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ギルバードやマーシャルでの玉砕は、ろ号作戦による航空兵力の枯渇により救援不可能。マリアナはマリアナ沖海鮮での敗北等、納得できる理由がありますが、アッツ島の玉砕やキスカ島の撤退は理由がわかりません。
い号作戦は枯渇というほど航空兵力が壊滅的打撃を受けたわけではありませんし、そもそもアッツ島やキスカ島を包囲した米艦隊は、当時の日本海軍の兵力に遠く及ばず、エセックス級空母もまだ参加していません。参加した戦艦も旧式戦艦です。翔鶴や瑞鶴を出撃させ、また武蔵を陣頭に戦艦も出撃させれば勝利を得られたと思われます。
艦隊が出撃しなかった理由は何かあったのでしょうか?海軍得意の、決戦に備えての出し惜しみなのか、燃料の問題なのか、理由がわかる方教えてください。

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A 回答 (5件)

#4です。



>やはり「あんな戦略的な価値も無い小島、全滅してもいいや。」くらいに考えていたとしか思えないのですが、どうでしょう?それとも、危険な海域に主力艦を出撃させて損傷させてはたまらないといった、艦隊保全主義の現れなのでしょうか?

そうだったと思いますよ。あんな最果ての島に空母だの戦艦だのを投入するなんてどう考えたって割に合わんでしょう。そもそも米海軍だって投入したのは旧型戦艦に護衛空母です。多少は損害を受けても影響はありません。護衛空母なんて、米海軍にとっては「週刊護衛空母」です。2隻沈んでも再来週には補充できます。
もし質問者さんがおっしゃるように大艦隊を派遣したら、もしかしたらその戦いで限定的勝利を得たかもしれません。でも「第二次キスカ沖海戦」で大敗したかもしれません。もしそうなったらそうなったで「あんな最果ての島のために大艦隊を派遣してみすみす戦力をすり減らした」と後年批判を浴びたでしょう。

たぶん、質問者さんは南太平洋海戦を日本海軍の勝利と考えていると思うのですが、南太平洋海戦の勝利なんてのは「苦い勝利」に過ぎません。だってね、あの海戦に勝って一時的とはいえあの海域に米空母が一隻もなくなり「米海軍最悪の海軍記念日」とまでいわれたけど、じゃあその勝利に乗じてガダルカナルを奪回できたのかというと、できていません。あくまで限定的な戦術的勝利に過ぎず、戦略的勝利どころか作戦的勝利にも結びつけることはできませんでした。
しかも南太平洋海戦では、日本の航空機搭乗員は140名以上が戦死しました。そこには歴戦のベテランパイロットが多く含まれ、とうとう機動部隊はその補充をすることができませんでした。後のマリアナ沖海戦では練度の低いパイロットにより、ワンサイドゲームとなりました。一方、米海軍の航空機搭乗員の戦死は14名に過ぎなかったという説もあります。実は単純な航空機の損害では互角なんです。米軍の航空機の損害には、空母ホーネットと運命を共にしたものが多かったのです。だけど、生産力に優れるアメリカからすると、飛行機の損害なんてのはいくらでも穴埋めができます。だけどパイロットとなると天下の米軍といえどもそう簡単に補充はできません。そのパイロットの損害が10:1じゃあそれでなくても戦力はこっちが少ないのに、長期戦になればいずれ自滅するのみです。そして、史実はほぼその通りになりました。実際には南太平洋海戦で日本海軍の空母搭乗員は枯渇してしまったのですよ。
さらに悪いことに、この頃から米軍の潜水艦が猛威を振るいます。太平洋各地で輸送船がボカスカ沈められます。潜水艦が文字通りどこでも神出鬼没になったので、機動部隊は訓練が行えなくなります。なぜ訓練が行えないのかというと、空母が艦載機を発艦させるには直進しなければいけません。しかし、日本海軍にとって「安全な内海」がなくなってしまったので、そんな潜水艦にとって格好の的になるような機動は怖くてできなくなっちゃったのですよ。マリアナ沖海戦で機動部隊の攻撃部隊がどえらい素人くさい戦争しかできなかったのも実はそういう訓練不足に尽きるのです。

「最果ての島にたいした価値はない」と判断したから、木村提督が「裸ひとつで帰ってくるぞ。装備は全部捨てるぞ」といったのにそれを陸軍が認めたのです。あの日本陸軍が「小銃も捨てて帰ってくるからな」ってのを受け入れたのですよ!「死んじゃうよりマシだよね」って考えているのがアリアリです。補給が途絶えたら自活できる雰囲気の場所でもないですしね。ていうか、私からすりゃそこまでしてキスカ島を確保したい理由の方が分かりまへん。そこで護衛空母や旧型戦艦の一隻や二隻を沈めたところで戦争の帰趨にはまったく影響はなかったと思いますよ。
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「鶏を割くに牛刀を用いる」って言葉があります。

甲子園を目指そうという高校が夏の高校野球大会の初戦で弱小都立高校を相手にするのにエースを投入する必要はないですよね。目指すのは甲子園(あるいは全国制覇)ですから地方予選でエースを消耗するのは避けたいところです。

またアリューシャン列島の辺りは、夏でも霧が多い海域です。霧が多いと空母は役に立ちません。戦艦も、長距離の大砲が宝の持ち腐れになりますね。むしろ霧に紛れて駆逐艦が戦艦に肉薄して魚雷攻撃をしたら思わぬ損害を被るとも限りません。また戦艦や正規空母のような大型艦は方向ひとつ変えるのも大仕事で、ひとつ間違えると霧の中で味方同士衝突する危険もあります。
だからキスカ島への救出作戦に日本海軍が投じた戦力が軽巡洋艦が中心だったというのはしごく「まっとうな」判断だったといえるでしょう。高速で小回りが利く軽巡洋艦と駆逐艦の水雷戦隊のほうが使いやすいのです。

アッツ島にいた守備隊は2500人程度で、毎日何百人も死ぬ戦争をやっているとやっぱり感覚がマヒしてくるんでしょうなあ、「まあ2500人くらいだったら諦めるべ」というのがどこかあったんじゃないかと思います。「あんな最果ての島のために戦艦なんか出せねえよ」というのがね。
キスカ島には6000人くらいいたらしいので、さすがに見捨てるには数が多いと思ったのではないでしょうかね。
実はキスカ島の撤退作戦もかなりきわどいものだったのです。木村提督は現地の天候が思わしくないと判断すると躊躇せずに撤退しましたから。Wikiにも書いてありますが、その度に手ぶらで帰ってくる木村提督に対してなんと連合艦隊司令部直々にお叱りがきたほどです。また、現地の燃料も底をついてきたらしいですね。たかが軽巡洋艦3隻を主力の艦隊でも燃料は喰うのです。

