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最近、小、中で新卒の講師が担任をやることがあります。

なぜ講師程度の能力しかない(本採用してもらえない程度の能力)講師が、担任を受け持つのでしょうか?

教員免許なんかどんな3流大学をでていても取得できる免許(逆に考えると、1流大学をでて取得しているかたもいますが。)です。

その程度の学力しかない講師でしかも社会常識が皆無に近い新卒者が子供を預かって指導なんてことができるのでしょうか?

人を指導する前に自分自身の社会常識を身につけるべきなんじゃないでしょうか?

人を指導する前に自分自身本採用される学力を身につけるべきなんじゃないでしょうか?

こんな講師に子供を預ける親の身としては講師ごときと考えますので信頼できません。

むしろ自分の子供をその程度の能力にしないで欲しいと考えてしまいます。

みなさんどのように考えますか?

A 回答 (16件中1~10件)

 ♯15と18の方へ。


文面を拝読させていただき貴殿は正直で裏表のない方であるとお見受けしました。が言葉は使う状況によってそこに使われるべき言葉、適切な表現が許容されるとはお考えになりませんか?
 確かにやつがれの言葉には「上から目線」の様な響きで受け取られる危険性は多分にあるでしょう。貴殿が正直でお世辞のいえない人物であるからこそ、あの様に直裁的な言葉になったことも想像に難くありません。けれども相手を威圧して平然とする、自らはそれに踏ん反り返るような情景を想起させる言葉遣いだけはご自身を貶める以外の何物でもありませんのでお慎みになられた方が良いかと存じます。テレビのトーク番組で司会進行を務める田原総一朗なる人物がいますが、あの方が持つ疑わしさに殆どの人も気付き始めているはずです。司会進行者には自らの意見を述べる必要などないのです。相手の言葉を如何に引き出し、それを叩き台として話をするかの舞台回しに徹すればそれで彼の「仕事」は完結します。
 教育者といっても様々な領域があることはご存知でしょう。一枚の通信添削の答案から受講者の肉声を読むことに長けている方がいらっしゃる一方で、何年もの間同じノートを使い続ける国家公務員(現在は独立法人に勤務する教育研究職の職員)もいます。こうしたかたがたの彼我を目の当たりにするにつけ、肩書がその人を示すとの日本的な思い込みにはいかがわしさを感じざるを得ません。
 戦後のそれも80年代以降この国では「比較して優劣を競う」ことは存在感を増しても、「そのものが持つ良さや独自性、本質を問う」作業は片隅へと追いやられ意味のないことと誤解され続けてきてもいます。
 やつがれが関わる学問領域のゆえかもしれませんが、少なくとも自らを対象化する営為だけは最後まで失ってはならないとの原則があります。社会科学としての歴史学が依って立つべきは大袈裟な言葉でいえば総体としての歴史の形成や発展を見つめる時、それを自身がどの様な位置から眺めるのかが常に問われる性質の学問です。自身の見解を補強するための目的で史料を探し提示する。それも史料の中身を吟味せずにするなどは論外といえます。こうした姿勢が貴殿には鼻持ちならないと映ったのでしょう。それは未だやつがれが不勉強の至りであることの証左であり、日々自問していることと同じです。そんなやつがれも一方では民間企業の一社員として仕事の現場で様々な声を聴きそれを受け止め、一度みずからの内部で翻訳し相手にフィードバックしていく作業の連続に身をやつすとの姿を持ちます。決して「評論家」などとして冷笑されるいわれなどありません。少なくともこの部分だけは撤回していただきたい。
 そんな中にあって貴殿と意見を同じくする部分も多々あり、そのことが唯一やつがれにとっての救いともなりました。生徒が教師を育てる、これは中々に言えない言葉です。この質問者の様に「教師が私にどの様な視線を向けていたかも私がその教師達にどのような教育効果を与えたかも知らない」と一方的に教育そのものを切り捨てる姿に一抹の不安をいだいた次第です。
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 質問者が先に残してくれた宿題に対する答であるが、「公務員は仕事をするだけ」との見解に対してそれを説明できる。

