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私は、カトリックの信者ですが、仏教や神道をはじめ他宗教にも深い共感を持ち、家には祖父母の位牌を収めた仏壇と父のためのカトリックの祭壇を置き、毎朝晩全部に手を合わせています。
又、「特定の宗教の神」ではなく、「普通名詞としての神」に対して信仰深かった祖母の影響もあり、私も「神」というものを、「特定宗教の神」としてではなく、全ての宗教に共通した超越的存在であるという見方をしており、カトリックであることは、単に便宜的なアクセスの方法としてしか考えていません。

日本人が、本当は一般的な意味での(つまり普通名詞としての)神仏や大自然や先祖などに対して畏敬の念~ある意味での「宗教心」~を持っているにも関わらず、一方では特定宗教に入信することに対して強いアレルギーを持っているのと、相通じるものがあると思います。

残念ながら、私たちが「神」にアクセスするためには、通常はいずれかの宗教を介してのみ可能だと思いますが、あなたは、以上私が説明したような「特定宗教の神」ではない「普通名詞としての神」に祈ることに対して、どのように思われますか?又、もし、そのようなことが可能なら、それはどのような方法ですか?

A 回答 (11件中1~10件)

質問者さんの立場は


「すべての宗教は本質的に同一である。同じ神を別々の角度から見ているのにすぎない」
としたインドのラーマクシリュナと同じです。
ラーマクシリュナの勉強をすると良いでしょう。

多くの宗教を遍歴したラーマクリシュナの教えは非常に寛容なものである。世の
中の様々な宗教は究極の一なる神がそれぞれの時代と人に合わせて現れたも
ので、各々が意義を持つ。究極の一に至るために人は自分に合った道を行けば
よいという。 彼は「宇宙の母なる神は子供たちのお腹に合うように料理を作って
下さる」という喩えを用いている。子供の消化力や好みに合わせて母親が色々な
料理をこしらえるように、神は国と時代と容器(人の理解力)に応じて色々な宗教
を作るということである。
http://ja.wikipedia.org/wiki/ラーマクリシュナ

この回答への補足

お礼での次の記載が分かりにくいと思いましたので、書き直しします。


(現状)祖母も「全ての宗教の頂点は一つ」と信じ、夫々の宗教の神を平等に崇敬し、祈っていました。
(書き直し後)祖母も夫々の宗教における神の呼び名は違っても(例えば、デウス、アラー、天照皇大神など)、頂点は同じ神であり呼び名が違うだけと信じ、夫々の宗教の神を平等に崇敬し、祈っていました。

補足日時:2012/02/25 11:04
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この回答へのお礼

ついに出ました!ラーマクリシュナの名が!
祖母はラーマクリシュナを大変尊敬し、その肖像写真まで手元に置いていました。
「すべての宗教は本質的に同一である。同じ神を別々の角度から見ているのにすぎない」
と書かれましたが、祖母も「全ての宗教の頂点は一つ」と信じ、夫々の宗教の神を平等に崇敬し、祈っていました。
インドは、仏教やバラモン教、ヒンズー教など大宗教の発生の地であり、ラーマクリシュナの他にも、前の回答者様も書かれたように、近現代に至るまで、偉大な宗教家・思想家を沢山生んでいますね。勿論ヨガの影響もありますね。非常に興味があります。

子供の消化力や好みに合わせて母親が色々な料理をこしらえるように、神は国と時代と容器(人の理解力)に応じて色々な宗教を作られたというたとえもわかりやすく、納得のいくものですね。

祖母のような「祈り方」の例は、他にもあるのだと思いますが、一般的とは言えないと思います。
しかし、日本では、そのような潜在的ニーズは大変高いのではないかと思います。

お礼日時:2012/02/25 10:40

 No.2&7です。



 あえて場違いな理論をお示しします。

 信仰類型論において 神とは何かを問い求めたものです。

    *

 §1 考えても 分かるか・分からないかが 分からないこと

 世の中には およそ 二つの事柄がある。考えて分かること(Y)と考えても分からないこと(X)と。

   Y =考えれば分かること。

     (いまは分からなくとも いづれ経験合理性に基づく科学行
     為によって分かるようになると考えられること)。  

      (科学が真実と判定したあと 真実ではなかったと判明する
     場合にも その誤謬について 〔有限ながら〕合理的に説明
     しうることがら。)
 
