1573年 織田信長は 室町将軍足利義昭を追放しました
しかし ここで疑問なのは 何故 信長は義昭を「追放」で許したのでしょうか?
信長の傀儡であることに気づいた義昭は 本願寺顕如や武田信玄らの諸大名にゲキをとばして
信長包囲網を作り 信長を殺そうとまでしたほどです
あの信長がそこまでされたら 普通は義昭を殺すと思うのです
まさか将軍だから遠慮したとか?信長に限ってそれはないと思いますが…
しかも義昭は追放で済んだのに 義昭の命令で信長を暗殺しようとした 杉原某(信長を狙撃し重症を負わせた)は捕らえられ のこぎりで首を切断されるという残忍な刑に処されたのに…
毛利家に保護されたので手出しが出来なくなったのでしょうか?
だから信長は 秀吉に毛利を攻めさせ 義昭を捕らえようとしていたのでしょうか?
No.2ベストアンサー
- 回答日時:
中世に於ける「刑罰」の意味として、端的な類例があります。
ご存知かとは存じますが建治元年(1275年)10月、紀伊国阿弖河荘上村の百姓達が申し状を作成した一件です。彼らは地頭である湯浅氏の非法を糾弾する目的でこの一文を作成しました。この中に「耳を切り、鼻を削ぎて、髪を切りて尼になして云々」との一節があります。ここで示されている行為には幾つかの側面があります。
(1)それが女性だったから行われた刑罰である。
(2)それが法的な意味での「聖域」に属する者だったから行われた刑罰である。
との二つの側面です。
(1)のケースを象徴する類例に「山椒大夫伝説」がありますが、ここで姉の安寿は弟を逃した罪により額に焼き印を押され「証付け」をされます。これは「女性として社会的に葬られる」ことを意味すると考えられております。
(2)のケースでは、更に類例が増えます。ここでは男女の別は問われず、それが「僧」などの職にある場合などのケースです。
室町時代に記された『義経記』によれば、義経の太刀を奪おうとした「奈良法師」但馬阿闍梨が配下の者に対し具体的に指示を出している場面です。ここで先ず彼らの間で示し合わされた義経への売り文句は「如何なる痴者ぞ、仏法興隆のところに度々慮外して罪作るこそ心得ね、命な殺しそ、侍ならば髻を切って寺中を追へ、凡下ならば耳鼻を削りて追出せ」というものです。つまり「仏法興隆のところ(=興福寺の寺内)」であるから殺しはしない、もしこれが「侍」ならば「髻を切って」、「凡下(一般人)」ならば「耳鼻を削り」追い出してやれとの脅し文句です。侍に対する凡下の対比も大切ですが、ここで注目すべきは「仏法興隆のところ」だから殺生を忌避するがゆえに、一命を助け「耳鼻削ぎ」を行うとの論理です。
この論理が戦国時代ではどの様に変化するか。天正三年(1575年)八月、越前の一向一揆を討滅した信長は一揆の壊滅後も山狩りを行い、「一揆共切ステ仕、数ノシルシニハ鼻ソキテ持来」と、殺害した一揆勢の「数ノシルシ」を集めさせています。ではなぜそれが「首」ではなく「耳鼻」だったのか。これは耳鼻が欠けるということが外面的な特徴である癩者(ハンセン病患者)が、中世社会の身分の中核をなしていたとの事実とも相互規定的な関係を持つものともいえます。社会から隔絶された存在を示す証拠ならば「追放」もその範疇に含まれることとなります。
信長が義昭をなぜ殺害しなかったのかといえば、殺害する意味がない。生きて辱めを受けることを天下に知らしめるだけで十分な効果があるとの判断が彼にはあったともいえます。戦国大名が上洛したり放浪の将軍を受け容れたのはあくまでも大義名分のみであり、実質は厄介な荷物を抱え込んでしまったことに他なりません。幕府・朝廷(公家・天皇)・戦国大名(寺社・一揆勢力を含む)・在地領主との四すくみの中で、足利将軍がなそうとしていたことは平安末に藤原家が嘗ての栄光を取り戻そうと一人芝居をしていた光景に類似しています。
少なくとも杉原某は信長配下として義昭を見張る立場にありながら信長に弓引く行為をしたから残虐な刑罰に処せられたと考える方が順当でしょう。
No.3
- 回答日時:
信長は、近衞 前久と親交が厚かった訳ですが、
天下統一の際には国ひとつを分けると大盤振る舞いでした。
天皇の遺体が1ヶ月放置されていた状態の御所に
信長は7千石の領地を献上します。
近衞 前久は足利義昭によって追放を受けますが、信長の手足となって働き、
秀吉は、近衞 前久の猶子になる事によって藤原氏になります。
大名と公家との扱いは全く異質です。
足利幕府は実質再興しています。(幕府の再興 )
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9% …
形式上は信長は家臣ですし、
島津家は100両を献上。毛利や相良氏は御料まで献上しているので
安易に殺す事が出来なかった。
のでしょう。
時代が変わり、島津 義久は秀吉の惣無事令は完全に無視しています。
逆に、義昭の「大友攻め」の命を受けています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E5%B7%9E% …
信義であれば義昭。
の時代だったと解釈しています。
No.4
- 回答日時:
信長は基本的に非常に外聞(世間の評判)を意識して行動する理知的で慎重な人物であったと最近は評価されています。
義昭追放時も当初は子の義尊を擁立した節があります。また、京都追放後も畿内周辺で抵抗を続けますが、信長は和睦を提示しています。和睦を蹴ったのは義昭です。
河内若江城の三好義継は義昭をかくまっていましたが、義昭が退去したとたん攻め滅ぼされます。これなどは義昭退去まで信長が攻撃を遠慮していたと考えるべきでしょう。
杉原某とは杉谷善住坊のことでしょうか?彼が信長を狙撃したのは元亀元年(1570)のことで、この時信長と義昭はまだ敵対していません。義昭は無関係でしょう。
「あの信長」というステレオタイプな考え方は見直す必要があるでしょう。
信長は敵対した勢力を完全に滅ぼすことはごく一部を除いてしていませんし、謀反をおこした人物に対しても説得を試みています。朝倉・浅井・武田の滅亡は信長の執念深さを物語るものですが。
義昭が毛利のもとに行くのは天正4年(1576)。それまでは畿内周辺にいましたから、手出しできなかったわけではないでしょう。
将軍だから遠慮したと考えるべきです。
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