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A 回答 (25件中11~20件)

E.フロムの「自由からの逃亡」とは、自己合理化のことでしょうか。


そうだとすれば、No.10でkomaas88さんの言われたことと、
これとは結びつかないように思えるのですが…。

おっと、他の回答者とのやりとりに嘴を挟んですみません。 
実は、質問者様や他の回答者様に感謝しています。
いろいろ考えるきっかけを与えてくださり、ありがとうございました。

この種の問題は奥が深いですね。
十人十色どころか、「百千万…人、百千万…色」の見方があるでしょうから。


それますが、この質問「自由とは堕落ですか」がマイページに2つあります。
内容を比べてみたら全く同じものでした。これはどういうことでしょうか?
できれば一方を削除して頂ければ有難いです。
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この回答へのお礼

>「E.フロムの「自由からの逃亡」とは、自己合理化のことでしょうか。」

「正しさ(義しさ)を求めるヒステリー」ということですね。
オンナは面倒だからイヤだよ。

お礼日時:2013/01/25 00:25

No.3です。



uyuyuyw さんの言われるように、自由とは「一切の束縛のない状態」に
違いはないと思いますが、ただ条件が2つつくと思います。

1つは、「周囲を配慮する」ことで、もう1つは、「結果を引き受ける」ことです。
なぜって、それがないと単なる「勝手」ということになってしまうからです。

いかがでしょうか。
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この回答へのお礼

Nakay702様、ご回答ありがとうございます。


「周囲を配慮する」も「結果を引き受ける」も自由、ではないですか。
「「勝手ということになってしまう」自由」てか。

お礼日時:2013/01/25 00:17

 自由とは「一切の束縛のない状態」です

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この回答へのお礼

uyuyuyw様、ご回答ありがとうございます。


では、「束縛」とは?

(小乗)仏教では「この世とあの世を、ともに捨て去る」という表現もありますが。

お礼日時:2013/01/25 00:11

NO,10 です。



>例えば、無知だったり、様々の理由で、「可能性」が無い、無くして結果に至った・・・そういうのは、「自由にさせた結果」とは、言えないように思います。


”小鳥のように自由に…”というような比喩がありますが、小鳥を含めて動物植物は無知の典型であり、その一生はフリーハンドだとはとてもいえません。彼らは遺伝子に書き込まれた生まれつぃての習性からついに自由にはなれないのです。
自由を口に出来るのは人間だけです。
ですから何度も言っていますが、人間は自由を得るために懸命に勉強するのです。これは、もともとはアダムとイヴが楽園で悪魔に毒の実を食わされたことによるのですが、それをどうのこうのといってもせん無いことです。人間はそこから人間としてのスタートを切ったわけで、それを大前提にした堕落の定義が成されねばならないと思いますよ。楽園を追放されたのはそのまま堕落の第一歩なのであり、そこから最悪のどつぼにはまらないように、どうにかして荒れ野を抜け出したいという自業自得の自転車操業が始まったわけでしょう。引力に身を任せるのはそこに安住し、まさしく天国からわれわれを追放した悪魔のわなに落ち込むことだと私は思っています。人間は追放された身を大逆転させるために動物には出来ない努力を重ねて自由への道を、ある意味楽園への復帰をもくろんでいるのではないでしょうか。その希望を捨てない時点では堕落とはいえないと思います。
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この回答へのお礼

komaas88様、ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2013/01/25 00:04

 くりなるさん こんにちは。



 自由と言えば それはまづわが主観です。主観がとらえる自由です。

 わが存在の生きることについて言っています。それゆえ自由意志という主題にもなると思いますが 問題は 《わたしが自由である》とすれば あなたもかれも かのじょも ともにそれぞれ自由であるということです。

 言いかえると わが主観における自由は 《ほかの人びとのそれぞれの自由》とけっきょく同時一体であるということになります。

 これを 《平等》とも言うのだと捉えますが このように平等ないし相互の対等のもとに《わが自由は ほかの人の自由とともにある》という内容の命題になるはずなのです。

 これが 大前提なのではないでしょうか。




 この自由にもとづきつつも そこから逸れるとすれば――それも おのが自由意志のなせるわざですが―― 不自由ないし不平等という事態にもなります。
 不自由もしくは不平等という事態のなかに おのれの《堕落》ということも入って来ます。


 そういう問題ではないでしょうか。
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この回答へのお礼

bragelonne様、ご回答ありがとうございます。


「「それ(自由)」が可能な限りで平等である」ということを、自由という。
「「それ(平等)」が可能な限りで自由である」ということを、平等という。

お礼日時:2013/01/25 00:01

NO,7 です。



>komaas88さんは、「若い」よね。


ん。
komaas88さんには「」ということで、


理解不能ですが、
ひょっとして、この質問に答えるには若すぎるってことでしょうか?

私には若い ?

ま、(どうでも)いいです。
なにごとも極力クリヤーに、自己流で答えていくのをモットーにしていますから、
そういわれるのもありかもです。

さて

自由落下 がなぜ堕落なのか?

