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今度の文化祭でディベートを行うことになりました。
議題は「科学技術は必要である」で私たちは、否定側で「科学は不必要」と主張せねばなりません。
しかし、私には科学技術は必要ではないと言える根拠が全く思い浮かびません。

なので視点を少し変えて、「科学によって人々が不幸、幸福になったこと」を挙げていき、結果的に「人々は幸福よりも不幸になった」ので「科学は不必要」と展開していきたいのです。

科学によって不幸になったこと、どんなことああるでしょうか。いくつか意見を頂きたく思います。
私としては、命の重みが軽くなったこと(代理出産・クローン技術)、公害問題などしか思い浮かびませんでした。

意見・感想もお待ちしています。

A 回答 (13件中1~10件)

なかなか思い切った、というか良いテーマだと思います。


例えば、悪いことというと夏場のエアコンです。
夏暑いからといって、エアコンをつけると、室外機から熱風が出て、屋外の気温はさらに暑くなって、夜中でも気温が下がりません。エアコンがない頃の方が過ごしやすかったのではないか(統計的なものはご自分で調べてください)
それから戦争も挙げられます。
昔の戦争なら、槍や弓矢、刀程度の武器で、戦場で戦ったものですが、今は飛行機から爆弾やミサイルを発射したり、戦艦から砲弾やミサイル、さらには大陸間弾道弾のように遠隔地からどこでも狙えるようになり、普通に生活している場でさえ戦場の危険な場所になってしまいます。
戦うのは成人男性くらいだったはずですが、女性や子どもも危険にさらされるわけです。
他にも探せばいくらでもあるはずです。本気で科学技術を否定するという気持ちで、何でも見ることです。
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 No.10です。

私の書いた文章を読みなおしてみて、理解しずらいかなと思いましたので、例を上げて、論旨が分かり易くすることにしました。

・私の論旨は、ディベートという「論理」を極めて重要なベースとした、一種の頭脳競技において、論理学上矛盾・破綻をきたすようなテーマの選定は、ディベート自体の成立を危うくするということです。
 
 自己言及によるパラドックス:論理学上、重要な理論。

<典型例>
 ディベートにおいて
「ディベートをすることは、意味がある。」
「ディベートをすることには、意味がない。」 
というテーマを与えられた場合、

『意味がある』という立場で論ずるチームには、論理的問題は生じませんが、『意味がない』という立場のチームには、論理学上の根本的矛盾が生じてしまいます。

「意味がないというチーム」がディベートという競技を始めた時点で、を『意味がないと認識しているのに』何故、意味がないディベートという行為をやっているのかと質問されればどう答えればいいのでしょうか。
 「単なる時間つぶし・言葉の羅列を楽しんでいる」などとしか言えません。
 少しでもそこに、「意味のあること」を述べれば負けになります。


<質問に戻って>

「科学技術は必要である」で私たちは、否定側で「科学は不必要」と主張せねばなりません。

 他の方も指摘されていますが、科学技術≠科学です。

 もし、本当に「科学は不必要」という立場で主張しなければならないとすると、科学の一分野である「論理学」は不要であり、その論理学を基盤に論理展開を行うディベートで、論理なしにディベートを行わなければなりません。これは、「ディベート」という競技の基本設定に対する規制ですから、いわゆる『自己言及のパラドックス』に落ち込みます。

 また、「科学技術は不必要」と主張するのが正しいテーマであったとしても、ディベートの基礎とも言える論理学は認める必要がありますから、『科学』そのものは肯定しなければなりません。
 更に、人間が火や道具の使用という技術によって暮らしを成立させているのは厳然たる事実で、『技術』の否定は人間であることの否定、つまり「ディベート」を行っている人と言うものの存在の否定になりますから、これも肯定しなければなりません。
 
 ですから、ディベートとして「科学技術は不必要という」主張をするには、科学も肯定し、技術も肯定しながら、この両者をつなげることを否定しなければなりません。
 つまり、経験による『技術』だけを認めつつ、科学を肯定しながら、それを技術化することを否定しなければなりません。

 これは、学校で学び科学を身につけ、知って居ながら、それを技術として利用してはいけないという、「現在の人間社会の全否定」の形となります。

 この立場で、論理展開することの困難さは、誰でもわかるでしょう。
 

 質問者さんも、当然このようなことは理解できており、
<<なので視点を少し変えて、「科学によって人々が不幸、幸福になったこと」を挙げていき、結果的に「人々は幸福よりも不幸になった」ので「科学は不必要」と展開していきたいのです。>>
 という見方を取っておられますが

 この状態は、あまり「ディベート」としてふさわしい状況とは言えず、この方針を取ったとしても、否定側がスタート時点で既に不利です。

1、主催者側のテーマ設定の不備の解消を、否定側が一方的に押し付けられる形となる。

 本来、主催者側がテーマ設定として「科学によって人々が幸福になった」「科学によって不幸になった」と元々限定して、より公平性を期するべきところである。
 その公平性を、主催者が無視したことによる問題解決に対して、否定側が、与えられたテーマよりも公平であると考えられる、新たなテーマに誘導しなければならない。
 その問題解決のための誘導責任・リスクは、否定側が一方的に負うこととなる。

