授業時間中の生徒は、自分の椅子に体をくくりつけて、教壇の教師の語る言葉を聞き、その要求にこたえ、もとめられている振る舞いをすることによって、教師の満足を得なければ、いい生徒になれない。ここでは、知識は自由をもたらさない。

このような事を誰も疑わず、意味のあることと思っていた時期がありました。将来の為、今がんばれば、きっと役にたつ。みんなが、そう信じていれば「学校の継続」は可能だと思います。授業の邪魔するやつは、病気あつかいして排除すればいいだけです。

ところが、学校は、将来の為、今がんばれば、きっと役にたつ。ということが、うすうす違うんじゃないか、うそっぱちじゃないかと、きずいてるかもしれません。モチベーション、0という状態で
「学校の継続」が可能なのかそれがしりたいです。学校神話が壊れた後で、再び「知識のない者は、どのような辛い壁をよじ登らねばならぬのでしょうか?」と学校の必要性の神話を築けるのか。もう学校という大きな物語りは、終わったのかもしれません。

このQ&Aに関連する最新のQ&A

A 回答 (10件)

 「お礼」ありがとう。

続きが遅れてごめんなさいね。

 構造主義を絡めた話について。
 知識は「体系的」な方がわかりやすいし、身に付きやすいね。バラバラに物事を羅列されるよりも。たしかにそういう点では、今のカリキュラムには改善すべきところがたくさんあると思う。やはり「ゆとり」と称して大事な骨をカリキュラムから抜きまくっているから。小学校や中学校の歴史の教科書なんか退屈この上ない。個々の知識を支える「網の目」が書かれてない。こういうものを使って教室で授業を進めても、それは、生徒たちの頭の中に水の泡のように浮かぶ「なぜ」を、生徒が自覚する間も与えずに置き去りにしてしまうだけではないかな。

 それと…。下の方の「お礼」を見ると、なんと、本田和子さん読んでるんだ。だったら話は早い。実はこの線で書いてみようかと思ってました。
 要するに近代における「子どもの発見」というのは、「幼さを愛そうとする力と幼さを排除しようとする力が同時に働くもの」というカテゴリーの析出だった。大人たちはそうした虚構の像を介してしか、子どもを見ることができなくなっているという話。「近代家族」と並んで「近代教育」および「学校」が、そうした「子ども」を囲い込む制度になっている。だが、そうした教育は、すでに「虚像でしかない子ども」に向けられたものであって、真に子どもに必要なものを与えているかどうかには議論の余地がある。
 似たような図式になっている例としては「児童文学」が挙げられる。特に「読書感想文コンクール」の課題図書に指定される傾向のものだ。そういう作品のテーマは、よく指摘されることだけど、実にみっともない程「時代」を反映している。「戦争反対」だったり「公害批判」だったり、世間でイジメが問題になればそれがテーマになるし、離婚が増えればそれがまたテーマとして取り上げられる。子ども自身が読みたいものではなくて、「その時代その時代の大人が子どもに読ませたいもの、考えてほしいもの」なんだ。ふつうなら読みたくもない本は売れないはず。ところが、この手の本は読書感想文の課題図書に指定されるから必ず一定の売上を確保することになり、結果、「児童文学者」たちは「大人のコンプレックスを持ち込むだけの作風」を反省することすらしなくなる…。

 「子どもらしさ」という属性は、本当は子ども自身に帰されるものではないのかもしれない。大人がそう見たいと思うものが「子どもらしさ」であって、それは実は本当の子どもらしさを覆い隠すように上から貼り付けられたレッテルなのかもしれない。
 すると…、きみの言うとおり、「義務教育は必要というだけで現代教育を肯定するのは」問題ありだったね。教育なるものが社会の要請に基づいて「先発世代の後発世代に対する教化」という性格を持つことはどうしても避けられないにしても、「虚像ではない真の姿での子ども」自身が求めるものと、何とかして折り合わせていく方策は考えなきゃいけないと思う。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

返事書いてくれてありがとう。すごい内容です。今は感想しか書けないけど、きちんとした返事をかきます。子どもという存在にリアルにふれようとしたとき、真実が立ち上がるような気がします。真実とは、存在するものを背おい引き受けることではなく、生きてるものを、解放し、その重荷をとりのけてやることだと思います。本当に考えることは、必然的に、解放し、重荷を取りのける、ポップ哲学になると思います。教育とは何かと、考えた時、リアルまでたどり着けば、きっとポップな答えが出る気がします。ポップな答えありがとう。

お礼日時:2001/05/13 00:13

> 授業時間中の生徒は、自分の椅子に体をくくりつけて、


> 教壇の教師の語る言葉を聞き、その要求にこたえ、もと
> められている振る舞いをすることによって、教師の満足
> を得なければ、いい生徒になれない。ここでは、知識は
> 自由をもたらさない。

学校が、本当に知識の伝授を主目的とするならば、
おっしゃるような現象が見られるということは、
方法論として、目的に適っているとは言い難いと言えます。
しかし、学校は、ある「美徳」を教えようとします。
我慢強く、文句を言わず、克己して、言われたことに
勤勉に勤しむことをもって「よし」とします。
現状から考えると、学校の(隠れた)主目的は、
むしろこちらの側にあるようなものです。
つまり、
(「使えない」と言われる英語が、典型的に示しているように)
学校というものは、知識の伝授よりも、
むしろ、そういう「よい」人材を育てることを
事実上の目的としているかのように機能している、
というわけです。

この「よい」性質というのは、学校だけでなく、一般社会でも
「美点」として判断される場合があります
(これが、学歴社会を支えてきた、道徳感でもあるでしょう)。
ということは、一般社会も「学校的な」教育を
(一部)承認している、ということになります。
特に産業界は、この種の「美点」を評価するでしょう。
それが、産業の拡大を支えそうな人材を生むからです。

産業の拡大は、国の命題の1つとして(特に日本では強く)
あるわけですが、この学校的な「道徳」は、この目的に
非常に都合がいい。というより、歴史的には、この目的のために、
教育が「学校的」になり、社会が「学校的」になったのだ、
と言えるでしょう。

しかし、時代が下って、産業の拡大は必ずしも幸福に
結びつかなくなってきました。
そういう「産業神話」の崩壊が、学校的「道徳」の
崩壊につながり、「学校神話が壊れた」という現状に
なっていると考えられます。

この「神話の崩壊」後に、教育が可能なのかどうか?
もちろん、「学校的」な要素を切り離してしまえば、
とくに問題はない、ということになりますが、
しかし、問題はそんなに簡単なはずもないようです。

