ショボ短歌会

授業時間中の生徒は、自分の椅子に体をくくりつけて、教壇の教師の語る言葉を聞き、その要求にこたえ、もとめられている振る舞いをすることによって、教師の満足を得なければ、いい生徒になれない。ここでは、知識は自由をもたらさない。

このような事を誰も疑わず、意味のあることと思っていた時期がありました。将来の為、今がんばれば、きっと役にたつ。みんなが、そう信じていれば「学校の継続」は可能だと思います。授業の邪魔するやつは、病気あつかいして排除すればいいだけです。

ところが、学校は、将来の為、今がんばれば、きっと役にたつ。ということが、うすうす違うんじゃないか、うそっぱちじゃないかと、きずいてるかもしれません。モチベーション、0という状態で
「学校の継続」が可能なのかそれがしりたいです。学校神話が壊れた後で、再び「知識のない者は、どのような辛い壁をよじ登らねばならぬのでしょうか?」と学校の必要性の神話を築けるのか。もう学校という大きな物語りは、終わったのかもしれません。

A 回答 (10件)

 「お礼」ありがとう。

続きが遅れてごめんなさいね。

 構造主義を絡めた話について。
 知識は「体系的」な方がわかりやすいし、身に付きやすいね。バラバラに物事を羅列されるよりも。たしかにそういう点では、今のカリキュラムには改善すべきところがたくさんあると思う。やはり「ゆとり」と称して大事な骨をカリキュラムから抜きまくっているから。小学校や中学校の歴史の教科書なんか退屈この上ない。個々の知識を支える「網の目」が書かれてない。こういうものを使って教室で授業を進めても、それは、生徒たちの頭の中に水の泡のように浮かぶ「なぜ」を、生徒が自覚する間も与えずに置き去りにしてしまうだけではないかな。

 それと…。下の方の「お礼」を見ると、なんと、本田和子さん読んでるんだ。だったら話は早い。実はこの線で書いてみようかと思ってました。
 要するに近代における「子どもの発見」というのは、「幼さを愛そうとする力と幼さを排除しようとする力が同時に働くもの」というカテゴリーの析出だった。大人たちはそうした虚構の像を介してしか、子どもを見ることができなくなっているという話。「近代家族」と並んで「近代教育」および「学校」が、そうした「子ども」を囲い込む制度になっている。だが、そうした教育は、すでに「虚像でしかない子ども」に向けられたものであって、真に子どもに必要なものを与えているかどうかには議論の余地がある。
 似たような図式になっている例としては「児童文学」が挙げられる。特に「読書感想文コンクール」の課題図書に指定される傾向のものだ。そういう作品のテーマは、よく指摘されることだけど、実にみっともない程「時代」を反映している。「戦争反対」だったり「公害批判」だったり、世間でイジメが問題になればそれがテーマになるし、離婚が増えればそれがまたテーマとして取り上げられる。子ども自身が読みたいものではなくて、「その時代その時代の大人が子どもに読ませたいもの、考えてほしいもの」なんだ。ふつうなら読みたくもない本は売れないはず。ところが、この手の本は読書感想文の課題図書に指定されるから必ず一定の売上を確保することになり、結果、「児童文学者」たちは「大人のコンプレックスを持ち込むだけの作風」を反省することすらしなくなる…。

 「子どもらしさ」という属性は、本当は子ども自身に帰されるものではないのかもしれない。大人がそう見たいと思うものが「子どもらしさ」であって、それは実は本当の子どもらしさを覆い隠すように上から貼り付けられたレッテルなのかもしれない。
 すると…、きみの言うとおり、「義務教育は必要というだけで現代教育を肯定するのは」問題ありだったね。教育なるものが社会の要請に基づいて「先発世代の後発世代に対する教化」という性格を持つことはどうしても避けられないにしても、「虚像ではない真の姿での子ども」自身が求めるものと、何とかして折り合わせていく方策は考えなきゃいけないと思う。
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この回答へのお礼

返事書いてくれてありがとう。すごい内容です。今は感想しか書けないけど、きちんとした返事をかきます。子どもという存在にリアルにふれようとしたとき、真実が立ち上がるような気がします。真実とは、存在するものを背おい引き受けることではなく、生きてるものを、解放し、その重荷をとりのけてやることだと思います。本当に考えることは、必然的に、解放し、重荷を取りのける、ポップ哲学になると思います。教育とは何かと、考えた時、リアルまでたどり着けば、きっとポップな答えが出る気がします。ポップな答えありがとう。

