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 哲学として定義してくださいませんか?

 宗教を信じるだのキリスト教を信じるだのブディズムを――浄土系などを除いて――信じるだのとよく聞きます。おかしい。哲学としてただしてください。


 質問者の考えをたたき台にしてもらってもよいです。宗教について触れたところは 情報交換をねがいます。

 1. それは 思考に非ず つまり非思考という行為であると。

 2. 思考は 経験合理性にもとづき――その反合理性をも人間の境地で引き受けつつ――考えをすすめること。

 3. その思考に非ずなら 或る種の賭けという行ないに似ている。無根拠を心に受け容れるということ。

 4. そのときのわが心の伸び もしくは――どこへ伸びたのだと言っても分からないから――心の〔窓の〕明けのこと。

 5. 非思考と言うからには それは 経験世界を超えて非経験なるナゾを――想定の上で――相手にしている。しかもその無根拠を心に受け容れるという時点では 経験的な行為である。言わばその賭けるという決めにおいて領収証を発行していることになる。

 6. 一般に受け容れる相手は 《かみ》と呼ばれている。ちなみにこのとき《無い神》を心に受け容れているなら それは 無神論としての《信じる》である。

 7. 無根拠にかかわることゆえに この《信じる》については 良心・信教の自由として その自由が公理と見なされ認められている。

 8. 言いかえると 信仰は内面のもんだいである。その中身を――観想や瞑想として――ことばに言い出すことはあるかも知れないが その表現内容は あくまで非経験のナゾを仮りに表わした覚え書きである。

 9. この信仰としての覚え書きを わざわざオシエとしていただきそのうえ教義や道徳規範とするやからがいる。組織宗教である。

 10. キリスト者やブディスト――有神論であれ無神論であれ――の個人としての信仰を わざわざ人びとにとっての倫理規範としてかかげるやからがいる。ありえない。言葉で表わしたオシエは すでに経験思考の対象であり それ以外ではない。

 11. キリスト教や仏教を《信じる》ということはありえない。それらオシエは 《考える》ことであり もし信じるに到ったというのならそれは 《思い込み》のほかのことではない。

 12. せいぜい信念・信条として持たれる行動規範であり その場合に社会的に有益でりっぱなことが成し遂げられる場合があるだろうが けっきょくそれは オシエの奥なる個人としての信仰であろうと考えられる。

 13. ゆえに組織宗教は ただ群れているだけである。

 14. 結社の自由はあるけれども もし組織が個人に信仰を有無を言わさず強要し個人の信仰を組織の権限関係によって左右することがあるとすれば それは個人の信仰の自殺行為であり 違法行為である。

 15. 仮りにひとはよわいとすれば そしてそれゆえ群れが必然だと考えるなら 見えざる教会(エクレシア)としての――信教を分離したところの――ムラ(共同体)こそがそれだ。

 16. すべての宗教団体は 自主的に解散するのが 人間的なふるまいである。ローマ教会は 欺瞞である。

A 回答 (52件中41~50件)

基本的に賛同したわけではなく、ブラジュロンさんがそういう考えなのだと理解したと思っていただけると良いでしょう。

ナナンニッセさんも変わった質問を立てたようですし、ちょっとそっちの方ものぞいてきます。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 判断保留として受け取ります。

お礼日時:2011/05/14 21:38

そうですね、気持ちはわかるのですが、。

神に通じたという表現が、ちょっとマニアックと思われるならそうなのでしょう。実際、ブラジュロンさんのおっしゃっていることはかなり独特です。

 間違ったことでも一時の繁栄を見る、それは栄枯盛衰であり時代と共に移ろい行くのは世の常であり、大宗教といわれているものでもそれは例外ではありません。大多数の人がその流れにまさしく流されているのは然りと思います。しかしながら、何時どの人が、何をきっかけにして目覚めるかはわからないことであり、今ある間違いは全て改正するべきだ、個人の自立、個人の信仰を何人も確立すべきだ、と、言うのは、他の人の都合を見ていないことにもなります。しかも、ブラジュロンさんが間違いだと言っていることは、ある人々にとっては是正されるべきでない事柄である可能性も少なくなく、この件は、是正だ、いや現状が正しい、と、水掛け論にもなりかねません。

ですから、ブラジュロンさんが信仰の事についてお話になるときには、私の信仰には言葉は要らないのですよと、付け足せばそれで十分なのではないかとも思えます。
その方が簡潔であり分かりやすく、人にも伝わりやすいのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

 ひかりなみさん あらためまして こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 あなたのようにしっかりと考えを述べる回答を得るのは 久しぶりです。数人の方々がそうしてくださっています。そしてあとは・・・。

 ★ 今ある間違いは全て改正するべきだ、個人の自立、個人の信仰を何人も確立すべきだ、と、言うのは、他の人の都合を見ていないことにもなります。
 ☆ 《他の人の都合を見ていないことになる》 このような内容による理由は 哲学が知ったことではありません。
 じっさいには 知ったことなのですが けっきょく二段階があることになるでしょう。
 すなわち いまここでおこなっているように 純理論的に《信じる》の定義づけをして それにもとづき現実の諸問題についてもその処方箋を明らかにすることが 第一段階。そのあとには 実際に具体的にその言わば現場ごとにどう対処するか これに取り組む段階が来ます。
 この理論作業の段階で 人びとの都合を考えることは必要ないはずです。

