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自己受容は人の成長過程でどのように養われていくのでしょうか。

自己受容のない人は何故そのようになってしまったのでしょうか。

家庭環境や経験によって変わってくるという簡単な答えよりもう少し掘り下げた具体的な回答を頂きたいです。

A 回答 (11件中1~10件)

レスありがとうございます。



>私はもうそういった過去はどうでもいいと思っていて、ただ今と未来が上手くいけばいいと思っております。
大変ご立派なお心掛けと思いますが、一度お薦めした本など読み、幼児期のご自分に立ち返り、
ご自身の「心のカタチ」といったようなものを理解することも、プラスになるかも知れません。

するとこれはまるで知的理解のようで、私が前に言ったことと矛盾するようではありますが、そうではありません。
理解することに伴い、感動、感情が湧き出て、これが自覚となれば、人は変わります。


あるがままである、ということは、とらわれず心が自由ということです。
決して刹那の欲望や怒り、嫌悪感といったものに身を任せることではありません。
例えば誰かに対する嫌悪を感じた。まずこの心はこれで、大胆にあるがまま認めることです。
すると次の心として、例えば「これをストレートに表現することで相手を傷つけたくない」等、別の心が湧いてきます。
心に「とらわれ」がなければ、その時の自分なりの最善の答えに行き着くはずなのです。

ところが「人を嫌悪するのは悪いことだ」といったような「かくあるべし」~「はからい」の心があれば、
この嫌悪感と戦い、否定しようとする、抵抗する、忘れようとする…。
すると心が滞り、遂には破れかぶれの捨て鉢になり、大声で怒鳴ってしまったりする。逆爆発したりする。
無理やりのプラス思考とおっしゃっているのも、同じようなことだと思います。

>こうなろうと努力してもなかなかそこに到達する事は難しいですね。
今暫くは、苦しむことに努力するといったような態度なのでしょう。一番苦しい時期だと思います。
しかし、努力しなくなった時が本物になった時です。

トレーニング。
森田正馬博士はしばしば、修養せよ、修行が必要である、などと書いています。
一方において「自覚することだけ。認めるだけだ」とも書いています。

私は修養とは「逃げている自分の心を自覚すること」だと思っています。はからい=逃げ腰の心 です。
あるがままの心の事実を認めることは、時には大変な勇気がいるものだと思います。
それを成し得るためには「逃げている自分の心を、とことん自覚すること」に尽きるのでは、と思っています。

以上参考になれば幸いです。
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この回答へのお礼

引き続きありがとうございます。
全てスっと心に入ってきました。

過去をどうでもいいと思えたのは、もう十分悩み苦しみ吐き出したからだと思います。もう悩みも出尽くしましたし話し尽くして話したい事もなくなりました。ですので、以前抱えていた人に理解してもらいたいという気持もなくなりました。人に理解してもらうなんて解決になりませんし、理解されたからといって何が変わる訳でもないですし。自分が理解する事によって人に理解されたい気持もなくなるものだと身をもって感じました。

本を読む事で「心のカタチ」を理解することという事について、これは以前実際に感じた事がありました。アダルトチルドレン(AC)について知識をつけていた時期があったのですが、そこで本を読み自分と重なる部分があった事から自分の事や自分の状況について自覚したような感じでした。
ACで有名な「毒になる親」という本を読んだ時、親を「毒親」と表現している事で辛い気持にもなったのですが、それを読む中で感情は沸き出ました。そういう本を読んでいると泣いてしまう事がよくあるんですよね。それを読んだ事により、親の事を毒親と記載されてはおりましたが理解に至った事で毒親だと怨む気持も全くなかったです。(そう思えてよかったです)

>「人を嫌悪するのは悪いことだ」といったような
>「かくあるべし」~「はからい」の心があれば、
>この嫌悪感と戦い、否定しようとする、抵抗する、忘れようとする…。
>すると心が滞り、遂には破れかぶれの捨て鉢になり、
>大声で怒鳴ってしまったりする。逆爆発したりする。

本当にその通りです。それで思ったのが、心(感情)と頭に矛盾があると嫌悪感との闘いになるな、といった事でした。

心 = 人を嫌悪する気持
頭 = それは悪い事だ

この矛盾が嫌悪感の闘いになると思ったので「心」と「頭」は別物だと考える事がよいのだという考えに至りました。人を嫌悪してもよい。それを悪い事だと思う必要はない。それでいいのだという考えになったのです。そう思った事で心がだいぶ楽になったように思います。

>努力しなくなった時が本物になった時です。

そうですよね。プラス思考の本を読む人はマイナス思考な人だと思っているのですが、本当にプラス思考な人はそのような本は読まないですし、私も努力しなくなった時やこういう事を忘れた時が本当に身に付いた時なんだと思います。こうやって細々書いている時点でまだまだだと思いますが^^;

