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なぜ医学は数学モデルを持とうとしないのでしょうか?

私は工学出身ですが、数学モデルを持たない・持とうとしない医学は科学ではないと認識しています。
医学・理学・工学に従事している方からのご意見を伺いたいです。


参考: 医学が科学的であるための条件とは何でしょう?そして、現代医学はその条件を充たしているでしょうか。
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/6072817.html

A 回答 (15件中1~10件)

あのー、数学があって科学があるんじゃないんですけど。


自然科学(もっと言えば物理学)を何とか説明するために、
数学を考え出したんですよ。

私も工学系(化学)の人間ですけど、今やっていることが
数学的モデルで説明できるなんてちっとも思いません。
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私は物理出身の技術者ですが,


例えば,動物学は科学ではないのでしょうか?
分類するだけでも,科学と言えると思っています.
私の意見としては科学であるとは,現実の現象をよりどころにしながら
みなで話し合い,より妥当な方向に持って行くことであると思います.
文化系の学問と違って,実際の現象を頼りに出来る分
妥当な方向を見つけやすいと思います.
医学についても同じで実際の省令について
みなで討論しながらよりよい治療を目指して進んでいるので
科学と言えると思います.
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まだ開店中ということは納得されておらず、賛同コメントを求められているのでしょうか。



例えば、ある病気の状態を数学モデルで近似的に記述できたとしても、診断には少し役立つかも知れぬが、治療法の確立に寄与することはありません。要するに、治療を目的とする応用科学である医学にとって必要とはいえない。医学理論が、病気という事実のありようを無視するものであってはいけません。

生命を構成する各要素の不連続な状態変化、その要素の組み合わせと分布状態の変動、病変部位間の関係性。これらを正常化するには、定性的に扱うしかないのです。例えば、組み合わせを考えると、何通りかを計算できたとしても、どの組み合わせの状態かを数学的に決定することは出来ません。しかし、定量的でなければ科学にあらず、なんてことはありません。秩序を有する生命からは、定性的法則を導出することが出来るからです。小学生でも理解できる程度の単純な法則を一つ知ればよい。

生命には秩序があるのに、無秩序であることが前提である確率・統計を適用することも間違った結論になりかねない。それはカテゴリーエラーというものです。階層や領域が異なれば、論理や方法、適用すべき法則が異なるのです。

なお、前回の「作用・反作用」云々の例は、あまり適切な記述とはいえないので取り消しておきましょう。
最後に、誰かさん、への忠告ですが、科学の体系的な知識を持たずに執拗な中傷コメントは止めましょうね。
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No.5の回答者様へ。



全ての病気が治療できるということではありません。法則には適用範囲というものがあります。遺伝子異常や奇形、要手術、栄養障害、重金属による中毒など、可逆性の望めない病気は除きます。それら以外であれば大部分の病気は定性的に取り扱えるということです。



質問様およびNo.11の回答者様へ     

科学にはいろいろな法則がありますが、全てが定量的でしょうか?例えば、作用・反作用の法則というものがあります。これを定量的に記述してください。もしも、それが出来るならば、あなたは宇宙を支配できるでしょう。医学において、定性的・定量的どちらを選択すべきかは、病気という事実とそれをもたらしている法則が決めるのであって、あなたが考える理論によって決まるのではありません。どちらを選択すれば、治癒という結果が簡単に確実に得られるか、オッカムさんに聞いてみましょう。
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前もこんな感じで、物理学を理解しない医学は科学ではない(キリッ)って言ってる人がいたなと思ったら、参考がその人の質問でした。

いい感じにトンデモさんでしたが、ご本人さんではないですよね?

まあ、それは置いといてですね、私は薬学出身ですので、その観点からちょっろと話しておきます。

例えば薬の投与量は、どうやって決めてると思います?熟年の医者が勘で?昔はそうだったでしょうね。今は、特に血中量に厳密さが求められる薬なんかでは、最適な投与量や投与周期を、あなたの大好きな数理モデルを用いて算出します。その式に代入する数としては、患者の分布容積や腎臓、肝臓の代謝能、薬品の半減期や、性別、年齢なんかです。投与法によってはさらに別のパラメータも必要になってきます。これでもかなり簡便になっていますが、個人差や体調、同時に服用した薬品、食事なんかの影響もあって、必ずしもモデル通りの結果が現れるわけではありません。そこで、患者の血中、尿中の薬物量なんかを測定して、より正確な投与量を算出しします。

