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江戸南町奉行の大岡越前守について教えて下さい。
1.まず、名前の「忠相」はどこへつながるのですか?江戸南町奉行大岡越前守「忠相」というのですか?江戸南町奉行大岡「忠相」越前守というのですか?
2、「越前守」は、官位というのですね。実質的な役目(権限とか義務)はあったのですか?
3、「越前守」は、幕府が大岡に与えるのですか?、あるいは大岡が、自分で手に入れるものですか?4、江戸南町奉行大岡越前守忠相を現代語風に訳すと、東京都南方面警視総監大岡福井県知事忠相になると思います。江戸時代の人は、東京都南方面警視総監と福井県知事とが、並んでいても、違和感がなかったのですか?

A 回答 (24件中11~20件)

P2


さて、駕籠の使用と東京駅長云々ですが、この件の原文は武家諸法度の、「一、乗輿者一門之歴々、国主城主壱万国以上并 各大名之息、城主及侍従以上之嫡子、或年 五十以上、或医・陰両道病人免之、其外禁濫吹 但免許之輩ハ各別也、 至干諸家中者、於其国撰其人可載事」の中の、「或年 五十以上、或医・陰両道病人免之」の部分です。乗物(駕籠も含め)は傘などの使用と同じく、身分と密接に結びつく物で、この条文でいえば「或年」より前(「嫡子」までの記述)は身分による使用の原則を示し、「或年」以下はその例外を列挙しています。例外部分は現代でいえば福祉・医療関係の例外と見た方がよいと思います。今で言えば、ハイヤー・タクシーの使用制限と考えられるのではないでしょうか。次に述べる四宿にも関連しますが、東京駅長云々はどちらかというと道中奉行だと思います。なお、乗物・駕籠に関する規定は徐々に緩和されますが、それが再度規制されるようになり、大岡が再規制を撤廃させたということです。
http://www.city.kasugai.lg.jp/bunka/bunkazai/kyo …

次に、江戸の四宿についてですが、下記のURLは、文中にもありますが文政元年(1818)に幕府が示した江戸の範囲を朱で示したものです。長い江戸幕府の歴史の中で幕府が江戸の範囲を明示したのは、これが最初で最後でした。この中で墨引と呼ばれる黒線の内側が町奉行所の管轄地になります。この墨引地を見ますと、甲州街道の第一宿である内藤新宿以外は町奉行所の管轄外になっています。そもそも内藤新宿に関しても江戸の範囲が甲州街道筋では四谷大木戸まで(内藤新宿はその外側)とされていた時期(江戸払い時に大木戸で追放の例など)もあり、奉行所の管轄外であった時期の方が長いようです。
http://www.viva-edo.com/edo_hanni.html
そもそも、五街道及び宿場の管轄は道中奉行に属していました。また、飯盛女の取り締まりも道中奉行の管轄で、町奉行所はないのです。なお、道中奉行は大目付1名が兼任として発足し、その後勘定奉行1名が加役として加わり、大目付・勘定奉行の各々1名が兼任する2名体制となります。さらに、勘定奉行所に道中方を設置しています。下記の品川宿の例から、大目付兼任の道中奉行が指揮・命令を出し、勘定奉行兼任の道中奉行及び勘定所が実務・実行を受け持っているようです。
用例としては、明和元年に道中奉行(大目付)の池田筑後守(政倫)が、勘定奉行の安藤弾正少弼(惟要)以下三名に品川宿の食売女(飯盛女)の実態調査を命じ、その結果、品川宿全体で500名の食売女を置くことを認めていること。天保十四年に関東取締出役(勘定奉行所支配)が品川宿に手入れをして、1300人以上の食売女を検挙して、道中奉行の跡部能登守(良弼-水野忠邦の実弟)の屋敷に連行したことなどがあります。以上は「品川宿遊里三代」に記述されていますが、ウィキペディアの品川宿にも簡単な記述があります。
内藤新宿に関しても、一時廃宿となった内藤新宿ですが、明和九年(1772)に再開しますが、この許可は道中奉行によってなされています。また、食売女も、道中奉行(勘定奉行)の安藤弾正少弼(惟要)が、150名を認めています。なお、再開時の内藤新宿の旅籠数が39軒なので、食売女は1軒当たり4名弱となっています。旅籠1軒に食売女2名までは一般の宿場に対するもののようです。
道中奉行
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%93%E4%B8%AD% …
品川宿
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%93%81%E5%B7%9D% …