>森田正馬博士はしばしば、修養せよ、
>修行が必要である、などと書いています。
>一方において「自覚することだけ。認めるだけだ」とも書いています。

なんとなくわかります。どちらも必要ですよね。そしてこの2つは相反するものではないですね。繋がる部分がありますね。

「逃げている自分の心を自覚すること」これはすごく自分の為になりそうです。何かあるごとに思いだしたい言葉だと思いました。「自覚」はとても大切だと思いますし、良い事だけでなく悪いところもしっかりと自分はこういう人間だと自覚する事で色々な事が見えてきそうだと思います。

「逃げている自分の心を、とことん自覚すること」これ、私の好きな言葉に加わりました。常に頭に置いておきしっかりと自覚していきたいと思います。本当に参考になりました。素晴らしい回答を頂き勉強になりましたし、質問をしてよかったと思いました。頂いた言葉を頭にしっかりと入れておきます。詳しく教えて下さりありがとうございます。

お礼日時:2011/05/21 00:03

>>「幼児期に甘えられなければ、甘えの欲求は一生涯消えない」


>これは何故そのように思うのですか?たぶんご自身の今までの経験の中で

まさしく、私は私の心の経験~心の事実をありのままに認めて、それを言っただけなのです。
「何故そう思うのか?」~心の事実であるから、そう思うまでのことです。
私も40代後半です。このことは、きっとこの先も変わらないであろうと思います。
そして加藤さんの言葉にも出会い、やはりそうなのかと思っております。

しかし私とて強要は致しません(苦笑)。私や加藤さんの心が絶対であるとは、私には言い切れません。
ただただ、私の体験から、私の心の事実をありのままに述べたにとどまります。

>幼児期に甘えられなかった子供は一生引きずる
但し一つだけ。この「甘え」ということを、今の私は「引きずる」というような
ネガティブなイメージで捉えてはいません。
どうにもならないものとして、淡々と受け止めているつもりなのです。

>その自覚を極められた人はいるのでしょうかね。
私も修養の途中の人間です。私以上に深い自覚に至った人は沢山います。
しかしどこまでいったらそれが「極み」なのか、私にもハッキリとは分かりません。
きっと人間である限り、誰しも「極み」にまで達することはできないのだと思います。

>ときどきふっとそんな自分の運命を悲しく思い涙する事もあると思います。
涙することがあるからといって、この人の自覚が至らないものであるということには、ならないはずです。
はからいの心が去ったからといって、元よりあるべき当然の苦しみまで消え失せるということではありません。

長らくお邪魔致しました。これにて失礼致します。
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この回答へのお礼

「何故そう思うのか?」という事についてはやはり人の経験から自然と感じるものだという印象を受けました。私もそれは同じでしたので。

私はまだ30手前ですので経験からも知識は薄いですしこれから年を重ねる事で価値観も変わってくると思います。また10年、20年考えた先に「やはり変わらない」という状態があればそこで納得してそういうものだと思うようになると思っています。今はまだわかりませんが。
あと、回答下さった内容を強要とは考えておりませんので誤解なさらないで下さいね。(誤解されていないかもしれませんが念のため)

こうやって深く掘り下げるたびに思うのですが、結局はもっとシンプルのように思いました。たくさん悩み考えた先にはシンプルな答えがあるように思います。
そのひとつの例として「やはり変わらない」だったりするのだと。
(そこに至るまでの悩みや経験は勿論必要なものだと思います。そして悟った先にシンプルな答えがあるような)

経験された事から回答下さりとても参考になりました。
感謝いたします。
どうもありがとうございました。

お礼日時:2011/05/21 15:51

例えば幼児期に、不幸にして足が不自由になったとします。


体のことなら目に見えますから、これを自覚することは比較的容易です。
それでも「足が不自由だ」という「どうにもならない運命」を受け入れられないで、
イガイガとした心で日々を送る人も稀におりますが、多くの人はこの運命を受け入れています。
このどうにもならない運命を、運命として受け入れること~認めること~「自覚」によって、人は変わります。

心は目に見えません。ですから「魔法のような力を持つ何かの考え方(知的理解)」のようなものがあって、
その言葉さえ知れば、どうにもならないものが、どうにかなると錯覚したりします。しかしそれは間違いです。
足が不自由であることと、幼児期に出来上がった心、どちらも同じです。

加藤諦三さんが「幼児期に甘えられなければ、甘えの欲求は一生涯消えない」と言っています。
私自身も偏った養育環境の元で育ちました。この加藤さんの言葉は、本当にそうだと思います。

