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僕は西洋哲学に欠けているものがあると思っています
哲学用語でなんというかは解かりませんが、それは「おおらかさ」です
言葉を換えると「こころの包容力」とも言えます
あえて2つ質問します

1、あなたの感じる、「おおらかなもの」とは何でしょうか?
森羅万象、もちろん人であっても構いません

2、ものごとの前提として「おおらかさ」があれば、論争も活性化という意味において望むところだと思うのですが、いかがなものでしょうか?

A 回答 (9件)

程度によって、


こだわる(過度)-おおらか(適度)-だらしない(過度)
かな。絶対値じゃなくて相対値。

ギリシャ神話の性はだらしない。
日本人の酒・タバコの習慣も、他人のそれを注意する勇気も文化もない、気にしていたらストレスためるだけ、というのが普通、でもきっと外国から見るとだらしない。
犯罪(嘘つき)の多いイタリアを、ちょっとだらしないと思っている人はたぶん世界中にたくさんいる。
日本の銭湯、外国人にとってはおおらかさの度が過ぎてるらしい。
私に言わせると同姓どうしで裸になるのに何をこだわっているんだか・・。

なぜか、いつも自分はおおらか(適度)で、他人はだらしないか、こだわっているか(過度)、になってしまう。

よくホテルにおいてある仏教の本には「信心は大切だけど、宗教としては仏教に限らず何を信じても良い」ということがはっきり書かれています。おおらかだなあと思いました。
もしかして外国から見ると、初詣とクリスマスの混在はだらしないのでしょうか?
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます

>ホテルにおいてある仏教の本には「信心は大切だけど、宗教としては仏教に限らず何を信じても良い」ということがはっきり書かれています。おおらかだなあと思いました。

グローバリズムって、こういうことのような気がずっとしています
ノーベル平和賞のような教義だなあ

お礼日時:2002/03/23 02:30

西洋哲学を専攻している者として、一言述べたいと思います。


西洋哲学の一般的な特徴―それは長所でも短所でもあります―としては、きわめて論理的であり、予想されうる反論などを全て紹介し、批判していくという傾向が見られます。(だからといって、東洋哲学は全くそうではないというわけではありません。特に論理学などは東洋でも研究がなされてはいましたし)
それが、西洋哲学においては一見すると他者を排除する哲学のように見える原因ではないでしょうか。(もちろん、排他的側面の強い思想もありましたが、別にそれは西洋だけの問題ではないでしょう)
ある「真理」に対してあまりに多くの例外を認めては真理とは言えなくなるからこそ、徹底して「批判」するのだと思います。

しかし、ここで言う「批判」は全てを「否定」するものではありません。
フォイエルバッハやマルクスはヘーゲルの生身の人間存在のない哲学を批判する一方で、その論理学などは継承しました。ヘーゲルは理性や感性、悟性についてはカントに学びつつ、批判し、独自の「精神運動」の現象を発見しました。
例を挙げればキリがないのでこれくらいにしますが、
西洋哲学における「おおらかさ」の欠如が他の論を徹底的に批判するという側面からそう見られるのであれば、それはやや現象論のような気がします。
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この回答へのお礼

専門家の方に真摯にアドバイスいただき光栄です
質問そのものに不備があったため、一笑のもとに付されても止むなしと思っていましたので…

質問の前提の意味をあなた向けに説明させていただきます
自己矛盾と受けとられるかも知れませんが、西洋哲学の持つ素晴らしい側面は、妥協を排し真理を追及する姿勢に感じています
何故ならその姿勢が結果として科学技術に端的に現われ、月に人類を送り原爆まで造り出したと捕らえているからです
西洋哲学の歴史は自然と向きあう過程でとてつもないパワーを生み出してしまったわけです
おそらく東洋のものの考え方ではどちらも不可能なことでしょう
一方で、生み出した産物を如何に扱うか、知恵の学、哲学にはそれらをコントロールし、世界を実践に導いてゆく責任もあると思っています
マルクスの試みは失敗しましたが、実践を目指したその意味で評価されるべきでしょう
その視点で自分なりに今の世界の眺めた時に、「何のための学であるか」西洋哲学はその包括的な問い掛けが必要だと感じたのです
争いにおいて(ここでは戦争までをも念頭においていますが)力を得たものこそ、「おおらかに」他を受け入れる視点を持つべきだと思ったわけです