たとえば、ある保守的な勢力は、この神話崩壊の時流を
食い止めようとしているようです。
考えてみれば、この時流は、産業拡大を
放棄するようなものですから、
行く先を考えると、神話後の不安は、正直な話、
ないとは言えないですよね。

そうなると、壊れた神話を捨てられない、という状態に
なってしまいます。
そういう状態であることを踏まえて、「教育は可能なのか?」
となると、これは、なかなかに難しい問題です。

解決するには、
神話を捨てても安定して歩めるような、
確固たる道を見つけることが先決、
というような状態になってしまっている感じです。

要するに、行き詰まっている、ということです。
    • good
    • 0

 ちょっと仕切り直し。

下にあちきが書いたやつ、イマイチ問題の所在をまちがった感じ。学校という神話の崩壊と学級崩壊を結び付けているんだね。学級崩壊という現象の背後に、教育を受けることに対する子どもたちの信頼の崩壊みたいなものがあって、子どもたちが本能的にそういうものを感じている…という感じ?
 そういうことだと考えて仕切り直しするね。

 まずちょっと困難なこととして、子どもたちの心の中に、本当にそういうものがあるかどうかの検証が難しいってのがあると思う。そういう思いを自分の言葉で語れる子どもがどれほどいるか。となると手法は、子どもたちの言動(教室での行動、態度、作文や絵画まで広く捉えて)をたくさん集めて検証して、分析していくやり方になってくる。ちょいとやっかい。
 やっかいだけど、がんばって仮に「そういうものがある」と確認されたとして、それをどう評価するか。
 たまたま現在の日本が不況で、終身雇用制度が崩壊して、「いい教育→いい職場→しあわせ」というレールへの素朴な信頼が揺らいでいるからという理由に過ぎないかもしれない。「学校という神話の崩壊」と呼べるほどのものではなくて。
 なんというか、学校神話の崩壊が現に起こっていて、それが近現代という時代の価値観が再編成されていく胎動のようなものを感じることができれば面白いんだけど。どう思う?

 けれど、それとは別のこととして、教室で前の黒板の方に向けてすべての机が配置され、そこにお行儀よく生徒たちが座って、教師を注視する(と同時に、生徒たちは教師の視線を常に感じつづける…パノプチコン効果)という学校の図式は、ぼちぼち怪しくなっていると思う。そういうマスプロ方式の教育が生徒の間に理解度格差を生み、落ちこぼれを生み、それが「競争の過剰」という誤認を呼び、「ゆとりの教育」というミスリードを導き、「心の教育」という生徒の内面への介入を正当化する。教育専門家からすれば異論もあるだろうけれど、これがここ十年くらいの日本の教育の流れじゃないかと感じている。
 特に最後の「心の教育」ってのに、僕は胡散臭いものを感じている。学校なんてのは学力だけ鍛えりゃいいんだ。子どもたちの内面とか精神とか心とか、そういうものこそ「勝手に育つ」部分だと思う。子ども同士、少し年齢がずれた子ども同士、教師や家族といった大人との関係、そういう場があれば勝手に育つ。学校が、まして文部省が介入すべきことじゃない。
 神戸の14歳、佐賀バスジャックの17歳…これは暴論かもしれないけど、彼らの事件は公権力が「こころ」に介入し始め、内面にすらパノプチコンの「視線」を感じずにいられなくなった少年たちが起こしたものなんじゃないかと疑ってる。もしかしたら、心を育てようとする教育が、心を壊しているんじゃないかと。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

1わかるのに10かかるというのが、構造主義が導いた豊かなこたえだと思います。構造主義とは、赤わかるのに、赤がわかればいいのではなく、その色が赤だと認識するのに赤を知ればいいんじゃなくて、黒、白、黄、緑を知って、やっと赤がわかる。1わかるのに10かかる。しかし、現代の教育は、その1しか教えない。というのがカリキュラム教育の眼界なのではないでしょうか。入門ー応用とそのジャンルを縦に進んでわかった気になってるだけで、わかったようなとわかるは、大きな差異があり、現代の教育は、確信を欠いた認識を生産してるんじゃないか。と思います。
ほんとに、物事を理解するとは、横断が必要だし、「教えるー教えられる」というパノプチコンの関係からは横断的思考は、遠いんじゃないかと思います。1わからせるために1しか教えない。その1を理解したかを確かめるために、閉じた内部でテストをして、並べかえる。英単語を日本語訳と対でおぼえて何になるの?文学史の作家の名前だけ憶えてどうするの?人間は、動物に比べてちょう未熟児で生まれるから義務教育は必要というだけで、現代教育を肯定するのは、ちょっと

お礼日時:2001/05/09 00:51

 おひさでした。



 えーと、学級崩壊という現象自体の原因は、子どもの問題、親の育て方、教師の能力不足とか、多元的な要因がありそう。文部科学省の悪平等主義や「ゆとり」路線も気に入らんし。

 で、事柄を大まかに「教育」というところで見ると…やっぱ必要性は否定できないと思う。というのは、人間は「早産して」産まれてくるものだから。これは比喩じゃない。霊長類の中でも特に巨大な脳味噌を持つようになった人間は、脳が未発達な段階で分娩せざるをえなくなってるから、出産後も「社会という第二の子宮」の中で育てられなければならない。その過程を経ないと、生き物としての人間は「人間」になることすらできない。
 だから教育は不可欠。ただ問題なのは、教育とは「オトナが子どもにするもの」であるということだろう。既成の社会が、と言い換えてもいい。そうなるとどうしても、教育は「既成社会の価値観に基づく未来世代の教化・洗脳・マインドコントロール」という性格を免れることはできない(免れようとすれば、それはそれで「偽善」になると思う)。
 教育は本質的に「保守的」なんだ。必要ではあるが、しかし反面、新しい発想を摘み取る危険性をも常に孕んでいる。
 けれど、子どもは勝手に育つ。そこは見落としちゃいけないと思う。先行世代が育ってほしいと願う方向には必ずしも育ってくれない。それがじーさんばーさんの眉を顰めさせる方向になることも、もちろんある。でも新しい何かを創る方向になることもある。文部省の愚民教育に負けないやつだって出てくる。子どものそういう力は信じていいと思う。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

むかし、岸田秀で「ものぐさ精神分析」という本で、人間は未熟児で生まれてきて、本能が壊れていて、動物のように本能をよりどころにして、生きることはできず、文化という共同幻想が必要なのは、理解できますが、現代の学校教育とそのことは

