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ある人の信仰

無い神は有るとゆー。

無い神を信じることも、有る神を信じることも共に等しく信仰であり対等であるともゆーておる。

果たして無い神は有るのか。
 

A 回答 (14件中11~14件)

 考え方について述べます。




  ○ 無限とは何か?

 この問いにかかわっています。

  ○ 可能無限と真無限(実無限)とは別である。前者は 経験世界における《限りのないこと》であるが 後者は 経験世界を超えているということを意味する。

  たとえば円周率 π は 少数点以下がどこまでも限りなく伸びて行くという意味で無限です。これは しかしながら あくまで経験世界の中における限りの無さです。

 なぜならどこまで伸びて行っても 3と4との間におさまりますから 一定のあたいであることに間違いありません。

 ところが 真無限のばあいは その無限を二で割っても三で割っても 商は やはり無限です。

    ∞ ÷ 2= ∞
    ∞ ÷ 3= ∞

 こんな数は 果たしてありますか? 経験し得ますか? 認識し得ますか?

 このような無限は わづかにそのように想定して 定義とするわけなのだと思います。《あるか無いか 考えても分かるか分からないかが分からない》のだと見ます。だから 想定なのです。

 これが 非経験の場であり 神のことです。
 この神は 人間が自分たちの言葉で 有ると言っても 無いと言っても 厳然として――想定にかんするかぎり――存在していると言わざるを得ません。

 だから 有神論も無神論も ひとによって好きなようにどちらかをえらび そう呼べばよいわけです。
 神など存在するものかと思う人は 《無い神》をえらんだという意味です。だって無限は・つまり神は 初めに想定済みだからです。


 想定したこの神は われわれ人間がその中身を表象することはかないません。主観は勝手に想い描くことをしますが それが 万人にとって共通の神であるかどうかは分かりません。

 しかも 神は存在する派と神は存在しない派とは その《非思考の庭》における有り方としては まったく同じ心的な構造をしているはずです。初めに《無限》ないし《非経験の場》として想定しているのですから。

 《有る神》派のなかで いろんな神の名が世界では用いられていますが それもその名の違いにかかわらず 《非思考の庭》という心のあり方としては みな同じです。

 ただし 教祖を神とする場合は いただけません。教祖は 人間であり経験事物だからです。《非経験の場》ではないからです。
 つまり 想像の産物としてのインチキの神であり しかも思考の領域にとどまりおさまり 非思考の庭を形成してはいませんから にせの信仰です。


 

 重ねて述べますが 非思考というからには 思考ではありません。《有る神》にしろ《無い神》にしろ 《考える》によって存在するものではないということです。なぜなら 《かみ》という言葉を用いているのは 人間が考えて造ったのではないはずだからです。
 《かみ》という言葉の造語者がいたら どうか? どうなのでしょう? どうなりましょうか。 
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この回答へのお礼

>ところが 真無限のばあいは その無限を二で割っても三で割っても 商は やはり無限です。
>   ∞ ÷ 2= ∞
>   ∞ ÷ 3= ∞
>こんな数は 果たしてありますか? 経験し得ますか? 認識し得ますか?

あなたはアルケーの神を理解していませんね。
だから非経験の場とか、非思考の庭とか馬鹿げたことを考え出すのです。
アルケーの神は存在します。
アルケーの神は実在するし無限であり経験もできる。
我々人間との間に確かな接点を持っている。
その接点が消えることはありません。
現にわしなんか今この瞬間においてもアルケーを感じとっている。
非経験の場でもなければ、非思考の庭でもありません。
非経験の場や、非思考の庭にあっては人間との間に接点がないもんだから人間の側でその接点を作り出さねばならない。
だから苦心惨憺せんといかん訳である。
しかしそのよーな接点は編み出したところで所詮人為的産物あるから基盤がなく足に付かない。
それを編み出した人間しか寄り付かないし、それを編み出した本人とてそこからそれ以上のものは何も生まれないことは分かっているのである。
このよーな状態から抜け出す方法は1つしかありません。
アルケーの神が唯一絶対の神であると知ることです。

お礼日時:2012/08/17 17:08

だから、「信教の自由(ただし、他者の人権を侵害しない限りにおいて)」



だから「ある人の信仰」も、当然、社会的に認められ、得る。
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 “信仰=信じる”そして“無い神”と云う言葉を「ある人」がどういう思い(意味)を以って使っているのかを見極めなければ、この“無い神は有る”と云ったような一連の「ある人」特有の言い回し、表現からその意を察することは難しいでしょう。



 「ある人」の造語だと思える“非思考の庭”、を“ヒラメキ”と関連づけてみると、人は経験を通して学習する前の事柄、例えば幼児には学習する前の、言い換えれば初体験であっても“暗闇”を恐れたり、母の腕から離れることの理屈抜きの不安感、を感たりする精神世界のあることに着目してそこに焦点を合わせて考え、その精神世界を“非思考の庭”と云い、幼児の考え抜きの精神の反応を“ヒラメキ”と表現しているのだと思います。

 そして「ある人」は“非思考の庭”と“ヒラメキ”の関係を“信仰=信じる”と表現しているようでもあります。

 日本の八百万の神は、非思考の庭への人々のヒラメキが造りだした神と云えるのではないでしょうか。
 その神々への理屈は後付けであって、発生元はヒラメキから、そしてそれは“非思考の庭”の有ることを“人の心を通して”証明している、と云え“無い神”とは思考によって造られた“既成の”神の事ではなく、この“非思考の庭”の事を指している、と思えるのです。

 思えば、宗教、教団というモノへの不信感が根に在って、そこから『釈尊』の業績は“教え”であるので“信仰”ではないという、釈尊否定の論が作り上げられたのでしょう。

 
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無い神は無い。



有る神はある。のである。これは当たり前の物理学的理論です。

しかし、信仰と信心は違います、信仰とは有る神を信じているのであって、

信心は無い神を有るとする自己満足的な行動です。
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