文字どおりの仕事ならば日々のルーチンワークを規則に則ってこなすだけに見えるかもしれないが、「仕事をすること」と「仕事をすることの意味」は明らかに質的相違を示す。前者が仕事をして給与を得ることと理解するなら、後者は仕事の質によって評価されるとの隔たりがある。前回質問者が例示した「医師」をみればそれはなお一層明らかになる。
 「医師の仕事」は患者の生命を救うことである。がしかし「職業としての『医師の仕事』」はそれだけに留まらない。恐らく質問者は生命の危険につながりかねない大病を患ったことがないのだろう。取り敢えず生命の危機からは患者を遠ざけることができても、その患者が「これからも生きていく」ことに対してどれ位の共感を持って治療にあたることができたかでも医師としての評価は変わってくる。「病気は取り敢えず治りました、でもその後の障害に関しては私は知りません」では患者は自らの肉体を医師に預けることができない。事前にどの様な影響が残るかなどを患者に納得のいく形で説明できなければ患者を「診る」ことにはならない。
 数として出逢っただけの教師はいた、とうそぶくがそれも質問者が気付いていないだけで教師は質問者からの微細な信号をキャッチしメッセージを投げ返している。嘘だと思ったら成績表を観てみればよかろう。何らかの言葉が記されている。
 最もこのように言う私にも少なからず「コイツだけは教師ではないな」と思える人物が一人だけいる。中三の時の担任である。コイツは自らの担当科目の成績が良い者だけを評価し、それ以外の科目の成績など知らぬ存ぜぬを押し通した。奇しくも三年後、弟が高校受験の時にその男が担任であり、しかも担当科目の成績が良かっただけで私の母校を受験したが物の見事に不合格、他科目の成績が良くなかったことが原因である。ベテラン教諭といえどそれに胡座をかく者と講師ではあるものの自らの職責を全うするために懊悩する者との間では天地ほどの隔たりがある。ガチンコ勝負で生徒と接している者とそうでない者の違いは何気ない仕草や言葉の端々に表れる。質問者が真剣でないならばそれなりの教師にしか巡り会えないこともうなづける。
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No.7です。


その1行目をもう一度。
「質問者の表現は別にして、多くの保護者が抱いている不安そのものだと思います。」

ここ、質問に対して回答する場ですよね?

この回答への補足

そのとおりだと思います。

公務員は決められたことを執行するだけです。

教師も一公務員にすぎません。

だから親がどんな不安を持とうが公務員は法的に認められてるからというだけです。

不安の本質の解消なんでありえません。

補足日時:2012/06/03 20:37
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この回答へのお礼

お礼日時:-0001/11/30 00:00

質問者に対して、稚拙とか低レベルとか程度が痴れるとか…言ってるわりに、難しいコトバを並べ立てて高圧的に非難する教育者がいるな。

とても間違った見解を正そうとする姿勢には見えないのだが。塾はともかく、こんな先生が学校にいたら、子供は絶対に預けたくないね。子供が何か言うと頭から否定され、すんだことをいつまでもネチネチ言われ…。


質問者の質問をオブラートに包み、

「経験の浅い先生が担任をするのは不安だけどどうだろう?」

なら、充分に同意できる。私は娘が小学校に入学した時、妻と一緒に入学式に参列し、その後一緒に教室に入り、どんな担任かを確かめた。すると、20年のベテラン女性教師で、1・2年の低学年ばかり受け持ってきたという。これだけでかなり安心できたもんだが、けっこう多くの母親も思っていることではないのかな?

で、新米の講師だったらどうするか、だが、口には出さないが、やっぱり不安はあるだろうね。学校での様子、特に交友関係(けんか、仲間はずれまで含めて)に変わったことがないかを娘に毎日聞き、ノートのとり方や宿題の出され方から授業の様子・レベルを確認し、足りないようなら家庭で補い…となって、親のストレスが増えそうだ。しかし、強制的に娘とコミュニケーションをとることになり、すべてを学校任せにしないのでいいのかもしれない。あとは、連絡ノートを通じての担任との交換日記で、要望があれば伝えていくことになるんだろう。

学力や社会常識に欠ける先生はいないと信じたいが、もし担任の先生がそんな先生だったら、遠慮なく学校にクレームを入れる。

この回答への補足

この高圧的態度こそが教師、先生先生と呼ばれることが当たり前と思っている人間の本性でしょう。

補足日時:2012/06/03 20:41
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はじめてのお使いって番組を見た事ありませんか?