武家地の管轄について。明治二年の太政官の沙汰書の中に、武家地の管轄が不明であるとしたものがあります。ある歴史学者(名前を思い出せません)が、当たり前のことであったものが、長い年月の中で当たり前であったために逆に不明になったのだろうとし、結論として老中・若年寄を上げていたと思います。大目付は大名の、目付は旗本・御家人の監察を担当しますが、これは現在の検察等にあたり、大名・旗本・御家人支配の一端に過ぎません。寛永十一年(1634)に老中と若年寄の職務分掌が規定されます。老中の規定の中に、「国持衆惣大名壱万石以上御用幷訴訟の事」とし、大名に関することは老中の職掌であるとしています。若年寄の規定には、「御旗本相詰輩、万事御用幷御訴訟の事」とあり、旗本に関することは若年寄の職掌であるとしています。ちなみに大目付は老中の、目付は若年寄の配下となっています。大名に何かを命じる場合、老中奉書の形式をとることが一般的で、大名に江戸市内での火事の発生による臨時の火消役を命じる場合にも、老中奉書によります。そのためその火消を大名火消とも言いますが、奉書火消とも呼ばれています。
大名・旗本・御家人の拝領屋敷(抱屋敷などの例外を除く武家地の大部分)の屋敷割、屋敷の請け渡し、請け取りは普請奉行の所管です。
明治二年の太政官の沙汰書
http://14290567.at.webry.info/201302/article_10. …

庶民の宗派ですが、江戸幕府は寺請制度・宗門改めにより、庶民がどのような宗教・宗派を信仰しているか調査・登録していました。目的はキリスト教等の禁教徹底でしたが、そのために庶民はいずれかの寺(宗教・宗派)の檀家として所属するようになり、この制度が戸籍としての役割を持ちます。そのようなわけで庶民は必ず宗派を持っていることになります。戸籍の性格に関連して、庶民の結婚・離婚等の戸籍に関することは寺社奉行の管轄になります。
宗門人別改
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E5%88%A5% …
寺請制度
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BA%E8%AB%8B% …

評定所
幕府には、町人と武士の訴訟のように管轄が複数の機関にまたがる訴訟、大名・旗本に関する訴訟、幕府の重要事項に関することを評議した機関があり、これを評定所と言い、老中1名、寺社・町奉行・勘定奉行の三奉行に、大目付・目付が参加します(後半になると参加者が増えます)。町奉行はこの評定所の主要な構成員ですので、現代で言えば最高裁判所の判事のようなものとも言えると思います。幕府の重要事項に関することを評議とありますが、幕府内では将軍の御前で、老中以下の諸役人が列席した会議があったとの資料もあり、町奉行も参加しているので、以上の事から考えると町奉行の職掌はもっと広く考えないといけないのかもしれません。時間がなかったので調べ切っていませんが。
評定所
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A9%95%E5%AE%9A% …

長くなり申し訳ありません。参考程度に。
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この回答へのお礼

再度長文の説明ありがとうございました。
今回一番興味を惹かれたのは、飯盛女個所でした。一般の歴史書では、このようなことは説明が避けられておりますね。もちろん、あからさまに話題にするようなことではないでしょうが。道中奉行が、事態調査をし、・・・などがなされたのですね。社会の明るい表(おもて)でなく、裏の世界では、綺麗ごとでない・軽視できない動きがあるものですね。
今後その他説明も今後読まさせて頂きます。

お礼日時:2013/02/25 07:54

こんにちは。

大分回答が混乱しているようですが、少し関連する項目について調べてみましたので、回答させていただきます。長くなってしまいましたが、参考程度に。
1については多くの方が回答しているように、江戸南町奉行大岡越前守忠相で、忠相は官名である「越前守」の後になります。
江戸時代の武士は姓+仮名(けみょう=通称)+諱(いみな=実名-じつみょう)で構成されているのが一般的でした(下級武士では諱を持たない者も多かったとされます)。これは他人への呼び掛けには諱を呼ぶことを避ける風習により、仮名を用いたことによります。大岡の諱は「忠相」で変化はないようですが、仮名については、書院番士の時に「久馬」、その後「市十郎」「忠右衛門」と変え、山田奉行となって諸大夫として「能登守」の官位名になり、それが「越前守」変わるという変遷をたどっています。官位名については将軍の許しが無ければ任官したり、名乗ったりできませんが、久馬などの仮名についても変更を含め幕府に届け出をします。(用語の意味内容等については研究者により異同があります)
仮名
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%AE%E5%90%8D_ …