またキスカ島作戦が行われた1943年夏頃というと、南太平洋戦線ではい号作戦が終わった辺りで、空母機動部隊は1942年10月の南太平洋海戦で失った航空戦力の補充の途上でした。日本側にも充分な航空戦力がなかったのです。これは、機体が不足していたのではなく、パイロットの不足です。空母に着艦できるのは技術に優れた優秀なパイロットでなければなりません。頑丈な米軍機と違って、華奢な日本軍機だと着艦に失敗するということはすなわち死を意味するのです。だから訓練は慎重に行わないといけないのです。実際問題、日本軍は南太平洋海戦で失ったベテランパイロットの補充をとうとうすることができませんでした。次に空母機動部隊が大々的に投じられるのはマリアナ海戦のときですが、このときにはもう日本軍パイロットの技量は大きく劣るものとなっていたのです。
「でも戦艦武蔵(大和)を投入させたら勝てたはず!」・・・どうでしょう?後のレイテ海戦で日本の戦艦隊が米軍の護衛空母と駆逐艦に食い止められた事実を考えさせられると、日本人が信じているほど日本の戦艦は強くないんじゃないかと思います。大和武蔵は新鋭戦艦だけど、扶桑型戦艦や伊勢型戦艦ときた日にゃ米軍の旧式戦艦よりおばあちゃんな戦艦ですからね。
それに、米軍はもうすでにレーダー射撃ができますが、日本軍はできません。それを考えると、わざわざ不利な土俵に上がるようなものですね。一歩間違うとスリガオ海戦のようにワンサイドゲームになった可能性も考えられます。私もそうだったのですが、どうも日本軍ファンは「我らが日本海軍は最強!」と信じたい余りに日本軍が勝った海戦のことはよく引き合いに出しても、負けた海戦は思い出そうともしないのです。

また本題とはそれますが、日本軍のガダルカナル島からの撤退作戦もなかなか見事なものでした。どうも日本軍は攻めるのは不得意でも、撤退作戦は割と得意みたいです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。回答に対して私の意見を少々・・・。

1919さんのおっしゃっていた「霧が多いと空母は役に立ちません。~大型艦は方向ひとつ変えるのも大仕事で、ひとつ間違えると霧の中で味方同士衝突する危険もあります。」は、レーダーを装備しているとはいえ、米海軍にも言えることではないでしょうか?

私としては、米海軍はアッツ島奪回の為に視界不良という困難に立ち向かい、日本海軍は視界不良を理由に仲間を見殺しにした臆病者に思えます。
本気でアッツ島救援の意思があるのであれば、搭乗員の補充が100%でなくても出撃するのではないでしょうか?「ろ号作戦」程の深刻なダメージは受けておりませんし、「霧が多いと空母は役に立ちません」が本当ならば、本格的な空母戦の可能性は低いのですから、上空警戒に零戦だけを搭載しても問題無かった筈です。目的は敵空母を沈めることではなく、アッツ島の救援ですしね。

また、私が疑問なのは「戦艦を投入したら勝てたはずなのに何故?」ではなく、「なぜ戦艦や空母が出撃しなかったか?」なのです。米海軍の攻略部隊の主力は旧式戦艦「ネヴァダ」「ペンシルベニア」「アイダホ」、護衛空母「ナッソー」等であり、正規空母は一隻もありません。少なくとも当時の日本海軍には、これを上回る海上兵力を用意することは可能であったと思います。
第一戦隊が出撃し、アッツ島沖で艦隊決戦が行われた結果が敗北ならば諦めがつきますが、米海軍よりわざわざ過小兵力で立ち向かい(或いは出撃せずに)負けるという図式が多すぎると思います。これは第三次ソロモン海戦にも言えることですが・・・。

やはり「あんな戦略的な価値も無い小島、全滅してもいいや。」くらいに考えていたとしか思えないのですが、どうでしょう?それとも、危険な海域に主力艦を出撃させて損傷させてはたまらないといった、艦隊保全主義の現れなのでしょうか?

お礼日時:2012/09/10 23:43

>太平洋戦争中、なぜアッツ島は玉砕させられたの?



他にも回答がありますが、「陸軍と海軍の不和」による「悲劇」ですね。
旧憲法下では、各大臣は「直接、天皇に対して責任を負う独立した存在」です。
首相といえども、陸軍大臣・海軍大臣を罷免する事は出来ません。
つまり、陸軍も海軍も「独立した存在」ですから各々の利益・勝率を優先します。

>海軍得意の、決戦に備えての出し惜しみなのか、燃料の問題なのか、理由がわかる方教えてください。

次期海戦に備えての、軍備温存でしようね。
と書くと、上層部の反目が原因と思い勝ちですよね。
が、実際は「武器・弾薬・食料が、底をついた」のが原因です。
大本営海軍部作戦課長富岡大佐は、昭和45年亡くなる前に大本営の冷徹な論理を明らかにしています。
「あの軍は敗残兵である。敗残兵に駆逐艦や潜水艦で食料を運んでいたのでは、日本海軍の戦力は無くなってしまう。上司も捨てろ言った。敗残兵になったら死んでしまえというのは、当たり前だ」。
捕虜になる事は許されませんから「上官から、突撃命令」を受ければ死ぬしかありません。
まぁ、一種の集団自殺ですね。
これを、大本営とか各種新聞は「玉砕」と英雄視した訳です。
今では想像できませんが、中国共産党系機関紙・朝日新聞も当時は「大々的に、玉砕を英雄視」した記事を書いています。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
ひとつ気になったのですが、「武器・弾薬・食料が、底をついた」のは守備隊が、ですよね。
陸軍と海軍の不和はよく取りだたされますが、それでもガ島は撤退作戦を行い玉砕はしていません。
不和とはいえ、戦う戦力があるのに戦わず、撤退作戦もせずに陸軍兵力を見殺しにする。こういった海軍の姿勢を陸軍はどのように思ったのでしょう。
一般的に海軍=善・陸軍=悪のようなイメージがありますが、アッツ島の見殺しや、ガ島での輸送船団護衛軽視を見るにあたり、海軍が悪に見えて仕方ありません。

お礼日時:2012/09/03 23:12

 昭和18年5月までに多くの艦船が沈められ、広大な太平洋をカバーするには戦力不足になっていました。



>当時の日本海軍の兵力に遠く及ばず
 主力は南方ですから北方部隊の戦力は弱くアメリカ艦隊と決戦するには不十分で投入できる戦力は明らかに日本側が劣っていました。
 主力部隊を投入すれば違うでしょうが、進めるためには護衛や補給で多くの艦船を動員しないといけません。短期間で準備はできませんし、北方へ進ませれば南方が手薄になります。

 アッツ島の時、陸軍は増援を送ろうとしましたが、海軍が協力しませんでした。輸送船には護衛が必要ですが、十分に確保できなかったからです。

 アッツ島の守備隊が全滅玉砕しましたからキスカ島は孤立しました。上陸してくれば全滅玉砕は免れませんから撤退は当然です。
 なお、付近の島に飛行場がありますから艦隊が行けば空襲されます。南方では空襲で沈められた船はたくさんありました。
 制空権の無い場所へ艦隊を進めるとどうなるか明らかです。

 キスカ撤退作戦は発生した霧を利用しました。霧の中を進めば空襲されないからです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。レイテでの殴り込みの度胸を18年のうちに見せてくれればと悔やまれますね。

お礼日時:2012/09/03 23:16

極論を言ってしまえば 陸軍と海軍での作戦遂行の仕方で揉めたからです


アッツ島に主力級を投入し 米軍を一気に駆逐すべしという陸軍に対し 海軍は猛反発

アリューシャン ミッドゥエイを太平洋戦線の最重要拠点と位置づけていた海軍は そっちに主力を温存したかったんです
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
日本海軍の動きを見ると、まるで米軍の戦力が強大になるまで温存し、戦力差が決定的になりつつあるマリアナやレイテで、わざわざ殺られるために出撃したように見えてしまいます。
ガ島・アッツ・ニューギニア・ブーゲンビル・・・エセックス級が登場する以前に連合艦隊を動かせば、最終的に敗北するにせよ、史実よりはマシな戦ができたと思います。