すいません、寝ます。

お礼日時:2001/05/05 01:34

 神話は終わりません。

学校というシステムは文化が求める機能ですから名前は変
わっても、なくなりません。人類が滅びれば必要ありませんが、人類は神話を作っ
て生きているのです。
 ですから、私は同じ神話なら「機能主義に徹するべし」と言っているのです。
 現実に、いじめられて死んでいこうとしているたった一人の子どもには神話はい
らないのです。現実の悪にまみれた「警察のようにごつい体育系の教師のゲンコ
ツ」が機能的な場面もあるのです。
 あなたが考える「教師」=悪、「子ども」=善、という原則論は間違っていま
す。100人の教師がいたら、そのほとんどは善人たらんとしています。しかし、
今時の「子ども」は「きたない奴はきたない」と平然と見捨てる子が100人のう
ち10人以上います。黙って見過ごす子が50人以上います。
 そのことの対処法をしっかり語ることが常に先決問題です。
 それから、学校の教育は、あなたの語るように「無意味」です。しかし、それを
知る人は、その「無意味」のつらさをしっかり把握しています。それが、知識への
第1歩ではないでしょうか?そして、それが教育の効用です。
    • good
    • 0

歴史を振り返ってみてください。

私が生まれる前の時代は、お金のあるものが好む好まざるにかかわらず、親の意向で学問を学んだ。それとは、別にお金もなく貧しいものであっても純粋に学問を愛し学問を学びたい者は苦学して自分が欲するものを学ぶべく書物をよみあさり学を深めた。それさえ、できない者もいたであろうし、学問の尊さを知らずに日々、あくせく働く者もいた。

貧富の差があからさまだった。人を差別してきたのもこれまた人であるったことも事実である。一口に『差別』と、捉えてしまうとそれを批判するかのように『平等』という言葉が、どこからともなく飛び出してくる。この一見、不平等とも見受けられるかもしれないが、批判ばかりを論じても何も生まれない。この不平等があったおかげで、教育を受けたい、学問を学びたいという気持ちを強く抱かせたのではないでしょうか?

そうした経緯があって、いまの義務教育が今日あるんじゃないんですか?
しかし、時代は変わってきています。そして、もとの教育のありかたからもその形は変容してしまっています。ですから、差別的にみえても教育・学問を純粋に欲するなら、はじめに立ち戻ることも致し方ないと思います。致し方ないというよりも立ち戻らなければ、教育を受けることのすばらしさはわかりえないのではないでしょうか?
    • good
    • 0

「学校」の定義が不完全のように思います。

「義務教育」と置くべきでは?
そう再定義した場合、確かに現行の義務教育は崩壊しつつあります。
しかし教育は必要であり、求められる物でもあります。

求められる教育と、実際の教育にギャップがあるだけです。
モチベーションが0と言うわけではありません。

それが証拠に受験産業や○○教室と言う類いの教育はお金を払って
みんな受けに行きます。(一部強引な勧誘とかもありますが)

求められる教育と、実際の教育のギャップを埋める努力を行政が放棄した時、
確かに学校という大きな物語りは、終るかもしれません。
金を払わないと、まともな教育が受けられない社会に。
    • good
    • 0

学校というものがpassagen22さんのいうようになるのならば。




義務教育の育む物が、知識だけではないことに、お気づきでしょうか?

そう、子供たちが思わないように統制し続けるのも、大人たちの仕事なのでは?

私は、ミディアムエイジなので、何もいえませんが。
    • good
    • 0

もう学校に「必要性は必要ない」ような気がします。

「好きにやってください」の時代が来たんじゃないでしょうか。社会性が身につけばある程度人間は生きていけます。社会性を養うのは何も学校じゃなくてもいい。むしろ「椅子に身体をくくりつける」型の学校なら、生徒児童を従順にしておく代わりに、自主性と社会性の犠牲を強いることになるでしょう。だから多様化でも何でもしたらいいんですよ。ただ、いまの学校のままなら、このまま無用の長物になっていくというだけの話です、たぶん。

だから継続は可能だが、継続すること自体に意味はあまりない。知識にしてもほとんど後学可能なものです。学校の神話は崩れたのでしょう。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

知識5年説があって、特に理系の知識は、5年の寿命で、学校で習うのは、時代おくれの知識で使えない。というのは、常識です。学校みんな好きだよね。

お礼日時:2001/05/05 01:47

こんなところで意味不明な質問をしていないで、本を読んでもう少し学んでください。



しかし、市井の学生風情が「学校という物語は終わった」などと言い出すご時世ですから、問題は思いのほか深刻なのかもしれませんね。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

どんな本を読めばいいですか?教えてください。私は、中沢新一の森のバロックを読んで、こんなことを思いました。後、本田和子の異文化としての子どもが、私の考えの下敷きになってます。

お礼日時:2001/05/05 01:25

このQ&Aに関連する人気のQ&A

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

関連するカテゴリからQ&Aを探す

このQ&Aを見た人が検索しているワード

このQ&Aと関連する良く見られている質問

Q帰国子女の義務教育に関し、法律はどうなっているのでしょうか

 日本国民なのだけれども親の仕事の都合等で、幼少期を外国で育った人がいます。
 例えば、日本国内で日本人の両親から生まれた日本国籍を持つ人が、幼稚園入園以前に両親とともにイギリスに渡ったとします。日本人学校には入らずに、イギリスの幼稚園,小学校に入って学んだとします。その後、10歳の時に彼は両親とともに日本に帰ってきました。
 彼は普通なら小学校5年生のはずですが、日本の義務教育はここまでまったく受けていません。
 さて、その場合、法律上彼の教育を受ける義務はどうなるのでしょうか? どなたか教えて下さい。
 また、このようなことは最近多くなってきているので、対応する法律も変わってきているかも知れません。現代ではどうなのか、ということと、30年ほど昔であれば、どうだったのでしょうか。この点もどうかお教え下さい。

Aベストアンサー

法律上のことまでは存じませんが。

教育現場の対応は、日本での受け入れ地域によっても多少差は出てきますし、その子の日本語能力によっても対応がことなります。
また、海外で日本人学校に通わなくても、現地校に通いつつ日本語補習校に通ったりするケースもあるそうです。
このあたりは、海外での居住地域の環境や保護者の考え方にも左右されます。

詳細は以下をどうぞ。

http://www.jolnet.com/school/02/02_06.html

http://www.hmt.toyama-u.ac.jp/socio/lab/sotsuron/96/taresawa/kousou1.html

http://www.joes.or.jp/

Qムハンマド(イスラム教の開祖)のユダヤ教観とキリスト教観は?