お礼日時:2001/05/13 00:13

> 授業時間中の生徒は、自分の椅子に体をくくりつけて、


> 教壇の教師の語る言葉を聞き、その要求にこたえ、もと
> められている振る舞いをすることによって、教師の満足
> を得なければ、いい生徒になれない。ここでは、知識は
> 自由をもたらさない。

学校が、本当に知識の伝授を主目的とするならば、
おっしゃるような現象が見られるということは、
方法論として、目的に適っているとは言い難いと言えます。
しかし、学校は、ある「美徳」を教えようとします。
我慢強く、文句を言わず、克己して、言われたことに
勤勉に勤しむことをもって「よし」とします。
現状から考えると、学校の(隠れた)主目的は、
むしろこちらの側にあるようなものです。
つまり、
(「使えない」と言われる英語が、典型的に示しているように)
学校というものは、知識の伝授よりも、
むしろ、そういう「よい」人材を育てることを
事実上の目的としているかのように機能している、
というわけです。

この「よい」性質というのは、学校だけでなく、一般社会でも
「美点」として判断される場合があります
(これが、学歴社会を支えてきた、道徳感でもあるでしょう)。
ということは、一般社会も「学校的な」教育を
(一部)承認している、ということになります。
特に産業界は、この種の「美点」を評価するでしょう。
それが、産業の拡大を支えそうな人材を生むからです。

産業の拡大は、国の命題の1つとして(特に日本では強く)
あるわけですが、この学校的な「道徳」は、この目的に
非常に都合がいい。というより、歴史的には、この目的のために、
教育が「学校的」になり、社会が「学校的」になったのだ、
と言えるでしょう。

しかし、時代が下って、産業の拡大は必ずしも幸福に
結びつかなくなってきました。
そういう「産業神話」の崩壊が、学校的「道徳」の
崩壊につながり、「学校神話が壊れた」という現状に
なっていると考えられます。

この「神話の崩壊」後に、教育が可能なのかどうか?
もちろん、「学校的」な要素を切り離してしまえば、
とくに問題はない、ということになりますが、
しかし、問題はそんなに簡単なはずもないようです。

たとえば、ある保守的な勢力は、この神話崩壊の時流を
食い止めようとしているようです。
考えてみれば、この時流は、産業拡大を
放棄するようなものですから、
行く先を考えると、神話後の不安は、正直な話、
ないとは言えないですよね。

そうなると、壊れた神話を捨てられない、という状態に
なってしまいます。
そういう状態であることを踏まえて、「教育は可能なのか?」
となると、これは、なかなかに難しい問題です。

解決するには、
神話を捨てても安定して歩めるような、
確固たる道を見つけることが先決、
というような状態になってしまっている感じです。

要するに、行き詰まっている、ということです。
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 ちょっと仕切り直し。

下にあちきが書いたやつ、イマイチ問題の所在をまちがった感じ。学校という神話の崩壊と学級崩壊を結び付けているんだね。学級崩壊という現象の背後に、教育を受けることに対する子どもたちの信頼の崩壊みたいなものがあって、子どもたちが本能的にそういうものを感じている…という感じ?
 そういうことだと考えて仕切り直しするね。

 まずちょっと困難なこととして、子どもたちの心の中に、本当にそういうものがあるかどうかの検証が難しいってのがあると思う。そういう思いを自分の言葉で語れる子どもがどれほどいるか。となると手法は、子どもたちの言動(教室での行動、態度、作文や絵画まで広く捉えて)をたくさん集めて検証して、分析していくやり方になってくる。ちょいとやっかい。
 やっかいだけど、がんばって仮に「そういうものがある」と確認されたとして、それをどう評価するか。
 たまたま現在の日本が不況で、終身雇用制度が崩壊して、「いい教育→いい職場→しあわせ」というレールへの素朴な信頼が揺らいでいるからという理由に過ぎないかもしれない。「学校という神話の崩壊」と呼べるほどのものではなくて。
 なんというか、学校神話の崩壊が現に起こっていて、それが近現代という時代の価値観が再編成されていく胎動のようなものを感じることができれば面白いんだけど。どう思う?