お礼日時:2012/09/03 23:21

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Qミッドウェー海戦の敗因を教えて下さい

ミッドウェー海戦の敗因を教えて下さい。なぜあんなに強かった日本軍が負けてしまったのですか?理由を教えて下さい。ちなみに僕は戦史に関してはド素人ですので、その辺はご了承ください。

余談ですけど、先日新聞を読んでいたら「アベノミクス第三の矢はミッドウェー」とかいう記事が載っていて、要するに第一、第二の矢(経済政策)はうまくいったが問題は第三の矢で、これが日本の今後の経済趨勢を決するという内容でした。

それで僕は、緒戦の快進撃から一転、大敗北を喫したミッドウェー海戦の敗因とやらをどうしても知りたくなった次第です。

Aベストアンサー

○日本には防衛研修所戦史室 (現在の防衛省防衛研究所戦史部の前身)が編纂した「戦史叢書」という全102巻にも及ぶ太平洋戦争について書かれた公刊戦史がありまして、ミッドウェー海戦について書かれたものは、その第43巻が「ミッドウェー海戦」として出されています。
「戦史叢書ミッドウェー海戦」・・・市立や県立図書館でも置いてるところは結構あります。
http://www.amazon.co.jp/%E3%83%9F%E3%83%83%E3%83%89%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%BC%E6%B5%B7%E6%88%A6-1971%E5%B9%B4-%E6%88%A6%E5%8F%B2%E5%8F%A2%E6%9B%B8-%E9%98%B2%E8%A1%9B%E5%BA%81%E9%98%B2%E8%A1%9B%E7%A0%94%E4%BF%AE%E6%89%80%E6%88%A6%E5%8F%B2%E5%AE%A4/dp/B000J9GX1M

この本によると次の6項目が大きな日本軍の敗因として取り上げられています。

(1)情報戦の大敗。日本海軍の暗号が解読され、米軍は日本軍の計画を察知していたのに、日本軍は敵情がよくわかっていなかった。

(2)心のゆるみ。開戦以来の戦果から心にゆるみが生じ、作戦の計画と実行に慎重さを欠いた。

(3)山本長官の出撃。山本長官が戦艦に座乗して出撃したので、その位置を秘匿するため、無線の使用が制限され、作戦指導に支障を生じた。

(4)航空戦様相の事前研究、訓練の不足。索敵、偵察、報告などの地道な訓練及び、空母の被害局限対策の研究が足りなかった。

(5)5日の航空決戦の指導の誤り。二度の兵装転換によって弱点を作った。

(6)戦艦主兵思想の転換の不十分。戦艦部隊が後方遠く離れて航空決戦に寄与できなかった。


○ちなみに当時、敵であったニミッツ太平洋艦隊司令長官は戦後に出した著書の中で、「勝利は主として情報による。・・・日本軍は奇襲を試みようとして日本軍自体が奇襲された」と述べています。また日本軍が空母戦力を分散してアリューシャン作戦を行った事を批判し、その戦力分散が無ければ米艦隊が敗北していた可能性があると述べています。

○なお、アメリカ海軍公刊戦史を編纂したサミュエル・エリオット・モリソン少将はミッドウェー海戦について、日本の空母が最も脆弱な状態の時に、米爆撃隊が偶然に日本の空母を発見し攻撃できたという、幸運に恵まれた事から「100秒足らずの時間に起こった事実の相違で、日本軍はミッドウェイに勝ち、太平洋戦争にも勝利をおさめたかもしれない」と日本軍にも勝利の可能性が十分あったことを述べています。

○英国の著名な戦史家リデルハートはその著書で日本の敗因について、十分な数の索敵機を出さなかったこと、戦闘機の援護不足、空母の防火対策が不十分、空母での兵装転換時に敵に向かって航行したこと等、他にも色々指摘していますが、最後は「・・・これらの過失は自信過剰から生じたと言っても過言ではない」と述べており、日本軍の「自信過剰」を問題視しています。

○日本には防衛研修所戦史室 (現在の防衛省防衛研究所戦史部の前身)が編纂した「戦史叢書」という全102巻にも及ぶ太平洋戦争について書かれた公刊戦史がありまして、ミッドウェー海戦について書かれたものは、その第43巻が「ミッドウェー海戦」として出されています。
「戦史叢書ミッドウェー海戦」・・・市立や県立図書館でも置いてるところは結構あります。
http://www.amazon.co.jp/%E3%83%9F%E3%83%83%E3%83%89%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%BC%E6%B5%B7%E6%88%A6-1971%E5%B9%B4-%E6%88%A6%E5%8F%B2%E5%8F%A2%E6%9...続きを読む

QA級戦犯に海軍軍人がいないのわなぜですか?

陸軍大将等は沢山処刑されましたが海軍軍人で東京裁判で起訴された人はいないと思いますが、事後法でも起訴する方法がただたんにみつからなかっただけなのですか?適当な解釈があれば教えてください。

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あえて、皆さんと別意見。
添付書籍は、元陸軍の方が書かれた、海軍主犯説です。
この本を読んで、私の意見を書くならば。

海軍は戦前からアメリカと交渉チャネルがあったが、陸軍は仮想敵がソ連であり、中国であったため、アメリカとのチャネルが少なかった。実際には陸軍は自分のチャネル(中国やソ連)と和平交渉をしておりました。
また、陸軍には、検察側に都合のいい証人がいたこと
http://taiwanx.exblog.jp/i5

参考URL:http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4334933076/ref=ase_mixi02-22/250-1440357-0875447

Q太平洋戦争当時日本軍が三八式銃を使用していた理由は

三八式銃とは、明治38年 に発明された旧式の銃らしいですが、
これを太平洋戦争当時でも使用していたそうです。
戦争中の兵器の進歩は日進月歩なのが普通なので、
これは不思議なことです。
使用し続けた理由は何でしょうか?

大量に余っていたとしても新式に鋳直せばよいだけのことです。
現に戦闘機などはどんどん改良を重ねています。
なにか特別なことがあったのでしょうか?

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

銃は、航空機、戦車、潜水艦のいわゆる三大新兵器とは違う「熟練した兵器」ですので、寿命は桁外れに長いです。
ほかに寿命の長い兵器は、歴史的に見ると刀剣があります。日本刀は、太刀~打刀に変わったりと、若干の変更がありますがおおむね形は変わりません。これは刀は、熟練した兵器であり、戦術的な変革がなければ、仕様を変える必要がない代物だったといえるでしょう。

さて、三八式についてですが、これも似たようなものです。諸外国の兵器と比べた場合の旧式度合いについては、すでに前に語られていますね。
新しいともいえませんが、それほど古いともいえません。つまり、ボルトアクション式では、すでに三八式は「決定版」ともいえる代物だったのです(No12の方が言っているように日本人にとって扱いやすいのも大きい)。
決定版なので、それ以上のものは戦術的転換がないかぎりは不要です。現在でもピストル、小銃などは50年以上前の設計の物だって十分現役で使っている国もあります。これらは現代の戦術では決定版足りえる代物だからです。

さて、先ほどから「戦術」という言葉を使っていますが、これが、三八式におきた一つ目の悲劇です。
時代は第1次大戦、火器は「小銃による打ち合い(砲は補助的)」から「重砲と機関銃(小銃は補助的)」による戦術に「転換」しました。

つまり三八式の作られた時代の戦術概念と第2次大戦では大きく様相が変わったのです。
基本的に新しく作られた戦術というのは、前に使われていた戦術よりも優れています(優れているから採用される)。
つまり、三八は世界的な戦術である、火砲、機関銃の大量使用による弾幕戦と戦うようには対応していません。
諸外国のようにそれらの「補助兵器」として使うならば十二分の性能だったでしょう。

当時の戦術において勝利を決めるのは火砲、機関銃、戦車といった兵器で、小銃はすでに勝利を左右する兵器ではなくなっていました。
しかし、日本軍にはそれらで力のある兵器はありません。

勝利を左右する兵器を持っていない軍隊と、勝利を左右する兵器を大量保有している国が戦えば・・・どうなるかはわかりますね?