   X =考えても分からないこと。

    (いやむしろ分かるか・分からないかが 分からないこと)。

    (人間の知性を超えていて もはや経験合理性によっては そ
    のことの有無・可否・是非などを 判定しがたいことがら)。
 
    (もしくはつまり むしろこのように想定してしまっておくこ
    とがら。 )

 ひょっとすると 世の中は Y の経験領域のことがらだけであるかも知れない。
X は 経験を超えた領域のことであって それが有るとも無いとも 決められないことがらである。

 経験領域(Y)を規定するならば 《経験領域(Y)でない領域》は 規定済みとなる。もはや超経験領域(X)は その定義の中に――あるいは その外に――織り込まれているとも言える。だが それとして重ねて触れたほうが 説明のしやすい場合が多い。それゆえ 用語に加えたい。つまり あらためて

   超経験の領域= X

      超自然・非経験・絶対・無限・永遠・
      〔そしてこのような意味での〕神・
      〔人によっては次のごとく言う〕無・無神・空

 人間の精神は X ではない。人間じたいも 経験存在 Y であり その精神も有限であり Y に属す。《精神は 永遠なり》というのは 想定上 《 Y は X である》と言っており――冗談でない限り―― 間違いである。(→§3)

 さらには 《無意識》はどうか。これも 経験領域 Y に属すのであって 非経験 X ではない。神でもなければ 絶対法則でもないだろう。


   §2 《考える》と《信じる》

 考えるのは そして考えたことを表現するのは そしてまた表現をとおして意思疎通をおこなうのは さらにそして大きくこの意思疎通の歴史を記録し伝えあっていくのは 人間である。特にこの人間を 経験領域 Y の中より取り出して その位置を捉えよう。

   人間存在 = Z 

 とすれば 経験領域 Y に対して人間 Z が取る態度としての関係が いまの議論では 《考える(Y-Z)》である。だとすれば 取りも直さず 非経験の領域 X に対するわれわれ Z の関係は 《考える》ではない。ありえない。考えてもよいが それが意味をなすかどうかは 分からない。

 《考えても 分かるか・分からないかが 分からないもの(= X)》に対するわたし Zi の関係は 一般にも 《信じる( X-Zi )》と称される。

 これは 《考える( Y-Z )ではない》という意味で 《信じない・もしくは無を信じる( nonX-Zi )》と名づけても 同じことである。そもそも X が 経験世界で言う有であるか無であるか 分からないゆえ X=nonX であり どう表現しようと 《わたし Zi 》の勝手なのである。(信教・良心の自由という公理)。

 したがって わたし Zi は 信じる(つまり 信じないの場合も同じ)の対象(したがって すでに非対象)を 《空(欠如) 》 X-Za と言おうが 《阿弥陀仏(無量寿・無量光)》 X-Zb と言おうが 自由であろうし 《神》 X-Zcとも 《ヤハヱー》 X-Zd とも 《アッラーフ》 X-Ze 等々とも 言い得る。

 逆に 気をつけるべきは 信仰において 信じる対象は わたし Zi がわたしの精神によって思考し想像して抱く神の像ではないということである。すなわち《神》といったことば・概念・想像は 《考える Y-Zi 》の問題である。人間Zが信じるのは 道徳規律でもなければ 倫理の信念でもなく 神という言葉じたいでもない。神という文字でもなければ 聖典なる書物じたいでもなく むろん k-a-m-iという発音でもない。X( X-Z )は Y( Y-Z )ではない。後者( Y-Z )には特に 精神とその産物を含むゆえ この想像物としての神( Y-Z )と 想定上の神( X-Z )とは峻別しなければならない。


  §3 超自然 X が 経験世界 Y ないし人間 Z の
   歴史( ΣY-Zn )に介在しうるか。

 これに対する答えは むしろ簡単である。

 絶対者 X を想定したときから すでにわたし Zi は その X による介入を受けて来ている。もしくは 介入などありえないという形(=無神論 nonXーZi )において 関係が想定されている。介入という表現が 適当でないとすれば わたしとその世界( ΣY-Zi )は 思議すべからざる絶対者 X (= non‐X )に対して 開かれている。閉じられていないということが 重要である。考えても分からないことなのだから 締めたり閉じたりするわけには行かない。

