けば もっと分かりやすく言うと 《そのナゾの何ものかを心に受け容れるという信じる行為》は わたしの身と心の中でいつかどこかにおいてすでに行なわれていたのを あとで確認したというようなものでした。
だから それは去らないのです。わからなくもないです。
とりあえず話を聞こうじゃないかと、始めに耳を傾ける。次第にその話はもっともだと感じるようになる。始めに話を聞こうじゃないかと耳をオープンにしたときに、信の萌芽が既に生じているといえるのかもしれません。
どんなはなしも聞こうじゃないかと、話を聞く前から、信の萌芽が用意されているとしたら、人はあらゆるものに対して信の前提を確保しており、その後、何らかの選定作業を経て、ああ、これは私の探していたものだとか、ああ、これは私の知っていたことだとか、『形を与えられた後に、確認できるもの』なのかもしれません。
これは私の言いたかったことだ、これは私の知りたかったことだ、これこそ私の求めていたものだと言ったとき、事前に心の準備があったと感じられるのではないかと思います。>「わたしの身と心の中でいつかどこかにおいてすでに行なわれていた・・・」というのは、そういうことに似ているのではないでしょうか。
ブラジュロンさんの例だと、アウグスティヌスを読むことによって、その事前の心の準備に形が与えられたのではないかと。
ひかりの波さん あらためまして こんにちは。ご回答をありがとうございます。
わたしから見て頑固なように感じるときにも落ち着いていらっしゃいますが なかなかしづかな――心の静まりかえったと言っていいほどの落ち着いた――観察をなさるのですね。
今回省察されたことがらについては わたしは自分の体験を述べてお応えとします。
すでに幾分述べて来ていますが こうです。
まづ話は 親鸞からです。歎異抄がよかった。その筋あるいは方向性において 同感出来た。
その後 日蓮についてひととおり そしてブディズム一般について広く薄く まなびました。中観がどうのこうのと言っているとき ブディズムないし親鸞にかんして ひとつだけ 不都合なことがありました。肩が凝る。同感する内容を生きると 肩が凝る。これは どうしたことかと。
三身常住をまなんでいたとき 三位一体論へと短絡しました。
別に短絡したとすら言えることではなく 本屋で或る本を手に取っていたら それを――その当時はえらく高い¥3,600(いま ¥10,000)でしたが――買おうと思い立ちました。アウグスティヌス『三位一体論』(中沢宣夫訳)です。
これを 540ページほどを 一年かけて読み終えました。ほかの勉強と並行して読んだほうがよいと判断したからです。その後は 一回通し読みして あとは毎日少しづつ読んでいました。
途中 半ばほどにまで読み継いで来て これなら――それまでに聞いたり読んだりしたいわゆるキリスト教とは別だと分かって―― 信じられると思うようになった。《悪は存在しない》という命題などもよかった。やがて それでは《神とは何か》に行くのですが むしろ《信じるとはどういう行為か》 これを考え始めた。
信じるとは これだという説明は出来ないぢゃないか。つまり これこれの行為は 信じるではないというふうに定義するよりないのかなぁと。目に見えるものは信じるの対象ではない。心の目に見えるものも だめ。科学の目で確かめられるもの これも 経験事象だからだめ。《神》という言葉もその概念もその発音も文字もむろんだめ。人間の用いる言葉は みんなだめ。それらは信じるの対象では あきらかに ないと。
ぢゃあ なんで《信じる》という言葉をわれわれは持っているのか? 《強く思いを込めて意識している》といった事態だけなのか?