1 ムハンマドは自意識として、その人生をユダヤ教徒として出発したのですか、キリスト教徒として出発したのですか、いずれでもないのですか。
2 一般論として後発の理論は先行する理論や実態の欠陥を克服する形で登場するのだと思います。ムハンマドにとってユダヤ教の欠陥は何でしたか。また、キリスト教の欠陥は何でしたか。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

偉大な宗教家として歴史に名を残した人は、えてして、単なる宗教家ではなく、政治的な能力でもすぐれていることが多いような気がします。そう、まさに今、チベットのために戦っているダライ・ラマ14世のように。彼は、インド、中国、米国、日本などの大国間の政治力学を利用してチベットのために戦っており、極めて社交的な性格であるうえに、ウィットに富み説得力のある話術を英語で使いこなし、世界中の世論を味方につける能力を持っています。

キリストの場合は、ユダヤ人国家がローマの属国であったという状況の中、ローマへの反逆も辞さない一部過激はとは一線をかくした人物です。聖書の中には、キリストを憎悪するユダヤ人たちが、なんとかしてキリストに反ローマ過激派のレッテルを貼ろうと試みるものの、キリストが政治的センスにすぐれ温厚な性格であることによって、彼をわなにはめようという試みは、ほとんど失敗してしまうシーンが出てきます。あの、「神のものは神へ、カエサル(皇帝)のものは皇帝に返せば良い」という有名なセリフは、別に宗教的に深いことを語っているのではなく、「ローマによる穏健かつ寛容な支配が不満なのか。税金くらい払え」という意味であるように思われます。

仏陀の場合はさらに過激で、2つの大国にはさまれたシャカ族の王子として生まれ、おそらくは将来を悲観し、政治から逃れるため出家してしまったとすら解釈できる人間です。仏陀が出家のため宮殿から出ていこうとすると、妻は子供が出来たと言って出家を止めようとします。しかし、仏陀は、「それでも自分は出ていく。子供には『邪魔者』とでも名づければよい」と言い放った人物です。

ムハンマドはイスラムの公式見解から言うと、おそらく、ユダヤ教から出発したのでも、キリスト教から出発したのでもありません。初期イスラムは商人のための宗教という性格が強く、もともとが政治・経済的な背景を濃厚とした宗教なのですが、この商人のための宗教という側面は、忘れられがちです。イスラムの教えでは、ムハンマドが天啓を受けイスラム教を作ったということになっているかと記憶していますが、天啓というのは、たいていは過去の経験に基づいた経験則をバックグラウンドにして、それが突如として本人の自覚もないままに、いきなり無意識から意識に上がってきたものにすぎません。他宗教からの影響関係を言えば、明らかにムハンマドはキリスト教ではなくユダヤ教から影響を受けています。イスラムに見られる食のタブーや割礼(ペニスの包皮を切り取ること)の儀式などは、ユダヤ教的な要素です。キリスト教がローマで成功した理由のひとつに、キリスト死後の早い段階で、「割礼は不要である」と宣言し、ギリシャ・ローマ文化になれた人々に安心感を与えたことが指摘できます。なにしろ、ユダヤ教徒の割礼の儀式はローマ人から見ると不気味な悪習であり、ユダヤ人が機を捕らえては奴隷、使用人、孤児などに割礼を施そうとするたびに、ローマから「割礼はユダヤ人の中で行うこととし、他者に強要することはあってはならない」という命令を食らっていたのです。

さて質問2についてですが、ムハンマドは勢力を拡大していく中で、既に精密に確立された教義を持つユダヤ教との論戦で、大苦戦をすることになります。ユダヤ教徒からは、ムハンマドは天使の概念を理解していないなどとの批判を浴びるわけです。ムハンマドは論戦ではなかなか勝てませんでしたが、商業・貿易などの社会的要素においては、ユダヤ教を圧倒することになっていきます。ムハンマド本人がどの程度自覚していたかは分かりませんが、彼からみたユダヤ教は、一神教としての純粋性が低いものであり、ムハンマドはそれを乗り越えることで、ユダヤ教・キリスト教・イスラムの中で、もっとも純粋な一神教を作り出すことになります。ユダヤ教は一神論だと思っている人も多いのですが、実はユダヤ教における神の概念は、神は1人しかいないというよりも、民族ごとに守り神がついているが、ユダヤ人についているヤーヴェこそが最強の神だという発想なのです。聖書の楽園追放の物語を読んでいると、りんごを食べた2人を見て、神々(複数形!)が、あ~だこ~だと議論しているシーンが出てきたりして、なかなか愉快です。
ムハンマドはこの不純物の混ざった一神教というユダヤ教の特性を一掃することにより、1民族のための宗教ではなく、あらゆる民族のための世界宗教へとイスラムを育て上げていくことになります。

ムハンマドから見た場合のキリスト教の欠陥は、偶像崇拝の禁止が徹底していないことだと思います。また、神にざんげをする場合、キリスト教ではプロテスタント系を除けば、ほとんどのケースで聖職者を通じて神にざんげをするのに対し、イスラムでは個人が直接神にざんげをするという原理によって、神と人間の対話(および契約)という性格が強いものになっています。あるフランス人キリスト教徒が書いた説に、イスラムの本質はユダヤ教の再興であるというものがあり、これはキリスト教徒の立場からすると、ある程度の正当性がある議論だと思います。

なお、ユダヤ教・キリスト教が共通して持っている問題点があるのですが、イスラムはこの影響を、ほとんど受けておりません。一神教の弱点のひとつに、「唯一絶対の創造主がいるのなら、なぜ世の中に悪などという不要で有害なものまで作ったのですか?」という質問に、正面突破では反論することが出来ないことがあげられます。ユダヤ教・キリスト教は、いずれも神と悪の最終戦争という思想をもち、前者においてはダニエル書、後者においては黙示録にその思想が表明されています。なぜ、一神教であるはずのユダヤ教やキリスト教に善と悪の最終戦争などという二元論的思考が紛れ込んでいるのかというと、おそらく、ペルシャのゾロアスター教の影響だと思います。ゾロアスター教は典型的な二元論的宗教で、神と悪の対立という概念を持っています。イスラムはこの、神と悪による最終戦争という思想を持っているようには見えません。それだけ、一神教の純粋性だけを見れば、イスラム教が最もすぐれた宗教だということになります。