放置 というより自分の(安直な)天然に任せるということだと思っています。

自由がない状態:周囲の監視と世間体に縛られつつ、精一杯やっている。これってかなり苦しいけど、そうやって人間は周囲の期待にもこたえて向上してきたのでしょう。

自由がある状態:自分の(自由)意志が生かせるゆるい状態になったってことでしょうか。ここで落下するってことは、一番テンションの少ない、というかテンションのない、自然的な方向へ向かう、一番気楽な、意志力の不要な方向へ行くというということになりませんか。
たとえば
「小人閑居して悪をなす」だったかな。
ネットでアダルトばかり見ているよーな、

こういったイメージを言ったつもりです。

もちろん自由即そうなるとはいえません。
自由の可能性を精一杯使った、輝かしい意志力の発揮が様々な人間の芸術や独自思想の構築という金字塔になっています。
自由万歳 です。
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この回答へのお礼

komaas88さん、こんばんは。ご回答ありがとうございます。




「自由からの逃走」ということを連想致しました。

天然に任せる、自然的な方向へ向かう、
それを問題と見るかどうか、は、
性善説とか性悪説という問題になるでしょうか。


>「どんな方向にせよ求め続けて苦労している時点では自由はなく、堕落の目はない様に思います。
いったんそれなりの自由を得、可能性を得たあとが問題かもしれません」
>「自由万歳 です」

例えば、無知だったり、様々の理由で、「可能性」が無い、無くして結果に至った・・・そういうのは、「自由にさせた結果」とは、言えないように思います。

お礼日時:2013/01/17 03:00

「自由」という時、それが身体的(あるいは即物的)自由である


か、精神的自由であるかによって、異なるものになります。
身体的自由は、社会的ルールや精神的規範なく、情動的あるいは
ランダムに行動できる事を意味するのに対し、精神的自由は、
他律的判断によらず、独自の規範で自律的に行動できる事を意味
します(ルールを押し通す自由)。

人類は進化において、社会性を発達させており、その規範に従う
事が自己の生存にもプラスになるのが一般的です。
そこにおいて、そうしたルールに従わない自由=身体的自由は、
反社会的傾向を帯びます(「堕落」と言えるのでしょうか)。
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この回答へのお礼

psytexさん、ご回答ありがとうございます。


>「精神的自由と身体的自由」

仰る通りです。
法律的には「内心の自由(侵害不可能)」ということとそれ以外(裁判所頑張れよ)、ということと思います。


>「人類は進化において、社会性を発達させており、その規範に従う
事が自己の生存にもプラスになるのが一般的です。
そこにおいて、そうしたルールに従わない自由=身体的自由は、
反社会的傾向を帯びます(「堕落」と言えるのでしょうか)」

「閉ざされた系」ではそうであっても、「開かれた系」ではそうではない、
「労働者は単なる機械ではなく、自ら、その労働を改善し、その質を改良し得る主体である」
・・・「ルールに従わない」というのが、キーセンテンスになって来ましょうか。

お礼日時:2013/01/16 01:30

戦前に欧米の自由主義を精神力に欠けた堕落した思想だと馬鹿にしていたらしい。



確かに堕落とみることも出来るだろう。裏を返すと武士道も堕落と成り得る。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。


円が360度で、武士道が1度とすると(360対1)、これは敵うはずがない。

お礼日時:2013/01/16 00:39

面白い設問ですね。


自由とは?
堕落とは?
二つを結びつけて、必然性、あるいは関連性があるのかどうか。

一般的に、ひとは自由(の拡大)を求めて人生で苦労をします。自由がひとに可能性の余地を与えるという幻想をかきたてるからでしょう。その方法として真理の追究による視野の拡大、経済力、腕力を含む権力の強化拡大などがあるかもしれません。どんな方向にせよ求め続けて苦労している時点では自由はなく、堕落の目はない様に思います。
いったんそれなりの自由を得、可能性を得たあとが問題かもしれません。
可能性とはあらゆる方向を指します。自由になれば自然に任せ(られ)ることも多くなると思います。自由落下ということもあるでしょう。これが堕落の方向ではないでしょうか。
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この回答へのお礼

こんばんは。

>「面白い設問ですね。
自由とは?
堕落とは?
二つを結びつけて、必然性、あるいは関連性があるのかどうか」

komaas88さんは、「若い」よね。


ん。
komaas88さんには「」ということで、

>「可能性とはあらゆる方向を指します。自由になれば自然に任せ(られ)ることも多くなると思います。自由落下ということもあるでしょう。これが堕落の方向ではないでしょうか」

・・・なるほど、他の回答者の方からも「自然からの自由」というご回答を頂いているように思います。
「自然に任せる」とは「放置」か、とも思われます。


>「いったんそれなりの自由を得、可能性を得たあとが問題かもしれません」

のあとが「放置」では、やはり問題でしょうか。

お礼日時:2013/01/16 00:28

諸成果と運には、感謝するものですね。




自由とは、人が自分以外のものからの干渉を受けないことだと定義すると、

自由という概念には、主体を置くための空間の設定により無限に広がるのだと思います。


たとえば、学問の諸成果から干渉を受けることで、自分の頭に干渉をしてきたものから自由になれるということなら、それに感謝をするというのなら、そうだと思います。


例を書いていて思いますが、
自由が今の人に大きな意味を持つのは、その意味づけにあるような気がします。


すみません。テーマについて、回答させていただきます。

ある意味においては、堕落なのでしょうね。
その場合においては、干渉されたほうが、良いということでしょう。
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この回答へのお礼

ec032064様、ご回答ありがとうございます。


>「ある意味においては、堕落なのでしょうね。
その場合においては、干渉されたほうが、良いということでしょう」

素晴らしいご回答を、ありがとうございます。


「放置することが、「本人にとって、重大な、取り返しのつかない結果を招く」のであれば、放置すべきでない(介入する正当な理由がある)」という考え方があります。
・・・むしろ、それくらい深刻なケースでもなければ介入しないのが正しい、というようですが。

お礼日時:2013/01/15 23:57

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