そうこうしているとき 或る日の夜中 就寝の前にふとんの上に立ったとき あたまがすっきりした。えっ? これが信じるということかと思ったわけです。
わたしは すでに――むしろ子どものときからずうーっと――信じていた。信じつづけて来ていたと受け取ったというわけです。
ちなみに そこで肩の凝りは直ったというわけです。
その後ずっとブディズムからは遠ざかっていましたが この哲学カテで初めて問うたのが 次の質問です。
【Q:《我れ》はある?ない? どちらですか(仏教)】
http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa3454478.html
つまりそれは すでに二十数年経ったあとですから そのあいだには アウグスティヌスと聖書それにいわゆる神学を固めていました。五年ほどあとには いわゆる不退転になっていたでしょうか。
そのように信仰観は 発達してこんにちに到るのですが その《信じる》の中身の論議について その表現を新たに詳しく得ることが出来こそすれ 変わって来てはいませんので それなりに自信を持っています。けれどもむろん開かれていなければなりません。ゆえに 問うています。
一点少し違和感のある表現にぶつかっています。
★ これは私の言いたかったことだ、これは私の知りたかったことだ、これこそ私の求めていたものだと言ったとき、事前に心の準備があったと感じられるのではないかと思います。
☆ 《事前に心の準備があった》かも知れないのですが それについて《知っていた》ことはなかったです。《わたしは 準備がある。準備が出来ている》とは思わなかったし むしろ知りませんでした。
つまり 《求めたいたものが ここにあった》というのは アウグスティヌスの文章表現について 知解し思考し判断したところの中身です。そしてその観念体系は 信じるの対象ではないわけです。
もう少し語り足りないと感じるところもありますが ひとまづお返しします。どうでしょうか。
No.44
- 回答日時:
此のページの#102番の方からの御指摘の通りに、何故なのかを確認しておりませんが、1人分(何方か)の投稿が抜けている様ですが、離脱を為さる方の信念は◆奇しくも◆生得的に獲得されていたのでしょうか。
ご回答をありがとうございます。
ちらっと見たら わたしが見放した質問ぢゃないですか。
そしてその削除された投稿とは わたしのそれでしょう。
わたしはその後一度も見ておりませんが:
★ 離脱を為さる方の信念は◆奇しくも◆生得的に獲得されていたのでしょうか。
☆ えらい仰々しくお考えになりますねぇ。
わたしの意図は――つまり あえて理由を書かずに これはつまらん質問だという投稿内容だったのですが その意図は―― そのように理由をも明らかにせずとも 相手が何らかの《からみ》を見せてくるなら 話は成り立って行くかも知れない。そのときには しっかりと対話をすすめてみよう。――こういう魂胆でした。
相手の反応は たしか 《放っとけ》でした。したがってそのようにしました。
これだけです。これだけですよ。
それとも
★ 信念を 生得的に獲得する
☆ というような見方考え方をするというのは 何かもっと深い意味がありましょうか? ありましたら ぎゃくに おしえてください。
No.43
- 回答日時:
No.42
- 回答日時:
こんにちは、bragelonneさん。
●ねねさんは? いや ねえさんは どう受け答えなさいますか?
受け答えですか?
理不尽なシチュエーションからすると…
「ケムリ くさいじゃ ないのよ|||||」 ← やっぱこれでしょ?
「unreasonable」(アンリーズナブル)
http://ameblo.jp/eigomanga/entry-10784875092.html
わっからんことを言って来ますね。――ねえさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。
▲ (理不尽な女:漫画で英語)) ~~~~~
リナはケムリ男によって、めでたく酔っ払いから解放されました。
せっかく助けてくれた王子様(?)に対して、お姫様はおカンムリです。
理不尽ですね。
~~~~~~~~
☆ こんがらがって来るように出来ていませんか?
1. ケムリ男(アキラと言うらしい)は クルマの整備士で整備するクルマから出る煙を浴びているし また煙草を吸っていたので そういうらしい。
2. そのアキラが リナの腕を握って 《いいから 放せってば》と言っている。まづこれがおかしい。リナが腕を握っているのではないから。
3. その光景を見た一人のひとは 《あ・誘拐》と――口に出してか心の中でか――つぶやいている。そんなバカな。往来で大きな声を出して《いいから 放せってば》といったやり取りを聞いたからと言って なんで誘拐に結びつくのか?
4. しかもそのあと何の説明もなく その経過ないし結果としては 《リナはケムリ男によって、めでたく酔っ払いから解放されました》と言うことらしい。ええっ? ひょっとしてこの四コマの前に 酔っ払いに絡まれていた場面があったのだろうか?
5. そうしてそのときリナは――お礼を言うこともなく――
★ 「ケムリ くさいじゃ ないのよ|||||」
☆ と言っている。それについての解説は こうである:
▲ せっかく助けてくれた王子様(?)に対して、お姫様はおカンムリです。理不尽ですね。
6. いったいどうなってるの?
7. 要するにお礼を言うべきところを 言わなかったという話ですか?
☆ それでねえさんの受け答えは:
★ 「ケムリ くさいじゃ ないのよ|||||」 ← やっぱこれでしょ?
○ さらに問い求めていくことがのぞまれる!!!!!!!!!!
あっ さらに次にも投稿をもらってるようです。
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