授業時間中の生徒は、自分の椅子に体をくくりつけて、教壇の教師の語る言葉を聞き、その要求にこたえ、もとめられている振る舞いをすることによって、教師の満足を得なければ、いい生徒になれない。ここでは、知識は自由をもたらさない。

このような事を誰も疑わず、意味のあることと思っていた時期がありました。将来の為、今がんばれば、きっと役にたつ。みんなが、そう信じていれば「学校の継続」は可能だと思います。授業の邪魔するやつは、病気あつかいして排除すればいいだけです。

ところが、学校は、将来の為、今がんばれば、きっと役にたつ。ということが、うすうす違うんじゃないか、うそっぱちじゃないかと、きずいてるかもしれません。モチベーション、0という状態で
「学校の継続」が可能なのかそれがしりたいです。学校神話が壊れた後で、再び「知識のない者は、どのような辛い壁をよじ登らねばならぬのでしょうか?」と学校の必要性の神話を築けるのか。もう学校という大きな物語りは、終わったのかもしれません。

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A 回答 (10件)

 「お礼」ありがとう。

続きが遅れてごめんなさいね。

 構造主義を絡めた話について。
 知識は「体系的」な方がわかりやすいし、身に付きやすいね。バラバラに物事を羅列されるよりも。たしかにそういう点では、今のカリキュラムには改善すべきところがたくさんあると思う。やはり「ゆとり」と称して大事な骨をカリキュラムから抜きまくっているから。小学校や中学校の歴史の教科書なんか退屈この上ない。個々の知識を支える「網の目」が書かれてない。こういうものを使って教室で授業を進めても、それは、生徒たちの頭の中に水の泡のように浮かぶ「なぜ」を、生徒が自覚する間も与えずに置き去りにしてしまうだけではないかな。

 それと…。下の方の「お礼」を見ると、なんと、本田和子さん読んでるんだ。だったら話は早い。実はこの線で書いてみようかと思ってました。
 要するに近代における「子どもの発見」というのは、「幼さを愛そうとする力と幼さを排除しようとする力が同時に働くもの」というカテゴリーの析出だった。大人たちはそうした虚構の像を介してしか、子どもを見ることができなくなっているという話。「近代家族」と並んで「近代教育」および「学校」が、そうした「子ども」を囲い込む制度になっている。だが、そうした教育は、すでに「虚像でしかない子ども」に向けられたものであって、真に子どもに必要なものを与えているかどうかには議論の余地がある。
 似たような図式になっている例としては「児童文学」が挙げられる。特に「読書感想文コンクール」の課題図書に指定される傾向のものだ。そういう作品のテーマは、よく指摘されることだけど、実にみっともない程「時代」を反映している。「戦争反対」だったり「公害批判」だったり、世間でイジメが問題になればそれがテーマになるし、離婚が増えればそれがまたテーマとして取り上げられる。子ども自身が読みたいものではなくて、「その時代その時代の大人が子どもに読ませたいもの、考えてほしいもの」なんだ。ふつうなら読みたくもない本は売れないはず。ところが、この手の本は読書感想文の課題図書に指定されるから必ず一定の売上を確保することになり、結果、「児童文学者」たちは「大人のコンプレックスを持ち込むだけの作風」を反省することすらしなくなる…。

 「子どもらしさ」という属性は、本当は子ども自身に帰されるものではないのかもしれない。大人がそう見たいと思うものが「子どもらしさ」であって、それは実は本当の子どもらしさを覆い隠すように上から貼り付けられたレッテルなのかもしれない。
 すると…、きみの言うとおり、「義務教育は必要というだけで現代教育を肯定するのは」問題ありだったね。教育なるものが社会の要請に基づいて「先発世代の後発世代に対する教化」という性格を持つことはどうしても避けられないにしても、「虚像ではない真の姿での子ども」自身が求めるものと、何とかして折り合わせていく方策は考えなきゃいけないと思う。
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この回答へのお礼

返事書いてくれてありがとう。すごい内容です。今は感想しか書けないけど、きちんとした返事をかきます。子どもという存在にリアルにふれようとしたとき、真実が立ち上がるような気がします。真実とは、存在するものを背おい引き受けることではなく、生きてるものを、解放し、その重荷をとりのけてやることだと思います。本当に考えることは、必然的に、解放し、重荷を取りのける、ポップ哲学になると思います。教育とは何かと、考えた時、リアルまでたどり着けば、きっとポップな答えが出る気がします。ポップな答えありがとう。

お礼日時:2001/05/13 00:13

> 授業時間中の生徒は、自分の椅子に体をくくりつけて、


> 教壇の教師の語る言葉を聞き、その要求にこたえ、もと
> められている振る舞いをすることによって、教師の満足
> を得なければ、いい生徒になれない。ここでは、知識は
> 自由をもたらさない。