Lilyrosa様のお話しぶりを聞いていると、加藤さんの言葉だと「よい子」「迎合」「自分がない」
といったタイプの人が思い浮かびました。まあこれは私の「感じ」であり、決して断言できるものではありません。
失礼ご容赦下さい。ただ、そういうキーワードを含む加藤さんの本は、参考になる可能性もあるかな、と思いました。

話を戻します。
自覚によって人は変わります。ですから正しい自覚を得るために、今一度パーソナリティ障害の本などで
幼児期のご自分を見つめ直してみることを、念のためにお薦めしたわけです。

しかし、正しい自覚を得ても、心にある空虚のようなものが埋まるわけではありません。
丁度足の不自由な人が正しい自覚を得ても、決して自分の足が治るわけではないのと同じことです。

今、人と関わっていく中で、一時的に空虚が埋まるというようなことは、確かにあります。
ですから、良きパートナーと出会うことの価値は大きいです。
しかし良きパートナーと出会ったからといって、幼児期に形成された自分の心がすっかり変わるというものではありません。
ですから加藤さんなどが薦めているように、この甘えの自分を丸ごと受け止めてくれるパートナーと出会うことだ、と。
そんなこともあろうかと思います。

自覚には深さがあります。どこまで深く確かに、自分のこの心の事実、運命を認めることができるのか、なのです。
事実唯真。何が事実なのか。何が心の事実なのか。逃げずに、それを事実として、どこまで認めることができるのか。
以上前回答に絡めて再考していただければと思います。度重なる長文失礼致しました。

この回答への補足

お礼の文章の冒頭に脱字がありましたので補足します。

>自分がないという印象を持って頂いた事はよかった「です。」

「です。」が抜けておりました。失礼いたしました。

補足日時:2011/05/21 14:24
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この回答へのお礼

自分がないという印象を持って頂いた事はよかった
下記についてですが、むしろ私は全く逆のタイプです。

>Lilyrosa様のお話しぶりを聞いていると、
>加藤さんの言葉だと「よい子」「迎合」「自分がない」
>といったタイプの人が思い浮かびました。

個性が強く自分の我を通すので人とよくぶつかりますし、自分の意見を捻じ曲げて相手の意見に賛同する事はどうしても嫌でしたくないのです。だからむしろ自分がありすぎて困っているんです。自分の思った事はハッキリと言いますし。

ただ、ネットのこういったサイトですと話し方に気をつけないと論点がずれてしまうので気を付けています。否定的な意見をされた時にはイラっとして「私はそうは思いません」といった事を言ってしまう人間なので、そうなると論点がずれ本来聞きたい話が聞けず「あなたのそういうところがダメなんだ」「最初から人の意見を聞く気がない」と言われてしまったりするので、こういうところではできるだけ聞くようにしています。

つい最近質問の書き方を指摘された回答があり「強要なさらないで下さい」と言い回答者を怒らせてしまったところで、受け答えには注意しないといけないなと思っていたところです。だから、価値観の違う考えの方や自分がわからない事には「どうしてそう思うんですか?」と聞くようにしようと思ったのがこの質問です。その前の質問で回答者さんを怒らせてしまいました。そうやって注意した結果が

>「よい子」「迎合」「自分がない」

という印象に繋がったのだと思いますので、私としてはありがたい印象だと思いました。私はネットではそうある方が穏便に会話ができると思っているのでそれでよいと思っています。ただ、全く納得できない事には「そうですね」とはもちろん言いません。

>「幼児期に甘えられなければ、甘えの欲求は一生涯消えない」

これは何故そのように思うのですか?たぶんご自身の今までの経験の中でそうだと感じる為だと思うのですが、私はそれも後に癒す事ができるのではないかと思っていました。それを癒すのは恋愛ではないかと思っています。恋愛や健全な夫婦生活で幼児期の再体験(甘えさせてもらえる)をする事で癒されるのではないかと思うのですが、そうではないのでしょうか。
他のところでも幼児期に甘えられなかった子供は一生引きずるといった事をおっしゃっている方がいて気になっていました。

・・・という質問はおすすめ頂いたパーソナリティ障害の本を読んでみて下さいという事ですよね。

>自覚には深さがあります

その自覚を極められた人はいるのでしょうかね。
例としてあげられた足が不自由な方も、どうにもならない運命を受け入れて過ごしてはいても・・・ときどきふっとそんな自分の運命を悲しく思い涙する事もあると思います。
自覚というものは方向性を間違えると無関心・無感情になってしまいそうだなとも思います。自分の経験からそう思うのですが。それは

