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山川の世界史、もしくは日本史の歴史教科書をお持ちの方、ご協力お願いします。
山川の教科書でのアヘン戦争の説明を書いてください。お願いします。

A 回答 (1件)

少し古いけど 「詳説 世界史(世界史B)」の記述です。


アヘン戦争の記述がある部分の前後を引用しておきます。

3 東アジアの激動

〈清朝の動揺とヨーロッパの進出〉

 清朝中期には、領土も広がり、中国の人口も18世紀の100年間に
1億数千万から約3億へとほぼ倍増した。しかし土地の不足による
農民の貧困化や開墾による環境破壊が社会不安をうみだし、18世紀末
には四川を中心とする新開地で白蓮教徒の乱がおこった。この反乱は
10年近く続き、清朝財政を窮乏させた。
 一方、18世紀後半には、ヨーロッパ勢力が南北両面から東アジアに
積極的な進出をはじめたことは、清朝を中心とする従来の東アジアの
国際秩序をゆるがせた。ロシアと清との間にはネルチンスク条約
(1689年)やキャフタ条約(1727年)にもとづく国境での交易が
行なわれていたが、ロシアは、エカチェリーナ2世の使節ラクスマンを
北海道の根室に派遣して通商を求める(1792年)など、極東での
交易拡大をはかった。同年にイギリスはマカートニーを清朝に派遣して、
広州以外の港の開放など自由貿易を要求した。しかし乾隆帝は、
貿易を恩恵とみる中華の立場をくずさず、その要求を認めなかった。

 18世紀後半に広州の対外貿易の大半を占めていたイギリスでは、
本国での茶の需要の増大に伴って中国茶の輸入が急速に増大していた。
しかし、産業革命で生産をのばした綿製品は中国ではなかなか売れず、
輸入超過の結果、大量の銀が年々中国に流出していた。そこで、
これを打開するために、19世紀初めからは、中国の茶を本国に、
本国の綿製品をインドに、インド産のアヘンを中国にはこぶ三角貿易を
はじめた。中国では、アヘンの吸飲がひろがり、アヘンの密貿易がふえて、
従来とは逆に大量の銀が国外に流出するようになった。
はやくからアヘンの吸飲や密輸を禁止していた清は、この実情を重視し、
1839年、林則徐を広州に派遣してとりしまりにあたらせた。
彼は、広州でアヘンを没収廃棄処分にしたうえ、今後アヘン貿易をしない
という誓約をイギリス商人にせまった。人の健康を害するアヘン貿易
についてはイギリス国内でも批判が強かったが、イギリス政府は自由貿易の
実現をとなえて海軍の派遣を決定し、1840年にアヘン戦争を起こした。


〈欧米諸国との条約〉

 清は、すぐれた兵器をもつイギリス海軍に連敗して、1842年に
南京条約を結び、香港島の割譲、上海・寧波・福州・厦門・広州の
5港の開港、公行の廃止、賠償金の支払いなどを認めた。
さらに翌43年、領事裁判権(治外法権)、協定関税(関税自主権の
喪失)、最恵国待遇などを認める不平等条約を結んだ。
また44年にアメリカ合衆国と望厦条約を、フランスと黄埔条約を
結び、イギリスと同様の権利を認めた。
 しかし戦後の交易でも欧米諸国が期待したほどの利益はあがらず、
不満をいだいたイギリスは条約改定の機をうかがっていた。
1856年広州で、イギリス船籍を主張する船の中国人乗組員が
海賊容疑で逮捕されるというアロー号事件がおこった。
イギリスはこれを口実とし、フランスによびかけて共同出兵をおこない、
アロー戦争(第2次アヘン戦争)をおこした。英仏軍は広州を占領し、
海路北上して天津にせまり、58年に天津条約を結んだ。
しかし翌年、批准書交換の使節の入京を清軍が武力で阻止したことを機に、
英仏軍は再度出兵して北京を占領し、60年に北京条約を結んだ。
清は、外国公使の北京駐在、天津などの11港の開港、外国人の
中国内地での旅行の自由、キリスト教布教の自由などを認め、
イギリスに九竜半島南部を割譲した。同じころアヘン貿易も公認された。

(以下はロシアの項目なので省略します)


日本史での記述は、アヘン戦争による日本の影響を述べていますが、
アヘン戦争の説明は見当たりませんでした。
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