2、主催者がテーマ設定を変えない限り、肯定側は常に「否定側がテーマを狭く限定して、不幸・幸福という枠で議論を限定しようとしている。テーマはもっと大きい。」として、不幸・幸福論争を回避できる。
 ⇒ 人間の好奇心を満足させる「宇宙の始まり」「微粒子の世界の探求」「考古学」などにテーマを変えることができる。


 ですから、事前に主催者と協議して、テーマの大きさをもう少し絞り込むのが一番穏当な解決かと思います。

 もし、私が質問者さんの立場で居た場合、個人的には、No.10で書いたように、主催者もろとも、肯定側を論理的に追い込む誘惑に駆られますが。
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>>今度の文化祭でディベートを行うことになりました。


議題は「科学技術は必要である」で私たちは、否定側で「科学は不必要」と主張せねばなりません。
しかし、私には科学技術は必要ではないと言える根拠が全く思い浮かびません。

あなたの質問では、肯定側は「科学技術は必要である」になっていて、否定側は「科学は不必要」になっています。

ちなみに「科学」と「科学技術」とは違う概念です。もう一度、その点を確認してください。

それから否定側が「科学技術は不必要」だとしたら、やはり戦争、自然破壊などの事実を調べてしてみたらいいと思います。

現在、南米アマゾンでは開発により、毎年、およそ東京都の12倍の面積の森が消失しています。
この原因は我々人間が科学技術を手にしてしまったからです。
もし、人間が科学技術を手にしておらず、木を斧で一本、一本、切っていてたのなら、このようなものすごいスピードで森林が消滅していくことなどないはずです。

上の事に対して、肯定側は、「科学技術で森林を再生できる」などと反論してきますから、あなたはその再反論を考えてください。

ぜひもう一度、言葉の定義を確認する作業から初めてください。
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代理出産は子供を欲しいガ出来ない親にとっての救いであり、命が軽くなったとは言えないと思いますが如何でしょう。

クローンにしても、同様に、命を軽くするものではないでしょう。公害問題は確かに、現実として有りますが、その都度対策を講じています。科学の進歩は光と影があるのは事実ですが、人間が火を使い他の動物と差別化できた以降、間違いなくプラスでしょう。要はその使い方次第と言えるのでは無いでしょうか。新幹線が早くなって、昔ながらののんびりした旅が無くなったといっても、普通列車のんびり旅行は出来ますし、車をおいて、歩く事も出来る。そういう意味で、科学は不必要と言うのは、無理が有るのではないでしょうか。
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<参考>


 No.7の方の見解に同意します。

 ディベートのテーマ設定として欠陥があるように思います。

「科学」とは、「物事に論理を立てて考え、理論付けること」です。
 ですから、「ディベート」という論理を立て理論づけをするということ自体が、「科学する」行為であるわけです。

 ディベートを行うことをする、つまり「ディベートを肯定する」以上、科学を否定することはできません。

 次に「技術」ですが、人間が道具を作り、火を使うという他の動物にはほとんど見られない行為にまで遡ることができます。
 つまり、動物である人が人間であることの根源にかかわります。

 従って、「科学と技術」を否定すれば、人間がディベートをすること自体を否定することになります。


<蛇足ですが>
・もしこのテーマの中でしか戦えないのなら
 私なら・・・

 まず最初に、相手が「肯定論」を述べ、ディベートを始めるのを待った上で、「ディベート」という行為を始めたこと自体を問題視して、『ディベート』の本質を理解していないと追求します。

 このテーマでディベートをすると、「ディベート自体の定義に対して、根源的矛盾に陥る」と言う展開を行い、相手側が、ディベートを肯定論を始めたという時点で、間違えていると断言します。
 人間が論理的に考える以上、ディベートにするには不適切なテーマであり、ディベートとして「肯定・否定」をすること自体が矛盾であると説き、自分はそれを理解しているから、このテーマに対して、ディベートの中で論じることは出来ないと言う線は、一歩も譲りません。

 つまり、主催者のテーマ設定に異議を唱える戦いとなりますが、勝算ありと見ます。
 ディベート自体は、論理と弁論能力の競技ですから、主催者の出題が論理ミスを起こしているというテーマで論理展開しても、主催者側は競技の続行・成立を認める可能性があります。

 尚、主催者のテーマ設定ミスをベースにした論理展開になりますから、審判員の顔色を見ながらの心理戦の要素が強くなります。
 論調としては、積極的な感情表現を押さえて、困惑をベースに説得をする形になるかと思います。

 また、この論を展開すると、ついうっかり途中で、人間が社会生活をする以上「科学技術」は必要ですが、このテーマでのディベートは不適当です。と言ってしまいかねない落とし穴もあります。
 『人間が社会生活をする以上「科学技術」は必要ですが』という言葉を口にすれば、その時点で、ディベートとしては負けです。肯定論・否定論には一切立ち入らないという姿勢を貫き、矛盾だけをテーマにする必要があります。