 そんなことを言ったら 我が国で仏教を導入するというとき 神道派と殺し合いになりました。つまり廃仏派は殺してでも仏教を導入するのだという歴史もありました。
 理論を立てたあと どうなるかわたしは知りませんが もしそうなら そのような過去の歴史のツケが回って来た ただそれだけのことではないでしょうか? つまり 自分たちはわるいことをおこなって来たのです。
 ローマ教会にしても 同じような歴史のツケが回って来ているでしょう。ガリレオさん ごめんなさい 魔女のみなさん たいへん申し訳ありませんでしたで済むことなのかどうか。

 ★ しかも、ブラジュロンさんが間違いだと言っていることは、ある人々にとっては是正されるべきでない事柄である可能性も少なくなく、この件は、是正だ、いや現状が正しい、と、水掛け論にもなりかねません。
 ☆ そんなことは いま――このいま―― 互いに対話をつうじて明らかにしていくことです。なんで初めにどちらかに決めておかねばならないのでしょう?


 ★ ~~~
 ですから、ブラジュロンさんが信仰の事についてお話になるときには、私の信仰には言葉は要らないのですよと、付け足せばそれで十分なのではないかとも思えます。
 その方が簡潔であり分かりやすく、人にも伝わりやすいのではないでしょうか。
 ~~~~~
 ☆ 物分かりのよい若いお方ですね。
 それは ひとつに敗北主義です。ひとつに 事なかれ主義です。ひとつに馬鹿です。つまり おのれのタコツボに閉じこもるという意味における阿呆です。ほかには もうないかなぁ。



 おそらく いまの《宗教頼み》の心性において 復興とあたらしい社会の建設を目指しても たいしたことは出来ないのではないか。新新新新興宗教がもうけるのが 関の山ではないか。

 菅政権をこれだけぼろくそにこきおろしているその舌の根も乾いていないと思われる現在 この宗教による良心・信教の自由の侵害にかんするうたがいについて何も言わない・何も明らかにしようとしない なんてのは いったいどういう魂胆だい とお尋ねしなければなりませんよ。

お礼日時:2011/05/13 20:03

言葉と言うものには汎用性が必要であると思います。

その言葉のもつ意味の深浅はあってもよいのですが。
言葉を厳密に用いることは良いことなのでしょうが、それが自分語に置き換わってしまっていては、共有することが難しくなります。むしろ、信じるという言葉の意味は通常のままでよいのであり、ブラジュロンさんの信じるという意味を、別の言葉に置き換えた方が便利が良いのではないかと思います。非思考の庭だとか、独特の言い回しをされていますし。神と通じた などという表現は如何でしょうか。信じるというのはあまりにも一般化されていて、ブラジュロンさん専用の言葉にするのは難しいと想います。何か別の良い表現があるのではないかと思いますが、如何でしょうか。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ 神と通じた などという表現は如何でしょうか。
 ☆ これはわたしが《神とのつながり》といった表現を使いましたので それを咎めているのではなく そうではなく 《信じる》を《神と通じた》というふうに表現しなおすとよいのではないかという意味ですか?

 それは ちょっとマニアックではないですか?

 えっとですね。口はばったいことですが それでも言いますが あたらしい用語もしくはあたらしい考えは とうぜんまだ浸透していない段階では 通りがわるいです。わかりづらいなぁという感じで受け取られることが多いと思います。
 ですが いまの慣用がまちがっています。と申し上げています。必ず変わると《信じて》います。つまりこの言い回しは 非経験と向き合っての非思考の行為ではなく ただそのように思っているということを強調して言ったまでのもので いまでもそのように使われています。

 つまり 《信じる》についてげんみつに定義した内容とその使用 そして慣用表現とがある。
 けれども 信仰一般やあるいは――その現象や営みじたいに問題があると思われるところの――宗教についての表現では 慣用表現を使うことはあり得ません。すなわち一例として 《考えるの対象であるオシエを〈信じる〉》という言い方は あり得ません。専門としてげんみつに用いるべきです。

 要するに 誤用表現をただしましょうということを含みます。
 あるいは 組織宗教は 良心・信教の自由を侵すうたがいがある。ここまでをも含みます。違法行為のうたがいがあることについて その表現をあいまいなままにしておくことは 哲学はゆるしません。
 ★ むしろ、信じるという言葉の意味は通常のままでよいのであり、ブラジュロンさんの信じるという意味を、別の言葉に置き換えた方が便利が良いのではないかと思います。
 ☆ 真逆だと考えます。
 いまの宗教の《繁栄》につごうのよい使い方をしているだけです。
 ★ それが自分語に置き換わってしまっていては、共有することが難しくなります。
 ☆ 《共有している》一般の人びとも 同罪であるうたがいがかけられます。組織宗教のほうが《自分語に置き換えてしまっている》のです。わづかに結社の自由で守られているのみです。
 けれども 《おまえは これこれのオシエを信じよ》という呼びかけは 人間ならしないでしょう。しても無効ですが 一たんその組織に入ったなら 今度はその信仰の度合いに応じた身分関係のような上下関係によって 信仰という個人の自由の領域を侵されるおそれがある。こう言わなければならない。この点についても 問うています。

 信じるは 個人のこと。これは はっきりしているのです。
 どうでしょう?

お礼日時:2011/05/13 17:02

なるほど以前よりよくわかりました。

精神における、ある種の宗教的体験があって、信仰を持つようになったということですね。
信じるというのは、何かに自分を預けるということでもあるでしょう。それが神であるのか、人であるのか、理想や学問であるのか、徳や愛であるのかを問わず。