学校が、本当に知識の伝授を主目的とするならば、
おっしゃるような現象が見られるということは、
方法論として、目的に適っているとは言い難いと言えます。
しかし、学校は、ある「美徳」を教えようとします。
我慢強く、文句を言わず、克己して、言われたことに
勤勉に勤しむことをもって「よし」とします。
現状から考えると、学校の(隠れた)主目的は、
むしろこちらの側にあるようなものです。
つまり、
(「使えない」と言われる英語が、典型的に示しているように)
学校というものは、知識の伝授よりも、
むしろ、そういう「よい」人材を育てることを
事実上の目的としているかのように機能している、
というわけです。

この「よい」性質というのは、学校だけでなく、一般社会でも
「美点」として判断される場合があります
(これが、学歴社会を支えてきた、道徳感でもあるでしょう)。
ということは、一般社会も「学校的な」教育を
(一部)承認している、ということになります。
特に産業界は、この種の「美点」を評価するでしょう。
それが、産業の拡大を支えそうな人材を生むからです。

産業の拡大は、国の命題の1つとして(特に日本では強く)
あるわけですが、この学校的な「道徳」は、この目的に
非常に都合がいい。というより、歴史的には、この目的のために、
教育が「学校的」になり、社会が「学校的」になったのだ、
と言えるでしょう。

しかし、時代が下って、産業の拡大は必ずしも幸福に
結びつかなくなってきました。
そういう「産業神話」の崩壊が、学校的「道徳」の
崩壊につながり、「学校神話が壊れた」という現状に
なっていると考えられます。

この「神話の崩壊」後に、教育が可能なのかどうか?
もちろん、「学校的」な要素を切り離してしまえば、
とくに問題はない、ということになりますが、
しかし、問題はそんなに簡単なはずもないようです。

たとえば、ある保守的な勢力は、この神話崩壊の時流を
食い止めようとしているようです。
考えてみれば、この時流は、産業拡大を
放棄するようなものですから、
行く先を考えると、神話後の不安は、正直な話、
ないとは言えないですよね。

そうなると、壊れた神話を捨てられない、という状態に
なってしまいます。
そういう状態であることを踏まえて、「教育は可能なのか?」
となると、これは、なかなかに難しい問題です。

解決するには、
神話を捨てても安定して歩めるような、
確固たる道を見つけることが先決、
というような状態になってしまっている感じです。

要するに、行き詰まっている、ということです。
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 ちょっと仕切り直し。

下にあちきが書いたやつ、イマイチ問題の所在をまちがった感じ。学校という神話の崩壊と学級崩壊を結び付けているんだね。学級崩壊という現象の背後に、教育を受けることに対する子どもたちの信頼の崩壊みたいなものがあって、子どもたちが本能的にそういうものを感じている…という感じ?
 そういうことだと考えて仕切り直しするね。

 まずちょっと困難なこととして、子どもたちの心の中に、本当にそういうものがあるかどうかの検証が難しいってのがあると思う。そういう思いを自分の言葉で語れる子どもがどれほどいるか。となると手法は、子どもたちの言動(教室での行動、態度、作文や絵画まで広く捉えて)をたくさん集めて検証して、分析していくやり方になってくる。ちょいとやっかい。
 やっかいだけど、がんばって仮に「そういうものがある」と確認されたとして、それをどう評価するか。
 たまたま現在の日本が不況で、終身雇用制度が崩壊して、「いい教育→いい職場→しあわせ」というレールへの素朴な信頼が揺らいでいるからという理由に過ぎないかもしれない。「学校という神話の崩壊」と呼べるほどのものではなくて。
 なんというか、学校神話の崩壊が現に起こっていて、それが近現代という時代の価値観が再編成されていく胎動のようなものを感じることができれば面白いんだけど。どう思う?

 けれど、それとは別のこととして、教室で前の黒板の方に向けてすべての机が配置され、そこにお行儀よく生徒たちが座って、教師を注視する(と同時に、生徒たちは教師の視線を常に感じつづける…パノプチコン効果)という学校の図式は、ぼちぼち怪しくなっていると思う。そういうマスプロ方式の教育が生徒の間に理解度格差を生み、落ちこぼれを生み、それが「競争の過剰」という誤認を呼び、「ゆとりの教育」というミスリードを導き、「心の教育」という生徒の内面への介入を正当化する。教育専門家からすれば異論もあるだろうけれど、これがここ十年くらいの日本の教育の流れじゃないかと感じている。
 特に最後の「心の教育」ってのに、僕は胡散臭いものを感じている。学校なんてのは学力だけ鍛えりゃいいんだ。子どもたちの内面とか精神とか心とか、そういうものこそ「勝手に育つ」部分だと思う。子ども同士、少し年齢がずれた子ども同士、教師や家族といった大人との関係、そういう場があれば勝手に育つ。学校が、まして文部省が介入すべきことじゃない。
 神戸の14歳、佐賀バスジャックの17歳…これは暴論かもしれないけど、彼らの事件は公権力が「こころ」に介入し始め、内面にすらパノプチコンの「視線」を感じずにいられなくなった少年たちが起こしたものなんじゃないかと疑ってる。もしかしたら、心を育てようとする教育が、心を壊しているんじゃないかと。
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この回答へのお礼