日本軍が、(あくまでボルトアクションから進歩した存在であり、補助兵器の域を出ない自動小銃はともかくとして、です。諸外国がこれの更新を遅らせたのは、他に国力を注いでいたためです)火砲や機関銃の大量配備を嫌ったのは、塹壕戦による経験が薄かったために有効性を信用しきっていなかったのもありますが、最大の理由は、工業力がこれらの兵器を「全軍にいきわたらせて、かつ戦えるだけ」の力を持ち合わせていなかったことです。
国力と軍事力の兼ね合いが著しく悪いとも見れます。海軍でもいえますが、国力以上の軍事費は維持費や更新費用の面で国家を破綻させます。弾薬についてもそうです。自国の国力でまかなえる以上の弾薬を使う軍隊を持てば、補給にひずみが生じて、供給が追いつかなくなります。
かといって軍隊を減らすわけにもいかない状態ですし、そのおかげで更新(つまり戦術転換)に使う国力もない。新しい戦術では弾薬を多く使うので、転換したところで維持できるだけの国力もない(諸外国は生産量を増やしたのですが、日本ではそれができるだけの国力すら残っていなかった)。
日本軍が抱えていたひずみとかゆがみが、小銃にも現れているのです。

もう一つの悲劇が、1つ目の後半とかぶりますが日本の工業力の低さです。
当時、日本の技術力はとにかく欧米に追いつけということでタッチアップを図っていましたが、まだまだ追いついていません。
よく「日本の技術力は世界一だった。アメリカに物量で負けた」なんていう人がいますがこれは大間違いです(空技廠から上がってきた航空機の図面で、「この部分は鋳型をつかった鋳造で」となっていても金型が作れずに削り込み部品にしたというのはよく聞く話です。つまり当時の技術はその程度)。
中でも惨憺たる分野が重工業全般の中でも最重要分野の鉄鋼業でして、製鉄も自国では補完できない、鋳型技術も低い状態です。
さらには、精密機械技術が発展途上でして、とにかく精度が悪い(戦前の日本兵器において「統一規格」はありません。というより作れなかったのです。精度が維持できないのですね)。そのため小銃ですら調整しないと命中精度が維持できない上、部品の互換性がない。これは前線において問題です。
別々の箇所が壊れた銃をばらして一つの壊れていない銃にするというのは、軍隊ではある程度普通ですが、日本ではこれが出来ない。つまり不経済な状態です。
また、弾薬の製造精度も悪いため、弾詰まりが多い。これは自動小銃のほうで批判されますが、こちらについては「吐き出す量が多いためハズレに当たる確率が高い」だけなのです(まあ、自動小銃のほうが若干弾詰まりを起こしやすいというのはありますが・・・)。

ながくなりましたが、結局は日本と日本軍の構造上の問題なのです。
日本において三八式が評判が悪いのは、本来的に責任はない三八式に、日本の抱える問題を添付してしまっているからです。結局問題は日本自体にあるのです・・・
というわけで、三八自体の設計は優秀ですし、ボルトアクション式小銃の決定版でもあります。

銃は、航空機、戦車、潜水艦のいわゆる三大新兵器とは違う「熟練した兵器」ですので、寿命は桁外れに長いです。
ほかに寿命の長い兵器は、歴史的に見ると刀剣があります。日本刀は、太刀~打刀に変わったりと、若干の変更がありますがおおむね形は変わりません。これは刀は、熟練した兵器であり、戦術的な変革がなければ、仕様を変える必要がない代物だったといえるでしょう。

さて、三八式についてですが、これも似たようなものです。諸外国の兵器と比べた場合の旧式度合いについては、すでに前に語られてい...続きを読む

Q特攻隊の司令官は約束を守ったか?

私の父が亡くなりました。
88歳でした。
父は先の大戦に行きましたが戦争体験を
聞いても口をつぐんでほとんど話しません。
数少ない話として
父は大学の工学部に在学していたため学徒動員を免除されていたのに
大学を休学し志願して予科練に入隊したようです。
木更津で訓練を受けその後九州の航空隊に配属され銀河と
いう爆撃機に乗っていたようです。
多くの同期の人が沖縄方面に出撃し戦死、同期の生き残りは
ほとんどいないと言う事を聞いたことがあります。

多くの指揮官は特攻隊員に「自分たちも後から必ず行く」と訓示していたが
宇垣中将や大西中将や他の上級将校たちの終戦の日の行動は調べると解かりましたが、
実際現地で特攻隊員を送り出した現地司令官たちはどうしたのでしょう?
実際約束を守って出撃したのでしょうか?
それとも約束を反故にして戦後恩給をもらい続けたのでしょうか?
解かる人がいればお教え下さい。
学徒動員された人や予科練に志願した多くの人は沖縄の海に眠り
生き残った人も「苦労をかけた]という感謝状一枚もらっただけなのに
実際送り出した司令官は生き延びて、ずっと恩給をもらったというなら
なにかやりきれない気分となります。

私の父が亡くなりました。
88歳でした。
父は先の大戦に行きましたが戦争体験を
聞いても口をつぐんでほとんど話しません。
数少ない話として
父は大学の工学部に在学していたため学徒動員を免除されていたのに
大学を休学し志願して予科練に入隊したようです。
木更津で訓練を受けその後九州の航空隊に配属され銀河と
いう爆撃機に乗っていたようです。
多くの同期の人が沖縄方面に出撃し戦死、同期の生き残りは
ほとんどいないと言う事を聞いたことがあります。

多くの指揮官は特攻隊員に「自分たちも後から必...続きを読む

Aベストアンサー

「父は大学の工学部に在学していたため学徒動員を免除されていたのに大学を休学し志願して予科練に入隊したようです。木更津で訓練を受けその後九州の航空隊に配属され銀河という爆撃機に乗っていたようです」

父上様は、海軍の「飛行予備学生」を志願して士官搭乗員(少尉以上)になられたのでしょう。
「飛行予備学生」については、下記の本を読んで頂けるとどういう制度か分かります。

海軍飛行科予備学生学徒出陣よもやま物語―学徒海鷲戦陣物語 (光人社NF文庫)
http://www.amazon.co.jp/dp/476982324X/

「予科練」というのは、今で言うと高校生くらいの「少年」を教育し、下士官搭乗員にする制度です。父上様のような、大学レベルの教育を受けていた方は対象外です。

さて、特攻隊が編成される際は、海軍なら航空艦隊司令長官、陸軍なら航空軍司令長官といった中将クラスの指揮官が出向いたようです。こうした人が、特攻隊員に訓示をします。

