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豊臣秀吉が実施した太閤検地とそれまでの検地と異なる点をあげよ。その上で太閤検地の歴史的意義について書け。キーワード<自己申告、指出検地、土地の測量、一地一作人の原則、複雑な利害関係>を全てつかい100~150文字いないで。  至急よろしくお願いします。

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A 回答 (7件)

 その後レポートはどうなりましたか?


私も日本中世史研究者の末端に連なる者ですので気になります。他の回答者の方が仰っている安良城盛明氏のことですが、これはかなり古い学説です。『歴史学研究』という歴史学研究会が発行する定期刊行物に寄せられた論文でその後かなりの物議を醸した見解として知られています(1953年の歴史学研究163・164号「太閤検地の歴史的前提」と1954年の「太閤検地の歴史的意義」167号)。
 サックリと言えば、太閤検地以前は全て古代奴隷制社会であるとのいささか乱暴な定義を行い、それもマルクスの論文を根拠とするなど、歴史学本来の姿勢からみれば逆立ち現象を示したものです。もっとも当時は1945年以前の歴史学のあり方に対する揺り戻しが学界の中でも、相当に名を知られた研究者の間でもこうした「誰それの○○という論文にこう書かれていたから」との現在からみれば信じられないような根拠に基づく説明ほ平然と行っていた光景も見受けられ、こうした現象は歴史学のあり方自体に対する他山の石的な意味として有効です。
 東大といえど絶対的な正しさを有しているとはいえません。むしろ東大だからといってその信仰に近い権威に胡座をかいているならば、それは学を志す者としては失格の宣告を受けても弁解の余地はないでしょう。因みに安良城氏以前の東大でドンとして知られていたのは坂本太郎でありその以前は平泉澄・蓑田胸喜などの国粋主義的歴史学者でした。更にそれ以前はといえば黒板勝美に代表される実証主義的歴史学者です。
 現在の中世史研究の水準からいえば、太閤検地の歴史的評価は石母田正・永原慶二・黒田俊雄・大山喬平・藤木久志の各氏による整理及び見解に基づくべきであって、安良城盛明氏は例外的な存在として扱うことが妥当です。
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こんにちは。


私は、自称「歴史作家」です。

>>太閤検地の歴史的意義について書け

まず、例外規定(免税)から説明しましょう。確かに、「例外」が存在しました。
(1)荒引減免・・・例えば、1升の玄米を精米すると約8合位になります。そこで、精米で納めるのではなく「玄米」で納める。
(2)損免引・・・・冷害や旱魃で不作の時は、少なく納める。
(3)村の長(おさ)免除・・・これは、村の年貢の取立てなどを行う者で、扶持米(給料)を支払う代わりに村長の田畑の納税免除。
(4)寺社地や寄進地の免除。

測量面から見た例外:
(1)1町=10反=100畝=3000歩。
(2)1歩=6尺3寸(191cm)四方で、畳2枚分ですので、1坪ともいいます。
(3)1升=10合で、縦×横4寸9分、深さ2寸7分の京枡の使用が強制されました。
(それまでは、縦横約4寸、深さ約2寸の枡でした)。
(4)1石=10斗、1俵=4斗(60kg)ですから、1石=2俵2斗。
(5)上田=1石5斗、中田=1石3斗、下田=1石1斗、下下田=9斗。
この「上田」「中田」「下田」「下下田」の区別をしたのが唯一「例外」かもしれません。
このように、1反当りの平均収穫率を「石盛(こくもり=斗代・とだい)」といいます。
(6)石高=面積×石盛で計算されます。上田を1000町持っていれば、その大名は「石高1万5000石の大名」と呼ばれました。

測量の方法等:
(1)検地尺は、上質の柾目桧板製で、表には墨による2個の×印で1尺の長さを表示し、さらに1寸ごとの目盛りがあり、石田三成(治少)の署名と花押がある。
(2)裏には、「この寸をもって、六尺三寸を壱間にあい定め候て、五間に六十間を壱反に仕るべく候なり」とある。
(3)現在のポールにあたる梵天竹や細見竹、巻尺にあたる水縄、直角規にあたる十字などを使用。
(4)田だけではなく、畑や屋敷地も計られ、米を生産できる地として登録されました。