>事実唯真。何が事実なのか。何が心の事実なのか。
>逃げずに、それを事実として、どこまで認めることができるのか。

それができていない場合にそうなってしまうのだと思いますが。正しい方向性に正しく進む事は難しく、知識をつけ、行動し、経験し、悩み、考え、等の繰り返しで努力するしかないのだと思いますが、まだ私はそれらの「事実」を模索中なので難しいな~という印象です。

あとは、私はレイプ被害者でもありますのでそういった事も絡んで「何が心の事実なのか」が複雑化しています。それを事実としてどこまで認める事ができるのかという事はとても難しいのですが、今後カウンセリングを受診しながら努力していく事だと思っております。本題の自己受容も、この事により難しくなったのだとも思いますし。

著書の紹介も含め詳しくご回答下さりありがとうございます。
大変参考になりました。

お礼日時:2011/05/21 14:21

>「無心」「無我」= 宇宙の本質 = すべてをあるがままに生かす「愛」= 健全になっていく = 自己受容が自然にできる


といった流れ?というか繋がりでしょうか。(回答のまま結んだだけなのですが)
なんだかあったかい繋がりですね。愛か~・・・愛っていいですね。無条件の愛だとか、愛情を注がれたいです。家族愛とかものすごく憧れます。ひとりぼっちなのでちょっと寂しいですが、前向きに精進していきます。


暖かいですよ~♪
結局、克服不可能な試練は無いし、実は生まれる前から自分が一番成長できる環境(=困難極まる環境)を
選んできているんです。そう、自ら両親も選んで。

人は順風満帆で何の問題もなければ、変わる必要も感じないので成長しませんよね?
成長は、苦難を通して、壁を乗り越えることで初めて可能なんです。
自己の変容、脱皮は辛いですよ。だって古い自分が死ぬのですから。でも、死なないと、生まれ変われない。
生まれ変わると、想像できなかった世界が広がります。生まれ変わること=新たな気づきです。

あなたは、きっと大丈夫ですね!
そう感じます。
「ひとりぼっち」じゃないですよ。すべては与えられてるじゃないですか。
あなたの肉体を構成してるものはすべてここ3ヶ月間口にした食物です。(人体の細胞は3ヶ月で一新します)
皆、野菜や果物、魚や鶏といった、生命です。多くの命があなたのために身を捧げてくれています。
こうしてあなたにメッセージを送っている私もいます。

心の奥底からの願望は必ず叶います。
あなたはきっと、暖かい家庭を築かれることでしょう。
すべては自分の「思い」次第です。宇宙のしくみはそうなっているのですから!
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この回答へのお礼

生まれる前からですか!?確かに困難極まる環境でしたし、また、そのおかげで色々と学ぶきっかけになった事は確かなのと、悩み考える事も多く頭が鍛えられたという事もあります。
両親も自ら選んでいるなんて、私は何故今の両親を選んだのかが不思議です(笑)何かあるんでしょうね、きっと。それが後々わかり感謝できるような未来にしたいと思います。

そうですよね、順風満帆で問題がないと変わる必要ないですね。そういった人はやはり考える力が乏しく(考える必要もないから)成長しないと私も思います。

成長は苦難を通して壁を乗り越える事で初めて可能、
自己の変容は辛いけどそうでないと生まれ変われない、
生まれ変わること = 新たな気づき

これ、私も思います。そのような考えを持っており時々そんな自分を自虐的だなと思いますが、おかげで日々成長しているようにも思いますし。

自分の肉体という観点から物事を考えた事はなかったので新しい発見でした。人体の細胞は3ヶ月で一新するんですか、そういった身体の仕組みについても興味があるので勉強になりました。
確かに、今自分が存在している事だけで全ては与えられているとも考えられますね。そう思うと考え方なんて無限に広がりそうだし、自分が思っている事だけが全てではなくて、新しい切り口で考えると全然違った事が新しく見えてきそうな気がしました。ちょっと心が明るくなりました。

以前、心理学系で何かのワードを検索した時に「宇宙」というワードが出たのです。そのワードでは検索していなかったのに。心理学系と宇宙、考え方か何かで繋がりがあるのかな?と思っていました。宇宙の仕組み、とてもスケールが大きく無限大ですね。

願望は必ず叶う、そう言って下さるだけで勇気づけられます。本当に叶う気もしてきます。
自分がよい環境ではでなかった為、暖かい家庭を築く事は私の昔からの夢だったので本当にそれは絶対に何としてでも叶えたいと強く思っています。思い次第なら絶対に叶いますね!
なんだかとても励まされました。色々と教えて下さりありがとうございます。

お礼日時:2011/05/21 02:58

自己受容は、成長過程で、親から愛された、という経験ではないのですか?



