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A 回答 (6件)

  人の道さん久しぶりなので福島に行幸していたと思った。


 江戸生まれ東京浅草育ちの余輩は57年前に勤務大学(単なる事務や、研究者ではない。図書館の司書。でも全学の労組書記長でした)の夏休みと年次有給休暇で1.5月も人気にない福島にいたよ。
 哲学における正しさ?その人が自己の哲学をしているという事実の存在だと存じます。
 それでは個々バラバラではないかとおっしゃいますか?
 いえ人が個々的存在と思っているのは、自己や他人が個々に存在していると思っているからです。
 人とは唯一しか存在していない。一人子(ひとりご)。それを風が水面に波を起して、光を散らす。
 そして取り留めなく(理念も価値も、最初も窮極もなく)多数と思っているだけです。
 存在とは一つです。
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日常的定義は、現象表面的に得られた不完全なもので、


それの原理的射影において、何らかの有意な結論を得よう
とするのは文学的創作に過ぎない。
「正しい」は、社会的に問題を起こさない、個人にとって快適、
論理的に整合性がある、その論理が現実に即応している、
といった多様な“都合”の上に立つものです。
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それはプラトンの引っかけ問題なんです。

正しさを追求することでほかの問題が忘却されます。
大道廃れて仁義あり 。大道をさがしてください
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この回答へのお礼

 
今直ぐ、福島へ行く、
福島へ行って、建屋に入り廃材を運ぶ、
少なくとも日当10万はかたいとゆー、
これ、哲学的に考えて正しいとは思わんか。
 

お礼日時:2011/06/18 05:59

それって、カントが言葉の遊びなんてレベルでなくて、非常に生産的な回答を既に出していますよね。

曰く、分析的真偽の判断と、総合的真偽の判断、てな具合に。この分類であたしは自分が物理学の研究をやるに当たって、大変に役に立っている。

んで、カント以降の真偽の判断における哲学の進歩を私は知らないが、単なる言葉の遊びではなくて、カントの分類を越えた生産的な進歩があるんだったら、誰かあたしに教えてくれないかな。
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この回答へのお礼

 
カントの言葉遊び:
分析的真偽の判断、つまり演繹的、三段論法的判断と総合的判断、つまり帰納的、統計学的判断に基づく判断が正しい

正しさについてカントの言葉遊びを超えるものは未だ生まれておらんゆーことか。
 

お礼日時:2011/06/18 05:52

普遍的な人間生命に対する肯定であり、権利である。

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この回答へのお礼

 
それは人間生命の謳歌であり、人間生命の勝利宣言であると受け取ります。
 
あー、人間生命・・・・
 

お礼日時:2011/06/18 05:39

正しさに普遍性はあるのかと言われれば・・・答えはないだろうね。


何故なら何が正しいかは個人によって違う。
哲学が人間を深く考える学問であるなら個人の数だけ正しさがあるといえる。
従って哲学に普遍性をもとめるなら正しさを考えることは意味がないといえる。
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この回答へのお礼

>何が正しいかは個人によって違う。

つまり正しさは相対的なものであり、正しさに普遍性はない。

あー、ブータン的な、あまりにブータン的な正しさの捉え方、

あー、あまりにブータン的なものの考え方、

あー、・・・・
 

お礼日時:2011/06/18 05:32

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