批判や論争については、その目的を見失わない限りにおいて僕は肯定派です

お礼日時:2002/03/24 04:20

私が言った、哲学上の論争というのは、ソクラテスまでさかのぼらずとも


いろいろある、ということを言いたかったのですが。認識論においても、
存在論においても、西洋哲学の分野で論争はあります。

ソクラテスは「悲劇的な死」というよりも、自ら選んで毒杯をあおいだ、つまり、
法に従い死を選んだ、という意味において、法に殉じたといったほうが、良いでしょう。
また、釈尊の場合は、生をまっとうした、というよりも、常に殺されるかもしれない(あるいは命を常に狙われていた)という状況の中において、生き延びたとったほうが良いでしょう。

質問者の方の言っている「西洋哲学」がかなり狭い意味において、使われている
といった感じを持つのですが、私だけでしょうか?

西洋哲学における論争が、ソクラテスの例をあげるだけで、論争がフェアではない
とか、ということは言えるのでしょうか?

ところで、この質問の意図するところは何なのでしょうか?
そこのところをお教え願えれば、より建設的な発言ができるというかんじがします。

この回答への補足

たびたび恐縮です
前提の誤りを指摘されているように思いますので、あなた向けに問題を絞って質問を作り直してみます
問2のほうはこの際無視していただいて結構です
お断りしたように始めから西洋の哲学論争については想定していませんし、これ以上の主張論評も出来ません、今は認識論も避けたいと思いますのでご了承ください

そこで問いです
例えば、西洋に「空虚」を認識してその存在を主張するニヒリズムという考え方がありますが、こちらでは「空」の認識という仏教的な考え方があります
同じような事柄を原理的に認識するにしても、その後の実践的な生活感・姿勢に両者の間では大きな隔たりが生じてくるようです
片や虚無・排他的な世界観に変わり、片や世界をありのままに受け入れようとする、といった具合にです
この違いを生み出す大きな要因として、西洋哲学者の学問にのぞむ姿勢のなかに、東洋に比べて「おおらかさ」に欠ける部分があることがあげられると思います
このことをあなたはどのように考えますか?

この問いの意図は、実践的な哲学の大切さの確認にあります

補足日時:2002/03/23 00:29
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>日本でカースト制の階級を参考にしたというのは初耳です


そうでしょう、言ったのも初めてです。
奈良時代に口分田など戸籍管理をしようとしたのが仏教導入の1つの理由ではないかと思います。学校では大陸で流行っている絢爛たる仏教美術に魅せられたなどと習ったように記憶していますが。
国教として取り入れていた仏教を廃止したのは明治政府ですね。ちょうど、ヨーロッパの工業社会に憬れて、人材を工場に集める必要があって、転居・職業の自由に踏み切ったので、それまで寺社奉行管轄下にあった戸籍管理を役所をつくってそちらに移したため、仏教の必要性はなくなったわけでしょう。仏教が廃れるとともに差別問題も無くなってきました。そう考えると日本の仏教はおおらかとは言えないかも知れません。教えの内容には良いこと言ってるのだとは思いますが。

明治時代には、キリスト教を取り入れる文化人も多かったのですが、治世に利用できないので国を上げて推進することはなかったのでしょう。
ヨーロッパの哲学は人間しか念頭に無いので契約の公平性をつきつめて自由・平等・博愛という言葉になったのでしょうか。
実際には奴隷制度を持たなかったのは日本だけぐらいですね。士農工商のあと西洋の真似をして貴族を作ったりしましたが、敗戦によってそれも無くなって、今がとても平等な時かも知れません。儒教も否定されて親に孝、君に忠なんてことも世界一ルーズになっていますしね。