例えば、本人の気持ちを大切にされた、とか。

よく話を聞いて、味方になってくれた、とか。

褒めてくれた、とか。

もし、親から認められなくても、他人によって愛されても
それが可能かもしれませんけど・・
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
とてもシンプルに考えるのであればそのような事だと思います。

それを掘り下げて考えたかったのです。
シンプルにはパッと思いつきますが、その先に回答者の方の主観や知識等から得る情報が欲しいというか、とてもシンプルに質問しましたがこんな簡単な質問にも深く掘り下げて色々と教えて下さる回答があります。

それを望んでいたのですが、結構皆さん深く掘り下げて下さって嬉しく質問して満足しております。シンプルに考えるとおっしゃるようにとても簡単なのですけどね。

>親から認められなくても、他人によって愛されても
>それが可能かもしれませんけど

こういった事の理由(なぜそう思うのか)まで掘り下げて回答頂きたい質問なのです。その根拠はもちろん主観で構わないと思っております。

お礼日時:2011/05/21 02:33

 確かにメンタル場面で都合よく使われる言葉だけど、抽象的にしか語られていないようにも思います。

かといって明確な回答を持っているわけではありませんが、人から言われてなるほどと思ったのは、「要は自分の行動を自分で決められればいいんだよ」がけっこう本質かなと思いました。何をするのも自分が決めたことだから・・・人のせいにはできない、リスク、失敗に対して自分で後始末をつけないといけない、周りから猛反対、非難される・・・誰にも支持されない、それでもせめて自分が自分を支持して行っていく・・・

 何もしていない人は、何の結果もリアクションも当然出ないので、受容すべき反省すべき自己も生まれ出ません。たぶん何らかの行動を起こせる人が、その起こした行動を自分で自覚して受け入れていくことが自己受容だと思います。自分の中で何が何を受容するかが問われるべき問題なのでしょう。(まだよくわかりません)

 かたづけられない人は、まだ何もしていない。自分で整理して捨ててしまった後に来る後悔とかに、おびえない自分などが必要なのかもしれません。何故自己受容できないかは説明もそう簡単ではなさそうですが、「自分の行動の自覚」がどう呼び覚まされるかのテーマのように思えます。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

>「要は自分の行動を自分で決められればいいんだよ」

とてもシンプルですね。考え出すと深く掘り下げすぎて雑念が増えすぎてしまったりするので、シンプルに考える事もいいなと思っています。最近そういった本も立ち読みしてそう思いました。(私は文章を書き出すと長いので^^;)

>何もしていない人は、何の結果もリアクションも当然出ないので
>受容すべき反省すべき自己も生まれ出ません。

ものすごくわかります。私にはまったく考えられないのですが、そういった人はある意味幸せだな~・・・というか、たぶん何もしない人は悩まない・考えない事により雑念が少ないので楽なんだろうなと思います。その反面成長はないとは思いますが、そういう何もしない人は成長すら望まないようにも思うので・・・楽な生き方のようにも思ってしまいます。私は真逆なので楽そうでちょっといいなと思ってしまったりします。

>何らかの行動を起こせる人が、
>その起こした行動を自分で自覚して
>受け入れていくことが自己受容だと思います

そうですね。1に「行動」、2に「自覚」、3に「受け入れ」自己受容といった感じでしょうか。なんかテンポよくなってしまいました。

#5でとても参考になったと思った回答を下さった中にも「自覚」という事をおっしゃっており納得しましたが、自覚は大切ですね。自分の行動の自覚って以外としていないものですからね。意識しないと昨日の事も数時間前の事も、もしかすると数分前の事ですら忘れていますし。

確かにシンプルに考えると、自分の行動を自分で決められればいいとなりますね。そしてその時は、私は私だと、これでいいのだと心から思えている状態ですね。
なんとなく皆さんが下さった回答からキーワードが拾えてきました。皆さんの回答は繋がる部分がありますね。私の頭の中にも同じような考えがあるのですっと繋がります。

お礼日時:2011/05/21 02:20

>ヒントは「愛」と「洗脳を解く」という事のように思いましたが、ではそこから「愛を受け」「洗脳を解く」方法は何でしょう??