1わかるのに10かかるというのが、構造主義が導いた豊かなこたえだと思います。構造主義とは、赤わかるのに、赤がわかればいいのではなく、その色が赤だと認識するのに赤を知ればいいんじゃなくて、黒、白、黄、緑を知って、やっと赤がわかる。1わかるのに10かかる。しかし、現代の教育は、その1しか教えない。というのがカリキュラム教育の眼界なのではないでしょうか。入門ー応用とそのジャンルを縦に進んでわかった気になってるだけで、わかったようなとわかるは、大きな差異があり、現代の教育は、確信を欠いた認識を生産してるんじゃないか。と思います。
ほんとに、物事を理解するとは、横断が必要だし、「教えるー教えられる」というパノプチコンの関係からは横断的思考は、遠いんじゃないかと思います。1わからせるために1しか教えない。その1を理解したかを確かめるために、閉じた内部でテストをして、並べかえる。英単語を日本語訳と対でおぼえて何になるの?文学史の作家の名前だけ憶えてどうするの?人間は、動物に比べてちょう未熟児で生まれるから義務教育は必要というだけで、現代教育を肯定するのは、ちょっと

お礼日時:2001/05/09 00:51

 おひさでした。



 えーと、学級崩壊という現象自体の原因は、子どもの問題、親の育て方、教師の能力不足とか、多元的な要因がありそう。文部科学省の悪平等主義や「ゆとり」路線も気に入らんし。

 で、事柄を大まかに「教育」というところで見ると…やっぱ必要性は否定できないと思う。というのは、人間は「早産して」産まれてくるものだから。これは比喩じゃない。霊長類の中でも特に巨大な脳味噌を持つようになった人間は、脳が未発達な段階で分娩せざるをえなくなってるから、出産後も「社会という第二の子宮」の中で育てられなければならない。その過程を経ないと、生き物としての人間は「人間」になることすらできない。
 だから教育は不可欠。ただ問題なのは、教育とは「オトナが子どもにするもの」であるということだろう。既成の社会が、と言い換えてもいい。そうなるとどうしても、教育は「既成社会の価値観に基づく未来世代の教化・洗脳・マインドコントロール」という性格を免れることはできない(免れようとすれば、それはそれで「偽善」になると思う)。
 教育は本質的に「保守的」なんだ。必要ではあるが、しかし反面、新しい発想を摘み取る危険性をも常に孕んでいる。
 けれど、子どもは勝手に育つ。そこは見落としちゃいけないと思う。先行世代が育ってほしいと願う方向には必ずしも育ってくれない。それがじーさんばーさんの眉を顰めさせる方向になることも、もちろんある。でも新しい何かを創る方向になることもある。文部省の愚民教育に負けないやつだって出てくる。子どものそういう力は信じていいと思う。
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この回答へのお礼

むかし、岸田秀で「ものぐさ精神分析」という本で、人間は未熟児で生まれてきて、本能が壊れていて、動物のように本能をよりどころにして、生きることはできず、文化という共同幻想が必要なのは、理解できますが、現代の学校教育とそのことは

すいません、寝ます。

お礼日時:2001/05/05 01:34

 神話は終わりません。

学校というシステムは文化が求める機能ですから名前は変
わっても、なくなりません。人類が滅びれば必要ありませんが、人類は神話を作っ
て生きているのです。
 ですから、私は同じ神話なら「機能主義に徹するべし」と言っているのです。
 現実に、いじめられて死んでいこうとしているたった一人の子どもには神話はい
らないのです。現実の悪にまみれた「警察のようにごつい体育系の教師のゲンコ
ツ」が機能的な場面もあるのです。
 あなたが考える「教師」=悪、「子ども」=善、という原則論は間違っていま
す。100人の教師がいたら、そのほとんどは善人たらんとしています。しかし、
今時の「子ども」は「きたない奴はきたない」と平然と見捨てる子が100人のう
ち10人以上います。黙って見過ごす子が50人以上います。
 そのことの対処法をしっかり語ることが常に先決問題です。
 それから、学校の教育は、あなたの語るように「無意味」です。しかし、それを
知る人は、その「無意味」のつらさをしっかり把握しています。それが、知識への
第1歩ではないでしょうか?そして、それが教育の効用です。
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歴史を振り返ってみてください。

