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陳瞬臣の小説を読んでいた時に、あまりよい行いをしなかったために○帝という名がつけられた、というような記述を目にしました(具体的な名前は忘れてしまいました)

現在受験のため世界史を勉強していてそのことを思い出し、帝の名前を覚える上で名前と共にイメージを持っておくと覚えやすいのではないかと思いました

私のイメージでは
太祖 高祖…初代皇帝 建国者
太宗…二代目
武帝…異民族の討伐を積極的に行った
三武一宗の法難のように弾圧的
太武帝 光武帝…武帝と同じようなもの
文宗…学問に力を入れている?
粛宗…あまりよくない?

こんな感じです
上の誤りや他にもありましたら教えてください
特に教科書に載っているような皇帝はありがたいです

それから
唐の高宗、中宗(高中(低、小)何か続いているようなイメージがある 二人とも皇后に利用された所、武則天よりい后の方が小物臭いところ)二代続いているのに何か理由があるのか
わかりましたら教えてください

A 回答 (4件)

高祖は前漢朝における初代皇帝ではありますが



皇帝という敬称を最初につくって用いたのは

秦のいわゆる始皇帝、嬴政です。
試験にでるならば圧倒的にこちらだと思いますよ
建国者というのも、こちらが相当します

高祖、つまり劉くんは、秦を打倒して前漢朝を打ち立てました
建国者という認識はありません

太宗にいたっては朝鮮の王様です、「王」です
皇帝でもありません

武帝とは前漢の7代皇帝のことでしょうけど
三国志で有名な曹孟徳(曹操)も武帝です

太武帝は北魏の三代皇帝です。曹魏とはまたことなる国です

光武帝は後漢の皇帝…


っていうか、あなた
時代もとびとびだし、むちゃくちゃな知識だと思いますよ
かなりやばいです

受験のために勉強するなら
一から勉強しなおすことをお奨めします

始皇帝をおさえておかないと
その後の歴史を学ぶにも支障をきたします

がんばってください
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この回答へのお礼

私の説明が足りず勘違いなさっているようなので説明しなおします

例えば武帝にしても、前漢、西晋、南朝の宋、斉、梁など色々な王朝にいますよね
おくり名は死んだ後にその人の行いを評価してつけられるものですから、そのおくり名の理由をわかっていれば、それぞれの治世のイメージもまとめてつかめるのではないかと思い質問いたしました

初代皇帝については各王朝の初代皇帝という意味で使いました

回答ありがとうございました

お礼日時:2011/05/29 20:44

陳瞬臣の小説を読んでいた時に、あまりよい行いをしなかったために○帝という名がつけられた、というような記述を目にしました(具体的な名前は忘れてしまいました)





たぶん 煬帝のこと。しかも「ようだい」という変な読み方をすることになっている。

諡はその場その場でご都合で付けるので、別の王朝では微妙にずれる。
※ むかしの王朝で ■■と評価されたやつが ○○ なので、こいつを ○●と名付けようというのりです。

献帝
あたりが教科書に載っているかな。
魏に皇帝を献じたので、後漢の最後の皇帝は献帝。
※ すごいネーミングだ。

幼少の皇帝で 少帝ってのも結構いたように思います。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%91%E5%B8%9D

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E5%B8%9D
内政での治績を挙げた皇帝に贈られることが多い。
なんて説明があるが、一覧を見てわかるのは

周の武王が父親に文王と追号したという歴史上の事件を皆さん踏襲しているということです。
武の人は、だいたい武力で統一したひとなので、実は武帝が初代皇帝というのが多い。
んで、亡くなっている父親に追号するときの前例が 文王=武王 のセットとなります。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました

確かに煬帝がおかしな読み方をするのは悪意をこめてだ、と言う話は聞いたことがありましたが、私の読んだ話では煬帝の事ではなかったと思います
説明の仕方が悪く、よい行いをしなかった、というよりは、あまり冴えない人だった、というようなニュアンスをこめられたおくり名だったと思います
異民族が攻めてきたのに対応できなかったとかそのような

自分の親(でないにしてもそれなりに近い関係)でも手放しに誉める訳ではないのだな、と感心した覚えがあります


献帝はなるほど、という感じです
これで後漢最後の皇帝は忘れないと思います


文帝と言っても、周の文王、武王親子 前漢の文帝、景帝親子くらいしか知らなかったのであまりセットのイメージはなかったのですが
調べてみると確かに結構いますね

それから武帝が初代という発想はありませんでした
イメージも役立ちそうです


Wikipediaに由来まで載っているとは思わず見ていなかったのですが、パソコンが使える環境で見てみようと思います

回答ありがとうございました

お礼日時:2011/05/29 20:59

まず、「高祖」はおくり名(諡号)ではなく廟号です。

唐の高祖の諡号は「紙尭大聖光孝皇帝」です。

それから、質問者さんの抱かれている廟号のイメージは、おおよそそれで合っていると思います。例外もありますが、二十四史に名を連ねる著名な王朝では「太宗」は2代目に多いのは事実です。「武帝」は対外討伐の他に、武断政治を行った天子のイメージがあり、太武帝などがそれに相当するのではないでしょうか。「文帝」は内治に注力し、または文治主義政策の天子に多いという感じは確かにあります。

その他に、中興の祖としては「世祖」(フビライなど)や「聖祖」(清康煕帝)があり、世が治まっている時代の帝では「世宗」(清雍正帝など)、「高宗」(清乾隆帝など)が見られる傾向があります。廟号で当時がどのような世の中であったかは推測ができ、前漢の「明帝」・「景帝」などは比較的安定した時期の帝であることがわかります。「憲宗」(蒙古のモンケ・ハンや唐・明朝など)では、外征か外敵を防いだ天子のイメージがあります。ただ、明の憲宗は蒙古族の侵入を許しており、一概にそうと言い切れない部分があります。これはどの廟号でもそうですが、唐の高宗などその好例とみなせるでしょう。

唐の高宗は病弱ではありましたが、北魏の外戚の力で天子になり、一応高句麗討伐の治績があり(新羅統一によって朝鮮平定はなりませんでしたが)、則天武后の意向も働いてこの廟号になったのではないかと推測されます。大体において、「高」「大」「世」「聖」「武」「文」「明」「憲」など以外の文字が廟号の帝は凡庸なのが多いイメージがあるのは事実でして、唐の中宗もその類であることはまず間違いないでしょう。悪いイメージを意図的に狙ったのが、隋の「煬帝」です。陳舜臣先生が書いておられたのはこの帝のことではないかと思います。

武則天は前述の旧北魏勢力と対立し、これを誅滅して実権を握り、素姓の知れない酷吏による暴政を行ったとされます。しかしそれは人材登用を積極的に行った結果であることも否定できません。これにより、朝廷には旧来の門閥を否定する空気が漂いはじめ、中宗后の内乱もその空気が残る中で行われた感があります(実際、后は武則天の残党と密かに結び、武周革命に倣って中宗を毒殺しております)。それから、中宗が擁立され、またこれを一旦廃したのも武后の都合に他ならず、自身の執政をジャマしない傀儡を敢えて帝に選んだ結果と見ることができます。高宗・中宗と唐室の悲劇が相次いでいるのは、外戚勢力の消長がこれに連動しているとも取れますね。外戚が帝室を揺るがす例は、後漢にもそれを見ることができます。後漢の系譜を見るに傍系の帝が相次いで迭立されているのは、外戚の力が働いた結果と見られます。
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#3です。

誤字がありましたので訂正いたします。

唐高祖の諡号は「神尭大聖大光孝皇帝」です。お恥ずかしい限りです。大変申し訳ございませんでした。
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