あれと同じです。

本人たちは自分たちだけで「お使い」という大役を果たしている気分でしょうが、実際はスタッフや両親がハラハラしながら、すぐ後ろから見守っています。

本人たちは新卒でいきなり「担任」とう大役を果たしている気分でも、実際は他の教師たちがサポートしてますって。

貴方の職場でもそうではないですか、新入社員は、いきなり一人前の扱いをしますか?いきなり大きな仕事を単独で任せますか?誰かがサポートしながら教えていきませんか?

新卒で担任なんて、ただの操り人形です。実際は裏で滅茶苦茶先輩教師たちから操られています。だから新卒の担任もベテランの担任も「質」は同じです。まぁ学校によって「質」に違いはあるかもしれませんけど・・・・・。


まぁそれでも不安だという貴方のような方のために、各種私立の小中学校まで用意されているわけなので、どうしてもというのなら、そちらの方が要望を聞き入れてもらえ易いと思います。

この回答への補足

ありがとうございます。参考にします。

補足日時:2012/05/25 01:14
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 質問者の教職資格に関する誤解が決定的に明らかになりました。


>その必修単位取得の基準が不明確である点が不審である。
大学側の裁量認定で判断しており免許であるにもかかわらず統一して基準をもった国家試験をするわけもなく交付されるのはおかしいと思います。

「教職免許」は「教育職員免許法」に基づき「学校教育法」が定める「学校(幼稚園・小学校・中学校・高等学校・中等教育学校・特別支援学校)」の主管教諭・指導教諭・教諭・助教諭・養護教諭・養護助教諭・栄養教諭・常勤講師の職に就く者は全て、各種の免許状の授与を受けている者でなければならない、とされています。つまり法規定があります。
 そしてこの規定にそった形で大学の各学部に「教職課程」が学部の専門科目とは別に設けられています。この「教職課程」は「教職に関する科目」・「教科に関する科目」・「養護に関する科目」・「栄養に係わる教育に関する科目」・「特別支援教育に関する科目」で構成され、一般の教諭は「教職に関する科目」と「教科に関する科目」を必修および選択必修の形で履修せねばなりません。そして全ての単位を履修した段階で初めて「教員免許状」を申請する要件が整います。そして免許状は授与検者としての事務を取り扱っている都道府県の教育委員会です。個別の大学が公布するものではありません。こうして公布された資格を手にして、毎年行われる各都道府県および自治体の教員採用試験に出願する資格が生まれます。
 ですから教員免許を取得する事と実際に教諭として採用されるまでの間には試験に合格することとの壁があります。以前、大分で露見した事件を憶えていますか?。教員採用試験と実際の採用に当たっての合否判定で不正が行われていた事件です。父母親戚に教員や学校関係者を持つ受験者が下駄を履かされる形で不正に合格していたとの事件です。こうした背景は以前からも囁かれていました。実際に有力県会議員や市町村議員のコネがなければ名簿で上位に登載されても採用されることは難しいなどの噂でしたが、実態としてまかり通っていたことが露見しただけです。
 質問者の様に素朴に「成績優秀者は必ず採用される」との発想は本来の形としてはあるべきですが、それが現実には目に見えない力によって成績よりも優先される何かかがあり、それによって教育現場が歪められてきたツケが回ってきたともいえます。これがあなたの信奉する「素晴らしい現実主義」の実態です。実力も才能もある若者が理不尽なものによって将来の道を閉ざされる歪な社会のあり方です。よくお考えになってみて下さい。

>それで免許を取得して卒業して採用試験を通ればすぐに先生といわれる身分につくわけでしょ。
先生と呼ばれる社会的地位がどれほど偉い存在なのかお考えになられたことありますか?
人の成長過程を左右させない医者の先生ですらインターンの期間が数年ありますよね。
対して、教師は免許を取得し採用試験が通過すれば先生です。下積みもまったくない新卒者がですよ。そして先生は子供の成長過程を左右する存在で先生の思想・信条は批判的能力のない子供に影響を与えます。