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9F%E5%90%8D
2については実質的な役目はありません。
3については幕府(将軍)が官位に就くことを許可し、官位名については本人の希望を聞き、手続きは幕府が行い、朝廷から任命されるという手順を踏みます。
4については社会的背景や、組織原理、職務権限の広さ、複数制などから考えても、江戸時代の役職を現代の役職にあてはめることは難しいことだと思いますが、それを前提に。
「(東京)都知事」については、皆さんもおっしゃっておられるように武家地・寺社地(門前町は町奉行所の管轄に途中で変更されます)・町人地の別や、管轄が町人地だけで、面積的に全体の10~18%(平均で13%程度)の狭い範囲でも、人口のおよそ半数を管轄し、奉行の下に3人の町年寄、その下に町名主という組織を持ち、それらを通じて庶民を把握し、行政を所管していますので都知事に比定するのは適当だと思います。
警視総監等については、江戸の治安の第一義的な責任者であり、犯罪の予防、捜査、逮捕などからは警視総監に比定されるでしょうが、それだけでなく、起訴・公判維持・裁判・判決なども考えると、(東京)地検の検事正、地方裁判所の所長を兼任しているとも考えられると思います。また、評定所の主要構成員ですので、最高裁判所の判事にも比定されると思います。
町人地の割合(下部に円グラフがあります)
http://www.viva-edo.com/edo_hanni.html

以下、詳細や思いついたことについて。
江戸期の武家官位の制度は三つの段階を経て完成します。その第一段階が慶長十一年に、武家の官位は江戸の推挙が無ければ与えられないように前将軍である家康が朝廷に奏請し、幕府が武家官位の決定権を握ります。第二段階は慶長十六年で、やはり前将軍である家康が朝廷に奏請しています。内容は、武家と公家の官位を切り離すこと。公卿の官位補任記録(今で言えば公卿の職員録に近い)である「公卿補任」に武家を記録しないことです。そしてこれらの結果から第三段階として、元和元年の「禁中並公家諸法度」の「武家の官位は、公家当官(トウカン)の外為(タ)るべき事」の規定になります。この意味は、武家に与える官位は、公家の在官者とは別に扱うということです。わかりやすく言うと、武家の官位は定員外ですよということで、名義(飾り)だけのものですよなどの意味ではありません。
確かに鎌倉時代から室町時代にかけて国守をはじめとする国司、国守が統括する国衙の権限は守護などの武士により侵食され、実態を失い、国守などは名誉職化します。その他の律令官職も中・下級官職を中心に職務の実態を失い名誉職化しますが、そのことと「禁中並公家諸法度」の条文の解釈とは関係のないことです。
定員外だからこそ何人もの越前守が同時期にいるわけです。公家にとっても豊臣時代のように武家に官位を侵食され、就ける官位が少なくなる(特に参議以上)ことが無くなる)という利点があったのです。武家、特に幕府にとても官職の任命権を握ることは、石高だけでなく、伺候席の区別などによる大名の家格形成と大名統制策の一つでもあったのです。
ところで、江戸幕府の役職は初期のころを除くと(最後期も)整備され、老中などの大名が就く役職、町奉行のような旗本の就く役職、御家人の就く役職と明確に分かれます(御側御用取次などのような例外はあります)。また、軍事部門の番方、行政部門の役方(町奉行は役方)という分け方もあります。旗本の就ける役職の内、高家を除けば、従五位下(朝散大夫とも言います)に叙せられ、国守などに任じられる諸大夫役と呼ばれる一群の役職が、最も上位の役職となります。次に、六位相当とされ(実際に任官はしない)、布衣の着用を許された布衣役と呼ばれた役職が次になります。
町奉行は諸大夫役ですが、大岡は正徳三年(1712)に初めて諸大夫役である遠国奉行の一つである山田奉行になります。同年正月に山田奉行に任じられると共に、諸大夫を仰せ付けられ、同年3月に従五位下・能登守に任官します。この能登守(越前守)は与えられたものではなく、自分の希望です。諸大夫役の役職に初めて任じられた時に、「諸大夫仰せ出される。」の文言のある仰書きが出され、その後、本人が希望の官職を提出し(伺書)、それで問題がなければ幕府が朝廷に申請し、任官されることになります。大岡の能登守について、一月に仰せ付け、三月任官と間が空くのはこのような手続きの時間によるものです。
それに、越前守の任官理由ははっきりしていて、享保二年(1717)に大岡が町奉行に任じられた時に、同じ町奉行で、町奉行の先任である中町奉行(歴史上2名しか任じられていない)坪内定鑑が能登守だったために、越前守に変更したものです。
なお、諸大夫役で任官できる官職は、従五位(上・下)、正六位(上・下)相当の、国守(受領名)や諸寮の頭(官途名)などです。
武家官位
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%AE%B6% …
「将軍に任命された時点では単に「諸大夫」「四品」に任じられて「○○守」などの名乗りを許されたという仰書・申付書が下されるだけに過ぎないが、勅許を得ることで「従五位下」「従四位下」といった正式な位階と名乗りがそのまま官途名として認められた位記・口宣案が発給された」
大岡忠相
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B2%A1% …
「坪内定鑑の名乗りが忠相と同じ「能登守」であったため、このときに忠相は「越前守」と改める。」
なお、3000石以上の者は「○○守」と名乗ることができたと考えている方があるようですが、原則的にはそのようなことはありません。3000石以上というと旗本の寄合ですが、これは布衣格であっても、諸大夫格ではありませんので任官しません。寄合よりも格上の交代寄合(参勤交代をする旗本。)でも原則任官していません。
交代寄合
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E4%BB%A3% …
「官位については、一部の例外を除いて通常の旗本と同様に役職就任時以外の任官はなかった。また、伺候席が帝鑑間詰であっても役職に就くことはほとんどなかった」
布衣
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%83%E8%A1%A3
「また、寄合席(三千石以上)の旗本はもともと布衣相当とみなされ」
旗本寄合席
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%84%E5%90%88% …
つまり、大岡忠相などの旗本が任官するのは、諸大夫役に就任した時が原則で、石高で3000石を超えたからではなかったということです
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この回答へのお礼