人とのコミュニケーションや恋愛で愛され大切にされる(また、愛し大切にする)事でしょうか。

「気づき」でしょう。
そして、気づきをもたらすには、常に意識が「今・ここ」にあらねばなりません。
意識が「今・ここ」にあれば思考・感情が生じようが無いからです。
たとえば綱渡りの状態ですね・・・雑念が生じた瞬間に転落してしまうから、「覚醒」し続けます。
それを意図的に作り出そうとしたものが、「道」のつくもの-弓道、剣道、書道、茶道・・・。
日本は本当に精神的に深遠なる国だとつくづく思います。

よく、うつ病の治療法に考えさせる間を与えず、次から次へと掃除など作業をさせるというものがあります。
「無心」「無我」でいると、宇宙(身体も宇宙の一部ですよね)の本質を身を以って感じます。
宇宙の本質・・・それが、すべてをあるがままに生かす「愛」なので、そういった作業・修行で
どんどん健全になっていくわけなのです。

その周りに愛に溢れる人たちが、その作業の達成度を褒め称え、暖かい眼差しで見守ってやれば
必ずや自己受容が自然にできる人になることでしょう。「本質」(愛=光)を体験すれば、本質でないもの(闇)は
自然消滅するからです。
多少宗教っぽい表現ですが、私の体験からもこう表現できます。
つらくあたった親の事情も理解でき、許すことができるようになります。
これこそが、人間として最も価値のある、「変容」なのだと思います。
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この回答へのお礼

引き続き回答下さりありがとうございます。
気づきもとても大切ですね。

気づいていない事は沢山あるはずだと思っておりますし、おっしゃるように意識を今にして雑念を取り払う事でリアルに見えてくるものかと納得できます。

考えれば考えるほど雑念が増えますし、考えれば考えるほど意識は過去の出来事に向かったり・・・そうなると余計な雑念が増えすぎて今ある物事をありのままに考える事ができなくなりそうですね。

「道」のつくもの・・・精神鍛錬のような印象を受けますが、「○○道」というのは何故「道」なのか?と疑問に思ったので調べてみました。

・武芸 (日本) - 日本における価値観。哲学とも言われ、一つの物事を通じて生き様や真理の追究を体現することや自己の精神の修練を行う事。「残心」に代表される日本独特の所作や価値観を内包する。

そう思うと「道」のつく武芸はとても深いというか、精神の修行も兼ねているんですね。確かにこれらに雑念という言葉は考えつかないですね。

やはり最終的にたどり着くのは
「無心」「無我」や「あるがまま」といった事ですね。
現実をあるがままに感じて自覚し雑念なく気づきを得る。

以前は考えれば考える程深みにはまっていっていたような感じだったのですが、最近は少しずつ考える事で「無心」「無我」「あるがまま」といった事が最終的に頭に浮かんできています。
考え尽くし、悩み尽くし、我慢していた気持を出し切り、出るものがなくなってきてその結果雑念が少しずつ減ってきたのだと思います。

ちょっと私には難しかったので何度かじっくり回答を読ませて頂きました。
「無心」「無我」= 宇宙の本質 = すべてをあるがままに生かす「愛」= 健全になっていく = 自己受容が自然にできる
といった流れ?というか繋がりでしょうか。(回答のまま結んだだけなのですが)
なんだかあったかい繋がりですね。愛か~・・・愛っていいですね。無条件の愛だとか、愛情を注がれたいです。家族愛とかものすごく憧れます。ひとりぼっちなのでちょっと寂しいですが、前向きに精進していきます。
回答下さり感謝いたします。どうもありがとうございます。

お礼日時:2011/05/21 00:43

ご紹介した本のタイトルを訂正させていただきます。

失礼致しました。

岡田 尊司 著 "境界性パーソナリティ障害" 幻冬舎 (出版) →×
岡田 尊司 著 "パーソナリティ障害がわかる本" 株式会社 法研 (出版) →○

この本をご紹介するのは、ご質問者様をパーソナリティ障害と思っているのでは決してなく、
精神分析学等を通して、親の養育がどのように子供に影響するのかが、簡素で的確に書かれているからです。
この点も追加して補足させていただきます。失礼ご容赦下さい。
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この回答へのお礼

本もご紹介頂きありがとうございました。

>精神分析学等を通して、親の養育がどのように子供に影響するのか

これはとても興味のある内容ですので気になります。読んでみたいと思います。

お礼日時:2011/05/20 22:15

>家庭環境や経験によって変わってくるという簡単な答えよりもう少し掘り下げた具体的な回答を頂きたいです。



親の養育が「あるがままの自分であること」にどのように影響するのか、
ここを掘り下げて具体的に述べれば大変な長文になります。
ご質問文中にもっと具体的な「何か」があれば絞ることもできますが、これでは範囲が広過ぎます。
ですからこれについては、以下の本をお読みになることをお薦めします。

岡田 尊司 著 "境界性パーソナリティ障害" 幻冬舎 (出版)


私は森田療法との関わりが長いのですが、森田療法でも「あるがままに受け入れる」などと云います。
しかし、受け入れよう(受容しよう)とする「意志」が入っているうちは、本物ではないです。
あるがままにあることが本物です。この辺りは鈴木知準博士の本などに書いてあります。
「ノイローゼ全治の道を語る」などが良書と思います。