 現実問題として、明らかな主催者の論理矛盾を突くのですから、少しの用語選択ミスも命取りになるかもしれません。
 また、主催者側がこちらの「負け」を宣言しても、論理矛盾した出題ミスを行った主催者には「勝敗決定権限がない」という主張を行う奥の手があるかもしれません。


 本来のディベートよりも高度で、場の空気も読まなければならない大変な作業で、個人の技量が試されますが、圧勝の可能性もあります。
 ただ、お勧めはしません。もしこの方針で行うなら自己責任でどうぞ。 
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No.7です。



良い方法ではない、と言うよりも非難されるべき方法ですが、ディベートをただ「相手を言い負かすだけの論戦」と考えるのならば、ひたすら相手の意見を否定することです。
つまり「あなたの意見は間違っている。だから、私の意見が正しい」と言うものです。

テレビに出演している、コメンテーターなどの有識者は、これができないと仕事になりません。
もう、高校生ならばそんな大人の小ずるい真似をするのも、いいと思います。
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解りやすい例ですと、アスベストやフロンなんかは20世紀最高の発明と評されましたが、それ故に大量に


生産されたため世界規模の問題になってしまったと言えるのではないでしょうか。今なら原発もそうなるでしょう。まぁ科学はそうした多くの失敗と共に発展していくものですから詮無いことなのですが・・・
津波の跡地を草が覆っていく映像を見ていますと、人間が少ない事が地球に優しいのだろうなぁとつくづく感じてしまいますが。。。
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>議題は「科学技術は必要である」で私たちは、否定側で「科学は不必要」と主張せねばなりません



正直、これがディベートの材料になること自体、良く理解できません。

人間は、科学技術に限らず、日々より良くなるように改善をしながら、社会が進化しています。
そして、科学技術もそれを実現するための1つの手段でしかありません。

何事もそうですが、最初から完璧なものなど何もなく、たとえば法律にしても、不備や時代にそぐわないものがあれば、改善しながらより多くの人の利益となるように改善されます。
それが、民主主義というものです。
すべての人を満たすことはできなくとも、より多くの人の利益となるようにするものです。

科学技術で言えば、特徴的なものは「DNA鑑定」でしょう。
これも、最初は信頼性がそれほど高くなかったですが、次第に信頼性も高く、そして微量であっても正確な鑑定ができるようになりました。

このことにより、科学的かつ客観的な判決ができるようになり、多くのえん罪を防ぐことができるようになりました。
もちろん、こんなのも運用次第なので「DNA鑑定」をどうするかなどは、各国の事情にもよるでしょう。

そして、このような進歩で忘れてはいけないのが、「選択肢が増えた」と言うことです。
多くの日本人は、このことをすぐに忘れて、すぐに批判しようとします。
つまり、「DNA鑑定」もそれが多くの人の利益につながらないのであれば「利用しない」という選択肢を選べばいいだけなのです。

しかし、日本人は「批判することを目的」にするため、たとえば電子メールにしても、手紙やはがきがなくなった訳でもないのに、やみくもに電子メールを批判する人が多くいます。
そんなことは、批判するようなものでなく、利用しないという選択肢をとればいいだけです。

日本人は新しいものが出るたびに「今度はこれを使わないといけない」と義務感にとらわれるため、ただ単に選択の余地がないのです。
科学技術に対し否定的なことを述べられている方は、このような心理と混同してしまっているのでしょう。

戦争にしても、科学技術によりピンポイントで狙えるようになったため、民間人を巻き添えにする確率はかなり低くなりました。(0ではありませんが)
もちろん、自国の兵隊が亡くなる確率も低くなりました。

未だに「戦争に負けて、生きて帰ったくるな!」と言いそうな国は、いくら科学が進歩しても、どうしようもないですけどね。
つまり、数ある選択肢の中から「死ぬことを目的」として選択しているのですからね。

結局、利用者の民度の問題に尽きます。
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人間の科学技術はこれまで必要でした。

だからこそ猛烈な勢いで発達を遂げてきました。
しかしそろそろ科学技術そのものが人間の手に負えない領域に入ってきた可能性がありますね。

たとえば原発。一旦事故が起こると手に負えません。とんでもない悪魔を生み出してしまった感があります。
飛行機。鉄の塊が空を飛ぶ。当然何かあれば落ちて乗客はほとんど死にます。
地球環境。地球がこれ以上の開発に耐えられなくなりつつあります。
人間の身体。栄養が良すぎたり食料が豊富すぎて、却って生命力を失いつつある。糖尿病になったり、肥満になったり。

要するに行き過ぎはダメってことです。
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人間らしさが退化した。


利便さが人間の心までデジタライズしようとしている。とくにコミュニケーション能力などは退化が著しいんじゃないかなぁ。ここまで心が発達しているのは人間だけなのに。人間が人間らしさを失うのは不幸なことなんじゃないかな?
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