 けれど、それとは別のこととして、教室で前の黒板の方に向けてすべての机が配置され、そこにお行儀よく生徒たちが座って、教師を注視する(と同時に、生徒たちは教師の視線を常に感じつづける…パノプチコン効果)という学校の図式は、ぼちぼち怪しくなっていると思う。そういうマスプロ方式の教育が生徒の間に理解度格差を生み、落ちこぼれを生み、それが「競争の過剰」という誤認を呼び、「ゆとりの教育」というミスリードを導き、「心の教育」という生徒の内面への介入を正当化する。教育専門家からすれば異論もあるだろうけれど、これがここ十年くらいの日本の教育の流れじゃないかと感じている。
 特に最後の「心の教育」ってのに、僕は胡散臭いものを感じている。学校なんてのは学力だけ鍛えりゃいいんだ。子どもたちの内面とか精神とか心とか、そういうものこそ「勝手に育つ」部分だと思う。子ども同士、少し年齢がずれた子ども同士、教師や家族といった大人との関係、そういう場があれば勝手に育つ。学校が、まして文部省が介入すべきことじゃない。
 神戸の14歳、佐賀バスジャックの17歳…これは暴論かもしれないけど、彼らの事件は公権力が「こころ」に介入し始め、内面にすらパノプチコンの「視線」を感じずにいられなくなった少年たちが起こしたものなんじゃないかと疑ってる。もしかしたら、心を育てようとする教育が、心を壊しているんじゃないかと。
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この回答へのお礼

1わかるのに10かかるというのが、構造主義が導いた豊かなこたえだと思います。構造主義とは、赤わかるのに、赤がわかればいいのではなく、その色が赤だと認識するのに赤を知ればいいんじゃなくて、黒、白、黄、緑を知って、やっと赤がわかる。1わかるのに10かかる。しかし、現代の教育は、その1しか教えない。というのがカリキュラム教育の眼界なのではないでしょうか。入門ー応用とそのジャンルを縦に進んでわかった気になってるだけで、わかったようなとわかるは、大きな差異があり、現代の教育は、確信を欠いた認識を生産してるんじゃないか。と思います。
ほんとに、物事を理解するとは、横断が必要だし、「教えるー教えられる」というパノプチコンの関係からは横断的思考は、遠いんじゃないかと思います。1わからせるために1しか教えない。その1を理解したかを確かめるために、閉じた内部でテストをして、並べかえる。英単語を日本語訳と対でおぼえて何になるの?文学史の作家の名前だけ憶えてどうするの?人間は、動物に比べてちょう未熟児で生まれるから義務教育は必要というだけで、現代教育を肯定するのは、ちょっと

お礼日時:2001/05/09 00:51

 おひさでした。



 えーと、学級崩壊という現象自体の原因は、子どもの問題、親の育て方、教師の能力不足とか、多元的な要因がありそう。文部科学省の悪平等主義や「ゆとり」路線も気に入らんし。

 で、事柄を大まかに「教育」というところで見ると…やっぱ必要性は否定できないと思う。というのは、人間は「早産して」産まれてくるものだから。これは比喩じゃない。霊長類の中でも特に巨大な脳味噌を持つようになった人間は、脳が未発達な段階で分娩せざるをえなくなってるから、出産後も「社会という第二の子宮」の中で育てられなければならない。その過程を経ないと、生き物としての人間は「人間」になることすらできない。
 だから教育は不可欠。ただ問題なのは、教育とは「オトナが子どもにするもの」であるということだろう。既成の社会が、と言い換えてもいい。そうなるとどうしても、教育は「既成社会の価値観に基づく未来世代の教化・洗脳・マインドコントロール」という性格を免れることはできない(免れようとすれば、それはそれで「偽善」になると思う)。
 教育は本質的に「保守的」なんだ。必要ではあるが、しかし反面、新しい発想を摘み取る危険性をも常に孕んでいる。
 けれど、子どもは勝手に育つ。そこは見落としちゃいけないと思う。先行世代が育ってほしいと願う方向には必ずしも育ってくれない。それがじーさんばーさんの眉を顰めさせる方向になることも、もちろんある。でも新しい何かを創る方向になることもある。文部省の愚民教育に負けないやつだって出てくる。子どものそういう力は信じていいと思う。
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この回答へのお礼

むかし、岸田秀で「ものぐさ精神分析」という本で、人間は未熟児で生まれてきて、本能が壊れていて、動物のように本能をよりどころにして、生きることはできず、文化という共同幻想が必要なのは、理解できますが、現代の学校教育とそのことは