また、質問者さんは「現地司令官」と言っておられますが、佐官クラスの「航空隊司令」や「航空隊飛行長」
といった立場で、特攻隊員を選考したり、実際の出撃を指揮したりする将校がいました。また、海軍や陸軍の中央で特攻作戦に関わった将校もいました。

そうした人たちの、敗戦時・戦後の身の処し方を述べます。最初の3名が、敗戦時に自ら死を選んだ人です。

大西瀧治郎 海軍中将:
レイテ沖海戦の際に、第一航空艦隊司令長官として特攻隊を編成し、送り出した。敗戦時には軍令部次長。特攻隊員に詫びる遺書を残して自決。

宇垣纏 海軍中将:
軍令部次長に転じた大西中将の後任のような形で、第五航空艦隊司令長官として、九州から沖縄方面への特攻作戦を指揮。8月15日に「玉音放送」を聞いた後、最後の特攻隊に同乗して戦死。「最後には自分も行くという、特攻隊員への約束を果たした」という擁護意見と、「死なないで済む若者を道連れにした」という批判意見が常にぶつかる。

寺本熊市 陸軍中将:
陸軍航空本部長として敗戦を迎え、玉音放送が放送された8月15日に自決。陸軍では数少ない「知米派」で、高い見識で知られており、寺本中将の自決を知った人は「寺本中将が自決するなら、先に自決しなければならない者がいくらでもいる」と驚いたそうです。
一般に、寺本中将の自決と、陸軍航空特攻の関係が指摘されることはありません。陸軍航空本部長は、陸軍航空隊を「直接に」指揮する職務ではないからです。私見ですが、寺本中将が自決したのは「陸軍航空の特攻について、誰かは責任を取らねばならない」と考えたからではないかと考えます。

富永恭次 陸軍中将:
レイテ沖海戦の後、陸軍の第四航空軍司令官として、特攻隊を編成して送り出した。米軍がルソン島に上陸して自分の身が危なくなると、上級司令部に無断で、部下を置き去りにして飛行機で台湾へ移動。「敵前逃亡」とみなされる行動です。その責を問われて予備役に編入され、即日召集されて、ずっと格下の職である「臨時編成の武器もない師団の師団長」として満洲に送られ、敗戦後にソ連軍の捕虜となる。10年後の1955年に日本に帰還して恩給生活を送り、5年後の1960年に68歳で死去。「帝国陸軍の恥さらし」という意見以外は見た事がないです。

菅原道大 陸軍中将:
1944年12月に第六航空軍司令官となり、敗戦まで、陸軍航空隊の特攻作戦を指揮。長崎県出身ですが、戦後は、埼玉県の飯能で農民となり、養鶏に従事しました。ジャーナリストが取材に行くと「自分はどんなに罵倒されても良い、だけど特攻隊の若者を悪く書かないでくれ」とだけ言い続けたそうです。1983年に95歳で死去。

源田實 海軍大佐:
この人は「特攻の指揮官」ではなく、海軍中央の参謀です。もともと、戦闘機パイロットでした。大西中将が第一航空艦隊司令長官としてフィリピンに赴任する前に、軍令部参謀の源田大佐が、「もはや、飛行機が爆弾を抱いて敵に体当たりするしかない」と全てお膳立てをしていたというのが定説です。源田大佐は、その後、海軍の精鋭を集めた343航空隊司令として防空戦闘を指揮しましたが、この時に部下の飛行長(戦闘機パイロット)と下記の問答をしました。下記は、飛行長の証言によります。ジョークではありません。
源田「ウチの隊も特攻隊を出さねばならないか」
飛行長「分かりました。では、私が特攻隊長となって、海軍兵学校出身の士官搭乗員を引き連れて特攻します。その次は司令が特攻隊長となって残りの者たちを率いて下さい」
源田「・・・慎重に考えよう」
源田は戦後は航空自衛隊に入って航空幕僚長に上り詰め、退官後は参議院議員となり、帝国陸海軍将校として一番幸せな戦後を送った人と言えるでしょうが、「源田さんが、軍令部で特攻を立案したんですね?」という質問には一貫して「ノー」と言い続けました。個人的には、富永と同じくらい卑怯だと思います。

山本栄 海軍大佐:
「最初の特攻」とされる、関行夫大尉の上官(201航空隊司令)。戦後はカソリックに帰依し、伝道生活を送ったが、自分が海軍大佐であったこと、最初の特攻隊を送り出したことは、信者には一切話さなかったそうです。

玉井浅一 海軍大佐:
上記の、201航空隊の副長。のち、航空隊司令として特攻作戦に携わる。戦後は日蓮宗の僧侶になった。特攻隊員の慰霊に尽くしたとされています。

中島正 海軍中佐:
フィリピンや台湾で、航空隊の飛行長、副長として「特攻隊員を選定し、出撃の順番を決める」という、特攻隊員の死ぬ順番を決める仕事に携わる。当時の部下の印象は「軍人と言うより役人のような印象」だったそうです。フィリピンでは、「中島中佐がいる基地には降りるな。降りたら特攻隊にされる」と、搭乗員の間で恐怖を持って騙られたそうです。当時、ある航空基地に着陸した搭乗員は、その航空基地の指揮官の指揮下に入るとされていました。
戦後は航空自衛隊に入り、空将で退官。特攻については何も語らなかったようです。
なお、中島中佐は戦闘機のパイロットであり、太平洋戦争の前半は、「飛行隊長」として、操縦桿を握って数多くの戦闘に参加しています。その頃については、特に悪い評判は聴きません。

「父は大学の工学部に在学していたため学徒動員を免除されていたのに大学を休学し志願して予科練に入隊したようです。木更津で訓練を受けその後九州の航空隊に配属され銀河という爆撃機に乗っていたようです」

父上様は、海軍の「飛行予備学生」を志願して士官搭乗員(少尉以上)になられたのでしょう。
「飛行予備学生」については、下記の本を読んで頂けるとどういう制度か分かります。

海軍飛行科予備学生学徒出陣よもやま物語―学徒海鷲戦陣物語 (光人社NF文庫)
http://www.amazon.co.jp/dp/476982324X/

「...続きを読む

Q原爆が落とされず本土決戦になっていたとしたら

「原爆を落とさなければ日本は降伏せず、本土決戦で壮絶な抵抗にあっていただろう。」ということを紹介した記事がありました。
http://www.asahi.com/column/wakamiya/TKY200507260325.html

終戦当時はすでに武器やガソリンもろくになかったので、大した抵抗はできなかったと思うのですが、どうでしょうか?
組織的な抵抗としては、やはり万歳突撃でしょうか?
特攻隊の飛行機はまだありましたか?
日本の考えていた本土決戦の青写真を教えてください。

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

 存在しましたね、『日本本土ゲリラ作戦』というのが。

 戦後、太平洋戦争で日本は情報戦に完敗したとの神話が定着しましたが、これは戦後、アメリカのウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(情報操作工作)が成功したからです。

 日本陸軍の情報能力は総合力で互角、しかも状況予測については部分的にアメリカの分析を凌駕していました。当時のインテリジェンス機能の中枢を担っていた参謀本部第二部(情報担当)で第五課がソ連、第六課が欧米、第七課が中国、第八課が宣伝・謀略を担当していたのですが、真珠湾奇襲が行われた翌月、1942年1月ドイツ・イタリアを集中的に調査分析する第16課が新設されました。
 