又この本には「知的理解の限界」というようなことも書かれています。
人間が変わるということは、大変なことです。本を読んで知的理解をしただけでは、まず人間は変わらないです。

「自己受容はどのようにして養われるのか?」

総じて捉えれば、事実唯真だと思いますよ。この言葉も森田正馬博士の言葉です。
事実だけを認めることのできる心・態度です。それは「心の事実」も含めてです。

自己の心の事実を、ただあるがままに認めることができた時、あるがままにある自分が成し遂げられる、と。
そういうことになろうかと思います。

自分の心に湧いた、生存に不都合な意識。例えば「不安」。
これと戦い、抵抗し、取ろうとする、否定する、抑えつけようとする、消そうとする、言い聞かせる… 
これが「はからい」です。
はからいがなくなった時、どうにもならないものは、ただそれだけです。
「ただそれだけ」になった時、そこでは自己受容が自ずと成されている、と。そんなことだと思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
質問内容に余計な内容を含むと論点がずれてしまいそうだったので簡潔にしたのですが、質問内容をもう少し具体的に記載させて頂きますと私自身が自己受容が少ないと認識している為、そこから健全な自己受容がある状態にする為のヒントが欲しかったのです。

私の育った家庭環境は機能不全家族だと思っています。
両親の不仲、父親の無関心(通院しているカウンセラーに発達障害のような印象を受けると言われなんとなく納得できてしまった)、母親のヒステリック等・・・家族愛というものを感じた事がありませんでした。

母親は父親を嫌っており、幼少の頃から父親の悪口を聞かされ育ちました。母は休日に父と一緒に過ごす事が嫌で平日だけでなく日曜も仕事をしていました。となると・・・今考えてみたら休日に家族で出かけた記憶はほとんどないです。食事もバラバラで食べていましたし家族団欒もありませんでした。

母は父が家族に無関心な事にとてもイライラしており、家事育児を1人でこなす事にストレスを感じていた為か小さな事でとてもヒステリックに怒られる事が多かったです。こちらが何を言っても聞く耳持たず「子供は黙ってろ!!」「口答えするな!!」と、とにかく母の意見は絶対で何を言っても受け入れられず自分の気持を言う事でもっと怒られる事が当たり前でした。
しまいに自分の意見を言ってももっと怒られると思い会話もしなくなりましたが、それもそれで怒られまして・・・部屋に戻ってもドア越しに30分以上延々と怒りをぶちまけられる事がよくありました。そんな中、私は耳をふさいでふとんをかぶって泣いていました。

そういった過去にとらわれているから書いたのではなく、ただ情報として記載した内容ですのでご理解下さい。私はもうそういった過去はどうでもいいと思っていて、ただ今と未来が上手くいけばいいと思っております。今はもう30間近になり実家も出ておりますし実家の家族に縛られる事はほぼなくなりました。・・・たまに実家に変えるとやはりストレスが溜まる環境ではありますが。

この質問をもう少し掘り下げますと、私が自己受容できないのはどこでそうなったのか?という事を考えたかったのです。(過去へのとらわれと思わないで下さいね)
考えたい理由は今に支障をきたしている為です。それが何故なのか考えたかったのです。だから

>自己受容のない人は何故そのようになってしまったのでしょうか。

ここは「私は何故自己受容がないのだろう?」という事を考えたく質問した内容です。


森田療法については少し調べておりましたので薄く知識はあります。森田療法=「あるがまま」と考えておりましたので森田療法について記述頂いた内容についてとても理解できます。今まさに「あるがまま」の自分を目指しているところです。その為に、感情の抑圧や我慢や忍耐などをせず今までねじ伏せてきた嫌な感情もありのまま感じるようにして、それでよしとする事を努力しております。

事実唯真て本当にその通りですね。
私が好きな本に書いてあった事なのですが

「何が本当なのかわからなくなった時は、今思っている事が本当の事」

というような言葉がありました。本当にその通りだよな~と思いました。何が本当なのかは今思っている事が本当だし、今ある現実が本当。それ以外の何者でもないんですよね。

>自己の心の事実を、ただあるがままに認めることができた時

これにはやはりトレーニングが必要ですよね?