まとめ:
(1)「太閤検地」は別名「天正の石直し」ともいわれます。天正は、秀吉の治世の年号で、石直しとは以前の貫高を石高に改革したことです。貫高とは、土地の生産高を銭(貫)で換算することです。石高とは、土地の生産高を米(石)で換算することです。
(2)幾層にも分かれていた土地の所有者が1人に固定された結果、大名地にある公家の領主としての地位が無くなり、荘園制が完全に崩壊しました。「一地一作人制」とも言う。
(3)検地帳に記載されたものを百姓と規定した結果、兵農分離が進み、身分が固定化されました。
(4)農民は「耕作権」を保証される代わりに「年貢」の負担義務が生じました。
(5)検地は全国で一斉に行われ、「日本国中寸土尺地も残さず」という方針でした。
(6)秀吉が、浅野長政に宛てた手紙が残っています。それには、相手が検地を承知しない時、大名の場合は、「一人も残置かず、なでぎりニ申し付くべく候。百姓以下にいたるまで相届かざるニ付ては、一郷も二郷も悉くなでぎり仕るべく候。たとへ亡所ニ成り候ても苦しからず候」とあります。

まあ、太閤検地で「例外」としてまとめるならば、
(1)村長や寺社領、寄進地などの免除。
(2)それまで一律であつた田を「上田」「中田」「下田」「下下田」等に分別したことぐらいでしょうか。

以上を参考にまとめられたらいいのではないでしょうか。
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大学の歴史学(日本史概説レベル)の宿題かレポート提出ですか。

それにしても100から150字は少ないですね。
太閤検地が行われるまでは領主の「自己申告」に基づく「差出検地」がいくつかの戦国大名領国内で行われていたが、太閤検地では度量衡を統一し田畑を「測量」して、一つの耕地は一人の作人が耕作する「一地一作人」の体制が確立され、中世における複雑で重層的な耕地に関する権利関係を改める事ができた。これにより農民と武士がはっきり身分として固定された。これを兵農分離と言う。
字数を考えないであっさり書いてみました。ちなみに私は日本中世史の研究者です。上の答えは東京大学出身の安良城盛明氏の見解に基づいて書きました。私自身は同じ見解ではありませんから念のため。最近では「兵農分離」の概念そのものの見直しも始まっています。(黒田基樹氏の論考を参照して下さい。)
レポートは自分の力でキーワードを探すところから始まります。がんばって下さい。
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 宿題に対する答えそのものは控えさせていただきますが、一つ手掛かりとなる話をさせていただきます。


私達日本人の住宅だけにあって他の国々にはないもの、それは何だと思いますか。実は「畳」です。そしてこの畳を床に敷き詰めたのが和室です。
 この畳と和室の関係ですが、実は江戸間と呼ばれる和室と京間と呼ばれる和室があります。この両者の違いが何に基づくものかと申しますと、畳のサイズです。畳の大きさが異なるということは部屋の大きさつまり面積が異なるとのことを意味します。また田畑の広さが異なることはそこから収穫するべき米穀の収穫量が異なるとの事にもなります。一口に年貢を納めるといっても京都と関東では肝腎の基準が異なりそれによる不統一性をクリアする(全国を一つの統一された基準により税収を安定的に確保する)目的で計量装置である「枡」のサイズを統一しました。
 この話には元ネタがあります。中国で史上初の統一王朝を建てた秦の始皇帝が「度量衡」を統一した話です。一つの政治権力が統一的に全国支配を維持するにはそこで行われる農業や商業活動を一つの基準の下で管理せざるを得ません。また統一基準を設けることで税収を安定的に確保することもできと、同時に流通活動にある程度許容された自由度を与えることになります。