 第16課には陸軍中野学校出身者も配置され、冷静な眼で徹底的な分析が行われることになります。その結果、ドイツ・イタリアは敗北するという結論に達し、ドイツの勝利を前提に組み立てていた日本の戦略的見通しは成り立たず、米軍の日本本土上陸は必至との結論に至りました。
 
 第16課は1943年10月に廃止され、その後は米軍の本土上陸作戦に関する予測とゲリラ戦の準備に日本陸軍のインテリジェンスは精力を傾注したのです。

 そうした日本の予測が正確であったことを戦後知ったアメリカは驚き、米軍から情報漏れがあったのではないかと徹底的な調査を行います。この点については、参謀本部第二部で米軍情報の分析に当たり、戦後自衛隊の統幕第二室長(情報担当)や西独防衛駐在武官を務めた堀氏の証言が興味深いです。
 
 『戦史を繙(ひもと)いても、敵情判断が寸分の違いも無く的中した例はそうザラにあるものではない。それが、リンガエン(フィリピン・ルソン島)南九州、関東地方への米軍の上陸判断は確かに的中したから、反対に米軍の方が自軍の情報漏れを疑い出した。』米軍からの情報漏れがあったわけではありません。参謀本部の情報将校達は、公開情報、無線盗聴情報、さらにスペイン・ポルトガル・スイス・スウェーデンなどの中立国に張り巡らしたインテリジェンス網
を通じて収集した情報を、言わば職人芸で総合的に判断したのです。

 米軍上陸を織り込んで、陸軍中野学校は本格的に組織を改編し、1944年8月にゲリラ戦士を養成する『二俣分校』を開設しました。中野学校本校では、語学教育に大きなウエイトを置いていましたが、本土決戦までの時間が限られるので二俣分校では語学教育は割愛し、爆発物の製造・取り扱いや地下ネットワークの作り方などゲリラ戦に特化した教育を行いました。(フィリピン・ルバング島で1974年まで戦後30年間、残置諜者の任務を遂行した小野田寛郎氏は二俣分校出身)

 戦後、この情報を知って陸軍中野学校、外務省、陸軍省関係者が逮捕され、7ヶ月間巣鴨プリズンに拘留されましたが、嫌疑不十分で釈放されました。しかし、中野学校がある種の秘密工作に関与していたことは間違いなくイギリス情報機関も強い関心を持ち調査していました。戦後ずいぶん経って分かったことは、占領軍により皇統が断絶される危機に備えて、600万円(現在の貨幣価値で7億円)を用意して『幻の日本本土ゲリラ作戦』を準備していたということです。

 元中野学校出身者は次のように語っています。『陸軍中野学校でも、日本が占領されるのは必至と見て、アメリカ・イギリスの占領政策、植民政策の研究を行っていた。傀儡日本政府の官僚として中野学校出身者を送り込む計画も立てていた。そして占領軍と傀儡日本政府が日本の国体を危うくする時には、中野学校が張り巡らしたネットワークを用いて遊撃戦の展開を傀儡政府内部から手助けすることになっていた。結局、国体は護持されたからこの作戦は実行されなかったが。』

 優れたインテリジェンス工作はその姿が見えません。従って、何もやらなかった時と工作が成功した時が表面上同じにみえます。陸軍中野学校が準備していた『日本本土ゲリラ作戦』は『なかったこと』として処理されました。
 
 しかし、状況証拠からアメリカは日本にゲリラ戦を行う専門的訓練を受けた集団が存在することを掴みました。ゲリラ戦をする能力はあるのだから、あとはそれに意思が加われば実行されます。その決断のスイッチは、日本の国体が占領軍によって護持されなくなる危機が生じた時に入る。アメリカ人はこのことを正確に認識し、ゲリラ戦の能力を持った人々を叩き潰すよりも懐柔することにしたのです。
 『天皇制の維持』を明確にすることによって。

 参謀本部将校が、優秀だったことを語る話として、10年前の湾岸戦争の時、瀬島龍三氏が『○月○日総理は外遊するそうですが、その日は、アメリカ軍が攻撃を仕掛けると思われるので、一国の首相として、その日は日本にいたほうがいいと思います。』と忠告したことからも分かります。氏は、この時80歳前後の一般人(国鉄解体の仕事には従事していましたが)で、この情報はオープン・ソース(新聞・テレビなど誰でも手に入るもの)を分析したものでした。

 存在しましたね、『日本本土ゲリラ作戦』というのが。

 戦後、太平洋戦争で日本は情報戦に完敗したとの神話が定着しましたが、これは戦後、アメリカのウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(情報操作工作)が成功したからです。

 日本陸軍の情報能力は総合力で互角、しかも状況予測については部分的にアメリカの分析を凌駕していました。当時のインテリジェンス機能の中枢を担っていた参謀本部第二部(情報担当)で第五課がソ連、第六課が欧米、第七課が中国、第八課が宣伝・謀略を担当して...続きを読む

Q「海ゆかば」の意味は?

海ゆかば水漬く屍

山ゆかば草むす屍

大君の邊にこそ死なめ

かえりみはせじ


という軍歌?の意味やどんなときによくうたわれたのかなどおしえてください。

Aベストアンサー

歌詞は万葉集から採られたもので、以下が歌詞の意味です。

海で戦って死ねば、死体は海水に浸かって浮かぶだろう。
山で戦って死ねば、打ち捨てられた死体は草に覆われるだろう。
天皇のおそばで死ぬのだから、決して後悔はしないぞ

太平洋戦争前、日本政府によって国民精神強調週間が制定された際、そのテーマ曲としてNHKが信時潔氏に依頼して作られた曲で、出征兵士を送る歌として歌われました。本来は国民の戦闘意欲を昂揚させるために作られた曲ですが、太平洋戦争末期の大本営による戦地玉砕のラジオ発表の際に、テーマ音楽として用いられたことで国民に強く印象付けられたようです。

Q日本が太平洋戦争で犯した最大の失策

みなさん、日本が太平洋戦争で犯した最大の失策はなんだったと思いますか?

また、アメリカとの国力差をみると負けるのは当然としても、もう少し善戦できなかったのかと考えてしまいます。



どうすれば、より善戦できたか。
また、善戦できなかった最大の理由はどこか、を教えてください。

Aベストアンサー

負けは当然ではありません。
ただ単に大本営の作戦指導にミスがあっただけの事です。
勝ち目はありました。

最大の失策はアメリカ1番の弱点を攻めきれなかった事です。
今も昔もこれからもアメリカの1番の弱点は人種問題です。
当時は現在よりもさらに人種問題は深刻でした。
その人種問題を謀略を用いて攻めきれなかった事。これが日本軍最大の失敗です。

