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最近、小、中で新卒の講師が担任をやることがあります。

なぜ講師程度の能力しかない(本採用してもらえない程度の能力)講師が、担任を受け持つのでしょうか?

教員免許なんかどんな3流大学をでていても取得できる免許(逆に考えると、1流大学をでて取得しているかたもいますが。)です。

その程度の学力しかない講師でしかも社会常識が皆無に近い新卒者が子供を預かって指導なんてことができるのでしょうか?

人を指導する前に自分自身の社会常識を身につけるべきなんじゃないでしょうか?

人を指導する前に自分自身本採用される学力を身につけるべきなんじゃないでしょうか?

こんな講師に子供を預ける親の身としては講師ごときと考えますので信頼できません。

むしろ自分の子供をその程度の能力にしないで欲しいと考えてしまいます。

みなさんどのように考えますか?

A 回答 (16件中11~16件)

 追記。


質問者が根本的に認識を誤っている最大の根拠、それは「その程度の学力しかない講師でしかも社会常識が皆無に近い新卒者」として新卒者を全て非常識者と断定している点である。また同時に「教員免許なんかどんな3流大学をでていても取得できる免許」として教職課程そのものと大学のランクを同列しかもない交ぜにした形で論じている点にある。
 友人に東大出身で教職に就いた者がいたが、彼は自身の描いていた虚像と現実の余りのギャップの大きさに音を上げ半年と持たずに退職してしまい、その後は幾つかの会社で契約社員としてそれもブルーカラーの現場で働いている。逆にマーチクラスの大学を卒業し、堅実にコツコツと教育現場で研鑽を積み、今では児童からも父兄からも厚い信頼を寄せられている教員もいる。単なる学校秀才では教育職は務まらない。むしろ生徒学童から発せられる声を敏感にキャッチするアンテナや感性を持たねば声を聴くことなどできはしない。こうした意味で少々の不良という表現が適切であるかもしれない。
 質問者および♯7の回答者は徒然草の「名工」の譬喩を理解しているだろうか。名工は少し錆びた刀を使うとの小林秀雄による名解釈による言葉である。文字どおりの意味をとるなら、優れた物を作るには切れ味の良い刀を使うとの徒然草の言葉に対し、少し錆びた刀を使うことの意味は「道具を使う者の技や熟練度も大きな影を落としている。このことを努々(ゆめゆめ)忘れてはならない」との警句である。これに対し質問者は「だから逆に良い道具を選ぶ必要があるのではありませんか?」と反論することは想像に難くない。
 見落としてはならないこととしてその道具を作った者が最初から名工だったとのことを吉田兼好は一言もいっていない。
 また教育に携わる者の最大の仕事は「動機付け」にあることも忘れてはならない。馬を水辺に連れて行くことはできるが馬に水を飲ませることはできない、それは馬自身が決めることである。これに対し馬を育てる人間のすべき仕事は「如何に馬の過ごしやすい環境を提供するかに心配りすること」だけである。それ以下でも以上でもない。
 教育という仕事は生徒学童と教員、双方の真剣勝負によって相互を高め合うことに本質がある。良い点数をいかに取るかなどの小手先の問題にばかり目を奪われていると足下をすくわれる結果となる。

この回答への補足

教育という仕事は生徒学童と教員、双方の真剣勝負によって相互を高 め合うことに本質がある。

具体的になにをどう高めあうのですか?

私が義務教育を受けてきて教師に対して感じたことは、先生がいうのだからやらなければならない。と押しつけられてきただけですが?
教師に反論しようものならおこってきれる。
だけでした。

高めあってると感じてるのは教師側の自己満じゃないですか?

なにを教師が高めてくれたのですか?

