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大坂の陣において、真田信繁が当座の手当てとして黄金200枚、銀30貫を支給され、成功報酬として50万石とされていますが・・・

そこで2点質問です。

1.大坂五人衆の残りの4人(長宗我部盛親、後藤基次、毛利勝永、明石全登)や、他の主だった牢人衆に対してはどれくらいの報酬が約束されていたのでしょうか?

2.真田信繁に対して約束していたとされている成功報酬の50万石は、どこの国を与えるかきまっていたのでしょうか?

宜しくお願い致します。

A 回答 (2件)

 長宗我部盛親については,報酬として旧領の土佐一国を所望したという話が伝わっていますが,正式に約束されていたかどうかは分かりません。

他の三人については何とも言えません。豊臣家のように,完全に滅亡してしまった大名家が捕らぬ狸の皮算用で何を考えていたかといったことについては,信頼できる史料など残らないのが普通ですから,答えは勝手に推測するしかないと思います。
 真田信繁に対して報酬50万石というのも,そもそも真田信繁に関する資料は後世になって脚色されたものが多く,それ自体本当の話かどうかは疑問の余地があります。当時は信繁にゆかりのある信濃一国ですら40万石であり,大阪の陣以前では信繁の評価もさほど高いものではなかったので,いくら豊臣家が浪人を集めるためになりふり構わず大盤振る舞いをしたと仮定しても,50万石を与えるといった話を豊臣方が本気で考えていたとは,ちょっと信じがたいところがあります。
 仮に50万石の約束が本当にされていたとしても,豊臣方は挙兵当時,豊臣恩顧の大名が多数馳せ参じてくることを期待しており,豊臣方についた大名の土地と被るような約束をするわけには行きませんから,具体的にどこの国を与えるといった取り決めまではなかったものと推測されます。
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この回答へのお礼

真田信繁の報酬の話はそもそも真偽不明だったのですね・・・

ありがとうございました。

お礼日時:2012/01/24 09:16

>大坂の陣において、真田信繁が当座の手当てとして黄金200枚、銀30貫を支給され、成功報酬として50万石とされていますが・・・



戦後の、逸話としての話ですね。

>大坂五人衆の残りの4人(略)や、他の主だった牢人衆に対してはどれくらいの報酬が約束されていたのでしょうか?

基本的には、関が原以前の所領安堵+出来高報酬ですね。
浪人衆については、都度採用です。確たる報酬については、正確な事は分かりません。
ただ、一月1石程度で契約社員的な立場だった様です。
浪人個々については、戦時での働きで「大名召抱え(正社員採用)」を目的としていました。
「ただ飯目的」のやからも、多くいた様ですね。^^;

>真田信繁に対して約束していたとされている成功報酬の50万石は、どこの国を与えるかきまっていたのでしょうか?

色んな記録を見ると「所望通りの国」だったようです。

まぁ、大坂の陣では莫大な経費を出費しています。
落城後の金蔵には、何も無かったようですからね。
秀吉が蓄えた莫大な財産は、ボンボンによって無くなりました。
某大手製紙会社創業家が蓄えた莫大な財産を、ボンボンが億単位で博打に使ったのと同じです。

おまけの画像は、大阪駅から数分の場所にある淀君のお墓(供養塔)です。
後世の徳川家の記録で「悪女」となりましたが、女性(特に母親)の信仰は厚いようです。
「大坂の陣における牢人衆への報酬について」の回答画像2
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

淀君のお墓、機会があれば訪ねてみたいです。

お礼日時:2012/01/24 09:18

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