という事で、信じるとは、何かに自分自身を預ける行為である、と言うのはどうでしょうか。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ 精神における、ある種の宗教的体験があって、信仰を持つようになったということですね。
 ☆ 言葉の問題 表現だけの問題ですが この際 げんみつにまいります。
 1. 《精神》は 人間の自然本性における能力です。経験事象です。
 非思考の庭で起きたことを 精神としても受けとめているであろうと言われても そうだとすれば それは精神だけではなく 身も心もであり 身体においても・というよりは 精神=身体 において体験があったということになります。
 ですから ことさら《精神における》というのは どこか違うと思います。

 2. 《宗教》というのは ただの経験思考です。
 反合理性をも一緒くたにした経験世界のことがらです。
 つまり 個人が その心の庭に神のおとづれを迎えてこれを受け容れ 非思考の場が動態として始まる。その信仰の動態において得られた観想(テオーリア)を 人間の言葉に翻訳して表わしたものが理論(テオリ)やら倫理などの思想です。
 さらにこれらを オシエとして――わざわざオシエとして――しかも集団となってつくったその組織にとっての教義とする。これが宗教です。
 宗教は 信仰の搾りかすです。さらにしかも その組織の権限関係にもとづいて 上の者が下の者に対してその信仰の度合いをうんぬんし(成っていないと審判し) おまけにそのあり方を左右するほどにオシエを強要する。ここには 良心・信教の自由を侵しているおそれがあると考えます。
 組織宗教は 個人の信仰の自殺行為である。これを見ます。

 ★ 信じるというのは、何かに自分を預けるということでもあるでしょう。それが神であるのか、人であるのか、理想や学問であるのか、徳や愛であるのかを問わず。
 ☆ 神は 非経験であり非対象です。ナゾです。そのほかの人・理想・学問・徳・愛は いづれにしても経験事物です。《自分を預ける》と言っても これらふた組に分かれたその区分においては おのづから違いがあると考えます。《信じる》と《考える》とに分かれているはずです。

 ★ という事で、信じるとは、何かに自分自身を預ける行為である、と言うのはどうでしょうか。
 ☆ 経験事物に《おのれを預ける》と言えるとすれば それは (1) 《信じる》とは別なのだが 信じるの場合の身をゆだねることに似ているところを取って来て あたかも同じようだと強調して言うためである。
 (2) あたかも一心不乱に邁進する場合を あたかも信じるにおいて身をゆだねることにたとえている。
 (3) 身をゆだねているのは あくまで信じるという側面においてであり しかもその信仰の動態において おのれの人生にとってのしごとが決まっていて そのしごとにやはり一生をささげるというような場合を言っている。

 いづれにしても 身をゆだねるのは 神に対してであり 信じるという場合に限られます。厳密に言えば。

 蛇足もしくは余分を添えますと 《身をゆだねる》ことが出来るのは それも 人間が自分からするのではなく そうすることが出来るようにその力が与えられる。と考えます。そうでないと 信仰の動態としておのれのしごとに身をゆだねるのと たとえば学問に身をささげる場合でしかも信仰の動態にはかかわりがないというのとが区別できなくなります。区別はあるはずです。
 もし後者すなわち学問に一生をささげる場合でしかもその人が無神論であったという場合 このときには 無神論もけっきょく有神論と同じかたちで 人生におけるおのれのしごととしての自覚があったということだと考えます。その場合は 区別する必要はなくなります。
 こまかいことでした。
 

お礼日時:2011/05/13 00:42

ブラジュロンさんを説得したいわけではないのですが、理解しようとはしています。


ブラジュロンさんは何を信じておられるのですか?また、何故それを信じておられるのでしょうか?
以上二点、よろしくお願いします。ぼちぼち行きましょう。

私は、信じるとは、何かを目指して歩いていることであると思いました。平たく言えば、ですが。その何かが、超越的なことなのか、それとも人生を通じて体験しうることなのか、その違いは、この定義にはあまり関係ありません。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ 私は、信じるとは、何かを目指して歩いていることであると思いました。平たく言えば、ですが。
 ☆ おそらく一方で《信じる》その対象――じつは 非経験であるゆえに 非対象――は そのまま時空間を超えている何かであるでしょう。つまり 目指すべき何かとして表象しうるものとは思えません。
 たしかにそれでも何とかしてそれをイメージにでも表わそうということに努めはしますが。つまりたとえば

  ○ 真理がすべてにおいてすべてである状態ないし境地

 といったふうに表わされてもいます。でもことさらこれを目指すべき目標地点として推し出さないのは じつはすでにその境地の種は生まれつきの身と心にやどっていると思っているからです。
 日本人は 仏性という言い方にはなじみがあると思われます。それと同じように 神の霊がわが身と心に宿るとじつは思っています。そのちからが はたらくのは 必ずしもわたしないし人間の努力によってなのではないと思ってもいるからです。

 他方で《信じる》がその対象は不確かだと言っても その信仰の動態には わが人生としての何らかの目指すことがあるのではないか? それは あります。けっきょく職業であり もっとゆるやかに広く捉えて人生における仕事なのでしょう。
 それは たとえばわたしにとっては 組織宗教が解体されることです。人びとがそれぞれ主体的にあゆむことができるようになることです。

 これら両側面があるかとは思います。

 さて
 ★ ブラジュロンさんは何を信じておられるのですか? また、何故それを信じておられるのでしょうか?
 ☆ わたしの信じるのは キリスト・イエスの神です。アウグスティヌスをつうじて知りました。ことさらこれを言うのは その前に聖書や解説書を読んでもピンと来なかったからです。
