
No.2ベストアンサー
- 回答日時:
>203高地陥落は児玉源太郎のおかげですか?
その通りです。
当時、すでにロシア艦隊は本国を出港し、ウラジオストックを目指し航行中であった。戦争遂行上、旅順港に逃げ込んだ「ロシア太平洋艦隊」を何が何でも壊滅させる必要があった。これは乃木大将の指揮する第三軍以外の、大本営、日本海軍、満州軍総司令部の共通の認識であった。
明治天皇も旅順艦隊攻撃の成否が、来航するロシア艦隊と決戦を挑む日本海軍の勝敗を左右する重要な要素になる事を知っていた。
そのため、明治天皇は旅順艦隊を砲撃できる高地、203高地を確保すべきだと判断し、御前会議で満州軍総司令官の大山巌元帥にその旨を至急伝えるよう指示した。
ところが、乃木司令官はあくまでも旅順要塞の正面攻撃に固執し、203高地確保に耳を貸さなかった。
やむを得ず、大山総司令官は訓令を発し「二〇三高地に関する戦況が不明な原因は、第三軍司令部の指揮の統一がとれていないと断定せざるを得ない(中略)なお総司令官の名をもって、児玉参謀長を第三軍の作戦指導に派遣した」
つまり、乃木大将の指揮権を取り上げ、児玉参謀長が直接指揮をとったと言う事です。
>28センチ砲の援護射撃を命令する児玉に「陛下の赤子を撃つことはできない」と盾突く参謀長に・・・・云々
この、28センチ砲攻撃に対して、「味方を砲撃する恐れがある」として、強硬に反対したのは伊地知参謀長ではなく重砲隊副官です。
もちろん、児玉は即座にその意見を退けました。
茨城大学名誉教授の大江志乃夫氏は、その著書「日露戦争と日本軍隊」の中で、「海を越えて戦った日本軍にとって補給路を確保すること、すなわち制海権を握ることが勝利、少なくとも負けないための絶対条件になります。それにはバルチック艦隊が合流する前に極東のロシア艦隊を無力化する必要がありました。ロシア艦隊が旅順から出てこない以上、旅順港攻略以外に道はなかったのです」と述べ、
「堅固な要塞に無意味な強攻を繰り返した乃木司令部の無能と無策は、厳しい批判に値します。第三軍の伊地知参謀長らは敵情すら正確に把握していなかった。伊地知をはじめとする乃木の部下、いわば高級指揮官の官僚的体質も大勢の兵士を死に追いやる原因でした」と述べています。
「勇将の下に弱卒なし」という言葉は乃木大将に対して使うものではありません。
ただ、乃木将軍は心優しい人であったのは間違いないと思います。その部分を明治天皇は愛したのだと思います。
軍人でなければ、人間・乃木希典として立派な一生を過ごされた人だと思います。
この回答へのお礼
お礼日時:2009/11/03 19:12
大変詳しくありがとうございます。
伊地知参謀長は「俺は砲術の専門家だ!」と
専門馬鹿だったという話を聞いたことがありますね。
乃木は部下にも恵まれませんでしたね。

No.4
- 回答日時:
完璧に怪しい限りなんだよな。
^^;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%90%E7%8E%89% …
現場は敵情も把握出来ない愚将であり、
内地では敵情は全て知っていて的確な命令をしていた???
それ所か、
現地も知らずに命令だけするもんだから、塹壕を掘って城壁まで進んで機銃の効かない白兵戦を挑んでいたのに突撃させられ
挙句、責任は命令者ではなく、実行者の乃木に降りかかった。
これだけの事だと思ってる。
目の前の山に1発打ち込む時、バルチック艦隊は無関係だと思う。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%85%E9%A0%86% …
No.3
- 回答日時:
歴史の後知りという言葉がアリます。
結果から類推してしまうということです。
もともと旅順要塞を攻撃したのは、陸軍で満州の奉天会戦に集中するために後方不安を除くためです。 203高地に目を付けたのは海軍で、ご存じのようにバルチック艦隊と太平洋艦隊との両方同時相手をしたくないことから出たプランです。 結果を先に言いますが、旅順が落ちたのは、1905年1月1日で日本海海戦の5ヶ月も前です。 日本海軍が訓練期間と設定してた2ヶ月間をはるかに上回ります。 海軍は旅順陥落などどうでもよく旅順港内の太平洋艦隊の一掃が目的で、陸海軍の作戦の調整ができていなかったといえる。
現在、日本語で書かれている旅順攻防戦は、戦前の陸軍大学校で教材だった「機密日露戦史」に依っています。 かの国民作家の小説もそうです。
No.1
- 回答日時:
ウソです。
要塞攻略戦はその性質上、守るより攻める方に犠牲が多いもので、この時、各国の観戦武官が居たのに10年後の第1次大戦欧州ベルダンの戦いで75万人が戦死した。 乃木が無能ではないという証拠です。
旅順要塞の攻防に203高地は何の関係もない。 また、この過程で望台陣地(第3軍の重点目標)を落したから203高地を占領でき、ここに観測所を置いて旅順港内のロシア艦隊を砲撃撃沈できた。
児玉が現地に来た時には、第3軍は203高地を攻撃している真っ最中です。 観戦武官の日記などに記されている。 児玉を美化したのは、司馬遼太郎のフィクションです。
「勇将の下に弱卒なし」という格言どおりの乃木であったと思われる。
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