「はからい」についても自分の経験から理解しました。以前、マイナス思考の自分を変えようと思い無理矢理プラス思考にしようといい事ばかり考えようとしたのです。そうしたらとても苦しくなってしまいました。その時に思った事は、無理にプラス思考になろうとする事はプラスではなくて何て自虐的な考えなんだろうか・・・という事でした。
最近はその「はからい」はないとは思うのですが、ありのままでいようと思っていると今度は自分勝手なのでは?という自己嫌悪が産まれてきてしまいました。嫌な事もありのまま、嫌だと感じ、自分の気持に素直に話をしてしまうのですが・・・嫌な事も「素直に話をする」という事がいけなかったのでしょうか。

私ととても身近な人で「マイナス思考だから何でもプラス思考に考えるようにしている」と言っている方がいるのですが、その人と一緒にいるととても苦しいんです・・・。ありのまま、嫌な感情を嫌だと言ったらその方にプラスに変換されてしまうのです。思考も発言も相手の自由だと思っているのですが、何でもプラスに変換しようとする事にイライラしてしまう私はまだまだ問題があるな・・・と感じました。こういう他者受容できないところが=自己受容できていないからだ。という事にも繋がると思いました。自己受容できていないから他者受容できないのだろうと思いますので。

>「ただそれだけ」になった時、そこでは自己受容が自ずと成されている

ただそれだけ・・・こうなろうと努力してもなかなかそこに到達する事は難しいですね。トレーニングあるのみでしょうか。事実をありのまま「ただそれだけだ」と受け止められるようになりたいのですが実際はイライラとの葛藤です。
イライラも、私はイライラしている、と「ただそれだけ」で受けとめ流せばよいのでしょうか。あるがままってきっとそういう事ですよね。

ちょっとごちゃごちゃ書いてしまったのですが、ひとつ質問したい事があります。(上記に記載している内容ですが)
「ただそれだけ」になるにはトレーンングが必要ですか?

お礼日時:2011/05/20 22:06

>自己受容は人の成長過程でどのように養われていくのでしょうか。



人間の健全な状態は自己受容できている状態ですので、何ができなくさせてしまったのかを
考察するほうが分りやすいと思います。
都市化・工業化していない社会や昔の日本・欧米はうつ病や自殺は極めて少なかった。
精神病は自分を愛せない、受容できない=他人も愛せない、受容できない状態ですが、
欠乏しているのは「愛」です。愛とは、そのままを許し、受入れ、生かすこと。
親・学校・社会(TV・新聞・映画等)の「教育」という名の刷り込みによって、「こうあるべき」
「こうでなければならない」という思考がインプットされ(洗脳)、それによって自分や肉親、
友人、社会を受容できず、苦しむことになります。

ですから、ご質問に対する答えという形では、「そういった洗脳が解ける過程で」自己受容が
行なわれてゆくということになります。決して「養われる」ものではないということです。
人の考え・モットー・信念・信条などというものは、真の意味で「自分の」ものでは全く無く、
すべて親や教師等外部から仕入れたもの。そういった異物に自分を合わせようとするから
本来の自分のありのままの姿を受け入れられなくなってしまうのです。


>自己受容のない人は何故そのようになってしまったのでしょうか。

ですから、親から真の意味での愛を注がれずに育った人は、基本的に自己受容が難しいのでしょう。
ありのままの自分を愛してもらえず、条件つきで「○○するような良い子」であって初めて
親に認めてもらえるような場合は、それに外れた自分を受け入れるのが難しくなってしまう
ことでしょう。
親から無条件に愛された子供は愛に溢れた、即ち自己を含めすべてを受容できる、
器の大きい大人になります。さらに、親から「お前はできる」「お父さん/お母さんはお前を信じてるよ」と言われ続けて育った人は、偉業を成す大物になっているようです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。とてもよく理解できました。確かに自己受容は養われるものではないですね。

「洗脳が解ける過程で自己受容が行われてゆく」という事について納得しました。幼い子供にとって親は全てですから良くも悪くも洗脳がありますね。そこで悪い洗脳を受けてしまうと自己受容が難しくなるのですね。昔にこの洗脳については考えた事がありました。

私が見た統計ですので個人的な認識でしかありませんが、自分が嫌いだという相談者の多くは親から愛情を与えられなかった経験を語る人が多かったです。

心療内科や精神科では初診で必ず家庭環境について聞かれるので、臨床的に重要視されついるものだと思っています。でも…この「親からの愛情」の問題に関しては意見が割れますよね。臨床的な観点からも「関係ない」と言われる事はあるのでしょうか。

自己受容が難しくなった人は欠乏した「愛」が原因と考えると、健全な自己受容がある状態になる為には「愛を知る事」ではないだろうか…と思ったのですがどう思いますか?

自己受容へのヒントが欲しく、細かく掘り下げてしまい申し訳ありませんがわかりましたら教えて下さい。

ヒントは「愛」と「洗脳を解く」という事のように思いましたが、ではそこから「愛を受け」「洗脳を解く」方法は何でしょう??
人とのコミュニケーションや恋愛で愛され大切にされる(また、愛し大切にする)事でしょうか。

お礼日時:2011/05/20 19:42

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