 同様の国家資格に司法資格があります。弁護士資格です。司法試験に合格しただけで彼らは先生と呼ばれます。例の規制緩和に沿った形で司法資格の取得者も粗製濫造されました。中身の伴わない検察官や弁護士が増えてもいます。実態と乖離した法に基づき、被害者の心情も加害者の側には報道されない隠された事情があっても、彼らは「この法律の条文にこの様に規定されているから」として本来は自らが果たさねばならない役割をどこかに置き忘れる形で「仕事」をするだけです。中には法と現実の乖離を目の当たりにしてその狭間に生きねばならぬ自らの矛盾に気付き、出来る限りの範囲で何とかしようと格闘する良識的な法曹もいますが、残念ながら彼らは決して脚光を浴びる機会が多くありません。残念です。
 かつて70年代から90年代にかけて愛知県は管理教育の代名詞でもありました。それは管理することと監視することを取り違えた性質のものでした。「教育」の名の下に学校という隠れ蓑を使い、学童生徒の校内での一切合切を規則で縛り監視する。もし違反する者があれば家庭共々こんこんとお説教を垂れ、進路選択に影響が及びかねないなどと脅すなどの形でした。何年か以前に行われた「全国共通学力テスト」で犬山市教育委員会は生徒個人の氏名を含め、学校のランク付けを拒否しました。テストが理解度の到達がどのあたりにあるかを知る目的であるとのことから成績分布は統計データとして意味があっても、具体的な生徒や学校の名前を公表しそれによって学校間の優劣を比較することに意味はないからです。
 逆に大阪の跳ね上がり坊やは学校名を公表することで全体の底上げができるなどとのこじつけを行い、結果としてモチベーションの低下を教育現場にもたらしてしまっています。学校に「競争」が相応しくないことは元祖競争主義のイギリスやアメリカにおける教育現場の実態からも明らかです。
 常に荒波に翻弄され続けてきた日本の教育現場にあって、一人一人の教員が格闘を続けていることだけは忘れないでいたただきたいと存じます。教育に携わる者の一人としての切なる願いです。
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補足に対して回答してこう



>だからさ、講師一般じゃなくて何のために新卒って書いてんのか全然理解できてないじゃん

新卒であろうとも同じことである
新卒でも指導経験・指導力の有無が問題なのであって、講師・正規教諭は問題にならない

そもそも、「新卒」は質問にたった一言
講師は質問分には6回。
講師が問題ではなく、新卒が問題なら、なぜ、新卒という言葉がたった一度でしかも、表題にはないのだろうか?
表題に新卒の言葉があるならまだしも・・まぁ、後付けの話なのだろうが(苦笑)

質問者の表現能力の欠如であって、文章から新卒が問題であると解した人はほとんど居ないことを質問者がどう理解しているのか?
これだけでも質問者の程度が痴れる、ということであろう

ちなみに、削除されるような補足を残す程度であることについては、質問者は自問するほうがいいだろう

小生の予測では、質問者の質問は単なる身勝手なもので、おおよそ誰にも支持されるものではないだろうし、回答者全体を見渡してもそうであろう
そして、回答者の回答を逃避するのが質問者であろう、とは予測出来るが、それが質問者の水準ということで理解するようにしておく

以上
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> みなさんどのように考えますか?



ご質問者さんの補足などを見る限り、根拠、偏見、知識、いずれの面でも非常識なのはどちらで、質問自身が質問の意図を持っていないことがよくわかります。
多くの回答者が、「その程度の能力」と考えるご質問者さんの評価を否定しているんですが、それが読み取れない状況になってしまっています。

自己防衛と相手より優位に立とうと必死になるその目線が、そのまま質問のケースで講師に向けられているだけですよね。
そして、せめて補足くらいは、質問、回答への補足のフリはしましょうよ。
サイト規約違反で修正されるような内容は、避けません? 
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 幾つかの補足を読ませていただき、質問者のスタンスが明らかになりました。