 しかも ややこしいことには わたし Zi たる人それぞれによって その介入のあり方( X-Y-Zi )は 決して一様でないことである。同一人のわたしにしても その人生のなかで さまざまに変化するかも知れない.。(宗旨替えなどと言われることが起こる)。

 議論を端折るかたちになるが 問題は いまの介在のあり方について その基本の形態を 一人ひとりが明確に判断し 仮りに変化を受けたとしても 変化を経ながらも その《信仰》形態を自分のもとでつねに 確認しえていることではないだろうか。

 信じる( X-Y-Zi )か 信じない( nonX-Y-Zi )か これが いま確認すべき基本の形態である。しかも この〔無信仰を含めての〕信仰の基本形態は 変更しうるけれど その時々の現在において 明確に保持していることが 重要ではないだろうか。

 いま一歩進めるならば  このおのおのの《信じる》の基本形態について 自身が最小限度 言葉で説明しうるということが 望ましい。その点を一度 明らかにしておくならば そののちの話し合いにおいて 余計な誤解や不必要な対立を 防ぐことができるからである。互いにみづから交通整理しつつ 社会におけるコミュニケーションを円滑に進めることが望ましい。

 信仰の基本形態からあとさらに具体的に展開されるという歴史(人生)の過程 つまり言いかえると たとえば神 X が人間の歴史( ΣY-Z )に このように・かのように介入したなどという過程 この問題は そもそも話し合い(《考える》)では 埒が開かないものである。

 もっとも これを逆に言えば やはりたとえば そんな介入などには一切 目もくれないのだという意見の提示(無神論)をも含めて わたし Zi の神( X )体験ないし X 史観については 自由に話し合えばよい と言える。そして そのとき コミュニケーションが成り立つかどうかは はじめの信仰の基本形態(大前提)に合致しているかどうか によって判断されるものと思われる。

 もし問題があるとすれば その大前提について あらためて想定の仕方や規定の内容を 議論しなおせばよい。

 以上の定義だけの理論は 次が その心である。

   吾人はすべからく互いの差異を 自由に批評し合い コミュニケーシ
  ョンを進めながら つねにその差異を認め合わざるべからず。 
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この回答へのお礼

再度ご丁寧にお答えいただき、有難うございました。
bragelonneさんお得意の数式まで飛び出し、難解な部分はありますが、イメージとしては理解できる気がします。
宗教や神を信じるかどうかという事は、考えてもわからないこと(X)であり、考えるよりも信じるしかない部分があるのでしょうが、信じない・もしくは無を信じるという選択肢も勿論あり、それを責めることは出来ないのでしょう。

又、神が歴史にどのように介入したのか、或いは介入しなかったのか、ということも自由に色々な人と議論することにより、その考え方の差異を「楽しむ」も一興なのでしょう。

どの程度理解しているのか心もとないところもありますが、私なりに理解しました。

又、キリスト教において、聖書をどのように位置づけるかについては古くから議論がありますが、つい先ほど読了した八木誠一氏著『イエスと現代』(NHKブックス)によると、聖書はイエスの生涯を歴史的事実として伝える文書ではなく、信仰を生み出し信仰を伝えようとする文書であるということであり、奇跡物語などはそのための象徴的物語だという事です。そう考えると宗教もなんだか科学的になってしまい、有難味が少なくなるような気もしますが・・・。