「自己申告」「指し出し」「一地一作人」これらは太閤検地の歴史的特質に関する説明か教科書に記されているはずですのでそれを参照して下さい。「土地の測量」これは畳の話を参考にすれば書けます。「複雑な利害関係」これは対象が限定されていないので(政権と小作農の関係か、土地所有者もしくは地主と耕作に従事する人間の関係の何れかであるか此所の設問では不明)歴史学を専門とする僕でも書くことは困難です。
 そして「太閤検地の歴史的意義について書け」などとはそれだけでも膨大な研究の蓄積があることを知らない人間の無知な発言としか思えません。余りにも乱雑な質問で、歴史認識を疑ってしまいます。平然とこの様な質問をする中学校や高校の教員がいること自体が問題です。

【ヒント】
・「指し出し」…戦国大名が田畑の面積・収穫量・作人などの明細を報告させて領国内の土地収納高を把握した土地調査のこと。報告を命ぜられたのは大名から土地を給された武士や以前から土地に関するあらゆる権利を保有してきた寺社、村請などで土地を管理してきた村落で必ずしも統一された基準がない。

・「太閤検地」…奉行が派遣され全国統一基準の下で直接に面積・収穫高を調査測量する「丈量検地」。

・「一地一作人」…一筆(ひとふで)の土地の耕作者を一人の農民(百姓)に定め、土地に関する従来の複雑な権利関係(荘園公領制の階層的構造)や中間搾取(作合:さくあい)を排除し、一地一領主とする年貢の徴収システム。端的に言えば、一人の農民が納める年貢は一人の「領主」であるとの税制の考え方。
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多分、賄賂を警戒して、足軽を、戦スタイルで同伴させたとおもいますよ。

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豊臣秀吉がまだ木下藤吉朗だったこと京の都の西北に金目教が現れました、自己申告、指出検地、土地の測量、一地一作人の原則、複雑な利害関係それを太閤検地するために赤影が出てきて検地と白影さんが、がってんがってんしょうちと青影さんはいつも腹ペコでご飯を沢山食べました。



宿題は自分で考えろ
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Q太閤検地の歴史的意義

僕は今、日本史を勉強しているのですが、戦国時代において、豊臣秀吉のところなのですが、太閤検地というのがありますが、あれは、戦国大名が皆やっていたもので秀吉だけがやったものではないのでしょうか?また太閤検地は、方光寺の建設のためや、農民一揆を抑えるためという理由とありますが、太閤検地の歴史的意義とはどういったところにあるのでしょうか?
抽象的ですみませんが教えてください。

Aベストアンサー

太閤検地は,征服地を確実に掌握して全国を統一する基礎となり,同時に従来の複雑な土地関係を整理して土地制度を一新させ,新しい体制を将来させた。秀吉の全国統一と検地により,領主権は統一されて一円化し,また農民の権利は有力農民の加地子得分権などが没収されて,検地帳に登録された耕作権のみに整理された。つまり太閤検地は1領主・1農民という一元的な領主-農民関係を樹立させ,すっきりした封建体制にしたのである。それは小農自立を促す太閤検地の革新性を示すとともに,石高制の成立と相まって兵農分離の基礎となった。すなわち,太閤検地が把握した石高のうち,作徳分は農民に,残りはすべて領主が収取することを原則としたから,有力農民は作合をとれなくなり武士化・領主化することが難しくなり,兵農分離がおし進められた。また、太閤検地は戦国大名検地とは違い実測検地であった。また太閤検地によって決定され把握された石高は,農民に対しては年貢賦課の基礎となり,大名に対しては知行体系を表すものとして使われ軍役の決定基準となった。

Q太閤検地について教えてください

期末テストで『太閤検地』が出るのですが、
説明がかけません。先生はテストに出すと言っていたので困っています。

でも教科書には長くてわかりにくい文章が載っていて
ネットでは難しい言葉ばかりで…

どなたか
くわしく(できればわかりやすい言葉で...)説明を教えてください!!

Aベストアンサー

太閤検地前はその地を治める大名によって田畑の測量方法や単位などが違っていました。
天下統一後もそのままでは何かと不便ですよね?
なので全国で測量方法、単位などを統一し、定めたのです。


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