質問と、大きくはズレてないとは思いますが、いかがでしょうか?モデルって絶対なんでしょうかね。
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 ANo.4です。

私ごとき愚拙の問い掛けにお答えいただきありがとうございます。
さて本題ですが、私の専門とする学問領域は「歴史学」です。「歴史学」は科学の領域としては「社会科学」に区分されます。日本では「人文科学」に区分されることが日常的にはありますが欧米、殊にヨーロッパでは「学問としての来歴」から「歴史学」はそれ自体として独自性を有するものの「社会科学群」に位置付けられていることも確かです。無論「社会科学」など「科学」の範疇には属さないと言われればそれまでであり、まして「歴史学」が科学であるなどとは以ての外と言われるのであれば、それもご自由です。けれども「学としての歴史学」が存在していることも一方では事実です。
 歴史学においてもかつては「パターン化」の下に乱暴な議論が繰り返された苦い経験もありました。曰く「日本の歴史を動向的に区分するならばそれは太閤検地をエポックとし、それ以前は厳密な意味での封建制社会とは認めにくい」との見解です。これを定義づけた根拠としてその方が引用した根拠は経済学者としてのマルクスのモデリングにありました。この議論に最も欠落していた部分は「○○の定義に従えば………」として「定義付け」そのものの是非を問うことを怠っていた点にあることは容易にご理解できるでしょう。また同時にそこで提示されたモデリングの形だけが絶対的な判断の基準、或いは指標と言い換えても可能ですが、であると認定することも困難です。他の「モデリング」も現実に存在しています。もし「モデリング」がこれまでの人類史上に1つだけしか存在しなかったとしたら、現在のように「多様な分析視角」が存在することの現象をどのように「合理的に」説明することができるでしょうか?。
 
 先日、学生時代の友人達との同期会(それぞれ研究分野は異なりますが)での席上で、こんな話題がありました。彼は大学で力学の研究を続けているのですが、近代の非平衡熱力学の大成果である散逸構造の理論によると、その系に高度な構造が自発的に創出されて来るための必要条件は、その系が熱平衡状態から十分に離れている。十分に離れると、数学で言う非線形効果が無視出来なくなって来て、前とは違った構造が自発的に創り出される。熱平衡状態とは別名熱死の状態とも呼ばれ、そこには何の構造もない状態です。あるいは対称性の最も高い状態とも言える。だから、その系では平行移動しても、向きを変えても何も変わらない、前と同じ対称性を持っています。要するに「対称性の原理」のことです。

さて、その熱死状態からずらす典型的な方法の一つが、その系に温度差を付与することです。温度差が大きい程、系は不安定になり、今までと同じ状態に留まれなくなる。そして、予測不可能ではあるが、何か全く新しい構造が生まれて来て、系は進化する。新しい構造を生み出すためには、系は前の状態に留まっていられなくなっていなければならないので、安定した系には進化は有り得ません。不安定性が必然的にかつ生産的に役割を演じるのです。
 ここで私が注目した点は「モノが進化する最大の要因はそのモノに内包される不安定性にある」との点でした。当たり前と言ってしまえば当たり前、70年代の歴史学において1つの潮流でもあり、当時の学生達は殆どがこのモデルの存在を理解していました。「生産力と生産関係の不安定なバランスによる歴史発展の理論」のことです。しかしながら数学モデルはこの「変化する・進化する」ことをある意味で拒否し自らの認識の外側に置いているかの様な意味で「静的な存在」と言わざるを得ない、というのが私の持論です。
 「これ以外は存在してはならない」との過激なご発言(私の理解が異なっていると仰るのでしたらお詫び申し上げますが)に関して私が一抹の危惧を抱いたのは「科学」と「科学に対する認識のあり方」が混同されているのではなかろうか、との不安からでした。御指摘のように「科学」には様々な領域が存在し、それぞれに固有の「方法論」が存在します。その方法論すらも「独自であると同時に多様性」を含んでいるために汎用性が生じます。そしてそれぞれの学問は「自己完結性」を有しません。それぞれの領域のみで答を出す事が可能でしょうか。私の関わっている「社会科学としての歴史学」は様々な学問の成果によって支えられていることも確かです。それは歴史学の学問としての性質が「認識の学」であることに由来しています。「認識の学」としての点では政治学も経済学も物理学も哲学もそして医学も領域を共有している点に変わりはありません。「モデリング」「パターン」は言ってみれば暫定的な指標にしかすぎず、それを全てにそのままに適用することは無理がある、この事をご理解いただけましたでしょうか?。それとも「科学」の領域に社会科学は含まれない、と仰るでしょうか?。
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私は参考URLでも回答した者です。