お礼日時:2012/02/26 22:46

No.5です。

本部のURLにアクセスしてくれたのですね。有り難う御座いました。多分東京の会のもあったでしょうが、やはり本部のもので結構です。
日本の会員も真面目で誠実、信頼はできますが、間接ではなくダイレクトがいいです。
神とGod、イシュワラ。みな神と訳しています。しかしマザータングを私たちは無私で来ません。
どうしても自己の中で解釈する必要からぬけられません。
普通名詞の神、それは観念や概念なのかもしれません。
しかし私達もそして世界も観念や概念ではない。生きているのは観念でも概念でもない。
普通名詞の観念や概念では神は、宇宙と私達には無意味でしょう。
しかし、単に固有名詞や集合名詞でも不適切です。
そこらが信仰の難しさですね。どの信仰でも。
私は、実はラディカル革新政党の居住活動者ですが、このSelf-Realization Fellowshipなる信仰での勉強と精進をしています。未だ40年ちょいとで偉そうな事はいえません。
そして、私は理論としては多大の批判をしている創価学会の人とも歓談するし、仲良しですし、大事な信仰を持っている方だとして大事にしています。
立正佼成会のかたも地域の神主さんとも。生長の家のみなさんとも。
信仰の方はみな崇高です。具体的で普通名詞の神と究極者がこの方々に鎮まっておられます。
そして、私達のSelf-Realization Fellowshipには臨済や曹洞の僧職者やカソリックの方々、プロテスタントの方々が、最初は勉強だけであったのが、同じ精進をするようになり、いつも間にか幹事さんになって、お世話してくれています。ありがたいです。
実はこのSelf-Realization Fellowshipの神って、そういうものでして。
だから仏教はKárma Yogaとされていますし、イスラムの宗教も私達の大事な信仰団体です。
普通であって、具体的がいいと存じます。結論は。
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この回答へのお礼

信条や教義は違っても、他宗教の皆さんと交流することは大切なことだし、色々得られるものが多いと思います。
特に日本社会では、宗教に対して強いアレルギーがあるようですが、私はそのような風潮を非常に嘆かわしいと思います。
正しい信仰を持つ人は、それがどの宗教かに拘らず、少しでも良い人間に向かいたいという向上心と、穏やかな心を持っていると思います。

又、おっしゃるように、各々具体的、特定の神を持った方がイメージが沸きやすく、便利だということであればそれでいいと思いますが、お互いに相手を否定せず交流するのであればそれはそれで良いのかもしれませんね。

お礼日時:2012/02/25 19:17

未洗礼ですが、カトリック教会に通っています。


僕は元々仏教の浄土真宗を信仰してて、自分で言うのもなんですが、
「優等生の仏教徒」だったと思います。 家族の死がきっかけで、信仰心が厚くなりました。
それとは別に、鬱病気味だった僕は、助かりたくて、姿も見えない神様によく祈ってました。

そんな自分が教会に通いはじめて、また10ヶ月しか経ってないんですけど、
理由は「子供の頃から教会に興味や好感があった」というものです。
家族の死をきっかけに仏教に信仰が移りましたが、3つ子の魂はどこかで生きていたようです。

さて、質問者様が感じているような「普通名詞としての神」を求める気持ちは分かる気がします。
キリスト教は三位一体とか、過越の神秘とか、イスラエルのちょっと怖い神様が
突然全世界に愛の手を差し伸べるとか、なかなか分かったような分からないような感じです。
でも、本当の神様を信じたい気持ちは持っているし、何より教会に行くのは楽しいです。
なんか満たされたような、心にゆとりができて優しくなるような、そんな気持ちになれるんです。

仏教もキリスト教も、という自分のあり方はどっちにも失礼な気がして悩みもあったのですが、
ある神父様が「仏はほどけることなんだよ。何教であっても、心の中に染み付いているんだ」
そう言われて、幾分楽になりました。(十戒と反してる部分があるのは承知の上です。)

両方行きましたが、カトリックはプロテスタントと比べてある意味で、おおらかだと思います。
他の神父様も「その人なりの信仰のあり方があっていい」とおっしゃっていました。
聖書の中身をすべて整合的に理解するのは司教様であっても無理なような気がしますが、
神は1つでも、宗教の教義はごまんとあります。人間が関わっている証左かな、と、
僕はちょっと気軽に考えています。 カトリックは暗黙のうちにそれも許されていると思います。
僕は「神よ、あなたは万物の造り主」「神に感謝」という言葉に、特に素直に心をこめています。
神様には、確かに伝わっていると思うんです。 「初心者」の自分にとって、キリスト教は、
独特の考え方に違和感を感じる事もあるし、逆に教会はいいな、と感じる事も、両方あります。
少し気を楽にもたれてみてはいかがですか? 自分なりに黙想したり、気持ちを整理して、
キリスト教信者のままでも、ホスチアを受け取るとき、ご飯を食べるとき、美しい景色を見たとき、
感動する事があった時、自分の考える「神様」に、素直に感謝する。
そういう、自分だけの「信仰」があっても、僕はいいと思います。
2人の神父様のお墨付き(と、思ってる。)です。 僕はこういう考えですが、いかがでしょうか?
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この回答へのお礼

