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「人間の価値は何によって決まるのか?」
 最近観た映画「ショコラ」でラッセ・ハルストレム監督は「何を排除するかではなく何を受け入れるか」によって決まるのだと訴えていました。ドラマ「ショムニ」によると「異性経験の人数」だそうで。(観ていないのですが)
 答えは人の数だけ存在するのだと思います。だからこそ様々な映画や小説のテーマとなっているわけです。しかし個人の価値観が多様化した今だからこそ皆の答えを聞いてみたく思いました。どうでしょう?

A 回答 (19件中1~10件)

たとえば 私に1兆円の値段をつけたと仮定します。


今 私は健康な体と愛すべき家族、友人、知り合いを持っています。
私の目や口、手、足 私が寝ているときも休まず働いてくれている胃や腸 60兆もの細胞。
今まで私に愛情を注いでくれた父や母、そしてパ-トナ-と子供たち。
持っている全てのものはお金では買えません。
まして私自身もお金で買えません。
お金をいくらもらっても健康でなければ私にとっては意味がありません。

人それぞれ 持っているものは違います。
車いすの人は 自分が持っている大切なものを知っている人は 自分は特別であると思うでしょう。
全ての人間は 特別で 価値は無限だと思います。
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文化の違いとは価値観の違いのことです。

ですから人間の価値は何で決まるのかについての答えを知りたいなら、自分が埋め込まれている文化を理解することが必要条件です。先ずは、自分の埋め込まれている文化や世間の、一見何の役にもも立たない歴史や地理の雑学をいっぱい詰め込んで下さい。その雑学を咀嚼して自分なりに前後左右の脈絡を秩序立ててゆくうちに、その文化が持っている固有の価値観が見えてきますから。

また、価値観を探る過程で、貴方のように、自分の埋め込まれている文化とは全然違う外国人の言うことに時々耳を傾けてみるのも役に立つでしょう。そうすれば、彼等の価値観が我々にはどのぐらい意味が無いかも分るようになって、自分の中にしっかりした価値観が浮かび上がって来るはずです。そして、多様性の意味も体で理解出来るようになるかも知れません。

蛇足ですが、価値観とはそれを共有する文化があるから、その文化的営みのキーワードの一つとして人々に興味を持たれるのです。もしそれが一人ひとり互いに無関係にバラバラに持っているような「何か」だったら、そんなものは、少なくとも人文学的な意味で思索の対象となる価値観と呼ぶわけには行かないでしょう。
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別に何で決まるとか言う問題ではない。


みんな無限大の価値を持っている。
どんな悪い犯罪を犯した人だって無限大の価値をもつ。
その価値は比べられない。
∞と∞/10000000000000000000000000000000000000 が比べられないのと同じ。
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プライドとか自信じゃないでしょうか。

理由は、私は「これだけは」ってものを持ってる人にすごく惹かれるからです。逆にルックスがよくてもカラッポの人にはまるで魅力を感じない(ルックスがめちゃめちゃ良ければオッケ!)
過信は困りものだけど自信ってすごく大切だと思うんです。だって自信が無かったら何一つできないでしょ?結果とかじゃなくて、とりあえず行動を起こすには。なんかの受験だって、好きな子へのアプローチだって、宝くじだって。
誰かの言葉で“自信とは自らを信じると書く、信じれば持てるんだよ”ってのがあります。たしかに簡単なことなんだろうけど・・・。
自分を好きになれる人、好きになる努力をしてる人はそれだけで十分魅力的だし価値もあると思います。
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私のいう「価値」とあなたのいう「価値」がおおむね一致しているかわかりませんが、私は、お金には価値がないと思うのです。

あれは「意味」しかありません。仮に、お金が好きで貯めるばっかりで、使わない人がいます。本当にお金そのものが好きだから、手放さないわけです。しかし、その人はお金を保持しているとはいえない。保持しえているのは紙です。お金をあらわすのは数字であり、その数字は使った時点でお金になると考えます。しかしその時点ではお金(数字)は手元にないわけで、保持するなんて到底不可能で、体験する事も時間のない一瞬の事ですので、お金を体験する事もできません。我々は幻想を見ているに過ぎませんと考えています。