仏教と儒教を捨てた日本は古代の神道、初詣や入学祈願などだけが残っていて、これがおおらかなんですね。「古事記」なんて子供には読ませませんね。

哲学は政治と関係ありますね。
これからの哲学というとき、これからの政治を考えないわけにはいきません。
中国ではあの窮屈な儒教を公務向きに、おおらかな老荘を私生活向きに使い分けていた時代が多いようです。
使い分けできるように多様な哲学があるのも便利ですね。というと一神教世界にまた何かいわれそうですが。

日本は自宅も会社の社屋も地鎮祭をしましょう。・・・これを世界に広めたいと思うほどの哲学ではありませんが、日本の自然は大陸とは比べ物にならない親しみや味わいがあるのですね。国土と先人に感謝です。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます

ヒンドゥーを宗教ではなく政治支配の仕組みと言った人がいましたが、宗教と政治は今でも往々にして結びついていますね
宗教は手段としか捕らえない人もいるし、それを解釈する人の立場や都合によって色を変えるので注意が必要でしょう
仏教でも戦国時代のあたりには僧兵などという者がいて結構物騒だったようですし、キリスト教もマリア信仰がなければまだまだ好戦的になっていったかもしれません
話しが宗教や政治のほうにカーブしていってしまいましたが、自然科学の母体となった西洋哲学というのは優れたもので、その自然と向き合う姿勢が今の科学文明を育てていったとも言えるでしょう
優れたものだからこそ「おおらか」に、異質なものとの融合を図る姿勢を持って欲しいと願うのです

お礼日時:2002/03/22 23:06

●わたしは いつでも自然を教師として 考えることをしています。


 「おおらか」という言葉について考察するとき 自然にその言葉を
 見合わせてみますと。「おおらか」という言葉があてはまる事柄が
 思い当たらないんです。たぶん「おおらか」という言葉はとても人間くさい
 言葉なんですね。猥雑・狭小・せこいの反対語ですから「猥雑・狭小・せこい」も
 自然界にはあてはまりません。
●「おおらか」であるよりも 自然体であるべきです。
 釈迦にしてもキリストにしても 自然体ではありえません。
 他者に物言いすること自体既に自然体ではありません。
 かく言うわたしも自然体ではありませんが 釈迦やキリストよりは
 説教じみたことは言いませんから わたしの方がまだ自然体です。
 「おおらか」という言葉を自然に照らしてみると なんとなく
 「おおらか」という言葉が 「まぬけ」に感じるのはわたしだけでしょうか?
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます

「おおらか」という言葉はこの質問の場合、人の営みについての修飾ですから当然人間臭いでしょう
もう少し適当な言葉がないかなとも思いました
「寛容」が近いかな?
「おおらか」を「まぬけ」と感じるのはよくある話です
例を挙げると、ピサロが率いる180名ほどのスペイン兵に征服されてしまったインカ帝国、その国の人々は外部の文明に対して無防備で何度でも騙されていたようです
彼らはバランスを欠いて「おおらか」でありすぎ、言葉を換えると「まぬけ」と映ることでしょう
よく人から間抜けと言われる自分としては、それを戒めとしなくてはなりません
しかし本当に糾弾されるべきは、それを盾にいいように蹂躙した側にあるとは思いませんか
いみじくもその側とは西洋に属する、バランスとして「猥雑・狭小・せこい」人間達でした
ちなみにピサロは征服後すぐに仲間によって殺されています
僕が問題にしたかっのは西洋のそんな側面についてです

自然体、大いに結構だと思います
我ら自然の子、宇宙の子
フラットで平和な考え方だと思います
 

お礼日時:2002/03/22 20:25

>ギリシャ神話の世界はあれは多神教なのでしょうか、


私もよく分かりませんが、あれって大国主尊や天照大神などに似てますね。自然や人間の中に神というか先祖崇拝というかそのようなものを象徴して表現が固定したのではないでしょうか。

日本の宗教観というのは、まず、先祖からの神話があってそれに付随して生活習慣があった。
次に、国の集権化に必要な制度として仏教のカースト制とそれに付随した先祖の祭り方を取り入れた。
それに、政権の安定のために儒教を取り入れて倫理道徳の基準にした。
ということではなかったでしょうか。