仏教とキリスト教・・・ちょっと雰囲気の違う2つに共に足をつっこんでおられるのは、私と同じですね。私が感じるのは仏教は男性的、キリスト教は女性的という感じです。実際に、人口で言うとそんな感じがします。共に癒しのイメージがありますね。疲れた精神にもすっと入って行けるところがあるんでしょうね。

キリスト教には子供の頃から教会に興味や好感があったんですか?
対して、仏教は、家族の死がきっかけになったんですか?
夫々そんなシチュエーションが似合うんでしょうね。

あなたの会った神父様がおっしゃったように、カトリックは他宗教に寛容であり、個人個人の信仰のあり方に対して大変融通無碍な所があるのが私は好きです。第二バチカン公会議(1962~1965年)以降、時代にマッチした教会に生まれ変わるために色々努力した成果が表れていると私は思います。私の所属する教会の神父様も、「その人なりの信仰のあり方があっていい」とおっしゃっていました。

お礼日時:2012/02/25 17:23

神道では、山川草木ことごとく神になれます。


人間でも生きたまま神になれますし、トイレにも会社にも
神はいます。

この場合、神道とは国家神道や学者が理屈付けをしている
人工的な神道ではなく、教義も体系もない、神道
つまり、人間は自然と仲間だ、という
程度の原始神道のことですが。

質問者さんのいう普通名詞としての神に最も
近いのではないでしょうか。

なお、神道は神道の信者である、という自覚すら
必要とされていません。
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この回答へのお礼

トイレの神様・・・ですね。(笑)
人間は自然と仲間だ・・・大らかな世界でいいですね。
教義も体系もない神道・・・確かに神道には、神像もありませんし、教義も体系もなく、「何事のおわしますかはしらねどもかたじけなさに涙こぼるる」の世界ですね。
でも神道の修行の中に秘儀は多く、「見えない神」に対して精進潔斎して臨む厳かな行事も興味をそそります。神道というとアニミズムないし原始的なイメージもありますが、仲々奥の深い世界だと思います。
それと仏教も神道も、「信者になる」という感覚はなく、人間生まれながらに組み込まれるという意識が自然体でいいですね。

お礼日時:2012/02/25 13:30

 ★ (No.2お礼欄) ~~~


 次のような理解でよろしいでしょうか?
 1.「神」という以上、その「神」の内容を理解していなければ「神」ではないし、従って、祈る対象にはならない。
 2.でも、「普通名詞としての神」というのは存在しうる。

 1と2の間を私は「でも」で結んだのですが、回答者様は「つまり」で結んでいる理由がわからないので、出来れば教えて頂けますか?
 ~~~~~~~~~~~~~
 ☆ たしかに《普通名詞としての神》という規定についてあまり細かく沿うことなく 《祈る》というほうに重きを置いて 回答しました。

 つまりは
 ☆☆(回答No.2) ~~~
 神というのは:

 ○ あなたが神に祈る前にその内容を〔神が〕すでに分かっているというのでなければ 神ではない。
 ~~~~~~~~~~~~
 ☆ ということでした。

 そしてこれは そもそも神であるなら どんな名前の神であろうと 同じであるはずだと思っての回答です。すなわち
 ★(趣旨説明欄) 残念ながら、私たちが「神」にアクセスするためには、通常はいずれかの宗教を介してのみ可能だと思いますが
 ☆ とはわたしは思っていないということになります。神は 宗教や組織の仲介を経ずに むしろ神のほうからアクセスして来てくれると思います。
 それと同じように われわれ一人ひとりの《祈り》についても それぞれわれわれが祈る前にすでにそのま中身は 神が分かっている。こう思います。
 そういう神として 信じているという意味です。それでも 実際に祈ってもよいわけですが。

 言いかえると 儀式は要らないし宗教も要らないと言えば その《普通名詞としての神》しかいないという捉え方が分かってもらえるでしょうか?
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この回答へのお礼