 何故信じるか? アウグスティヌスを読んで――おもに『三位一体論』ですが―― これは信じることができると思ったことが まづ初めのことです。では どうすれば信じるようになるのか? と思ったとき けっきょく信じるとは どういうことか? という主題に行き着きました。この質問と同じです。
 あれこれ考えたり その思いや考えを寝かしておいたりして かれこれ数カ月が経ったとき 或る日或る時 あれっ おれはこの聖書の神を信じているではないか。ということに気づきました。
 何故信じるのか? 信じられるものがやっとあったと思ったところからでしょう。

 でも言いかえると この非思考の庭がわが心に成ったという信仰の成立は その信仰があたえられたのだと思っています。何故信じるのかは したがって分かりません。その与えられたものを取るか捨てるか ふたつにひとつだったということです。
 その信仰という動態が いったいどういうことかと思って考えつづけたのが 二・三年。その後 五年目ごろから この非思考のあって無きがごとくの状態ないし境地が 確立し始めた。

 さらにその後は 炉心の溶融を起こさずに燃え続けているものですから その火の明るく照らすその先へとあゆみ入って進まざるをえない。垂直壁が立ちはだかった場合にも それをくぐり抜けて広い野原に出てしまうという経験がつづけば それに従わざるを得ません。そうではないでしょうか?

 目に見える具体的なこととしては
 【Q:アマテラス公民の世は終わらせるがはどうですろうか】
 このようなインタムライズムなる未来社会を目指しています。

 全部が 内面においては 信仰の動態であり 外に向けては 社会的交通におけるわが自己表現のやはり動態です。すべてが すでに発電されつづけているその力――これをあれそれだと言って指し示すことは出来ないので 聖霊と言っていますが――にみちびかれてあゆんでいます。

 答えになっていましょうか。

お礼日時:2011/05/12 18:51

結局自己の体験としては


愛の成就を見たことがある
愛憎はわかっている
としかのべてませんね。

はっはっは ちょとつ様に はっきり負けてますよww

貴方の姿は愛が成就していない姿です。ちょとつ様が羨ましくて仕方がないwww

何事もかなっていない よう で残念です。
「わかるかわからないかわからない」ということ以外に、何か主張するべきことがあるなら答えなさい。
(本棚だけは分厚いが、それは貴方自身ではないのですよwww 何事にも薄っぺらのおじじは反省するべきです。)

さて哲学に帰ります。

質問者様の議論を整理いたしますと>

>愛には二通りアル。
>普通の愛 と無根拠の愛である。
>無根拠とは、俺にもわからないが、お前にもわからないものであると定義する。

>つまり、無根拠の愛はお前にはわからない。
>おは見たことか、お前にもわからない愛がアル。

何とかを超えた というのも 同じ意味合いで使っていらっしゃるようですが・・・

>お前がなんと言おうと言葉を放った時点で無根拠の世界のことではない。

でも自分の言葉には価値があるていうwww 
しょっちゅうわからない と いいながら わかっているという(脚注:覚書として記載www)

神徳も同様に「本当の」とか「絶対の」とか言い方を変えて表現していますが、
「オレ様の」と同値です。

話の基本は要するに「オレの神とお前の神は違う」「教会の説く『徳』ハちょろい」
「新しさでは俺に負ける」「悔しかったら領収書を気って解散しろwww」とかいっているだけです。

貴方が「新しい」「わかっている」と称する事象=その具体的な内容は、

「わかるかわからないか、わからない」というテクスチャ(ごにょごにょ)です。

新しい世界は、新しいオレ様の哲学の世界。
おれはあたらしい。お前は俺の言っていることがわからない。
(定義上「お前にはわからないことがある」と仮定したからあたりまえだろwww)

モダリィティという観点から言うと可能性という範囲の事象でしかなく、
はかのとこで使っていらっしゃるように
>>「どんな経験的なことがらに向き合うというときにも 人間には非経験のナゾが無関係になっているとは言えない。」
といっているだけ。

いいかえれば
全ての事象・ありとあらゆる事柄に可能性として非経験のナゾが関わっている可能性があるといちゃもんをつけているだけです。
可能性とつけると議論としてみっともないし主張が弱くなるので、つけない。
可能性は認めろということで、ただ認めてほしいだけです。

質問者様にひきつけた実例として、たとえば英会話の話。
オレ様は今英会話が出来ないかもしれないが、これから変わるかもしれない。
これからオレ様の願いが成就して大逆転。可能性は認めろ!
自分が何歳かもう一度考えてみて子供じみたことはゆわないように心がけなさい。

このチョコパフェにはゴキブリのエッセンスが入っている「かもしれない」!
でも鳩山とかんは信じるていうwww(おざわでもいいけどねwww)

飛行機のひゆに戻ると
飛行機を見たことがある。乗ったのも同じことだ。搭乗券も買ったことがあったかもしれない。というようなことです。

自己の主張として
でも飛行機に似た新しい乗り物がある。本当の飛行機である。信仰の問題であり新しいオレ様は、
預言者として迫害されながらも、本当の飛行機に関して覚書を書き綴っている。こころしてよめ!
と続けるwww

なんだそれぇぇwww

こういう論理展開は民を「し」に追いやる似非民主主義の論理です。「し」も「しあわせ」のうちというわけです。
おまえらにお灸をすえてやるという傲慢です。
ごろつきの批評=陰謀論です。

--------------------------
結論 ちょとつにまけてる kusukusu
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この回答へのお礼

 《信じる》ということばを あんたも使っている。誰もが使っている。
 なら それを定義してみなさい。

 問いは これだけだ。

 ★☆ 「わかるかわからないか、わからない」
 ☆ とはっきり分かっていると知らなければいけない。わが心に非思考の庭が成ったかどうかで その現実性についての把握に薄い濃い 浅い深いがある。