人間の価値ですが、周りの人々が個々それぞれに、それぞれの好き嫌いによって決めるのと、当人にとって当人はどうかってこととあると思います。哲学されてしまうのは、後者の方だと思うのですが、当人にとって、当人はどうかって考えた時に、考えている当人とは、まるきし別物の自分が想定されているように考えます。なぜなら、例えばもっとこういう性格だったら、苦しまなくてすんだのにとか、私のペンギンが好だという事が好き、等をあげた、その時、好き(快楽他、様々)を求めて働くのは当人の人格だが、それを享受しえているのは、考える当人とは別の、当人を当人たらしめる存在があるからではなかろうか?
 当人の人格はこのような作業をしているといえる。
「コレ、好きゲット、うはうは。コレ、好きじゃない、ブー。コレ、好きゲ・・・」好き嫌いはすべて、人格がないとつかさどれ、えないにもかかわらず、それだけではその動きは客観的事実としか捕らえられない。むしろ、客観と称する立場に当人(人格含む)が立ち、人格の働きをイメージとしてみている状況がイメージされる。しっかし、オナニーじゃないですが、イメージをするのは人格です。さらにそれに、ムラムラきているのも、人格です。しかし、そのムラムラをうつつに実感するには当人の立場にたっておかなければなりません。このようなことがいえるのは、当人の立場は常に、それを当人たらしめている何かと同伴しているからだと考えます。ですから、イメージは立っている当人ではないですが、当人の人格をイメージできている。このイメージの人格にとっては云々・・を言い切るのは、最初から不可能ですので、「人間の価値は何によって決まるか」の選定者「何」は当人の人格のみではありえません。自意識を持ちえていないからです。自意識を持った者のみが選定者の立場に立てると考えます。そして、自意識は二つの場所に同時に立つことは考えられない。が、自意識(人格含む)が自意識を持っていることをどうか問うことは、可能である、それは、当人が当人を主観的に見ることといえる。又、選定対象の「人間」こそに「当人の人格」があてはまるのではないでしょうか、それは、当人が当人を客観的に見ることといえる、当人(自意識)が当人を「第三者たらしめて」みるということだ。そして此処で哲学されてしまうのは、前者の、当人が当人を主観的にみることであろう。
「人間の価値は何によって決まるか?」は「当人は自意識を持っていることをいかに評価するか?」として此処に残された。こと、当人の人格(意識)に限ってそれが自意識である事は自意識にとってどうなのか?それは、自意識を自意識たらしめているもの(同伴者)は自意識にとってどうなのか?ということです。当人(人格)を自意識たらしめているものを「自」とすると、「当人(自意識)にとって「自」は(評価として)どうか?」答えは(前二つ評価じゃないやん⇒「なくてはならないもの?」「必然的にあるもの?」)「ない方がいいもの?」「あってよかった?」
それは、「自意識による、自分である事に対する評価」といえます。
 此処までこのような文を読んでいただきありがとうございました。よって、答えは「自意識」です。
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この回答へのお礼

回答どうもありがとうございました。

お礼日時:2001/05/26 23:45

 では、もう少し揺さぶりましょうか。

(^^; オカマモードで言えば「愛が試されているのよ!」ってな話です。
 今道友信さんが『愛について』という文章の中でだいたい次のようなことを言ってます。
 水を飲みたいとき、高級なカットガラスのグラスを使い、済んだらきれいに洗って大切にしまうというのと、紙コップで飲んで終わったらクシャっと丸めて捨てるというのと、どうちがうか。前者には「グラスへの愛」がありますが、後者の場合「実体を捨象して機能を抽象している」だけです。「水を飲む」という機能が果たされればそれでよい。
 高級カットガラスのグラスが持つ本質的な機能も「水を飲む」ことでしかありません。が、愛されます。大切にされます。まあ、ただ単に高かったからでしょうが。
 しかしこれも所詮はモノの話。人間に当てはめればどうなるか。『愛について』ではこんな例を挙げています。
 英語の先生が突然病気になって学校の授業を休むことになった。仲のよい同僚ならば心配するところ。しかし管理的な責任を負う立場の人間としては、とにかく「授業を行う」という機能を果たせる人間が見つかりさえすれば仕事は終わり。極端に言えば、英語のリスニング教材のテープを再生するだけでもよい、と。