一神教ではこの呪術と支配と道徳を一人の神にまとめているので日本人としては分かりにくいです。
特に人によって判断の分かれる善悪といった問題をおおらかであるはずの分野と一緒にして神学として議論するなどは分析力に欠けていると思います。

ところで、
全知全能の神・・・選民意識・・・世界支配
という図式は西洋全般とは言えないようにも感じます。
京都議定書・原子力など地球環境問題になると西洋とはいっても、たとえばドイツとアメリカでは共通しない思想背景を見ることができます。

東洋哲学の特徴は、
混沌から芽を出し、育ち、花咲き、稔り、枯れ、腐って、混沌に返る・・を繰り返すという自然界をそのまま認めていて、絶対的な善悪はないと考えていることではないでしょうか。
善悪は時と所や立場によって変わるべきであってそこがおおらかさと見えるのではないかと思います。

人間が神に選ばれた種族であったとしても、人間以外をすべて抹殺して生きることを快く思わない人は西洋にも東洋にも多いと思います。人間以外の動植物を利用共存することは否定しません。
同じ人間でも利用する人と利用される人があって、利用されて生き延びることにあまり不満を述べないのがおおらかさといえるかも知れません。奢れる者は久しからず、などと高い視点を以って見ていることがあるのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

舌足らずの質問に丁寧に答えていただき感謝いたします

ギリシャ神話の世界って確かに八百万の神の世界に共通する部分が多いようです
余談ですが、ギリシャ神話の世界は性に関する考え方がおおらか過ぎて付いてゆけないところもあります
神話や宗教を元に為政者が国の骨格を作るときに、日本でカースト制の階級を参考にしたというのは初耳ですがあり得ることかと思います(カースト制はヒンドゥー教の制度と認識していますが、仏教はヒンドゥー教の輪廻の世界からの解脱を目指したはずなのに、曼荼羅にその影響が色濃く残っていますから)

後半の、「近年西洋全般という見方では思想背景がくくれない」と言う点については同感です
国や地域のレベルでみた時に、EU実現後からヨーロッパとアメリカとの政策面での相違は顕著になっていると思います
EUの方が経済に優先する大切な物事をわきまえていると考えられます
環境問題然り、食糧問題然りです
EUの設立目的が経済基盤の強化にあるにせよ、小異を捨てて大同についたという選択の持つ共存共栄的な実積の重みは大きいのでしょう
自然界(世界)をありのままに見つめてそこから物を考えようという、発想自体がおおらかな東洋に対して、西洋には分析的に物事を考えた結果辿り着いたおおらかな理念としての、自由・平等・博愛があるなら、今はヨーロッパ自体にその実践が浸透しつつあるということでしょうか
そうあって欲しいと思います
哲学は今後の世界にどう拘わってゆくのでしょう

お礼日時:2002/03/21 17:51

「植民地主義」とは哲学なのでしょうか?


「脱植民地主義」ならば近年の哲学の所産だと思いますが。
「植民地主義」と呼ばれるような流れがあったのでしょうか?
また、植民地主義は西洋哲学のどの部分から産まれたものと思われますか?

確固たる信念がなければ、論争は起こり得ないし、論争としての意味をなさない
のではないでしょうか?私も質問者の方と同様に、論争から独善や誤解が解ける
と思います。西洋の哲学においても、そのような論争は行われていると思います
がいかがなものでしょうか?
単なる知識や認識論だけではない部分も多いと思いますが。そのところどうでしょう?
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この回答へのお礼

深夜にもかかわらず、回答ありがとうございました

>「植民地主義」とは哲学なのでしょうか?

「植民地主義」はいわゆる哲学の概念からは外れるでしょう
この場合は「非暴力主義」に基本的な人間のありようとしての哲学が含まれていると感じられるので、その対比として用いました
そして対比したときには今まで見えてこなかった、第二次世界大戦以前の西洋列強諸国が持っていたであろう、底に流れる世界観や基本的な人間のありようとしての哲学が浮かび上がると思います
「植民地主義」は狭小で利己的な西洋の優越感から生まれたと思います
それは日本がかつてそうであったように、一神教的な独善的思想が背景にうかがわれます
ただ歴史的には同様な略奪が洋の東西を問わずに繰り返されていますから、必ずしもそれが西洋哲学の特性であるとは言えません
あくまでもその時代の事象のなかで見えてくるものを、対比したときに言えることです

>確固たる信念がなければ、論争は起こり得ないし、論争としての意味をなさない
のではないでしょうか?