当時の米国では黒人等の有色人種の権利は法的にも低いもので平然と差別が行われていました。
黒人等の有色人種はそれに不満をつのらせていました。
太平洋戦争が始まった時も黒人達は、対外戦争での勝利と、国内での人権向上の権利を得る戦いに勝つ、二つの勝利を目指す「2つのV」というスローガンを掲げていたぐらいです。
政府としては国内を平穏にしておくためと、不足する労働力を得る必要性から黒人への権利拡大に動きます。
その結果、それまで白人しか働けなかった職場に黒人が配置されたり、黒人がそれまで就けなかった地位に就くようになりました。
しかし、これに反発したのが白人労働者で「黒人と一緒に働くくらいならヒットラーやヒロヒトが勝ったほうがましだ!」とストライキや暴動を起こしています。軍需工場によっては白人労働者の9割が職場を放棄したり、2万人の労働者が職場放棄した造船所もありました。
1942年8月のライフには緊迫する軍需産業都市デトロイト(軍需物資の3割以上を生産していた都市)について「デトロイトでは人種対立が激化し、ヒットラーと戦う前に互いに憎しみをつのらせている。モラルの低下は国内でも最悪の状況で、デトロイトはヒットラーを粉砕する前にアメリカを吹き飛ばしてしまう危険がある」という記事を載せています。
実際、翌年にはデトロイトでは大規模な黒人対白人の人種暴動が発生し34人が死亡し1000人が負傷し、軍が動員され暴動が鎮圧されています。
こうした暴動はデトロイトだけでなく全米各地で発生しており47都市で100を超える人種暴動が発生しており、軍需生産にもかなりの影響を与えています。メキシコ系住民と白人との間にも暴動は発生しています。
人種対立は軍需産業における労働者だけではありません。
アメリカ軍内部でも発生しています。白人兵による黒人兵への差別、暴力は多く、それが暴動にまで発生した事件もありました。ルイジアナで起きた黒人兵の暴動では28人の黒人兵が射殺され3000人が逮捕されています。3000人といえば丸々1個連隊に相当する人数です。それが戦争に行く前に内部対立で失われているのです。
だから当時の黒人兵が回想で「我々が戦うべき相手はドイツ兵なのかアメリカの白人兵なのか」というような事を証言しています。
日本は白人と黒人、メキシコ系などの有色人種の対立を加熱させ利用するべきでした。
アメリカの国力は日本の10倍です。しかし、その巨大な工業力も人がいなければ動きません。
工作員を多数確保し白人側には黒人の社会進出の不満を煽り、黒人などの有色人種には白人支配の不満を爆発させるようにして、白人側、有色人種の側、双方から煽り対立を激化させアメリカ国内を紛争状態にし、その工業力を発揮させないようにするのです。有色人種が武器を持ち立ち上がり内乱状態にもっていければ最高です。
日本はスペイン人を利用して戦時中にアメリカ国内にスパイ組織を確保していますが、このように第三国を利用して工作員を多数確保するのもありでしょう。できれば戦前から工作員を確保しておくべきです。
日露戦争の時に明石元二郎大佐がロシア国内の反政府勢力を援助してロシア軍の大部隊を国内に釘付けにさせる事に成功していますが、そのような成果を狙えれば、なお良いでしょう。もしアメリカ最大の石油生産地帯である南部で大きな反乱が起こり、石油の流通に滞りがでればさらに良いでしょう。
日本も戦前からアメリカの弱点の一つとして黒人社会と接触していますが、その工作は規模が小さすぎ大きな力とはなっていないように見えます。これは完全な日本軍の手落ちでしょう。
なお、前述したデトロイトの暴動は日本人工作員によって発生したらしいという話しもありますが、確実な証拠に乏しく詳しい事は判明していません。

アメリカの国力は大きいですが、それが軍需産業としてフル活動するには時間がかかります。だから1942年10月には太平洋で無傷の大型空母は0隻になるという状況も発生しています。エセックス空母の1番艦が実戦に出て来たのは1943年からですし、アメリカ軍の戦力が大きく増強されるのは1943年以降です。
それまでの間にアメリカ国内で人種対立を激化させ内乱状態にまで持っていければ、アメリカは国内問題を先に解決しなければならず、日本に有利な態勢で講和という事もありえるかもしれません。
要は敵の内部を撹乱するのは兵法の常道でもあるにも関わらず、それを怠った大本営の作戦ミスです。

後はミッドウェー作戦での空母戦力の分散でしょう。
アリューシャン作戦を行い空母を分散させました。連合艦隊内部にもアリューシャン作戦は中止し、その空母を南雲機動部隊に合流させるべきだの意見がありましたが、採用されませんでした。
戦後、ニミッツ元帥もこの兵力分散を批判し、兵力を集中していれば日本が勝利していた可能性がある事を指摘しています。
ミッドウェー海戦では日本の暗号が解読されていた事を敗因に挙げる人もいますが、暗号を解読していたにもかかわらず空母ホーネットの爆撃隊は日本の空母を発見できず、20隻近いアメリカ潜水艦も空母を第1目標にするよう命令されていながら1隻も戦果を上げれなかった事からわかるように、必ずしも絶対的な要因ではありません。
もし、日本がミッドウェー作戦で空母を集中投入していれば勝利していた可能性はかなりあるかと思います。
そして、ミッドウェー海戦で勝利していれば、その後の展望も大きく違ってくるかと思います。

さらに日本潜水艦隊による通商破壊戦を全力で行う事でしょう。
アメリカは開戦時、Uボートの活躍で石油不足に陥っていますし、イギリスもUボートの活躍で海上交通路を攻撃され危機的状況にありました。これに日本の潜水艦による通商破壊戦の戦果が加われば、両国は一層苦しめられた筈です。
しかし、日本は潜水艦を全力で通商破壊戦に投入する事はしませんでした。潜水艦部隊から通商破壊戦実施の要望が出されてはいましたが採用されませんでした。

つまり・・・
(1)アメリカ本土での人種対立を激化させ国力を発揮させなくする。
(2)ミッドウェー作戦では空母を集中投入する。
(3)潜水艦による通商破壊作戦を全力で行う。
この三点だけでも成功すれば戦局は大きく動くでしょうし、日本の勝利の可能性もあるかと思います。

細かい事を言えば、まだまだありますが、多くの皆さんが言うように、日本の勝利が不可能だとは、少なくとも私は思っていません。善戦どころか勝利する可能性もあったのに、日本の軍部の作戦ミスで敗北したと私は判断しています。

負けは当然ではありません。
ただ単に大本営の作戦指導にミスがあっただけの事です。
勝ち目はありました。

最大の失策はアメリカ1番の弱点を攻めきれなかった事です。
今も昔もこれからもアメリカの1番の弱点は人種問題です。
当時は現在よりもさらに人種問題は深刻でした。
その人種問題を謀略を用いて攻めきれなかった事。これが日本軍最大の失敗です。

当時の米国では黒人等の有色人種の権利は法的にも低いもので平然と差別が行われていました。
黒人等の有色人種はそれに不満をつのらせていました。
太平洋...続きを読む

Q戦時中に最前線に投下されて、生き残った兵士っていま

戦時中に最前線に投下されて、生き残った兵士っていますよね。突撃ー!と隊長が言って、突撃しますよね?突撃しなかったら、身内に刺されて死にますよね。どうやって、突撃ー!と言われて、確実に死ぬであろう敵からの集中砲火の鉄砲玉を奇跡的に除けて、周りがバタバタ死んで行く中で、敵陣まで生きて辿り付き、そして全勝出来たのでしょう。