 「機能」という言葉を「価値」に置き換えてみてください。そして、こう問うてみてください。「わたしが人を愛するのは、その人に価値があるからか」と。さらに。「その人が価値を失ったら、わたしはその人を愛することをやめるのか」と。
 私がある人が「やさしい」という理由で愛したとします。その人が何かのきっかけで「やさしさ」を無くしたら、愛することをやめるか、ということです。やめたっていいんですが、やめたくなくなると思います。愛していたら。その人が再び「やさしさ」を取り戻すために何か努力すると思います。(うわ~い、なんか昼メロっぽいぞぉ)
 人が人を愛するのは、人の価値を愛しているのではなく、その価値を担う土台である「その人の存在」を愛しているのです。だからその価値を失っても愛しますし、その人が持たない価値、持ちうる価値という可能性まで含めて、その人の存在を愛するのです。

    *

 「多様性」という点についてもビミョーに修正しておきます。たしかに多様性は大事ですが、むしろ「多層性」を見るべきです。「どれか一つの価値基準を絶対化して、人をそこに還元してはいけない」ってことです。
 会社では営業成績で見られてしまうのは止むを得ないでしょう。が、「それがあなたのすべてだ」と言われたら怒るでしょう。怒っていいですし、怒らなければなりません。「オレはそれだけの人間じゃない!」って。
 家に帰れば夫としての価値、父親としての価値があり、趣味で草野球をやっていれば「不動の4番打者」という価値を担っているかもしれません。いろんな次元、社会生活の色々な「層」において、人々との「関係」からその場での「価値」は受け取られてきます。そういう多層にわたる「価値」の束として、人間は生きています。そういう価値の束を担う「実体」として、人間は価値を持っています。多層にわたる価値のすべてを失ったとしても、人間には価値があります。愛されるべき価値が、ということです。
 そういう「あらゆる価値を担う実体としての価値」自体は「これ」と名状できないものです。こういうものですとしか説明のしようがない、内容の無いものです。ですから、またも意地悪を繰り返してしまいますが、「人間の価値は何で決まるか?」はあんまり意味のある問いではありません。のみならず、「実体を捨象して価値を抽象する」方向へ考えを進めてしまう落とし穴が、この問いにはあります。その匂いがイヤだったんです。
 しかし、それにしても…ちょっと気が立ってたのかも>前回。 すみませんでした。
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この回答へのお礼

>「実体を捨象して価値を抽象する」方向へ考えを進めてしまう落とし穴が、この問いにはあります。

 その通りですね。
 多種多様の悩みを抱えた人がいて、このサイトを通じて救いを求める。そこに手を差し伸べる人がいる。回答する行為に「ポイント」というご褒美をこのサイトの運営部は用意しているけれども、実際のところ回答者のほとんどはそんなもののために自分の時間を割いているわけではないでしょう。この問いを発する前に私はこのコミュニケーションのあり方から人間の価値を再確認すべきでした。(していたつもりでしたが甘かったようです…!)
 運営部に依頼することによってこのスレッドを削除することも可能なのかもしれませんが、あなたを含めた皆の一連の発言を消すのは惜しいように思います。そこには確かに人間の尊厳を感じることができるからです。
 私はこの問いを「発する立場」に立ってしまった以上「落とし穴」への歯止めとなるには限界を感じずにはいられません。このスレッドを「監視」していくことで自分の発言に対するせめてもの責任を果たしたいと思います。
 いやしかしそれにしても、あなた何者です?(笑) 