もちろん信念の必要性は否定するものではありません
ある意味ではフェアな論争がその成長を促すとも言えるでしょう
そのこと自体ががこの問い掛けのテーマそのものです

>西洋の哲学においても、そのような論争は行われていると思いますがいかがなものでしょうか?

この質問は正直に言って想定していませんでした
この goo の哲学カテゴリーの中の論争を想定していたためです
言われてみて考えてみました
古くはそのようなことを意図としてソクラテスが実践したと思いますが、彼は恨みを買って悲劇的な死を遂げています
これは全体としてみた時にフェアな論争だったと言えるでのしょうか?
一方ブッダは同じような試みを経たのちに生を全うしています
このことは哲学を身をもって実践したように思えます
あなたは他の事例を挙げられますか?宜しければお教えください

>単なる知識や認識論だけではない部分も多いと思いますが。そのところどうでしょう?

言い過ぎの部分があればお許しください
この語句は、個に走りがちな哲学に対して論争の必要性を強調するために使いました
実際のところパラダイムが崩れるような知識や認識は、この goo の中に多々あります

お礼日時:2002/03/21 04:00

西洋哲学において、「おおらかさ」がないというのは、具体的にどういうことでしょう?


2の答えとしては、おおらかさがあれば、論争が活性化するというのはちょっと
違うような気がします。それぞれ信念があるから論争が出きると思いますが。

そして、No1の方の「おおらかさ」というのに、ガンジーの「無抵抗主義」
をあげられていますが、ガンジーの「non-violence」は「非暴力主義」であり、
徹底して、暴力に「抵抗する」という思想・行動です。無抵抗であるということ
では決してありません。「おおらか」であるということではありません。

この回答への補足

>西洋哲学において、「おおらかさ」がないというのは、具体的にどういうことでしょう?
「non-violence、非暴力主義」は「武力、懐柔による植民地主義」と比べて、よりおおらかです。行動の規範としての哲学の質が違うと思います

2.の質問の真意は下にも述べましたが、論争があって初めて問題の解に対して双方向性が生まれ、深まりが増して活性化し独善や誤解が解ける面があるのでは?という意味での疑問です
哲学にはそのような面も必要なのではないでしょうか?
単なる知識や認識論では少々空しいと思うのです
論争の効用に目を向けるために、その前提として例えば「おおらかさ」というものが必要ではないかということです
わかりづらくてすみませんでした

補足日時:2002/03/21 00:51
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ほんとうに、東洋はおおらかですね。


1.日本の多神崇拝、中国の老荘、仏教の輪廻転生・・
2.何をお答えしたらいいのか意味がわからないのですが、・・
ガンジーの無抵抗主義。外国と戦争して勝ったことのない中国は勝つ気もないのではないか(という説がある)。日本の長いものには巻かれよ、人間万事塞翁が馬・・など。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます
一神教、多神教の違いに代表される西洋、東洋の宗教観の違い、が哲学の分野にも観念として入り込んでいるのでしょうか
ギリシャ神話の世界はあれは多神教なのでしょうか、よくわかりませんが…
2、の質問について捕捉させていただきます
分かりにくい設問で住みませんでした
教えて!goo では哲学の質問をする時に、
<注意>
「哲学は、ひとつの答えに結びつくことの難しいテーマです。質問者と回答者、回答者同士で の論争にならないようお願いいたします。回答される際は、他の方への意見を載せるのでは なく、質問者への回答やアドバイスをご投稿ください。」
以上のように論争は避けるよう警告を受けるので、問題の論議による深まりといったものが制限されてしまうのではないかと考えたために疑問として提出しました
臭い物にふたをする姿勢よりも、「何が臭いか 何故臭くなるのか」を哲学だからこそ考えても良いのではないかと、問題提起のつもりで質問した次第です

お礼日時:2002/03/21 00:50

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