私が生まれる前の時代は、お金のあるものが好む好まざるにかかわらず、親の意向で学問を学んだ。それとは、別にお金もなく貧しいものであっても純粋に学問を愛し学問を学びたい者は苦学して自分が欲するものを学ぶべく書物をよみあさり学を深めた。それさえ、できない者もいたであろうし、学問の尊さを知らずに日々、あくせく働く者もいた。

貧富の差があからさまだった。人を差別してきたのもこれまた人であるったことも事実である。一口に『差別』と、捉えてしまうとそれを批判するかのように『平等』という言葉が、どこからともなく飛び出してくる。この一見、不平等とも見受けられるかもしれないが、批判ばかりを論じても何も生まれない。この不平等があったおかげで、教育を受けたい、学問を学びたいという気持ちを強く抱かせたのではないでしょうか?

そうした経緯があって、いまの義務教育が今日あるんじゃないんですか?
しかし、時代は変わってきています。そして、もとの教育のありかたからもその形は変容してしまっています。ですから、差別的にみえても教育・学問を純粋に欲するなら、はじめに立ち戻ることも致し方ないと思います。致し方ないというよりも立ち戻らなければ、教育を受けることのすばらしさはわかりえないのではないでしょうか?
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「学校」の定義が不完全のように思います。

「義務教育」と置くべきでは?
そう再定義した場合、確かに現行の義務教育は崩壊しつつあります。
しかし教育は必要であり、求められる物でもあります。

求められる教育と、実際の教育にギャップがあるだけです。
モチベーションが0と言うわけではありません。

それが証拠に受験産業や○○教室と言う類いの教育はお金を払って
みんな受けに行きます。(一部強引な勧誘とかもありますが)

求められる教育と、実際の教育のギャップを埋める努力を行政が放棄した時、
確かに学校という大きな物語りは、終るかもしれません。
金を払わないと、まともな教育が受けられない社会に。
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学校というものがpassagen22さんのいうようになるのならば。




義務教育の育む物が、知識だけではないことに、お気づきでしょうか?

そう、子供たちが思わないように統制し続けるのも、大人たちの仕事なのでは?

私は、ミディアムエイジなので、何もいえませんが。
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もう学校に「必要性は必要ない」ような気がします。

「好きにやってください」の時代が来たんじゃないでしょうか。社会性が身につけばある程度人間は生きていけます。社会性を養うのは何も学校じゃなくてもいい。むしろ「椅子に身体をくくりつける」型の学校なら、生徒児童を従順にしておく代わりに、自主性と社会性の犠牲を強いることになるでしょう。だから多様化でも何でもしたらいいんですよ。ただ、いまの学校のままなら、このまま無用の長物になっていくというだけの話です、たぶん。

だから継続は可能だが、継続すること自体に意味はあまりない。知識にしてもほとんど後学可能なものです。学校の神話は崩れたのでしょう。
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この回答へのお礼

知識5年説があって、特に理系の知識は、5年の寿命で、学校で習うのは、時代おくれの知識で使えない。というのは、常識です。学校みんな好きだよね。

お礼日時:2001/05/05 01:47

こんなところで意味不明な質問をしていないで、本を読んでもう少し学んでください。



しかし、市井の学生風情が「学校という物語は終わった」などと言い出すご時世ですから、問題は思いのほか深刻なのかもしれませんね。
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この回答へのお礼

どんな本を読めばいいですか?教えてください。私は、中沢新一の森のバロックを読んで、こんなことを思いました。後、本田和子の異文化としての子どもが、私の考えの下敷きになってます。

お礼日時:2001/05/05 01:25

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Q帰国子女の義務教育に関し、法律はどうなっているのでしょうか

 日本国民なのだけれども親の仕事の都合等で、幼少期を外国で育った人がいます。
 例えば、日本国内で日本人の両親から生まれた日本国籍を持つ人が、幼稚園入園以前に両親とともにイギリスに渡ったとします。日本人学校には入らずに、イギリスの幼稚園,小学校に入って学んだとします。その後、10歳の時に彼は両親とともに日本に帰ってきました。
 彼は普通なら小学校5年生のはずですが、日本の義務教育はここまでまったく受けていません。
 さて、その場合、法律上彼の教育を受ける義務はどうなるのでしょうか? どなたか教えて下さい。
 また、このようなことは最近多くなってきているので、対応する法律も変わってきているかも知れません。現代ではどうなのか、ということと、30年ほど昔であれば、どうだったのでしょうか。この点もどうかお教え下さい。

Aベストアンサー

法律上のことまでは存じませんが。

教育現場の対応は、日本での受け入れ地域によっても多少差は出てきますし、その子の日本語能力によっても対応がことなります。
また、海外で日本人学校に通わなくても、現地校に通いつつ日本語補習校に通ったりするケースもあるそうです。
このあたりは、海外での居住地域の環境や保護者の考え方にも左右されます。

詳細は以下をどうぞ。

http://www.jolnet.com/school/02/02_06.html

http://www.hmt.toyama-u.ac.jp/socio/lab/sotsuron/96/taresawa/kousou1.html

http://www.joes.or.jp/

Q「役に立つ学問」「役に立たない学問」とは?