 >あのねもう少し端的に書けないかな?
要するに質問者は「自分は誰よりもエライ」「だから他の誰からもあれこれと説明されたり指図されたりするのはイヤだ」との大きな赤子にしかすぎません。それまでに出逢ってきた教員が何人いましたか?。その中に少しではあるけれど貴方を理解してくれた教員は一人としていませんでしたか?。全科目全てが嫌いだったという生徒も珍しい。必ず一つは好きな科目があったはずで、それは体育でも美術でも音楽でも一向に構わない。そこで生徒と接しているのは紛れもない教師である。
 今までの義務教育課程でズーッと押しつけられてきただけだ、だから教師なんぞというものは鼻持ちならない存在でしかないとレッテル貼りをして自分は頬被りして知らぬ存ぜぬの立場を強引に通そうとしている。
 長い話を読むことが出来ない聴くことが出来ないというのは単に質問者の理解能力が欠落しているからか、人の意見を聴こうとしない頑迷さが作用しているかのいずれかでしかありません。
 察するに小学校ではトップクラスだったものが中学校の段階で普通の成績の子と変わらなくなっていた幼児体験を責任転嫁しているにしかすぎません。それも全て貴方を育てた親の不徳でしょう。
 

 >塾講師と教員教師のちがい?それは塾講師は教えるのがすきだからやってんでしょ。(彼らに)対して、教師講師はそもそも不況で就職難だし、大学にでもいくからせっかくなんで教員免許でもとって教師にでもなっとこって考えているのがかなりいる。

 塾や予備校の講師は好きでやっているわけでもありません。教員試験に不合格となり「生計を維持する」との目的でビジネスライクに割り切ってやっている仕事です。民間企業の契約社員と全く同じです。成績が悪ければリストラされる。たとえ一人の受験生のSOSに真剣に耳を傾けることができても、他の多勢の受験生を合格に導くことができなければそれは失敗と見なされる。それほど冷徹な世界です。弱肉強食を地で行く世界です。一時テレビでもて囃された金ぴか先生も何時の間にか消えました。古文のマドンナも消えました。
 塾や予備校講師の最終的な評価基準がどこにあるかご存知ですか?。有名校や進学校にどれ位の数の生徒を合格させるかたけですよ。民間企業の契約社員と全く同一です。そこには教育の理念などは欠片すらもありません。受講生を物や商売道具として観ているだけです。
 翻って「学校教育の目的と意義」を質問者はどうお考えですか。それを示さずに回答者を罵倒し続けるだけでは批判を通り越して自らの浅薄さを告白している事と同様です。貴方自身がモンペと化していることに気付きませんか? 
 
 不況だからせめて大学だけでも出ておくか、以前からありました。今でも一部にはあります。けれどその一部は最終的に大学を卒業しているかどうかもわかりません。途中で怪しげなビジネスを始めてドロップアウトするケースもあれば成績不振で退学しフリーターとなっているものもいます。何時の間にかいなくなっている、学籍を抹消している。
 そもそも「教員免許でもとっておくか」程度の認識で教職課程を履修することは困難です。自らの専門課程の科目外に教育に関する科目を必修単位として修めなければ免許は交付されません。
 僕も大学教員の端くれですので一言いわせていただきます。質問者は大学教育そのものを否定している。拒絶している。大学に対するルサンティマンやコンプレックスしか感じられず安直に流れ楽に生きることいわば快楽主義に染まり堕落しているだけである。今の大学生は真剣に考えています。昨年の大震災を契機として自分と社会の関わり方を模索しどの様な形で自らの持てる力を社会にフィードバックすることができるかを考え行動し情報発信する。実際に逞しくもあり頼もしさもある。

 自身の見解を敷衍するにはそれなりに説得力のあるデータを裏付けとして提示する必要がありますが、質問者にはそれが全くみられない。自らの感覚でものを言っているにすぎない。爆!

この回答への補足

要するに質問者は「自分は誰よりもエライ」「だから他の誰からもあれこれと説明されたり指図されたりするのはイヤだ」との大きな赤子にしかすぎません。

まったくの推測にすぎません。
携帯からの投稿になるので長文に対する返信は不便だからです。

それまでに出逢ってきた教員が何人いましたか?
その中に少しではあるけれど貴方を理解してくれた教員は一人としていませんでしたか?