>神は 宗教や組織の仲介を経ずに むしろ神のほうからアクセスして来てくれると思います。
なるほど、祖母も(特定の名前のない)神から啓示を受けたようなことがあり、よくそのイメージは理解できます。

>われわれ一人ひとりの《祈り》についても それぞれわれわれが祈る前にすでにその中身は 神が分かっている。
これもよく理解できます。
よく、神の存在を信じない人は、宗教や神は人間の作ったものである、と言いますが、神は人間が現れる前から存在するものであり、従ってキリスト教は、神が天地創造の際、最後に人間をこしらえたと創世記に書いていますね。
又、予定説やアウグスティヌスの神学にもあるように、人が救われるかどうかは、その人の心掛けによるのではなく、その人に神の救いがもたらされるかどうか、という一見本末転倒にも思える理屈によるものとも解されますね。つまり、人間の行動は神からはお見通しであり、その人間の内容については神は既にご存知だという事ですね。

改めて宗教及び宗教的儀式というものを介さなくても、神と人間はアクセス可能という事ですね。

お礼日時:2012/02/25 11:59

この場合の普通名詞に対義するのは固有名詞でしょうか、抽象化した観念への概念でしょうか。


そしてそれは一定というか特定宗教のいう神ということになりましょうか。
人というか細い豊葦原、考える葦、クシャたるものは、抽象化のものや普通的なものは、特定や的(まと)性がなくて、対象としにくいですね。
私は仰せの特定宗教の神が限りなく、森羅万象万物万人のすべてを自己とする普通性があるのがいいと存じます。
ただ、Infiniteなるこの存在は様々の形状、形態、形体、名前を持って、以って我々にあるのだと。
私はSelf-Realization Fellowshipという、ヨーガの勉強と精進をここ40年ほど細々やっていますが、私の理解と到達では私たちの教えではそういう言い方になります。
神とか何とかはいろんなタームと名称で出てくるし、定義も対象化もされていませんので、初心の方(生意気ですが)にはちょいと頼りないでしょうが、それでいいのだと存じますが。
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この回答へのお礼

なるほど・・・抽象的な「神」ではイメージしにくく、具体的な、特定宗教の神の方が祈る対象としやすい、ということですね。一方で、特定の存在でも、色々な形状や名前などを以って、普遍的に存在すると。多少ニュアンスが違うかもしれませんが、大体そういうことでしょうか?

Self-Realization Fellowship 
http://www.srf-tokyo.org/
にアクセスしました。あるページには
「イエス キリスト自身が説いた教えと、バガヴァン クリシュナが教えたヨーガとの根本的な一致を明らかにし、かつ、その根本原理が、あらゆる宗教に共通する科学的真理であることを示す。」
という記載もあり、やはり諸宗教には相通じるものがあり、協調して進むことが大切だという認識を新たにしました。

お礼日時:2012/02/25 10:22

非宗教化とか 世俗化 とかではないですか?



プロテスタントだと、バルト、ボンフェッファー、そして神の死の神学とか。。。

機械仕掛けの神とか無力な神とかいろいろありましたね。
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この回答へのお礼

キーワードを一杯挙げて下さいましたが、カール・バルトの名前を知っている位で、不案内のことが多く、Wikipediaなどで検索し、読みました。
バルトもボンフェッファーも20世紀前半に活躍したプロテスタントの神学者で、ナチズムに抵抗しましたね。

バルトは、それまでの神学のテーマが人間学に堕しているとして、神学の本来のテーマである「言における神の啓示」に焦点を当てようとしたようですね。その代表著書『ロマ書』において神という一般的抽象的言葉を用いたのに反して、その後は「神」よりも「イエス・キリスト」という言葉を多く用いるようになり、キリスト論に関心を集中させた一方、敬虔主義や他の諸宗教にも関心を示すようになったとWikipediaに記載があり、以上の記述の中の脈絡・関係も未だ私の中で交通整理できていないのですが、当時の教皇ヨハネス二十三世をして今世紀最大のプロテスタントの神学者と言わしめたり、ハイデッガーや、日本の西田幾多郎、滝沢克己らの思想家に影響を与えたそうで、西田・滝沢両氏の著作も通して学んで行きたいと思います。

ボンフェッファーは、ガンディーの「暴力に対する無抵抗主義」に共鳴しつつも、「誰かが罪を負うのもやむを得ない」と割り切って、ヒトラーの暗殺計画にまで加担した牧師ですね。その思想の中に「非宗教的キリスト教」というものがあり、勉強してみたいです。

両者を一緒に論じている論考もあるようで、更にフォイエルバッハやキュルケゴール更にはニーチェといった思想家も周囲におり、勉強する価値があるように思います。

非宗教化とか 世俗化というものが一体何を意味するのか、今すぐには理解できませんが、ある意味「宗教を介さない神とのアクセス」と似たようなニュアンスのものなのでしょうか?