学問の存立する根拠は、「役に立つこと」のみに存しないのはいまさら言うまでもないと思います。しかし一方で「役に立つこと」が学問の契機になることもあります。古代エジプト人は、東方起源の学問を発達させながら、それを例えば測量術や建築術のような実用と決して離さなかったといわれます。しかし古代ギリシア人は、幾何学や哲学、その他の諸学を日常の実用から切り離して、日暮し天空を眺めてすごすような、純粋な精神的境地を開き、そうした境地が人生にとって「役に立つ」つまり意義深いと考えていたようです。
僕は大学で建築を学んでおり、大学院では建築論という建築の哲学みたいなことを研究します。なぜ建築するのか?などについてアリストテレスやウィトルウィウスの本を読み研究しています。こんな役に立たない学問を研究して意味があるのか?と言われるときがあります。大学は役に立たないといわれている学問を研究する場ではないのかと自分では思っています。学問の在り方について教えていただけませんか?

Aベストアンサー

役に立つということは「お金を儲ける手段」や
「直接生活と直結している」としての学問か否か
ということですか?
それ以外に意味のあることが世の中たくさんあると
思うのですがどうでしょう?

それになぜ建築するのかがわかっていないと建築に
関する法律や公共性などについて方向性が曖昧になる
と思うのですが、役に立つの?と言う人の
考えがわかりませんが、素人意見ですみません。

私は長い間美術に関する学問を学んでいましたが
建築よりずっと役に立たないと言われ続けていました。
若い頃には色々考え悩みましたが今では同じことを
人からいわれても「そうだね役に立たないね
だからほっといてくれよ。」と言おうと思っています。

役に立つの?と言った人に役に立たなかったとしても
自分に意味があればいいのじゃないかな?
その意味を他人にわかってもらうもよし放っておくもよし
学問に対する姿勢はひとそれぞれですよ。

Q義務教育の解釈は?

義務教育は「国民は、その保護する子女に、9年の普通教育を受けさせる義務を負う。」のですが、この国民って親のことだと思いますが、「学校が」という感じで権利意識が強い親が多いのが不思議です。
私のとこは、もう子供は社会人ですが、私が納税している中から、援助しているのに給食費も払わない親がいたり、何かあると親が学校に文句を言っていることを聞くと腹が立ちます。

将来の日本を荷える人間を作るため、もっと学校側が生徒と親に厳しいことを言える形にしてほしいのですが、何でそうならないのですか?

私の考えは、憲法で義務教育期間は無償で教育を受けられるという意味は、皆が納めている税金でタダで教育してやるから、もっと学校側が強い立場で対応できて当たり前と思います。

現状は、「親の義務」が「権利」に変わって、全く反対になってしまっているのが納得できません。皆さんは義務教育の解釈をどうお考えでしょうか?

Aベストアンサー

>この国民って親のことだと思いますが、
親の義務,こどもの権利というのが義務教育の意味ですから,,これで正解ですが

>「学校が」という感じで権利意識が強い親が多いのが
こんなふうな親が多いという印象ですか。。。。わたしはどちらかというと,税金で勉強させてもらってるから,と他力本願,他人事なひとたちが多いかな,という印象を持っていました。

国や地方自治体などの(教育)行政の主体は税金を納めている国民なのですが,そうだとすると“勉強させてもらってるから”という親の態度は,一件聞き分けのよさそうな印象ですが,教育の主体としての自覚に欠けてますね。教育の義務を負う親としては,国や学校に子の教育を“委ねている”というのが正確なところだと思います。一方で親は主権者として政治に参加する義務もありますから,教育内容について“白紙委任状”を渡しているわけではない。。。

じつは,この義務教育論と,教育は買い与えることができないという“教育≠サービス”論とは次元の異なる議論だとわたしは思います。

義務教育はいま,授業の学習塾への委託や習熟度別授業,漢検や学力テストによるランキングなど“教育サービス”への下り道を自らまっさかさまに転げ落ちています。こうした流れのなかでは,教育の購買者たる親が,“サービス”の品質に文句をつけることは当然の権利です(それがいいといっているのではありません)。

