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諸学問の成果には感謝するものです。

A 回答 (25件中21~25件)

英語圏の図書館によく


The truth shall set you free. (真理はあなたがたに自由を得させるであろう。)
とあります。これは聖書のことばです。
真理を探究する学問は、究極的に自由を与えるという意味でとる一方、聖書のこの福音書(ヨハネによる福音書)においては、イエス・キリストが「わたしは道であり、真理であり、いのちである」と言っていて、その真理なるお方が私たちを自由にするという、イエス・キリストと人との関係性の中にこそ真理がある、そしてそこから、罪を悔い改めて新しい命を得る、永遠の命を得るということが語られているのです。この限りにおいては、堕落どころか、自由は命であり、道であるのです。

自己の願望通りにする自由という、いわゆる責任をわきまえない自由、自分本位の自由は、人を堕落に至らせるものでもあります。

つまり、心の良心の呵責からの自由、罪からの自由を得るのは命に至る自由であり、放縦を前提とするような自由は、堕落の道を歩むことになるのです。また、学問の探究、真理の探究を目指す者にとっては、学問の自由は最大限に保証されるべき生命線でもあるわけです。自由と言ってもいろいろあります。
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この回答へのお礼

Him-hymn様、ご回答ありがとうございます。


混線しているようですが、読み解く努力を致しました。

>「The truth shall set you free. (真理はあなたがたに自由を得させるであろう。)
とあります。これは聖書のことばです。
真理を探究する学問は、究極的に自由を与えるという意味でとる一方、聖書のこの福音書(ヨハネによる福音書)においては、イエス・キリストが「わたしは道であり、真理であり、いのちである」と言っていて、その真理なるお方が私たちを自由にするという、イエス・キリストと人との関係性の中にこそ真理がある、そしてそこから、罪を悔い改めて新しい命を得る、永遠の命を得るということが語られているのです。この限りにおいては、堕落どころか、自由は命であり、道であるのです」

聖書の文脈で言ったら、「The truth」が「set you free」である、というのは、非常に良く判りますよ。
また、仏教の文脈で同じ「The truth set you free」と言ってみたら、これまた良く判るように思えます。


>「自己の願望通りにする自由という、いわゆる責任をわきまえない自由、自分本位の自由は、人を堕落に至らせるものでもあります」&「放縦を前提とするような自由は、堕落の道を歩むことになるのです」

なるほど。これと、

>「心の良心の呵責からの自由、罪からの自由を得る」

この二つは多分、同じことを言っているように思われます。


>「また、学問の探究、真理の探究を目指す者にとっては、学問の自由は最大限に保証されるべき生命線でもあるわけです。自由と言ってもいろいろあります」

そうですね。しかし「学問の自由は最大限に」・・・無論「最大限に」保障されるわけでしょうけれども、手前勝手に、と言われないように、、、「最大限に」の意味を取り違えないようにして頂きたい。

お礼日時:2013/01/15 23:47

確かにですね。


先人にはいつも感謝してます。

諸学問の成果を、自身が学びそれを踏まえて自身による判断を要します。
先人の諸学問の上に成り立つ、新たな積み上げの成果ですね。
それが自由ということだと思います。

しかし別の学派や、別の学説を否定するやり方を取る人もいます。
それは不自由だと思います。

諸学問の成果に対して真の自由を謳歌する人と、囚われて不自由な人がいる。
感謝するかどうかの分岐点だと思います。
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この回答へのお礼

kanto-i様、ご回答ありがとうございます。


>「先人の諸学問の上に成り立つ、新たな積み上げの成果ですね。
それが自由ということだと思います」

「成果」とのことですが、「これではダメだった」というのも、広く捉えれば立派な成果ではないでしょうか。


>「別の学派や、別の学説を否定するやり方を取る人もいます。
それは不自由だと思います」

「これではダメだ」を検討・検証する、そういうのも別に否定しなくてもよい、というか、
「正解の無い問題」というのもあるそうで?


>「諸学問の成果に対して真の自由を謳歌する人と、囚われて不自由な人がいる。
感謝するかどうかの分岐点だと思います」

何を「諸学問の成果」と捉えるか、によっては、世の中を、非常に豊かなものと捉えることも出来る、というように思われました。

お礼日時:2013/01/15 23:25

ラテン系の国(例えばフランス)では、図書館などにDiscendo liberior.などと書かれていたりします。

「学ぶことによってより自由に」といったところでしょうか。この場合の自由とは、「無知蒙昧、迷信、妄念などから免れる」ということで、いわば「○○からの自由」ということですね。この○○の中に「規範、倫理観、道徳心、コンプライアンス…」などを代入した場合の自由なら、仰せのように、「自由とは堕落である」と言えるでしょう。つまり、「どんな接頭語ないし範囲設定がつくか」によって、「そうも言える」し、「そうは言えない」となるのだと思います。(なお、補足しますと、自由には上述のような「○○からの自由」のほかに、「○○への自由」というのもありますね。例えば、「思想信条の自由」などがそれです。)
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この回答へのお礼

Nakay702様、ご回答ありがとうございます。


>「「自由とは堕落である」と言える場合もあるし、そうは言えない場合もある」

つまり、ANo.2さんのご回答と同じ、あるいは、その論理的ご説明ということですね。


法律的には「○○からの自由」という側面が、より強調されるように思います。
(そこから、「自由の限界」ということも言われる。)


>「○○への自由」というのもありますね。例えば、「思想信条の自由」などがそれです。」

私などからすると、「思想信条の自由」というのもむしろ「○○からの自由」なのかなと思えるのですが、
やはり、そこに「自由の限界」ということが言われることに変わりは無いでしょう。

お礼日時:2013/01/15 23:12

自由には堕落する自由も含むと言うだけのことです。

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この回答へのお礼 お礼日時:2013/01/13 15:01

墜落です。

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この回答へのお礼

jusimatsuさん、ご回答ありがとう御座います。


なるほどですね。

お礼日時:2013/01/13 13:57

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