お礼日時:2001/05/20 00:04

No.10で回答したmisokaです。



> 世の中の「常識」や「道徳」を鵜呑みにするのでなく
> 自分に対する自分のルールを持つ、ということでしょうか。
> 難しい…。

言葉足らずでした。
気持ちとしては、そんなにムズかしく、超越的なことが言いたかった
わけではありません。

そもそも「自分」というものは、他人という存在を含めて
はじめて成り立つものでしょうから、そういう事情も無視して
徒に独自性を求めてしまうようであったら、たいていの場合は、
「若気の至り」みたいな感じになってしまうことでしょう。
「常識」や「道徳」は、むしろ私にとって、かなり大事なものの
部類に入りますよ。

先の「回答」で私が言いたかったことというのは、
(なかなか上手に表現できないのですが)

世間的に見て些事だと思われるようなことで、その実、
大事なこと。あるいは逆に、大きなことのようだけれど、
その実、容易に代替可能なものであること。
そういうものがあるだろう、というような考えがあって
言っている感じです。

たとえば、自分という存在は、かけがえのないものですが、
それを「小さいものだ」とか「つまらないものだ」と考えて
しまうような生き方をしたら、本当に価値に乏しい人生に
なってしまうかもしれません。
小さいものが小さくない、とは、たとえば、こんな場合が
そうなると思います。

serpent-owlさんは、本当に哲学的な眼差しで考えてらっしゃる
ので、多様性ということを強調してらっしゃるかもしれませんが
(そして、それが間違っているとは思いませんが)、
多様性などと言っていられないような、「ゆずれない価値」という
ものもあるわけで、もし、そういう譲れないものまで譲ってしまう
としたら、それはいけないことです。
小さくないものは、絶対にどうあろうと小さくないのです。

つまりは、
そういう類のことが分かっているかどうか、が
人間としての価値に関係してくるのでは? というのが
私の考えだったわけです。
こんな考えは、全然哲学的な考えではなく、むしろ、
退屈なくらい「常識」です。でも、こういう類の常識は、私は
とても大事だと思うのです。人生のテーマにしてもいいくらいだと
思っています。
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この回答へのお礼

丁寧な回答をありがとうございました。
仰ることを自分の語彙で表現すると、それは「良心」かな、と思うのですが…。いや、むりやり言葉にする必要はないですね、きっと。

お礼日時:2001/05/19 20:47

これについては、いろいろな意見があるでしょう。


ま、世の中多様性に満ちているわけですから。
でも、方向性としては多様性の中からcivilさんの求めるものを
導きだそうとしているのでしょうか?それとも、serpent-owlさんの言われるように、多様性そのままを丸飲みされようとしているのでしょうか?
さて??

しかし、ま、なんでしょうか。
「何を排除するかではなく何を受け入れるか」
これね、いい言葉です。実に味わい深いですね。
僕はその監督の「ギルバート・グレイブ」に感涙しましたが、
「ショコラ」はどうなんでしょうか?
と余談はさておき。

「ギルバート・グレイブ」からは、様々な価値観を包み込むような
優しい感触を感じました。しかし、感動しといて言うのもなんですが、
あれは、あくまでも「作品」なわけです。ですから、彼の世界観に
基づいた登場人物をストーリー上に配置し、彼の世界観でまとめあげ
られているわけです<当然です(笑)
つまり、そこには彼の「受け入れられるもの」だけが存在するわけです。
言い方によっては、「作品」とは偏見の露呈ともいえば、言えなくもない
わけです。

いい作品を作ったということは彼の価値観はそれだけの評価に値する
ものであるということの証明とも言えますが、しかし、これは僕の価値観です。

つまり、僕の価値観は、厳密には僕にしか決められなく、
たまたま、誰かの価値観と一致して、それが多数派であったとしても、
その価値観の正しさの証明とはならないような気がしています。
その一致はある事例においての一致であり、評価をくだす際の論理は
めいめいにバラバラであります。つまり、下した判断の内容が一緒な
わけではなく、たまたま、結果が一緒になったに過ぎません。
これは、価値が一致したことにはなりません。

つまり、様々な人々が、様々な価値観を所有しており、
そこには優劣などなく立場があるだけだと僕は思います。

結論;
多様性を否定した時点で、価値観を否定したことと同義なのではないかと思う今日このごろ。
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この回答へのお礼