その一方で,義務教育のいわゆる主体者としての親には,教育に参加し,学校と協働・助言していく責任があります。この意味での親は,子の教育に対してけっして“目と耳を閉じた”モノであってはならないんです。

いちばん大きな問題は,“教育サービス”へクレームを寄せる親をマスコミがモンスターペアレンツと名づけて際立たせたことにあると思います。このたった1つの“造語”が無分別に使いまわされるおかげで,本来教育の主体者として主張しなければならなかった“誠意ある”主張もまるでクレーム扱いです。

モンスターペアレンツといわれる人々のクレームだって,商品その他の一般的なサービスへの要求に較べてみれば驚くほどでもありません。購買者たる親はそれこそ全国に何千万人もいるわけなんですから。。。

理解できないのは,自ら“教育サービス”であることを選んだ国や学校の態度です。いまの時代,サービスならCS(カスタマーサービス)があって当然です。クレーム処理だってサービスの一部なんです。それなのに,義務教育の主体なのだから共同責任(すなわち買ったものの責任)だと言わんばかりです。

再度述べますが,義務教育論と,教育は買い与えることができないという“教育≠サービス”論とは次元の異なる議論です。これをミソもクソもいっしょに“口にする”のはいかがなものでしょう。。

ところで,本題の義務教育についてですが,,ここで課されるおやの義務とは,子が人として社会に参画するにあたって,他の人々と社会(の価値,幸せ,問題などなど)を分かち合えるだけの能力を身に付けさせなければならない,ということです。勝手に産み捨てて野獣のような人間を社会に放ってはいけない,というくらいの意味です。こどもに社会を生き抜く能力=武器を与えるため,,というのは一義的にはちょっとした誤用ですね。。

>この国民って親のことだと思いますが、
親の義務,こどもの権利というのが義務教育の意味ですから,,これで正解ですが

>「学校が」という感じで権利意識が強い親が多いのが
こんなふうな親が多いという印象ですか。。。。わたしはどちらかというと,税金で勉強させてもらってるから,と他力本願,他人事なひとたちが多いかな,という印象を持っていました。

国や地方自治体などの(教育)行政の主体は税金を納めている国民なのですが,そうだとすると“勉強させてもらってるから”という親の態度は,一件...続きを読む

Q仏教系学校とかキリスト教系学校とかは聞きますが、イスラム教系学校ってありましたっけ?

仏教系の学校ですと駒澤大学とか仏教大学、キリスト教系の学校ですと上智大学とか立教大学、青山大学が思い浮かびます。ほかにも高校、中学校、小学校、幼稚園まで、宗教団体が学校設立にかかわった学校はたくさんありますね。もちろん全部私立学校ですが。

ところで世界の三大宗教といえば仏教、キリスト教、イスラム教ですが
日本にイスラム教系の文部省認可の学校ってありましたっけ?

あったら、学校名、幼稚園名(文部省認可に限る。各種学校に該当するものは除く)を教えてください。
もしなければ、なぜ日本にイスラム教系学校がないのか、教えてください。

Aベストアンサー

岐阜に新しく学校を建てるという計画があるようです。
文部省認可なのかはわかりません。

しかし今はまだイスラム系の学校はないでしょうね
仏教系やキリスト系の施設は信者からのお金の取り方が上手なのかもしれませんね

日本ではイスラムに対しての認識もとても低いので徐々にできるのではないのでしょうか?

Q義務教育ってどういうことだろ思いますか?

 国民には,子女に普通教育を受けさせる義務があるコトは分かります。
家庭の事情で,毎日登校させなくても良いと思うのですが。
つまり,修了証書・卒業証書が取得デキれば良いと思うのです。

自習や補講と呼ばれる授業者がいない間も学校に拘束されることが,義務なのでしょうか?教員の休暇・研修等は事前に組み替えて授業数を確保して,デキない児童生徒だけに補修する等の区別をすべきだと思うのです。

デキた児童生徒には課外授業として,専門教育(部活動)も選べるようにすべきだと思うのです。
つまり,午前中は必須,午後は補修や課外活動とかに区別する。

能力の違う児童生徒を同じ学級で一日中又は,終了まで拘束することが義務なのでしょうか?