 ちょとつったあ だれだ。人間か?

お礼日時:2011/05/12 15:14

いろいろと難しそうですが、無根拠について話そうと思います。


果たして本当に無根拠なのかという事です。人が何かをしたいという願望を持つとき、その願望は無根拠に起こるのかと言う点を究明したいと思います。
願望のもとには、逆に、△△には成りたくないという恐れや否定的な感覚があって、その反作用として○○をしたいとか、○○に成りたいとかがあるかもしれません。あるいは、気質と言うものが願望の根拠になっているかもしれませんし、。このままであると、信じるという行為が無根拠であるというところの説得的な根拠が乏しいのではないかと思うのです。
自分の夢見た世界が素晴らしいためにそれを信じるとか、あるいは実際に目の前にした出来事に心打たれてとか、その場合、何故それが素晴らしいのか、何故心を打たれたのか、といった根拠があるはずだと思います。いわば、『信じるのはなぜか』と言うところです。

話が多岐に及んでいますので、この点にフォーカスさせていただきましたが、如何でしょうか。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。
 荒らしに似た投稿の中に挟まれていて 見失っていました。

 ★ 自分の夢見た世界が素晴らしいためにそれを信じるとか、
 ☆ 《その夢見た世界》は 《素晴らしい》と分かるのなら そこで象(かたち)に表わされていますね その目指したいと思う何かは。なら 経験世界のものごとに属します。これについては 考えるのであって 信じるとは言いません。

 ★ あるいは実際に目の前にした出来事に心打たれてとか、
 ☆ 同じく表象し得ているものごとですから 信じるの対象にはなり得ません。

 ★ その場合、何故それが素晴らしいのか、何故心を打たれたのか、といった根拠があるはずだと思います。
 ☆ もちろんありましょう。表象し得ているからには その表象を言葉に換えて 思考するはずです。思考の内容もしくは結果として 根拠となるものがあるはずです。

 ★ いわば、『信じるのはなぜか』と言うところです。
 ☆ そういう角度から見て行くのもよいですかね。《ただ信じたい》に行き着くかも分かりませんけれど。

 ★ 話が多岐に及んでいますので、この点にフォーカスさせていただきましたが、如何でしょうか。
 ☆ ここまでは以上のようにまだ説得されませんでした。さらにどうぞ ご投稿をつづけてくださいませ。

お礼日時:2011/05/12 16:28

うあ やっパリ反論できないんだwww



「いや なにをいわれても 俺様の思っている『信じる』とは違う」
というコメントしか逃げ道がないというのは、悲しいことですね。

愛のある人・徳のある人はいるもので、その人を信じるとはいえる。

さらに言葉が使われることで独自のダイナミズムが生まれるのであって
質問者様の想像と言語の現実というのは、2つの異なるものです。

あなたは、人と違って、信の対象を実感できないというだけのことです。

ほかの人からの批判もありますが
質問者様の主張=「愛・徳は、考えるもので、非経験のものを信じるなんて錯乱である」というのは、理にかなっていませんよ。信とは人と言葉をつなごうとするコミュニケーション行為です。
一番の問題は、「質問者様に あい も徳もない」ということだけで
ほかの人はちゃんとわかっています。

愛という概念がわからないから、
それをみてすぐ「愛憎」に書き換えたがる人には、理解しがたいかもしれませんがねwww

愛と愛憎はちがいます。

チョコパフェに自分でゴキブリを入れてから、「パフェとは食べられないものであるといっているようなものです。

愛が「チョコパフェ」でゴキブリが「憎」

こんだけいっても小僧にはわからないんだろうけど・・・

あなたには、神も徳も愛もないので、同じようなものと思わざるえをえず、
さらに決め付けで愛と徳は神から来ていると思い込み、すべてが存在しないものだと自分に言い聞かせているだけです。

「愛の人」といったばあい、愛はその人の中にあります。
「徳の人」といった場合もそうですが、どちらも、その振る舞いに内に秘める力がみなぎっているものです。

そういう人にめぐり合ったときのあなたの行動が手に取るようにわかります。
カップルを見たら「嫉妬」・えらひひとがきたら、「たいしたことない」と逃げ腰になるwww

勇気も何もない人www

愛は絵に描いたもちだwwwと
叫ぶあなたの姿は不憫な姿です・・・

とりあえずはじめて見なさい。「今よりはずれ」という状態は、ないはずです。

逃げてばかりいないで
悔しければみんなが納得する反論をして見なさい。
「あなたの人生のなかで具体的に」愛憎ではない愛=憎しみとはかけ離れたところの愛
欲求不満の補償としての「合理化」ではない
行動としての愛があったというのでしょうか?

愛がなかったので、「あい」について妄想してたとしか考えられないので聞いています。
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この回答へのお礼

 多少とも目を見張る愛の行為が 人間の成すところとして かなった場合がありましょう。
 人間に分かったなら その内容は人間の範囲を出ません。
 
 そう言った上で言うのですが 愛は時として実現することがあります。 
 憎むという行為においてさえ わが心がやわらがしめられたという経験はあり得ます。その行為が 自分のものであれ相手のものであれ 第三者の行為であれ。
 それが 《考える》を超えた《信じる》の世界であたえられる経験です。

 しかも それはつねに まぼろしではないかという――反面における――きよらかなおそれが 《信じる》にはあります。
 多少とも目を見張る愛の行為では なかなかそこまでのまぼろしは見られないでしょう。もうそれでじゅうぶんだと安心し納得が行ってしまうのでしょうか。

 そうでなければ 
 ★ ~~~
 愛は絵に描いたもちだwwwと
 叫ぶあなたの姿は不憫な姿です・・・
 ~~~~~ 
 ☆ という高ぶりの声は出て来ないでしょう。