 つまるところ、このスレッドは自分の未熟な価値観を揺さぶるためだけのものです。したがってこのサイト本来の趣旨とはややずれているのだろうと思います。
 しかし何と言うか根底にあるのは、エゴイズムに対する嫌悪です。「何を排除するかでなく何を受け入れるか」いい言葉だと思いましたが、実際のところ自分には世の中の受け入れたくないモノがありヒトがいる。単に利害という点で計るのではない「人間の価値」は果たして存在するのか。あるとすればそれはどこに?強い信念に裏打ちされた答えを持っている人がいるのなら聞いてみたいものだと思ったわけですが、確かにこれでは「価値観」のコレクションに過ぎませんね。
 自分なりの価値観を構築していくためには多様性を認めた上で自分の価値観と照らし合わせていく、という作業が必要ですが、その取捨選択の「何を受け入れるか」にその人の「価値」というか「器量」の一端が現れるということでしょうか。

お礼日時:2001/05/18 18:25

 「価値基準の価値は何で決まる?」と反問したら意地悪でしょうか。

…意地悪ですね。
 なんでこんな意地悪を言うかといいますと、いずれこの質問は締め切られるだろうからです。そしてそのとき、civilさんが回答を選んで「良回答20点」「次点10点」を付与したとしたら、価値基準の価値を決めるのは「あなた」です。ご質問は「個人の価値観が多様化した今だからこそ皆の答えを聞いて」みたいとのことですね。ならばcivilさんが期待されているのは「個々人の多様な価値観そのまま」であるはず。「良回答」「次点」を選んだならば、civilさんは「個々人の多様な価値観」のうち「特に優れていると感じたもの」を選ぶことになります。だから、価値基準の価値を決めるのは「あなた」です。civilさんはこの場で、そういう特権的な立場に立っています。ポイントを付けずに締め切るのもスマートですね、そう考えると。あ、いや、永遠に締め切らないのが一番スマートです。「個々人の多様」は無限にあるはずですから。

 意地悪な前置きになりましたが、回答はここからです。
 結論を先に言うと「人間の価値を決める絶対的な価値基準は存在しない」となります。いや、さらにもう一歩踏み込んで、「絶対的な価値基準を称するものは積極的に破壊すべきである」と主張します。「答えは人の数だけ存在する」という地点に留まるべきだということです。
 映画や小説などであれば、その作品世界内のテーマに即して「人間の価値」が提示されます。が、それは、何がしか人の心に感動を残せばよいというものですから、絶対的なものではありません。しかもそうした作品世界で提示される「人間の価値」は、実は作品自体の出来不出来(映画なら俳優の演技力や演出)にも左右されましょう。映画や小説から何かを学ぶこともあるということを否定するものではありませんが、軽々に信じてはなりません。

 これだけで済ませてもナニですので、もう少し問題を掘り下げましょう。
 まず「人間の価値は自分が決めるか他人が決めるか」ということから。
 ちょっぴり悲しいこともありますが、「他人が決める」というのがほとんど現実です。学校や職場では。偏差値や、契約成立数とかですね。こういうものが人間の価値を定める「絶対的な価値基準」になりえないことは特に論じるまでもないでしょう。では「何を排除するかではなく何を受け入れるか」は? これはそもそも「他人が決める客観的な基準」になりえません。それこそ映画や小説という作品世界の中でのみ表現可能なものでしかありません。「異性経験の人数」だと、一応客観的な基準になりえますが、しかしホストクラブの兄ちゃんたちが「優れた人間的価値を持つ」とは一概に言えないでしょう。いや…テクニックはすごいと思いますが。
 客観的基準はすべて相対的なものです。学校では「大人が期待する良い子」。進学塾では偏差値。職場では契約数や作業効率。戦場では殺した人数。これらはすべて、ある一本の線を引いて、人が持つ様々な側面のうち一つだけを抜き出し、その線の上に並べているだけです。ちがう線を引けば、おのずと順序もちがってきます。どんな線を引いても「その人間の価値」には到達できませんし、線の数をどれほど増やしても同じ事です。線の引き方(評価の仕方)自体を論じるのも無意味です。人は多様であるがゆえに。