 長期療養等で登校しない生徒に修了証を出したり,死亡した元生徒に卒業証書を出したりもしています。

学校の裁量で,どうにでもなるのです。

 30年以上前からバブル期には,義務教育の必要性は無くなったと教育界で言われました。学校にある図書や事務機器などが,教員の資質さえもが,学区内の民間より劣るケースは少なくないのです。

子ども(扶養する子女)を学校に送り出す立場で迷って仕舞います。 



 第26条1項「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。」
同2項「すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負う。義務教育は、これを無償とする。」

 国民には,子女に普通教育を受けさせる義務があるコトは分かります。
家庭の事情で,毎日登校させなくても良いと思うのですが。
つまり,修了証書・卒業証書が取得デキれば良いと思うのです。

自習や補講と呼ばれる授業者がいない間も学校に拘束されることが,義務なのでしょうか?教員の休暇・研修等は事前に組み替えて授業数を確保して,デキない児童生徒だけに補修する等の区別をすべきだと思うのです。

デキた児童生徒には課外授業として,専門教育(部活動)も選べるようにすべきだと思うのです。
つまり,...続きを読む

Aベストアンサー

はい、確かに、一般に「教育の義務」と簡単に言われていることは、「義務教育期間に該当する年齢の子どもの保護者(一般的には、親)は、その子どもに、教育を受けさせなければいけない」ということです。
子どもサイドから言えば、学校に行く義務なんて、ありません。
どんな境遇の子でも(たとえば、両親が亡くなって、児童養護施設で養育されているとか、両親がリストラされて、生活保護の家庭で暮らしているとか)、等しく教育を受ける『権利』をもっているだけです。

ただ、私が学生時代に、教育法規の授業かなんかで聴いたような記憶があるんですけど、日本の義務教育というのは、「教育を受けさせる」とは言ってますけど、それを具体的に言うと「学校に登校させる」のが義務らしいです。
だから、強引な言い方をすると、「『登校しなくても』卒業証書がもらえれば良い」のではなく、「『成績が底辺級でも』(学校に登校していれば)卒業証書がもらえる」みたいな感じ。

「能力が違う子を、指定した時間帯ずっと、拘束する」……というか、親が学校に拘束を委託するというか……言い方が極端ですけど……そういうのが、日本の義務教育の実際のアクションみたいです。

外国にも、義務教育という制度がある所はたくさんありますが、システムは様々です。
たとえば、「これこれの内容(知識)を理解することが、義務化されている」といったシステムで、優秀でどんどん理解できてしまう子がいる場合、「できない子を集めて補習をおこなう」のではなく、優秀な子の方を、どんどん飛び級させてしまう所もあります。
また、できる子は進級するが、できない子は留年するのが普通……という所も、あるみたいです。そういう地域では、理解できない・理解するのに時間がかかる(時間をあけて2回もしくはそれ以上、繰り返して話を聞かないと、理解できない)という子は、2年かけて(時間をかけて)進級するのが普通なので、留年というか同じ学年を2回とかやっても、恥ずかしくないらしいです。

質問者さんは、ルイザ・メイ・オルコットの「若草物語」を読んだことはありますか?昔、テレビアニメになったこともあります。
南北戦争時代のアメリカを舞台にした、4人姉妹をメインにした児童文学ですが、この中で三女ベスと四女エイミーは、学業期の少女です。エイミーは学校に通っていますが、ベスは体が弱いので、家で勉強しています。また、エイミーが学校で不快な経験をした時(教員が嫌な思いをさせた)、母親が「あの先生(学校だったっけか?)は、不満に思う点もあるので、しばらく学校に行かずに、家でベスと一緒に勉強しなさい」と言ったことがあります。(解決して、エイミーは再び学校に行くことになりますが)
時代や国にもよりますが、このように、「勉強さえできれば、学習する場所は、学校でも家でもいい」というのも、あるようです。
学校でいじめられたりしないよう(=無菌状態で過ごすために)、学校に通わせずに、家庭教師をやとって家で勉強させるという上流階級があった、という話も、きいたことあります。

卒業証書や修了証は、学校で発行する物なので、「学校長の裁量で」死亡した生徒や長期療養の子などに発行することは可能ですが、学籍簿的には、死亡した生徒はその学校の卒業生になりません(卒業の段階で本人がいないので、卒業証明書に該当する物は出しようがありません)
今の日本は、質問者さんが希望するような教育システムではないので、そういう点では質問者さんにとっては残念な状態です。
しかし、質問者さんがお考えのような教育制度も、いいですよね。

はい、確かに、一般に「教育の義務」と簡単に言われていることは、「義務教育期間に該当する年齢の子どもの保護者(一般的には、親)は、その子どもに、教育を受けさせなければいけない」ということです。
子どもサイドから言えば、学校に行く義務なんて、ありません。
どんな境遇の子でも(たとえば、両親が亡くなって、児童養護施設で養育されているとか、両親がリストラされて、生活保護の家庭で暮らしているとか)、等しく教育を受ける『権利』をもっているだけです。

ただ、私が学生時代に、教育法規の授業...続きを読む

Q不思議なことに彼女といても手を繋いでも抱いても孤独の心はそのままです。 きっと僕だけじゃないとおもい

不思議なことに彼女といても手を繋いでも抱いても孤独の心はそのままです。
きっと僕だけじゃないとおもいます。
でも、自分の神様をつくると孤独から解放されます。宗教とかじゃなくてただ、神様を心のなかにつくるだけで孤独から解放されます。
この考えは他人を迷惑かけたりしますか?