すいません、寝ます。

お礼日時:2001/05/05 01:34

 神話は終わりません。

学校というシステムは文化が求める機能ですから名前は変
わっても、なくなりません。人類が滅びれば必要ありませんが、人類は神話を作っ
て生きているのです。
 ですから、私は同じ神話なら「機能主義に徹するべし」と言っているのです。
 現実に、いじめられて死んでいこうとしているたった一人の子どもには神話はい
らないのです。現実の悪にまみれた「警察のようにごつい体育系の教師のゲンコ
ツ」が機能的な場面もあるのです。
 あなたが考える「教師」=悪、「子ども」=善、という原則論は間違っていま
す。100人の教師がいたら、そのほとんどは善人たらんとしています。しかし、
今時の「子ども」は「きたない奴はきたない」と平然と見捨てる子が100人のう
ち10人以上います。黙って見過ごす子が50人以上います。
 そのことの対処法をしっかり語ることが常に先決問題です。
 それから、学校の教育は、あなたの語るように「無意味」です。しかし、それを
知る人は、その「無意味」のつらさをしっかり把握しています。それが、知識への
第1歩ではないでしょうか?そして、それが教育の効用です。
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歴史を振り返ってみてください。

私が生まれる前の時代は、お金のあるものが好む好まざるにかかわらず、親の意向で学問を学んだ。それとは、別にお金もなく貧しいものであっても純粋に学問を愛し学問を学びたい者は苦学して自分が欲するものを学ぶべく書物をよみあさり学を深めた。それさえ、できない者もいたであろうし、学問の尊さを知らずに日々、あくせく働く者もいた。

貧富の差があからさまだった。人を差別してきたのもこれまた人であるったことも事実である。一口に『差別』と、捉えてしまうとそれを批判するかのように『平等』という言葉が、どこからともなく飛び出してくる。この一見、不平等とも見受けられるかもしれないが、批判ばかりを論じても何も生まれない。この不平等があったおかげで、教育を受けたい、学問を学びたいという気持ちを強く抱かせたのではないでしょうか?

そうした経緯があって、いまの義務教育が今日あるんじゃないんですか?
しかし、時代は変わってきています。そして、もとの教育のありかたからもその形は変容してしまっています。ですから、差別的にみえても教育・学問を純粋に欲するなら、はじめに立ち戻ることも致し方ないと思います。致し方ないというよりも立ち戻らなければ、教育を受けることのすばらしさはわかりえないのではないでしょうか?
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「学校」の定義が不完全のように思います。

「義務教育」と置くべきでは?
そう再定義した場合、確かに現行の義務教育は崩壊しつつあります。
しかし教育は必要であり、求められる物でもあります。

求められる教育と、実際の教育にギャップがあるだけです。
モチベーションが0と言うわけではありません。

それが証拠に受験産業や○○教室と言う類いの教育はお金を払って
みんな受けに行きます。(一部強引な勧誘とかもありますが)

求められる教育と、実際の教育のギャップを埋める努力を行政が放棄した時、
確かに学校という大きな物語りは、終るかもしれません。
金を払わないと、まともな教育が受けられない社会に。
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学校というものがpassagen22さんのいうようになるのならば。




義務教育の育む物が、知識だけではないことに、お気づきでしょうか?

そう、子供たちが思わないように統制し続けるのも、大人たちの仕事なのでは?

私は、ミディアムエイジなので、何もいえませんが。
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もう学校に「必要性は必要ない」ような気がします。

「好きにやってください」の時代が来たんじゃないでしょうか。社会性が身につけばある程度人間は生きていけます。社会性を養うのは何も学校じゃなくてもいい。むしろ「椅子に身体をくくりつける」型の学校なら、生徒児童を従順にしておく代わりに、自主性と社会性の犠牲を強いることになるでしょう。だから多様化でも何でもしたらいいんですよ。ただ、いまの学校のままなら、このまま無用の長物になっていくというだけの話です、たぶん。

だから継続は可能だが、継続すること自体に意味はあまりない。知識にしてもほとんど後学可能なものです。学校の神話は崩れたのでしょう。
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この回答へのお礼

知識5年説があって、特に理系の知識は、5年の寿命で、学校で習うのは、時代おくれの知識で使えない。というのは、常識です。学校みんな好きだよね。

お礼日時:2001/05/05 01:47

こんなところで意味不明な質問をしていないで、本を読んでもう少し学んでください。



しかし、市井の学生風情が「学校という物語は終わった」などと言い出すご時世ですから、問題は思いのほか深刻なのかもしれませんね。
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この回答へのお礼

どんな本を読めばいいですか?教えてください。私は、中沢新一の森のバロックを読んで、こんなことを思いました。後、本田和子の異文化としての子どもが、私の考えの下敷きになってます。

お礼日時:2001/05/05 01:25

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