長文の説明ありがとうございました。
一番眼を目を開かされたことは、朝廷の力です。
<前将軍である家康が朝廷に奏請し>
のように、おそらく形式とはいえ、奏請した、あるいはしなければならなかった、という点に驚きました。武力を持たない現在のローマ法王のように、朝廷は(私には)不思議な力を持っていたのですね。そして、前将軍というのも、興味を惹かれます。いろいろ思惑があったのでしょうね。
その他、沢山の興味あることを、教えていただきました。少しずつ、消化してゆきます。

お礼日時:2013/02/24 21:56

こんにちは。


お読みいただきありがとうございます。

>>1、喩え話や翻訳は、むずかしいものですね。ある一面では、内容を手軽に理解させることが可能であるが、他面では、誤解を与えることもしばしば。送り手と受け手が、基盤を共有していれば、問題はないのでしょうが。

その通りですね。
ですから、私たち「歴史作家」や「時代作家」は、現代に通用しないような言葉や、名称などをどのように多くの人に理解してもらえるかが重要なのです。

自己満足の範囲であれば、史料の通り書けば済むことですが、それを噛み砕いて一人でも解ってもらえるかが役目?だと思っています。

また、同じレベルの人であれば、
「ああ、それね。そうそう」
で話は通じるのですが、特に、このサイトへ質問される方は、疑問を解決できないから投稿するのだと思います。
そうした方々に少しでも解り易く、そして、一人でも歴史ファンが増えてくれれば良いな・・・との思いで、私は回答しています。


>>2、町奉行は、たったの20%、ということは驚きです。言われてみれば、武家がいたのですね。私の頭の中では、町人が生き生きと活躍し、武士の存在はまるで薄いものでした。
それ以上に、寺社地が20%もあり、寺社奉行もいたことです。アラブのイスラム教国家ならいざ知らず、寺社が勢力を持っていたことには、目を開かさせられることでした。

そうですね。
時代劇ドラマ(例えば、銭形平次など)でも多くの場合、町人同士の軽妙なやり取りで、町人の街のように思われがちですが、実際には、庶民は非常に狭い範囲に暮らしていたのです。

しかし、江戸時代の最盛期の享保年間(1716~)頃、吉宗の時代には、
僧侶、神官・・・・約6万人。
庶民・・・・・・・・・約50万人。(但し、4歳未満は数に入れていません)。
武士は軍事上の秘密から公表はされていませんが、町割り図から推測して・・・・約50万人。
従って、江戸は100万人以上の大都市だったのです。
ちなみに、同じ時代のロンドンでは約90万人。パリが60万人と言われており、江戸は世界一の大都市だったのです。