 あなたには分からないあたらしい世界が 人間にはあるのですよ。

お礼日時:2011/05/12 06:59

何かを目指して歩いているということ、ではないでしょうか。



1.信じているから考えるということもあるのではないか。
 
2.反合理性を人間の境地で引き受け筒と言う部分は思考ではないのではないだろうか。そう決めたという自分がいることから、判断が近いかもしれないが、決心と言うとずいぶん大仰な気がします。

3.信じることは賭けだろうか?信じることは100%の勝利に似ている。しかも無料でできる。喩えば世界最速を目指す男がいたとします。彼は信じているはずです。世界最速になるのだと。でも実際は世界で100番目くらいに終わったとしましょう。彼の信じるは破れたことになります。自分より速い奴がたくさんいたという事実に破れるのです。一方で、何かを目指して歩いているということの何かが、信じるに値することだったとしましょう。それが何であるかを言い切るのは難しいですが、心に定めた目標があるとします。喩えば、人はどの人も老いたり病んだり、あるいは他の原因で死にますが、死に際にあってもしあわせでありつづけた人があるとしましょう。彼は何に勝利したのでしょうか。人生に勝利したといえるのだと私は思います。終わらない旅が薦められるのではありません。求めは応じによって必ず終わるので、歩みは到達によって終わるので、薦められるのだと私は思います。

4.これは質問者のもつ信じるのイメージであると思います。人によっては他のイメージを持つ人もいるでしょう。私の印象では、それは確かなもの、です。

5.信じるということは無根拠ではないと思います。そうしたい、という動機があるはずとおもいます。目的地のある人は、その目的地に行きたい、と思ったのでしょうし、○○したい、という気持ちが根拠にあるはずです。それが○○の部分が普遍的であればあるほど、その歩みが確かになってくるのではないでしょうか。

6.かみという言葉は、なんにでも置き換えられるジョーカーのようなカードに似ていると思います。ここではかみを島と言う言葉に置き換えたとします。海は広いですから、遠くにある陸地は見えません。しかし、漂流物や鳥などを観察して、人は遠くに、自分の居る場所以外にも陸地があることを察知します。いわば神からの手紙を得て、かみを目指そうと思えるわけです。その手紙が啓示なのか、伝道なのか、詩なのか、それとも自分の望みなのか、いろいろ置き換えられると思います。それを読んで、この世に神はあるはずだと思った人のうち、さらに神を目指したいと思った人が、かみを目指すのだと思います。
 私の場合は、自分が相望んでいるから、目指すのだということになります。いわば自分からの手紙があるということになります。内的な広がりを自覚して(あるいは想定して)、ということになります。あるひとからみればただの想像に過ぎないと見ることもできるでしょうが、人によってはそれは理想だと見る人もあるでしょう。空想だと思われることもできるでしょう。ただ、自分が相歩きたいと思ったら、そのときに信じるは始まっているのだと思います。

7.人の内面に関わることなので、その自由が自他共に認められているのではないかと思います。

8.そうかもしれません。

9.どのような形で何を受け取るかは自由であると思います。そのような人々があるというだけで輩と呼んでよいのでしょうか。

10.私は、究極は形になって現れると考えています。思考にも究極があって、成らない間は思考できないかもしれないが、成ったときには究極の思考と言ってよいと思います。チャンピオンが、自らの記録を更新するようなものです。

11.そんなことはない。そういった教えを信じて実践している人も沢山いる。しかもそれによって何かが閉ざされるということもないと思う。

12そうかもしれないが、ただ素直に聞いて実践して成功する人もいる。それが究極であるかないかはさておいて。

13.こういう結論にたどり着くことがよくわかりません。

14.誰によっても制限されえないのが信じるということであり、それは個人とか組織とかを超えたものであると思います。

15.弱いから関係を持つというわけではなく、関係を持つものだから、強いとか弱いとかが後付で出てくるのではないかとも思う。強弱は関係を持つということの本質には当たらないと思います。