 では、「自分が決める」について。
 どちらかというと、私はこの立場をとります。なんせ時代遅れの「じつぞん主義者」ですから。
 「ヘーゲルは大きな建物をたてて自分はその脇の掘立小屋に住んでいるのだ、とキルケゴールはいっている。しかしヘーゲルだけではない。どんな人間も実は掘立小屋に住んでいるのである。」(柄谷行人『意味という病』)
 詐欺まがいの巨大なコロモを纏った海老天であるserpent-owlなるネット人格は、その実、みすぼらしい一匹のオスにすぎません。が、考えるということが自分にとって何であるのか。それは常に問い続けたいと考えています。そういう意味での「じつぞん主義者」です。「○○は自分にとって何であるのか」。この「○○」には、もちろん「自分」も代入できるわけです。
 が、しかしながら、この「自分で決める」も決して貫徹されえません。究極的な答えにはなりえないということです。なぜかというと、「自分の価値は自分で決める」ことを貫徹した場合、自分の価値はただちに「ゼロ」に帰するからです。ということは同時に、他も「ゼロ」であり自分も「ゼロ」である以上、そもそも「人間の価値」を云々する意味が無いということだからです。それがなぜかというと、それはもう、どうせ「私」はいつか死ぬからです。「ボロは着てても心は錦」という思いがあっても、それは自分の死とともに消えてしまうのですから。

 「人は世界に投げ出されて存在し、いずれ死ぬ未来に向けて自分を投げつけていく」という見解がハイデガー『存在と時間』には示されています。が、やはり死んでしまえば自分にとっては意味はない。とすれば、おのれの生の意味はどうなるかというと、それは「自分の生と死が共同体に何を残し、刻印したか」になってきます。「私」の生の意味は、共同体に、他者に委ねられるわけです。がしかし、それは「私という存在が他者によって簒奪され収奪されて物語化され、しかも自分はそれに抗することができない」(レヴィナス)という「生き残りによる死者の物語の征服」でもあります。生き残りに委ねられた自分の生の意味は、もはや「私」のものではなく他者のものであり、しかも「私」はそれに異を唱え、抗することができない。
 するとやはり、ここでも「人間の価値」は「生き残りの人々の価値基準」に隷属することになります。「自分の価値は自分で決める」というのは、貫徹されえません。せいぜい、生きている間での自己満足以外には。

 そういうことですので、「個々人の多様な価値観」をコレクションするだけの、本質的に意味の無い問いを掲げたこの質問スレッドを、永遠に閉じずに開いておいて下さい。
 だいたいこの回答自体、私serpento-owlという一匹のオス人間の限界内のものですから、私ごときがおよびもつかぬ方が現れれれば思いも寄らぬ転換がないとも限りませんので。
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この回答へのお礼

どうやら自分はできの悪いラスコーリニコフだったようですね。仰るとおりこのスレッドは閉じずにおくことにします。しかし自分を見つめ直すいい機会になったような気がします。ありがとうございました。

お礼日時:2001/05/18 16:57

> 「何を排除するかではなく何を受け入れるか」によって決まる


好い言葉だと思います。
> 「異性経験の人数」だ
これも「受け入れる」という点では「似ている」かも(?)
しれませんね。

人間の価値は、自分の人生をキチンと生きているかどうか
によって決まると思います。
愛するにも、悩むにも、それをキチンと生きているかどうか、
ということだと思います。

「大きなことが大きなことではない。
 小さなことが小さなことではない。
 それは心ひとつだ。」(有島武郎)

世間的なモノサシで些事である、ということが、
些事であることにはならない。
そういうことが、(大事なところで)分かっているか
どうかっていうことは、大きなことだと思います。
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この回答へのお礼

世の中の「常識」や「道徳」を鵜呑みにするのでなく自分に対する自分のルールを持つ、ということでしょうか。難しい…。

お礼日時:2001/05/18 17:05

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