意見は同じで、「科学的に推論する『医学』など存在してはならない。」と考える者です。
やはり「科学」と「医学」は、出発点は同じであったとしても、通る道はまったく別次元の学問である必要があると思っています。

前回にも書いていますが、『「生命」や「病気」、「人体」について、100%科学的に解明されることは恐らく不可能と思います。』のように、医学の世界の現象は科学の目で見ると、理解できない、証明できない事柄ばかりであり、医学を科学的に進めようとすれば、治療法や薬など、何一つ解決できないことになってしまいます。
科学的と言うのは、実験などの結果を数学を駆使して論理的に証明し、現象を解明していく分野と認識しています。
一方医学は、あくまで臨床で統計的に証明するものであり、その過程には正に『試行錯誤』と言う言葉が似合う世界だと思います。

あまりうまく説明できませんが、個人的にはNo,7様の回答に共感します。
医学にとって数学なんかどうでもいいんです。むしろ必要ない。
臨床過程で電卓やコンピュータを使って、治療に勤しむ医者なんかいないでしょ。
人体とか生命とか病気などと言うものは、数学を駆使して治療できる世界ではありません。

F=maのように、そのうち生命の「方程式」のようなものが発見されれば別ですが。
その方程式に様々な数学の理論を盛り込み、複雑な計算をすることで治療薬ができるようになれば「科学的」と言ってもいいと思いますが、今の薬は、未知の微生物をウィルスと戦わせてみたり、既存の生物や有機物、又は無機物の中から使えそうなものを探したりして、試行錯誤しながら『効き目』を臨床で確認するわけです。
生命のしくみが科学で扱えない以上、医学は科学の道を通ってはならないと思います。
科学的手法も使ってはならない、と言うか、使えないわけです。
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えっと、工学のご出身なら、工業化学分野のエポック的な発見の多くは、「科学的でない」化学実験から生まれていることはご存じなのではないでしょうか。


例外が無い体系の中では、限界があって、真理はその絵空事の外にあることがあります。新しいことが見つかるから、それをさらに取り込もうとして、体系が積み上がり、複雑化し、説明が出来なくなり、やがて別の体系が組立てられ直します。

数学(というよりも単に数式だと私は思うんですが)で語られる中には、真理がない(かもしれない)、と思って参考程度に進めていかないと、少なくとも化学という学問は、昔も今も進展をしませんでした。
数式が、「出来ない」と語っていることを実験で試してみる。数式が無いところに、論理を組立てる、そんなことをしてきた学問です。

計測がカンタンにできる学問である化学ですら少し前までは、数学はその整理とか算盤程度にしか役立たなかったわけで、もっと複雑な生物や薬学、医学の分野は、数学が、万能に見えるくらいに役立つほどには、まだ行き着いていないだけでは?
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数学モデルを持つことでどう医学が進歩するのか具体的に示せれば、必然的に数学モデルが成立するでしょう。

そんなもの持ったところで、何にも得するものがないから、数学モデルが存在しないだけでは?

科学かどうかなんて医学にとってはどうでもいいことですよ。医学には人を健康にし幸せにするためにあるのですから。

反論があるなら、まずあなたが数学モデルを示して実際に患者を健康に導いてみればよいです。そうすれば評価されます。
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補足ありがとうございました。



>>「グルコース6リン酸→6ホスホグルコノラクトンの反応を進める酵素」の欠損度合いを変数化

代謝系の酵素全てがそうという訳ではないですが(アミノ酸代謝のALTとかASTあるので)
生体触媒である酵素は極微量なので

>>欠損度合いを変数化

ほどの測定ができないです。このへんが1つ医学は科学じゃないと言われる所以かも
しれませんね。酵素活性の度合いを知るすべがないです。
科学として十分性があるデータ取れない病気が多いという事が1つではないでしょうか。
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