Aベストアンサー

しません。ご安心ください。

Q幼稚園 義務教育

いま幼稚園を義務教育化する方針を検討されているようですが、
もし義務教育化されたら幼稚園に通う月謝がかからなくなるのでしょうか?

Aベストアンサー

 憲法に「義務教育は無償」とあるので、基本的に無償化の方向でしょうが、莫大な費用の財源をどうするのか、疑問というより心配です。
 また、幼稚園教育は小中学校に比べて私立幼稚園が担っている割合が大きく、地域によっては公立園がまったくない市町村も存在します。ですから、今のまま公立は無償、私立は有償とするわけにもいかないでしょう。
 また、義務教育年齢で保育園に通う子どもの保育料をどう扱うか、という問題もあります。
 具体的な方針が出てくるのはもう少し先でしょう。

Qがんばれ富田

 
本日、富田選手が意を決して韓国に飛び立った。
富田選手は今日までよくがんばった。
富田選手は無実であると断言できます。
悪いのは韓国警察であることは間違いない。
全て韓国警察が仕組んだ陰謀である。
富田選手は韓国にハメられたのである。
しかし真実は証明され、富田選手は無実であることが必ず証明されると断言できます。
近々韓国警察は恥をかくことになるでしょう。
皆でがんばれ富田とエールを送ってやるべきではないか。
 

Aベストアンサー

素晴らしい洞察によるご質問です。
私の人の道さん同様に、敢えて堂々と半島の官憲の前に出ていった富田選手を応援しています。

Q義務教育国庫負担金のありかたについて

今、三位一体改革を義務教育のことを中心に勉強しています。ぜひ義務教育国庫負担金のこれからのありかたについて皆さんの考えを教えてください。

Aベストアンサー

まず、義務教育費の中で、もっとも負担が大きいのは人件費です。
非常に恵まれている行政職の公務員よりさらに高額な教員の人件費(生涯賃金)は、国民におもくのしかかっています。

しかし、日本の労働組合は非常に強いので、そう簡単に人件費の削減はできそうにありません。

人件費を削減しようとすると、悪者の烙印を押されてしまうのです。
人件費を自然な形で削減しようとすると、人件費も含めた義務教育費を地方に渡し、その自治体に人件費と、それ以外の教育費をバランスさせるように委ねるしかないのです。

だから、労働組合は義務教育費を地方が自由にすることをいやがっているのです。

僕は、いまの保護者の塾や習い事に金を使う状況を見ると、全額を税でまかなうのは問題だと思います。税ということは、借金ですから、結果的に子供に負担を押しつけていることになります。

Q『シーシュポスの神話』について

カミュ『シーシュポスの神話』について、質問したいんですが・・・。

ちょっと興味があって、読んでみたいなと思っている本です。
1つ、気になったので、教えてください。

この本は、「ギリシャ神話」をベースにしてカミュが書いたもの?と思っていたのですが、もともと、本当に「ギリシャ神話」の中に、「シューシポス」という登場人物が居る、というわけではないんですか?・・・つまり、『シューシポスの神話』というものが、もともと、「ギリシャ神話」の中に実際にあるわけではないんでしょうか?

ギリシャ神話という「枠」を使って、カミュが創作したものが、「シューシポスの神話」だったのでしょうか?

解りづらい質問ですみません・・・。
どなたか、知っていたら、教えて欲しいです。

私は、哲学や思想に詳しくないので、できるだけ易しく教えていただけると嬉しいです。

Aベストアンサー

古代ギリシアの経済の中心地にコリントスという都市国家があり
シシュポス王はその創始者です。

もちろんギリシア神話に登場して、非常に聡明な人物とされます。
ギリシア神話の最高神であるゼウス神を何度も出し抜いています。
まあ、ギリシャ神話のゼウスはただの好色でマヌケなおっさんという
書き方しかされていないので誰でも出し抜けちゃいそうなんですが。



そのシシュポス王も最後は、ある永遠に繰り返される刑罰を
神々から受けることになります。カミュのシーシュポスの神話は
このあたりが主題になっています。


ちなみにこのカミュの論評は、解説なしで哲学用語が飛び交う
非常に難解とされる本の一つなので、哲学や思想に詳しくないと
最初はちょっと面白くないかもしれません。
ただ、諸々の哲学の知識を得てから読み直すと違った驚きがあるので
お勧めできる本だと思います。


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