ただ、現代社会においてはイスラムには悪習といわれても仕方がない要素が混ざっています。最大の問題点は、「目には目を、歯には歯を」という古い復讐原理に基づく刑法を、今に至るまで持っていることではないでしょうか。ムハンマドより以前のキリスト教や仏教でも、このような復讐原理は見られません。キリストは右のほほを殴られたら左のほほを殴らせろと教えました。仏陀は不幸の連鎖を止めない限り、涅槃への到達は不可能だと説いています。つまり、ムハンマド以前の段階ですでに、イスラム刑法の問題点が指摘されてしまっており、イスラム刑法はこの意味で、極めて非近代的で問題の多い法思想なのです。ヨーロッパ近代法の基本思想が、復讐の連鎖を止めるため、法権力の執行権を国家に一元化するという傾向を示し始めるころになると、ますますイスラム刑法の問題点が浮き彫りになってきます。非イスラムの現代人から見たら、イスラム刑法にたまに見られる、鞭打ちとか手の切断とかの処罰は、極めて残酷で非近代的なものに見えてしまうわけです。

偉大な宗教家として歴史に名を残した人は、えてして、単なる宗教家ではなく、政治的な能力でもすぐれていることが多いような気がします。そう、まさに今、チベットのために戦っているダライ・ラマ14世のように。彼は、インド、中国、米国、日本などの大国間の政治力学を利用してチベットのために戦っており、極めて社交的な性格であるうえに、ウィットに富み説得力のある話術を英語で使いこなし、世界中の世論を味方につける能力を持っています。

キリストの場合は、ユダヤ人国家がローマの属国であったという...続きを読む

Q広汎性発達障害と大学生活の悩み

現在大学院の学生ですが、つい最近、広汎性発達障害と診断されました。

もともと人とのコミュニケーションが苦手だったので、診断の説明を受けた時は納得していました。

医者からあなたは健常者と比べてこんなことに苦労するとか、あなたを理解してくれる人物がいるようなよい環境を選ぶべきだとかいわれました。

しかし、迷惑かけている私がいうことでもないのですが、結局のところ、「できないor苦手なもの」は他人にやってもらうといいよという風に聞こえ、「それって他力本願ってことですか?」って聞いたら、「それをいっちゃ元も子もない」的なことを云われました。

インターネットで検索してみると、発達障害の学生を支援するような制度のある大学があるようですが、私の大学にはそんなものがあるのかわからないですね。

長々書きましたが、大学の研究室で求められる学生像として、積極的に先生や先輩に質問をしに行くだとか、他人にいちいち命令されなくても動ける自主性だとかあると思うのですが、障害のせいとはいえ、これらができない学生をサポートしようと思う大学の先生なんているもんなんでしょうか?

義務教育なら、手取り足取り先生なりが対応されるのでしょうが、大学や社会ってそういうもんじゃないですよね?

今後どうしていこうか日々心配な半ニートでした。

現在大学院の学生ですが、つい最近、広汎性発達障害と診断されました。

もともと人とのコミュニケーションが苦手だったので、診断の説明を受けた時は納得していました。

医者からあなたは健常者と比べてこんなことに苦労するとか、あなたを理解してくれる人物がいるようなよい環境を選ぶべきだとかいわれました。

しかし、迷惑かけている私がいうことでもないのですが、結局のところ、「できないor苦手なもの」は他人にやってもらうといいよという風に聞こえ、「それって他力本願ってことですか?」って聞いた...続きを読む

Aベストアンサー

初めましてこんにちは。貴方のご質問を拝読させていただきました。
将来をご心配されている心境がひしひしと伝わってきます。
 
最初に、ドクターというのは、何故そんな脅しのようなことしか語れないのでしょうか。患者を非難することで自己満足しているとしたら、私は「最低のドクター」と評価しますね。

本題に入ります。 pervasive developmental disorder は、disorder であり、disease ではないことです。日本語では「障害」と言っていますが実に不的確な言葉であると思います。
  
あなたは、当然「大学卒」としての学歴が生かせます。最近は全国に「障害者就労支援センター」がありますが、大学卒の方も結構登録されています。活用してください。
    
ご自身の disorder を過大評価するのではなく、「少し苦手な面がある」位に軽く考えましょう。あなたの学部のご専門が分かりませんが、「苦手な面を少し援助してもらえればよい」のです。
企業では、このことを理解した担当者が貴方のご相談に応じていただけます。
  
ということで、「院生」は無理としても「大卒生」として仕事も生活も可能です。院生になれたことからも、決して貴方の頭が壊れている訳ではありません。 最初にドクターの脅しのことを書いたのも貴方にマイナスイメージを与えたドクターを私はキッパリ軽蔑します。
   
あなたは、自分の苦手なこともよくご理解しておられるようで悲観する状態とは思えません。私としては精神科専門医でできれば産業医のセカンドオピニオンを受けられることをお勧め致します。
あなたが人生の門出を誤らないように祈念しています。お大事にそして冷静になさってください。
  
  sophia-s    
   

初めましてこんにちは。貴方のご質問を拝読させていただきました。
将来をご心配されている心境がひしひしと伝わってきます。
 
最初に、ドクターというのは、何故そんな脅しのようなことしか語れないのでしょうか。患者を非難することで自己満足しているとしたら、私は「最低のドクター」と評価しますね。

本題に入ります。 pervasive developmental disorder は、disorder であり、disease ではないことです。日本語では「障害」と言っていますが実に不的確な言葉であると思います。
  
あなたは、当然「大...続きを読む

Q最近知りました。のびのび太教 と ジャイアン教(注:ジャイナ教ではないです)

のび太はい言いつづける、、、、
「何で又散らかるのに、片付けなければならないんっ・・(すぅー)っだーーーーーーーーーーーーーーーーー・・・・・・笑・・・・

昔の人(ジャイアン)がゆってた、。
「お前のものは、おれのもの、おれのものも、(すぅ(息)
          おれのものっーのの!!(どっかん)衝)」
 
この質問はふざけているようですが、真剣です。
1)のび太に。喝!お願いします。言ってやって下さい。
2)後、ジャイアンに質問するなら何を聞きますか?
 
皆さんの生の声を聞かせていただけないでしょうか?宜しくお願いします。

(ぶしつけな口調と感じられたならごめんなさい。)

Aベストアンサー

こんばんは。

2)「僕の宿題も、ジャイアンのものだよねv」

んでは~♪

Q義務教育は『絶対参加』なのでしょうか?

義務教育についてですが、学校教育法に同意できない場合は、義務教育を受けなくても良いのですか?
最近、体罰などが問題となってきていますが、学校が信頼できないと言う理由で義務教育に行かずに他の教育機関で学習することは可能でしょうか?
また、義務教育に行かなかった場合の『罰則』はあるのでしょうか?
簡潔にご回答をお願いします

Aベストアンサー

No.3です

お子様が小学校へ入学の通知が来た時に
役所の関係先に行って
拒否の手続きの時に払います

Q一神教のイスラム教、ユダヤ教、キリスト教の神は互いに悪魔をつくりだし、争いあっているのでは?