16.いろんな仕事があるし、冠婚葬祭だって広く認められています。他の人の事はさておいて、自分の歩みに精励するのが筋ではないでしょうか。

信じるということは素晴らしいことだと思います。しかしだまされるようでは道は遠い。自分自身を信じて道を歩くべきだと私は思っています。それが抽象的なのか、具象であるのか、そういうことは事の本質ではないでしょう。

質問者が迷っているのは、かみがあるかどうかわからないから迷っているのだと思いました。しかし目標とするものが自身の内奥から涌出されたものならば、あるいは身近な友人などから示されたことならば、それを信じて歩いてみても良いのではないかと思えます。信じるということは勇気がいることだと思います。ましで自分自身を信じるということは、本当に勇気のいることだと思うのです。究極の存在、かみなどを想定して歩くのは比較的まだ楽だと思います。しかし現実、掛け値なしの自分自身によって歩くということは難しいのだと思います。ましてそれによって究極を目指そうというのは途方もない話のようにも思われます。だけれどそれが、○○であるならば信じられる、その○○が大事なのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

 ひかりなみさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 項目ごとにお応えしていまいります。
 1. それは 思考に非ず つまり非思考という行為であると。
 ★ 1.信じているから考えるということもあるのではないか。
 ☆ それはたぶん《信じる》を始めたあとのことではないかと考えます。それは とうぜんです。

 2. 思考は 経験合理性にもとづき――その反合理性をも人間の境地で引き受けつつ――考えをすすめること。
 ★ 2.反合理性を人間の境地で引き受けつつと言う部分は思考ではないのではないだろうか。そう決めたという自分がいることから、判断が近いかもしれないが、決心と言うとずいぶん大仰な気がします。
 ☆ すべては 思考しその結果――選択肢があればさらに取捨選択して――判断をくだします。反合理性については 合理性に反していると認識したあと それが現実に――無効のうちにでも――おこなわれていたとすれば その限りで わが境地もしくは人格のあり方としていちおう引き受ける。のだと思います。

 3. その思考に非ずなら 或る種の賭けという行ないに似ている。無根拠を心に受け容れるということ。
 ★ 喩えば世界最速を目指す男がいたとします。彼は信じているはずです。世界最速になるのだと。
 ☆ おそらくそういうふうに《信じる》を使うなら それは 走るという経験的なことがらについてはその目標を目指し達成するのだという心つもりを強く持つと自分に言い聞かせていることです。その強調のために《信じる》を当てている。
 ただ どんな経験的なことがらに向き合うというときにも 人間には非経験のナゾが無関係になっているとは言えない。言いかえると わが心にはそのナゾの何ものかを受け容れたという非思考の庭が成っている。ですから 一方で走るという経験事象と他方でそれをめぐるいわば《無根拠の庭の景色》なる非経験とのかかわりとが つねに起きている。とは考えます。
 無根拠にもとづきおのれの文体を その非思考ゆえに発進させるという側面も 人間にはあるはずです。

 4. そのときのわが心の伸び もしくは――どこへ伸びたのだと言っても分からないから――心の〔窓の〕明けのこと。
 ★ 4.これは質問者のもつ信じるのイメージであると思います。人によっては他のイメージを持つ人もいるでしょう。私の印象では、それは確かなもの、です。
 ☆ 《他のイメージ》があり得ましょうが 《確かなもの》というのは おそらく語弊があるのではないでしょうか。なぜなら 信仰は非思考ゆえに《確かなものではないゆえに 確かなものとして与えられたと分かって来る》のだと思いますから。
 でも それでも人によって イメージも分かれているかも知れませんし そのあり方も ひょっとして 違うかも分かりません。

 ★ 5.信じるということは無根拠ではないと思います。そうしたい、という動機があるはずとおもいます。
 ☆ なぜ《そうしたい》のか? それは《無根拠》ゆえに起きるのではありませんか? 動機はそれが持たれたなら それとしてはっきりしているはずですが。

 ★ 6. 私の場合は、自分が相望んでいるから、目指すのだということになります。・・・ただ、自分が相歩きたいと思ったら、そのときに信じるは始まっているのだと思います。
 ☆ このことのわたしの受け取りとしては その意志の始まりやその動きについて煮詰めて捉えようとするなら それは 無根拠だったと思われませんか? になります。
 そのあと 世界のあらゆることが 神からの手紙でありうるという見方が得られるのだと。

 7&8について同じ見解と受け取ります。

 9&10は 非経験にかかわる非思考としての信仰およびそこからの観想と そのほかには それが言葉にして表わされたからと言ってそれをオシエとするなら それはすでに《信じる》対象ではなくなっている。ということを言おうとしているものです。その区別です。
 言いかえると オシエは 信じるの対象ではなく 考えるものであるのだと。往々にして・というよりはつねに 組織宗教になればこのオシエが 信じなければならないことがらになってしまう。という批判をしています。