お礼日時:2012/02/25 10:04

 アニミズムのようなものはある程度自然発生なんだろうと思っています。

キリスト教徒の国でも、イスラム教徒の国でも、占いや魔除け、まじないの類はあります。そういう不思議な存在に対する畏敬の念というのは普遍的にあるものだと感じています。
 しかし、一方で生け贄を捧げたり政治権力との結託などアニミズムが「村の鎮守」のレベルを超えてくると、様々な問題があったことも確かなんだろうと思います。
 日本の神社にしても、村の鎮守に対して敬意を払わないといけないと思いますが、国家神道のような思想に対しては嫌悪感を覚えます。
 私はクリスチャンではありませんが、キリスト教における唯一神でないが敬意を払う対象、例えば聖人のような存在は神道における個々の神と近い存在として捉えられるのではないかと思ってます。
 ただ、私の宗教観は「人の社会を幸福に保つための大嘘。事実ではないが、結果論として真実。」と思っており、例えば死という事実から人の心を救う宗教は、言葉の上では事実と異なる=嘘であるが心を救済し社会を平穏に保つ真実である、というような存在と捉えています。
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この回答へのお礼

自然や草木或いは太陽のような天体を神のように拝んだり、畏敬の念を持つアニミズムは宗教の原始的形態であり、世界中に存在していますね。日本でも「お天道様の下では悪いことは出来ない」という畏敬の念は、人々の行動を律し、良い人間に向かわせる効果があったと思います。特に科学や医学が未発達の時代には、他に頼るものがない人間は、解明されていない自然現象や病気には無力でしたから、当然畏敬の念を抱いたことでしょう。これに対してキリスト教では、自然や天体でさえも神の被造物という考え方から、拝む対象にすることは出来ないという考え方があったと思います。
又、キリスト教における「聖人」も「神」ではないので拝む対象ではなく、神に祈りを「取り次ぐ」存在であるとされています。
ただ、たとえ「神」ではなく「祈る」対象ではなくても「敬意を払う」対象、つまり、「手を合わせる」或いは友人に接するように、「こんにちは!」と手を振る存在であってもいいのではと思います。

キリスト教特にプロテスタント系の信者が自分の信じる「絶対神」以外の他教の「神」を全て、「偶像崇拝」と称して斥ける時、私はなぜそんなにそっけなく、狭量なの? たとえあなたの信じる「神」ではないにしても、「やあ!やあ!」と手を挙げて友人のように敬意を表したって罰は当たらないんじゃないの?と責める気持ちになります。

又、あなたの言うように、「神なんて実際には存在しないんだけど(そういう意味で神なんて嘘っぱち)、人々を和ませるための存在として必要」という考え方も理解できますが、私としては、依然として、人智を超えた「超自然的存在」という意味で「神」は存在しているものと信じます。

お礼日時:2012/02/23 22:40

 こんにちは。



 ★ 神に祈る
 ☆ とおっしゃいますが たぶんそうではなく 神というのは:

 ○ あなたが神に祈る前にその内容をすでに分かっているというのでなければ 神ではない。

 と考えます。つまり そういうふうに
 ★ 普通名詞としての神
 ☆ はある。と思います。
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この回答へのお礼

有難うございますが、ちょっと意味がよくわからないのですが・・・。
次のような理解でよろしいでしょうか?
1.「神」という以上、その「神」の内容を理解していなければ「神」ではないし、従って、祈る対象にはならない。
2.でも、「普通名詞としての神」というのは存在しうる。
1と2の間を私は「でも」で結んだのですが、回答者様は「つまり」で結んでいる理由がわからないので、出来れば教えて頂けますか?

お礼日時:2012/02/23 22:12

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