 言葉の存在を考えると、言葉全てに対象がなくては、存在できないこともわかります。存在するもの全てに対象が必要なのです。
 神が存在するのならば、その対象も必ず存在していなければなりません。神が絶対的善ならば、絶対的悪も存在することになります。
 絶対的悪とは悪魔のことです。悪魔の存在を無にするには、絶対的善の神の存在を否定して、無にするしか方法はないのではありませんか?

Aベストアンサー

こんばんは。
#8です^^ご質問ありがとうございます**
>>自分達の信じる神だけが善であるのですから、他の神は悪とし、それを滅ぼそうとして争いが生じているのではありませんか?

私は神様は一人しかいないと信じています。
それは、天地を創造し、イエスキリストをこの地に授けてくださった、父なる神お一人です^^
ですから、“ほかの神”はいないと思います。
ただ、事実、父なる神以外の存在を神だと考えていらっしゃるかたも大勢います。それはサタン故に、または人間自身の私欲によって生み出されたものだと思います。神様が戦われるのは、サタンであり、また人間自身の罪です。ですから、神様のご計画は決して人間を傷つけることではなく、その罪を滅ぼすことにのみおかれていると思います**
ただ、争いのほとんどが、人間自身の意思によって行われているものであり、またサタンの計画によって起きているのだと思います。全てが神様ご自身の御心によるものではないと思います***
神様がいるから争いが起こるのではなく、サタンの存在ゆえに、私たち自身の罪ゆえに起こるのです。
私たち人間の血が流れることを喜ぶのはサタンです。神様は私たちと共に心を痛めてくださっていると思います***

ご質問の意図とズレてしまっているかもしれません・・。お許しを!

こんばんは。
#8です^^ご質問ありがとうございます**
>>自分達の信じる神だけが善であるのですから、他の神は悪とし、それを滅ぼそうとして争いが生じているのではありませんか?

私は神様は一人しかいないと信じています。
それは、天地を創造し、イエスキリストをこの地に授けてくださった、父なる神お一人です^^
ですから、“ほかの神”はいないと思います。
ただ、事実、父なる神以外の存在を神だと考えていらっしゃるかたも大勢います。それはサタン故に、または人間自身の私欲によって生み...続きを読む

Q義務教育の解釈は?

義務教育は「国民は、その保護する子女に、9年の普通教育を受けさせる義務を負う。」のですが、この国民って親のことだと思いますが、「学校が」という感じで権利意識が強い親が多いのが不思議です。
私のとこは、もう子供は社会人ですが、私が納税している中から、援助しているのに給食費も払わない親がいたり、何かあると親が学校に文句を言っていることを聞くと腹が立ちます。

将来の日本を荷える人間を作るため、もっと学校側が生徒と親に厳しいことを言える形にしてほしいのですが、何でそうならないのですか?

私の考えは、憲法で義務教育期間は無償で教育を受けられるという意味は、皆が納めている税金でタダで教育してやるから、もっと学校側が強い立場で対応できて当たり前と思います。

現状は、「親の義務」が「権利」に変わって、全く反対になってしまっているのが納得できません。皆さんは義務教育の解釈をどうお考えでしょうか?

Aベストアンサー

>この国民って親のことだと思いますが、
親の義務,こどもの権利というのが義務教育の意味ですから,,これで正解ですが

>「学校が」という感じで権利意識が強い親が多いのが
こんなふうな親が多いという印象ですか。。。。わたしはどちらかというと,税金で勉強させてもらってるから,と他力本願,他人事なひとたちが多いかな,という印象を持っていました。

国や地方自治体などの(教育)行政の主体は税金を納めている国民なのですが,そうだとすると“勉強させてもらってるから”という親の態度は,一件聞き分けのよさそうな印象ですが,教育の主体としての自覚に欠けてますね。教育の義務を負う親としては,国や学校に子の教育を“委ねている”というのが正確なところだと思います。一方で親は主権者として政治に参加する義務もありますから,教育内容について“白紙委任状”を渡しているわけではない。。。

じつは,この義務教育論と,教育は買い与えることができないという“教育≠サービス”論とは次元の異なる議論だとわたしは思います。

義務教育はいま,授業の学習塾への委託や習熟度別授業,漢検や学力テストによるランキングなど“教育サービス”への下り道を自らまっさかさまに転げ落ちています。こうした流れのなかでは,教育の購買者たる親が,“サービス”の品質に文句をつけることは当然の権利です(それがいいといっているのではありません)。

その一方で,義務教育のいわゆる主体者としての親には,教育に参加し,学校と協働・助言していく責任があります。この意味での親は,子の教育に対してけっして“目と耳を閉じた”モノであってはならないんです。

いちばん大きな問題は,“教育サービス”へクレームを寄せる親をマスコミがモンスターペアレンツと名づけて際立たせたことにあると思います。このたった1つの“造語”が無分別に使いまわされるおかげで,本来教育の主体者として主張しなければならなかった“誠意ある”主張もまるでクレーム扱いです。

モンスターペアレンツといわれる人々のクレームだって,商品その他の一般的なサービスへの要求に較べてみれば驚くほどでもありません。購買者たる親はそれこそ全国に何千万人もいるわけなんですから。。。

理解できないのは,自ら“教育サービス”であることを選んだ国や学校の態度です。いまの時代,サービスならCS(カスタマーサービス)があって当然です。クレーム処理だってサービスの一部なんです。それなのに,義務教育の主体なのだから共同責任(すなわち買ったものの責任)だと言わんばかりです。

再度述べますが,義務教育論と,教育は買い与えることができないという“教育≠サービス”論とは次元の異なる議論です。これをミソもクソもいっしょに“口にする”のはいかがなものでしょう。。

ところで,本題の義務教育についてですが,,ここで課されるおやの義務とは,子が人として社会に参画するにあたって,他の人々と社会(の価値,幸せ,問題などなど)を分かち合えるだけの能力を身に付けさせなければならない,ということです。勝手に産み捨てて野獣のような人間を社会に放ってはいけない,というくらいの意味です。こどもに社会を生き抜く能力=武器を与えるため,,というのは一義的にはちょっとした誤用ですね。。

>この国民って親のことだと思いますが、
親の義務,こどもの権利というのが義務教育の意味ですから,,これで正解ですが

>「学校が」という感じで権利意識が強い親が多いのが
こんなふうな親が多いという印象ですか。。。。わたしはどちらかというと,税金で勉強させてもらってるから,と他力本願,他人事なひとたちが多いかな,という印象を持っていました。