戦争で最前線で戦っていたという旧日本兵のおじいちゃん方はどうやって、最前線をくぐりぬけたのか知っていたら教えてください。

日本が戦争になったら参考にしたいです。戦場から逃げたとか通信兵で後方部隊だったとかはNGです。最前線で戦って生き残った人のどうやって生き残ったのか知りたいです。

Aベストアンサー

 父の友人で、フィリピン戦線で戦った人の話を記載します。

 アメリカ軍の陣地に対して、夜間攻撃を行って占領するという命令を受け、その人の所属する小隊(50名程度であったそうです。)も、夜の闇にまぎれて匍匐前進して200メートル位まで忍び寄り(それ以上はサーチライトが照らしていて、見つからずに接近できそうもなかったそうです。)、夜明け前に「突撃ー!」となったそうですが、とたんに米軍陣地から猛烈な機銃掃射が始まり、照明弾も打ち上げられて、地面の窪みに這いつくばったまま、前進も後退も出来ない状態になってしまったそうです。

 明るくなる前に、点呼があり、這いつくばったまま17人が返事をして、「結構生き残っているな。」と思ったそうです。

 それから明るくなり、熱帯の直射日光の下で、死体に混じって動かないようにしていたそうです。
 日中、太陽の下で、何か動きがあると感じられた場所には、米軍陣地から機銃掃射が何度も容赦なく行われるので、ずっと地面の上に転がっていたそうです。
 そして、日が沈み、夜になってから少しずつ後退して、日本側の塹壕まで戻ったそうです。
 無事に塹壕まで戻ってきたのは、結局8人だったそうです。

 父の友人で、フィリピン戦線で戦った人の話を記載します。

 アメリカ軍の陣地に対して、夜間攻撃を行って占領するという命令を受け、その人の所属する小隊(50名程度であったそうです。)も、夜の闇にまぎれて匍匐前進して200メートル位まで忍び寄り(それ以上はサーチライトが照らしていて、見つからずに接近できそうもなかったそうです。)、夜明け前に「突撃ー!」となったそうですが、とたんに米軍陣地から猛烈な機銃掃射が始まり、照明弾も打ち上げられて、地面の窪みに這いつくばったまま、前進も...続きを読む

Q原爆・長崎・広島の被害者数は一体どれくらいなんでしょうか。

鳥インフルエンザ、新型(鳥)インフルエンザが流行してしまった場合、最悪の事態の予想を、新型インフルエンザ対策検討小委員会が明らかにしたという数値をみて、死者、患者共にその数の多さに驚きました。あくまで最悪の場合の予想とはいえ、ものすごい惨事であると思いました。そこで、生物兵器という言葉を思い出しました。兵器には核兵器もあると。そこで気になりました。原爆・長崎広島の被害者数はどれくらいなんでしょうか。よろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

広島は当時人口42万人、死者、行方不明合わせて
12万2338人、長崎は、人口24万人、
死者、行方不明合わせて7万3884人と言われています。

被爆後5年間の間に広島で20万人、長崎で14万人
です。

Q西南戦争田原坂をなぜ決定的な戦いのようにいうのか?

西南戦争の歴史、本を何冊か読み、巷で言われる「田原坂」が決定的な戦いでも転機でもないことがわかりました。

田原坂戦は、熊本篭城軍の後詰を薩州軍が押さえるというのが大局的な状況です。そして、そのために熊本に向かう道に幅広く防衛線(30km位?)を敷きます。で、この防衛線は4月15日に薩州軍が自発的に退却するまで、漸次後退しますが、突破はされません。大きな戦線の移動が3月20日の田原坂七本付近の小突破によってあるが、その日のうちに戦線を整理し、政府軍の動きはまた封じられています。熊本城までの道程を考えると、たいした意味のある動きではないわけです。このままのペースで戦ったところで、篭城軍が兵糧攻めで降伏するまでに、つけるような見込みはまったく立たないという状況です。

なぜ、自発的な退却があったのかというと、熊本の南八代に上陸した政府軍が城との連絡に成功したから、攻城を解いた。その動きによって、北部の戦線は意味を失い、総退却に移ったものです。

田原坂は非常な消耗戦でしたが、決定的な戦いではないのです。あえて決定的な瞬間といえば、八代上陸軍が熊本城に到着した瞬間でしょう。なぜこれがメインテーマにならないのか?

不思議です。

西南戦争の歴史、本を何冊か読み、巷で言われる「田原坂」が決定的な戦いでも転機でもないことがわかりました。

田原坂戦は、熊本篭城軍の後詰を薩州軍が押さえるというのが大局的な状況です。そして、そのために熊本に向かう道に幅広く防衛線(30km位?)を敷きます。で、この防衛線は4月15日に薩州軍が自発的に退却するまで、漸次後退しますが、突破はされません。大きな戦線の移動が3月20日の田原坂七本付近の小突破によってあるが、その日のうちに戦線を整理し、政府軍の動きはまた封じられてい...続きを読む

Aベストアンサー

明確な作戦図や地形図を見ているわけではないので、明快な回答はできないかもしれませんが、ちょっと考えてみましょう。

薩摩軍は熊本を攻囲しつつ、田原坂で、政府軍と戦闘をしているわけです。もちろん幕府軍の戦線を突破、あるいは迂回してしまえば決定的な戦闘となるでしょうが、それはできなかったのですよね。(あくまでも政府軍の目標は熊本城攻囲軍でしょう。田原坂の薩摩軍は主目標ではないと思います。)

しかし、これができなかったとしても、政府軍は薩摩軍を田原坂戦線に拘束しているわけです。もし田原坂を圧迫しなければ、薩摩軍は全部隊を熊本城攻城に振り向けることができるのです。熊本城は政府軍にとっては、軍事戦略上以上に、政治戦略的な意味をもちますから、開城を許すわけには行きません。結局、田原坂戦線を崩壊させなくても、薩摩軍は戦力を分散させることになり、戦略的に不利になります。だからこそ決定的なのではないでしょうか。

八代上陸作戦は、第2戦線を築いたという点では決定的でしょうが、田原坂戦線がなければ意味はなかったかもしれません。いずれにせよ薩摩軍は同時に3つの作戦を同時進行しなくてはならなくなります。だからこそ攻囲を解いたのでしょう。

これは朝鮮動乱の時の、釜山橋頭堡(洛東江コリメーション)と仁川上陸の関係に似ているかもしれません。釜山橋頭堡が維持されているからこそ、仁川上陸の意味が大きくなるのです。これによって北鮮軍は兵力を二分され、戦線の崩壊を招きました。

決定的とは、華々しさだけで論ずるものではありません。敵戦力の拘束は、殲滅などに比べ華々しさではおとりますが、戦術・戦略上では重要な意味を持つのです。

しかし30kmの前線というのは、よく守れたものです。常識的に考えれば3個師団以上は必要です。まあ田原坂が長い隘路の役割をして、政府軍の戦力を各個撃破できたのかもしれません。それにしても突破口を押し返したのですから大したものです。観測点射撃や鉄条網と機関銃火網陣地出現以前の時代ですから感心しますよ。

明確な作戦図や地形図を見ているわけではないので、明快な回答はできないかもしれませんが、ちょっと考えてみましょう。

薩摩軍は熊本を攻囲しつつ、田原坂で、政府軍と戦闘をしているわけです。もちろん幕府軍の戦線を突破、あるいは迂回してしまえば決定的な戦闘となるでしょうが、それはできなかったのですよね。(あくまでも政府軍の目標は熊本城攻囲軍でしょう。田原坂の薩摩軍は主目標ではないと思います。)

しかし、これができなかったとしても、政府軍は薩摩軍を田原坂戦線に拘束しているわけです...続きを読む


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