補足日時:2012/05/22 23:21
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質問者の表現は別にして、多くの保護者が抱いている不安そのものだと思います。


ここでは「新卒の講師」となっていますが、現実には新卒の「教員」でも担任になってほしくないと思っている保護者も多くいます。
講師であっても優れた人物、正規教員であっても「?」マークのつく人物がいることも事実でしょう。
保護者はそれをどうやって見分けることができるのでしょうか?
年度初めでは新卒の講師の力量を見分けることは、保護者にはできないでしょう。

だから「不安」なんです。

でも、正式な手続きを経て講師として任用しているはずなので、「?」な講師ではないでしょう。
それを信じて任せてはどうですか?

講師は学校では本当に必要な人で、正規教員が長期間の病気で休んだり、産休や育児休業で休むときに、代わりに働いてくれる人たちです。
また、正規教員のように現在の学校に3年ぐらい勤められるわけではなく、4月はA小学校、5~7月はB小学校、9~3月はC小学校で勤務するなど、優れた講師はあちこちの学校で引っ張りだこと聞いています。
学校が変わるたびに、児童の名前を覚えなおしたり、講師として勤務しながらも教員採用試験の勉強をしたりと、大変な状況で子供たちのために働いています。
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 少なくとも中学校からは「教科目担任」を務める者が教壇に立つことができる。

つまり教職課程を履修し教職資格を取得した者のみに許容される職業であることには変わりない。
 かつて高校二級の教職免許取得者はいきなりクラス担任を持つことはできず、何年か勤務することで自動的に一級免許に切り替えられるとのシステムだった。
 質問者の称する「担任」がクラス担任を指すのか教科目担任を指すのかはこの文面からは全く読みとることはできないが、少なくとも教職資格のシステムを理解出来ていないことだけは確かである。そこまでの学識のない質問者が「講師ごとき」などと口にすること自体が笑止千万と笑われるだけである。質問者がそこまで拘泥する「資格」とは一体何なのか。その本質は何処にあるのか。学校の講師は許すことができないが、それでは学習塾の講師は一体どうなのか。彼らはアルバイトの大学生でしかない。その彼らと公認資格を取得している人間の何れが信用に値すると言うのか。まずはこれらの説明が為されない限り、質問者の質問は単なる憶測に基づいた個人的な見解にしかならず、よってこの質問サイトでは許容されないものとなる(端的に言えば、ここは意見表明を許される場ではないとのことである)。
 因みに大学教員は高校までの教職資格とは異なり「免許制度」そのものが存在しない。大学教員として迎えられるには「その領域に精通している者、優れた業績を残した者」などの規定しかない。そして採用試験は表向きにはあるものの実態としては学内の大学院を修了した者や在籍する大学と反りが合わないために学会組織などを通じて紹介されるケース、国立大学を定年退官した老人が受け入れ先や天下り先と勘違いしていることで受け容れる側も迷惑しているケースが多い。
 ベテランの教員が必ずしも優れた教員であるとも限らない。それは学校の管理職を務める立場の者が犯す犯罪数の増加に顕著に表れている。一方、街中で困っている人を見て援助を申し出る若者達が茶髪だったり、見かけが不良のような服装だったりしたならば、彼らを観て諮問者はどの様に説明するだろうか。電車の中で紳士のような身なりの人物が座席に荷物を置き踏ん反り返っている光景や公共の場である電車の車内で自らと同時に小児にも座席を与え、彼らがつり革や手すりを公園と同列に観て遊び道具にしている様子に注意もしない親(殊に母親と祖父母)とどちらが社会常識に反していると説明するのか疑問である。
 質問者は多分に「見かけで人を判断する」タイプに分類される。この人種が持つ極めて厄介な点は自分の物の見方が絶対的なモノであり、それは世間の常識に基づいているの「揺るぎない信念」に基づいていことに気が付いていない点にある。
 例えるならば、それはガリレオ以前の盲目的に天動説を信奉する教会とその関係者といえば解るだろう。自らの目で観て確かめなければそれは観念論いやそれ以前の低レベルな思い込みにしかすぎない。「人を指導する前に自分自身の社会常識を身につけるべきなんじゃないでしょうか?」これは質問者のためにあるような言葉である。爆!