国や地方自治体などの(教育)行政の主体は税金を納めている国民なのですが,そうだとすると“勉強させてもらってるから”という親の態度は,一件...続きを読む

Qキリスト教、仏教、ヒンドゥー教、イスラム教・・・などなど、さまざまな宗教の考え方や特徴を知りたいです。

最近、宗教について興味を持つようになりました。たとえばイスラム教では女性の地位が低かったりヒンドゥ教にはカーストがあったりと、宗教によってさまざまな考え方の違い、特徴があると思います。そんな宗教の違いなどについて分かりやすく解説していただけたら幸いです。

Aベストアンサー

 こんにちは。

 宗教事情と言いますか 実際の生活日常にどう現われているかについてよりは 考え方をめぐって理論的に捉えようとしてみます。

 ヒンドゥイズムは古代では ブラフマニズム(バラモン教)ですが この宗教はすでにいわゆるカーストが定まったところで起こっています。侵略と支配が出来あがったところで そのおしえが持たれます。
 ひとつには 宇宙の原理ないしその力としてのブラフマン(梵)とひとの《わたし》としてのアートマン(我)とが一体であると説きます。梵我一如と言うようです。
 もうひとつには 輪廻転生かつ因果応報の説があります。梵我一如を身に現わしたとされる司祭(ブラフマナ)は 過去世で善い因を積んだ結果そう成ったというわけです。
 そしてこの場合 低い身分の人びとは 過去世で悪い因を積んだ結果だというのですが それだけではなく いま現在善い因を積めば そして生まれ変わり続けていつの世にかは よき身分に生まれると説きます。

 ブディズムは このブラフマニズムを批判し否定して起こりました。
 ただ その内容は必ずしも明確ではありません。
 低い身分のまま生まれ続けるという六道輪廻は 目覚めた状態(ブッダ)に成れば断ち切ることができると言いますが 輪廻転生が全体として否定されたわけではありません。
 ひとは仮りにモノが集まってその存在となって生まれて来たものだから 《わたし》が確固とした存在だとは見るものではないようです。(諸法無我)。何ものにも依存しないブラフマンと一体でありうるというアートマンであるとは見ない。ただし 誰もがブッダの状態に成ることができるというその《仏性》を身に宿すとも もう一方では説くようになります。
 ですから一般には 《梵我一如》をブディズムのおしえだと捉えているのではないでしょうか。

 イスラームは 単純です。《神(アッラーフ)》が直接にムハンマドの口を借りて ひとの思いやおこないをすべて〔と言っていいほど〕おしえの中に示しているということです。きわめて具体的な内容を示すかたちで表現されていますから。 

 ▲ (クルアーン=コーラン)~~~~~~~~~~~~~~~~
 まことにわれら(* アッラーフ=神 の自称・複数形での語り)が 汝(ムハンマド)に啓示したのは ノアとそれ以後の預言者たちに啓示したのと同様である。われらは アブラハム イシマエル イサク ヤコブの各支族に また イエス ヨブ ヨナ アロン そしてソロモンに啓示した。また ダヴィデに詩篇を与えた。(4:163)


 おまえたち(* ムハンマドを含めた信徒たちのこと。むろんアッラーがムハンマドの口を借りて語っている)は言うがよい。
   《われわれは神を信じ そしてわれわれに啓示されたものを アブラ
   ハムとイシマエルとヤコブともろもろの支族に啓示されたものを モ
   ーセとイエスに与えられたものを 信じる。
   また もろもろの預言者が主から与えられたものを信ずる。われわれ
   は これらのあいだでだれかれの差別はしない。
   われわれは神に帰依する。》
    (2:136)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ちなみに セム語は三個の語根子音から成るのが 一般です。
 《S-L-M》は ヘブル語でも シャローム( SaLooM )と言って挨拶に用いる語です。アラビア語では 定冠詞(アル→アッ)を付けて 《アッサラーム(al-SaLaaM = 平安を!)》です。
 同じ S-L-Mから派生する語として イスラーム iSLaaM は 《降伏・服従》の意をも伴なう《身をゆだねる》つまり《帰依》のことです。
 その帰依した信徒を表わすムスリムは 《〔わたしはそこで自らが健全・安寧(S-L-M)であると知覚し認識し これを受け容れて わたしは〕 すこやかならしめられた》と言っています。〔  S-L-M > muSLiM。(初めの m- は いわゆる過去分詞の接頭辞)というわけのようです〕。
 つまりは ブラフマニズムやブディズムで目指された《安寧としてのさとり》の状態は ムスリムとしては その名前じたいの中に堂々と名乗っているというわけです。《われ やわらがしめられたり》と言っています。
 ひとこと悪口を言えば つねにいつもいつも《われはアッラーを信じる。アッラーに帰依する》と言っていなければならないのかと思ったりします。そんなことぢゃ 信じていないのではないか。弱いのではないかと思ったりします。
 
 さて ムハンマドに乗り移って語ったアッラーフの言葉の中に アブラハムやモーセのほかに イエスも出て来ています。そこで クリスチアニズムについてです。
 これは ひとことで言えば 人がついていけないほど すっ飛んでいます。なにしろ ヨセフとマリアという夫婦から生まれた人間であるイエスは この世のものではないなぞの霊としての存在である神の独り子であり みづからも神である。こういう出で立ちです。

 いくらかは分かるようなところを示してみますと。
 ひとは誰でも《仏性》を宿すと言ったりしますが クリスチアニズムもひとには神の霊が宿ると言います。
 ブラフマンとわたし(アートマン)とが 一体となるという説に対しては 神〔の霊〕がわたしをおおい包む。そこでわたしは 無条件に只で(無料で=恩恵として)癒されやわらがしめられたと告白する。
 ただし これはすべて ひとりの人の主観の内において起こる出来事であり その主観内面におさまるものであると知っています。ですから 神が人間の言葉でそのまま語るということは まぼろしとして――文学表現において――触れたりすることもあるにはあるようですが 基本的にはないと思っています。
 神をひとは見ることが出来ない。それは 非思考であると捉えます。言いかえると その信仰の内容を 言葉にして伝えることはあるにはあっても その人の主観の問題であると捉えています。言いかえると 二人以上でこの信仰内容をおしえとして具体的な表現において共有するということは すでにもはや非思考の信仰ではなくなると見ています。すなわち 教義と組織を伴なった宗教は 信仰の自殺行為であると見ます。そういう信仰です。
 (教会組織は わたしに言わせれば 犯罪行為です)。