 ★ 11.そんなことはない。そういった教えを信じて実践している人も沢山いる。しかもそれによって何かが閉ざされるということもないと思う。
 ☆ この現象について 批判しています。《教えを信じる》ということは あり得ません。言葉として矛盾しています。《強く気持ちを持つ》といった強調でこの《信じる》を使っているわけではないとしたらですし この場合には強調としての使い方をつつしむべきです。《信じる》自由が オシエを思いの中に持てという強要によって侵されます。これは ただの政治行為です。あしき政治行為です。社会力学上の行為だという意味です。

 13. ゆえに組織宗教は ただ群れているだけである。
 ★ 13.こういう結論にたどり着くことがよくわかりません。
 ☆ 信仰の徒が集団を成すのは 極端に悪くいえば 撞球が 社会力学上の力に撞かれて右往左往するすがたです。つまりその信仰は信仰ではないと結論づけられましょう。信じていないからです。ただ考えて行動しているだけだからです。なぜなら
 ★ 14.誰によっても制限されえないのが信じるということであり、それは個人とか組織とかを超えたものであると思います。
 ☆ ということからです。

 ★ 15.・・・〔心の〕強弱は関係を持つということの本質には当たらないと思います。
 ☆ ならばなおさら 群れることはないと考えます。信仰の徒に宗教組織は要らないと。

 16. すべての宗教団体は 自主的に解散するのが 人間的なふるまいである。ローマ教会は 欺瞞である。
 ★ 16.いろんな仕事があるし、冠婚葬祭だって広く認められています。他の人の事はさておいて、自分の歩みに精励するのが筋ではないでしょうか。
 ☆ 冠婚葬祭が 信じるとはいっさいかかわりがないのであれば それはふつうの職業であり事業です。葬祭の側面で問題は起こるでしょうね。したがってこの葬祭の行事も おのおのが自由に自主的におこなうか それとも見えざる教会(宗教とはいっさい関係のないエクレシア)としての自治体が公共の仕事として信仰の種類に関係なくおこなえばよいと考えます。

 以上のようにお応えします。どうでしょうか?

お礼日時:2011/05/12 12:08

キリスト教のような宗教において信じるという


ことは
「存在の絶対的肯定」
である、と定義できるのではないでしょうか。

理性で考えれば、あのような宗教は矛盾だらけです。
しかし、それでも肯定するのです。
しかも、その肯定は絶対的です。
絶対的ということは、相対的でない、という
ことであり例外などは認められません。

人間の脳には、二つの側面があります。
一つは、情を司る面であり、もう一つは理を
司る面です。
信じる、ということは情の面の問題です。
理とは次元を異にするのです。
従って、ここでは理は、後付であり、営業の道具に過ぎません。
理論による矛盾追及も意味を持ちません。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 まだ満足しません。
 ★ 「存在の絶対的肯定」
 ☆ というひとつの側面での説明は うなづくところがありますが おそらくそれは結果として伴なわれるひとつの側面であるのではないでしょうか?
 つまりは 《信じた》結果として そのような存在と知性および情感のあり方が帰結されるのだと。

 なぜなら そのような絶対的肯定は 《肯定する》というのも知性による思考および判断としての経験行為ですし 《絶対的である》ことは 《絶対》そのものではないと初めから分かっていると思われるからです。どうでしょう?
 つまりは 《信じる》とはどういう行為か? になりましょう。

 また ある程度は趣旨説明に書いたと思うのですが
 ★ キリスト教のような宗教
 ☆ この宗教というのが やっかいです。そこには オシエがあります。オシエは言葉で表わされています。つまりその内容は 経験合理性にもとづいて表現されたもので あくまで《考える》の対象です。《信じる》とは何のかかわりもありません。考えるものを信じたら それはただの思い込みでしかありません。あるいは 精神の錯乱です。

 すなわちそのようなオシエをめぐるところのご考察には ついて行けません。
 ★ ~~~~~
 理性で考えれば、あのような宗教は矛盾だらけです。
 しかし、それでも肯定するのです。
 しかも、その肯定は絶対的です。
 ~~~~~~~
 ☆ この場合の《肯定する》というのも けっきょく《理性》で考え判断しているということです。経験合理性から見て《矛盾だらけ》のものをも《肯定する》とはどういうことでしょう? それも《絶対的に》というのは?
 
 これは 《信じる》の一般性を持った定義ではありませんね。キリスト教批判としてなら まだしもです。

 ★ 信じる、ということは情の面の問題です。
 ☆ これも納得が行きません。反対します。《情》は 経験事象です。感情ないし情感として知覚したことがら これについてもその知覚を認識に換えて人はやはり《考える》のです。《信じる》は 《考える》ことではありません。考えることで何らかの判断が得られたなら それをわざわざ《信じる》ことはありません。

 言葉は 不思議なもので 誰々さんは そんな犯罪を犯すような人ではありません。わたしは信じています。などというふうに《信じる》を使ったりしますが これらはあくまで強めようとするための方便です。確実性を訴えようとしているだけの使い方です。つまりそう考えているしまたそう感じていると言っているだけです。

 ですから 《信じる》は この経験世界にあってよほど特別のことが想定された上で その何ものかについてそのように無根拠であっても受け容れる こういった行為であるように考えます。いかがでしょう?

 つまりは 理性とも感性とも次元を異にした場が想定されているようなのです。

お礼日時:2011/05/11 21:26

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