この回答への補足


塾講師と教員教師のちがい?

それは塾講師は教えるのがすきだからやってんでしょ。
対して、教師講師はそもそも不況で就職難だし、大学にでもいくからせっかくなんで教員免許でもとって教師にでもなっとこって考えているのがかなりいる。
だから、生徒を女、男としてしかみれないのがたくさんいる。
そもそも生徒を育てようと考えてないから。
さらに、先日もあったような自分の生徒を車でひいておいて救急車もよばず自分は出校して業務をする。
理由を聞けば自分の職がなくなるならだ。
生徒のことを真摯に考え指導する気があるならこんな講師なんかでてこないはすだ。
ホント教師になりたくてなっていない教師をどう信頼できるのか教えてもらいたい。

補足日時:2012/05/22 19:40
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この回答へのお礼

お礼日時:-0001/11/30 00:00

単純に「その学校に来たがる正規教員の数が学級数に満たない」か



「管理職が『その講師には担任業務を任せるだけの力量がある』と判断した」かでしょう。

また、講師と言っても正規教員を退職した者もいます。

あなたが憤っている相手の講師が、あなたの言う通りの人物ならば、管理職に苦情を言いましょう。

この回答への補足

管理職に言ったところでなにも変わりませんよね。
校長に言って話にならなかったら教育委員会にいいます。

補足日時:2012/05/19 23:24
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講師が教員免許を持っていないと断言する根拠を示してください。



通常、講師は、教員免許を取得しながらも、採用試験に落ちた人がやっています。各県教委の採用試験は場所にもよりますが、合格率からみると、東大の合格率よりもはるかに難関ですよ。医師と違って、教員には、免許の他、採用試験に受からないとなれないのもご存じないのでしょうか?
大分県の事件で世間で大騒ぎになったのもご存知ありません?

親になるのや社会人になるのに免許がないのが問題なのかもしれませんね。

この回答への補足

講師に免許がないなんて一言もいってません。

採用試験が東大より難関といってますが、その難関を理由に毎年落ち続けている人も平気でその地位にいますよね。

それに落ちる人にもレベルありますよ。

補足日時:2012/05/19 23:21
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この回答へのお礼

お礼日時:-0001/11/30 00:00

>なぜ講師程度の能力しかない(本採用してもらえない程度の能力)講師が、担任を受け持つのでしょうか?



単純なこと。講師の教育力が質問者の思うようなレベルとは限らないから

もっといえば、質問者は、講師の教育水準は 正規(常勤)職員 よりも劣る、という思い込みが前提であるが、そのような前提など思い込みでもありえる

同時に質問者の教育に対する認識の程度の適否を如実に指摘できる質問文章があるので、提示しておこう

>その程度の学力しかない講師でしかも社会常識が皆無に近い新卒者が子供を預かって指導なんてことができるのでしょうか?

指導力は学力とシンクロしない。もちろん指導する上で必要最低限の学力(知識量)は必要だろうが、
問題の本質は、学力ではなく「指導力」である
根本的に、質問者は教育者・指導者に求められる能力を勘違いしているのである

>人を指導する前に自分自身の社会常識を身につけるべきなんじゃないでしょうか?