 さらに言いかえると もし人と人のかかわりやつながり あるいはきづな これらのことを《愛》と言うとすれば そのような愛は 非思考つまりなぞにおいて神のほうがなんとかしてくれると思っているという意味です。人もその一端をになうと言ってもいいでしょうが――そして人間の為し得る努力という努力はすべておこないますが―― 基本は 絶対他力です。隣りびとを愛せとは 自分と同じくらいは――もしくは自分を思う前に一秒くらいは相手を先に思うかたちで――愛しなさいということです。

 こんにちは。

 宗教事情と言いますか 実際の生活日常にどう現われているかについてよりは 考え方をめぐって理論的に捉えようとしてみます。

 ヒンドゥイズムは古代では ブラフマニズム(バラモン教)ですが この宗教はすでにいわゆるカーストが定まったところで起こっています。侵略と支配が出来あがったところで そのおしえが持たれます。
 ひとつには 宇宙の原理ないしその力としてのブラフマン(梵)とひとの《わたし》としてのアートマン(我)とが一体であると説きます。梵我一如と言うよ...続きを読む

Q【大人の発達障害って社会が発達し過ぎただけでは?】 昔は発達障害扱いじゃなかった人も社会が発達し過ぎ

【大人の発達障害って社会が発達し過ぎただけでは?】

昔は発達障害扱いじゃなかった人も社会が発達し過ぎて着いて行けなくなったら発達障害?

Aベストアンサー

???
発達って単語がついてるから、とりあえずなんとなくくっつけてみたのかな?

そもそも発達障害にはWHOなどでも基準が決まってるもんですよ。
研究自体は昔からあって、それが確立されたことと、社会での認識が広まっただけの話。

Q「ソ連の崩壊=社会主義の夢の崩壊」に対する反論とは

「ソ連の崩壊が共産主義のみならず、社会主義者の夢=非階級社会の実現をもうち砕いた。だから今フランスの社会主義者達はアイデンティティを失って困ってる」ってフランスのテレビで言ってました。

 日本は勝ち組負け組みなんて言っているけれど、フランス、イギリスに比べると、まだまだ一億総中流な気がするのでこういう意見はぴんと来ないなあ、と思って聞いていました。

 でもよく考えたら、私は日本ではソ連が崩壊して十年以上たった今、この問題についてどんな論点が出ているのかはっきりと把握しておりません(ソ連崩壊時にはまだ物心ついていませんでしたし)。

 この問題に関して、日本ではどんな議論が行われていたのか、誰か教えていただけませんか。比較的中立の立場から、論点を整理してくださるととてもありがたいです。

 素人の想像ですが、「ソ連の崩壊=社会主義の原理的な失敗」派と、「ソ連の崩壊=社会主義の局地的失敗」派と2派があって、前者の方が多数派である、という風に思い込んでいるのですが、正しいですか?
もし正しければ、そういう風になっちゃった経緯なども教えていただけると助かります。

「ソ連の崩壊が共産主義のみならず、社会主義者の夢=非階級社会の実現をもうち砕いた。だから今フランスの社会主義者達はアイデンティティを失って困ってる」ってフランスのテレビで言ってました。

 日本は勝ち組負け組みなんて言っているけれど、フランス、イギリスに比べると、まだまだ一億総中流な気がするのでこういう意見はぴんと来ないなあ、と思って聞いていました。

 でもよく考えたら、私は日本ではソ連が崩壊して十年以上たった今、この問題についてどんな論点が出ているのかはっきりと把握し...続きを読む

Aベストアンサー

共産主義(ここでは社会主義も含んでのものだと考えてください)は
 20世紀最大の(政治的)実験と呼ばれていました。
 
 その前にイギリスから始まった産業革命によって、世界はいわゆる
 「産業資本主義」の時代に入るのですが、これは「金=資本」を持ったものが
 世の中を支配し、「金=資本」を持たないものは、資本家から搾取される一方の
 プロレタリアート(労働者階級)としてますます没落していくという
 側面を持っていました。
 その社会的な矛盾を、著書「資本論」の中で指摘したのがごぞんじマルクスで、
 その結果、1917年ロシア革命を経て世界初の共産主義(社会主義)国家が成立します。
 
 共産主義理論は、ひとつの国が
 原始共産主義 → 封建主義(土地を持った者が支配する農業経済体制)
 → 資本主義 → 国家独占資本主義 
 → 社会主義 → 共産主義
 へと、理論どおりに政治経済体制(構造)が、一直線に進化していくことを予言し
 また事実、多くの国では初期の資本主義における構造矛盾を抱えていましたので
 その社会矛盾に苦しむ多くの無産階級(金=資本を持たない階級=労働者)
 の支持と共感を得ました。
 そして事実、多くの国で共産革命が成功し、そうした国では計画経済により不況もない
 失業者もいない、労働者のユートピアが実現されたとされたのです。
 
 今から考えると、信じられないことかもしれませんが、たとえば
 あの北朝鮮にしても、金日成氏は救国(人民開放)の大英雄であり、 多くの日本人(特に在日朝鮮人)が、
 あの国に行けばユートピアがあると信じて、日本海を越えて、再移住したのです。
 あるいは、ほとんどの日本の大学の経済学部では、ソ連崩壊までは
 マルクス理論が必須単位でした。それほどマルクス主義(共産主義)
 ユートピア論は根強かったのです。
 
 つぎに、ソ連が「原理的な失敗」か「局地的な失敗」かどうか?
 それを多くの人がどう考えているかですが、これははっきりしたデータがあるわけでは
 ありませんし、「共産主義」を真正面から論ずる人もごく少数になっています。
 したがって、マスコミ(言論界も含めて)の風潮や、共産党の退潮などの政治的流れで
 主観的に判断する以外にありませんがずばり言って
 声には出さないが「原理的失敗派」が95パーセント
 「局地的失敗派」が5パーセントの割合になっていると思います。

 

共産主義(ここでは社会主義も含んでのものだと考えてください)は
 20世紀最大の(政治的)実験と呼ばれていました。
 
 その前にイギリスから始まった産業革命によって、世界はいわゆる
 「産業資本主義」の時代に入るのですが、これは「金=資本」を持ったものが
 世の中を支配し、「金=資本」を持たないものは、資本家から搾取される一方の
 プロレタリアート(労働者階級)としてますます没落していくという
 側面を持っていました。
 その社会的な矛盾を、著書「資本論」の中で指摘した...続きを読む


人気Q&Aランキング

おすすめ情報