学校にいった分の教師には会いました。
いませんね。
成績を上げてくれたのも進学させてくれたのも塾の先生でしたよ。

教師なんぞというものは鼻持ちならない存在でしかないとレッテル貼りをして自分は頬被りして知らぬ存ぜぬの立場を強引に通そうとしている。

していません。なにを根拠にそこまで言っているのかわかりません。

長い話を読むことが出来ない聴くことが出来ないというのは単に質問者の理解能力が欠落しているからか、人の意見を聴こうとしない頑迷さが作用しているかのいずれかでしかありません。
察するに小学校ではトップクラスだったものが中学校の段階で普通の成績の子と変わらなくなっていた幼児体験を責任転嫁しているにしかすぎません。それも全て貴方を育てた親の不徳でしょう。
 
理解不足、理解する気がない、親の責任といろいろおっしゃられてますが、全部違います。
理由は、上述のとおり長文への返信が不便だからです。

塾や予備校の講師は好きでやっているわけでもありません。教員試験に不合格となり「生計を維持する」との目的でビジネスライクに割り切ってやっている仕事です。

すばらしいと思います。具体的明確な目的があります。
社会で勝ち抜くには必要なことだと思います。
必要なら求められて不要なら切捨てられる。それが世の中です。
対して、教師が何か目的をもって具体的に何を伸ばしてくれたのかを指摘するほうが難しいです。
回答者も大学の教員とのことですが回答者がその地位に着くためにはさまざまな勝ち抜きレースで勝利してきたから今のその地位についているのじゃありませんか?
教師でさえそもそも大学をでて教員試験を勝ち抜きその地位にいるのじゃありませんか?
なぜそこを具体的に教え込まないのが理解できません。

「学校教育の目的と意義」を質問者はどうお考えですか。
この点、回答者のように教育というものを学問として学ばれているのであれば具体的な定義をたてることができるのでしょう。
しかし、一般人が学校教育の目的と意義なんてものは知るはずもありません。
私の考えで学校というもの考えるとすれば、社会にでるための通過点で、より優秀な通過点を通った者がよりよい企業に就けると考えます。
逆にそもそも回答者の考えている学校教育の目的、意義を聞いてみたいものです。

 そもそも「教員免許でもとっておくか」程度の認識で教職課程を履修することは困難です。自らの専門課程の科目外に教育に関する科目を必修単位として修めなければ免許は交付されません。

その必修単位取得の基準が不明確である点が不審である。
大学側の裁量認定で判断しており免許であるにもかかわらず統一して基準をもった国家試験をするわけもなく交付されるのはおかしいと思います。

それで免許を取得して卒業して採用試験を通ればすぐに先生といわれる身分につくわけでしょ。
先生と呼ばれる社会的地位がどれほど偉い存在なのかお考えになられたことありますか?
人の成長過程を左右させない医者の先生ですらインターンの期間が数年ありますよね。
対して、教師は免許を取得し採用試験が通過すれば先生です。下積みもまったくない新卒者がですよ。そして先生は子供の成長過程を左右する存在で先生の思想・信条は批判的能力のない子供に影響を与えます。

このように親の目線から見られると思います。

補足日時:2012/05/23 18:17
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うーん、


職務名として、
教諭、助教諭、講師。
臨時採用であっても、担任を持つ方は(小学校において)
教諭だと思われますが。
少なくともパートタイムで担任は持ちませんから。

教員免許、
中高はかなりいろいろな学部でとれますが、
小学校って、結構特殊な技能で、とれる学部に限りがあるのですよ。
国語 社会 算数 理科 家庭科 生活科 音楽 図工 体育 
外国語活動 道徳 学級活動
ピアノも弾けて鉄棒も指導できて、毛筆もできて、実験器具も扱える。
地歴公民教えられる一方で、調理も被服もできる。
一応、どんな三流大学でも取れる資格ではないと、ご理解いただきたいです。
超一流の大学の方はあまりいない一方で。
(専門性より、オールラウンダーであることが求められますから)

社会常識は多分、社会経験の書き間違いではないかと推測いたします。
学生さんであっても、社会常識ばっちりの方もいらっしゃいます。
教育実習生が皆社会常識がないかといえば、そんなことはないですもの。

そもそも能力と指導力は、イコールではないですよ。
年齢を重ねて50m走が10秒切れなくなっても、
陸上種目の指導はできますって。
教員の資質をかなりゆがめて考えてらっしゃるようで、
少々残念です。
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