指摘を首肯するしかないが、では、多くの人間が社会常識を身につけているのだろうか?
「自分は社会常識をもっている」と誇れる人間は、そこれこそ社会が狭いだけの視野狭窄であって、それは社会常識の欠如が指摘できるだろう。
社会常識を身につけるべき、ではなく、その社会常識を養う気概が必要である、というだけの話である。
そもそも社会常識になる抽象的概念の有無をどうやって判定するのだろうか?
同時に社会常識と社会行動の整合性という問題もある。社会常識を身につけているだけでは問題行為は抑止できないのである。
断言してもいいが、社会常識云々を指摘する人間は、その社会常識について思慮している程度が低い。時には社会常識の適否を疑い、個別状況で判断するべきであるし、なにより教育は社会常識とは共存しない部分が多い。
親は社会常識を逸脱した行為を、懲戒権として持ち得るものであるし、社会常識に拘束されない自由さを教える必要性がある。教師でも同じことである。
所詮は、子女自身が社会常識を自立・自発的に身につけるものであって、社会常識がある人間だから社会常識を教えられるものではない。
むしろ、社会常識のない人間を反面教師にして学ぶことさえありえる。
だからといって、法を無視する教師は許されるものではないが、社会常識の妥当性を思慮するべき子女たちとそれに関わる教師を社会常識で縛ることの教育的妥当性・建設的には嫌疑はあろう。
小生からすれば、社会常識などという言葉で他人の適法な行動さえ拘束するような人間こそ、独善的で気分が悪いが、そういう社会常識に対する疑念のない人間ほど危険なことは指摘するまでもないだろう。
そういう人間は、独善的に法をおかして社会常識を捏造・創造するのが歴史の相場であるから・・


>人を指導する前に自分自身本採用される学力を身につけるべきなんじゃないでしょうか?

講師といっても、正規雇用に満たない存在ばかりではない
小生のように社会活動において臨時講師の方が望ましい人も多い。
そもそも、質問者は、講師は正規教諭よりも劣る、という思い込みを前提にしているが、その前提が普遍的事実であることなどは証明できないだろう。
断定してもいいが、質問者は単なる視野狭窄かつ論理思考力が著しく乏しく、幼いのであろう

>こんな講師に子供を預ける親の身としては講師ごときと考えますので信頼できません。

信頼しないで良い。
講師に限らず、教育者は信頼するべき存在ではない。信用するに十分な教育者もいるが、それは稀であろう。
そもそも、保護者としての信用などは、本質的には教育的には無価値である
要は、子女と指導者の信用・信頼関係だけでも教育的意味はありえる。
保護者が大前提である謂れもないが、保護者の合意を得たいのが教育者の信条だが、
本質的には、保護者と教師の関係は子女というフィルターを通すだけの話でしかない。
もっとも、教師を学力・社会常識で判定するような視野狭窄・教育の意味を理解していない質問者にとは、思慮の及ばない世界だろうが、それでも親である以上は、尊重するべき存在であろう。
講師ごとき、というなら、どうぞ自前で指導されればいいでしょうが、質問者では到底適切な指導ができないことは文章と論理思考力からも示唆できますので・・・

>むしろ自分の子供をその程度の能力にしないで欲しいと考えてしまいます。

トドメは質問者のこの文章である

質問者は、教師の学力・指導力によって、子女の学力・程度が拘束されるように思っている
子女らは教師・学校から独立して学習する能力を持っている。それを援助・助勢するのが教育の本質でもあるのだが、保護者がこれでは・・・と思うのは小生だけではないだろう。
その可能性について全く思慮の及ばない質問者の子女が気の毒で仕方ないが、
反面教師という言葉もあるように、ダメな保護者を悪い見本に出来ることもあるので、教育は面白い

>みなさんどのように考えますか?

結論
質問者の発想・思考能力が極めて稚拙である
そのレベルの保護者であることの適否を自問したほうがいいだろう
上記したように、反面教師となって望ましい子女になりえる可能性の部分では期待するが
講師であろうとも担任を務める能力があるなら、それでいい
教育指導力は、身分の拘束で思慮するものではなく実力主義でいい
その実力の査定の難しさが教育の問題ではあるが、適切な指導が出来ない正規教諭よりは、それよりマシな講師の指導の方が良い・・・

それだけの話である
質問者は身分・立場で物事を考える生き方だったのだろうが、教育はそこまで浅くはないのである



以上

この回答への補足

だからさ、講師一般じゃなくて何のために新卒って書いてんのか全然理解できてないじゃん

補足日時:2012/05/22 20:01
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この回答へのお礼

お礼日時:-0001/11/30 00:00

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