また、寺院仏閣が多かったのは、将軍家を初めとして「儒教精神」が広まり、神様や仏様を大切にする・・・と言う考えから、多くの寺院や仏閣が建てられ、信仰の厚さが幕府によって手厚く保護されていたのです。

但し、寺社は多かったのですが、世間を騒がすような「暴動」などは起こしてはいませんので、「権力」を振りかざすようなことはせず、静かに、庶民の心の拠り所としてだけの立場を堅持していました。

面白い話を一つ:

徳川家は三河にいて松平を名乗っていた頃から、代々「浄土宗」を信奉するべきこと、と決められていましたが、
家康は、ご存じのように「日光・東照宮」の「神様」になりました。
秀忠以降はと言うと、
芝・増上寺(浄土宗)と忍岡(しのぶがおか=上野)寛永寺(天台宗)に交互に埋葬されました。

これなども、将軍家は宗派に関係なく神社、仏閣を保護した証しです。
従って、庶民も多少は宗派は持っていたでしょうが、どこの寺社でも大切にしたのです。

我々、現代人もある程度、自分の宗派を持っている人も多いと思われますが、どこの寺や神社に行っても、宗派に関係なく自然と手を合わせますよね。
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この回答へのお礼

再三の回答ありがとうございました。
アラブの宗教動乱をみていると、江戸時代から続く
<静かに、庶民の心の拠り所としてだけの立場を堅持していました。>
に感謝したくなります。寺も神社も、穏やかに、またしたたかに存在してきたのですね。
現代人も
<自然と手を合わせます>
ね。この際、個別の宗教、個別の宗派にとらわれず、あるいは遡って、宗教なのか素朴な感情なのかも、区別してないようですね。

お礼日時:2013/02/18 05:59

こんにちは。



まずは、再度、訂正です。

(よもやま話)の中の(1)
しかし、3代将軍家光になって、寛永8年(1631)に、加賀爪民部少輔忠澄を北町奉行に、堀民部少輔直之を南町奉行に任命し、北は常盤橋門内に南は呉服橋門内に、正式に奉行所を造ったのが始まりとされています。そして、与力50騎(北25騎、南25騎)、同心120人(北60人、南60人)を配しました。

与力50騎(北25騎、南25騎)同心240人(北120人、南120人)・・・これが正解です。

申し訳ありませんでした。


そして、また、また、また、また・・・・。

皆さん勘違いをされていませんか?

江戸の町割り図から見ると、武家地60%、寺社地20%、町地20%です。

武家地については、
大名の上屋敷や中屋敷、下屋敷など大名全般を管轄するのは「大目付」です。
旗本や御家人を管轄するのは「目付」です。

寺社地については、すでにご存じかと思いますが「寺社奉行」の管轄です。

町奉行の管轄としては、たった20%の町地だけに限られていたのです。

では、犯人が町地以外に逃げ込んだ時は・・・と言うと、

大名屋敷に逃げ込んだら「大目付」に依頼をして犯人を捕捉してもらいました。
旗本や御家人の家などに逃げ込んだ場合は「目付」に依頼をしました。
寺社地の場合は「寺社奉行」に依頼をしました。

私は、「東京都知事」兼「地方裁判所長」兼「警視総監」兼「東京駅長」 の権限がある・・・と説明しましたが、

では、具体的には、と言うと、

大火で江戸の街が焼野原となったような時は、町地の区画整理、寺社の移転、吉原の移転、お救い米の支給、風俗図書の販売規制などの行政的手腕が発揮されました。これが、私の言う「東京都知事」の役目です。
もちろん、寺社奉行などとの交渉もあったでしょうし、老中や老中を通して公方さまにも諮問はされたとは思いますが・・・。

次に、町人同士の土地の境界争いや借金での争いなどの「民事訴訟」、犯罪者への判決などの「刑事事件」などの処理、これが「地方裁判所長」としての役目です。

犯罪が起きた時の犯人の探索、捕捉、犯罪防止などが「警視総監」としての役目。

四宿(品川宿、板橋宿、千住宿、内藤新宿宿)には「飯盛女」(半公認の売春婦)が一軒に2人と決められていましたが、中々守られなかったのでその取締り。
また、江戸府内へ老人や身体障害者以外での駕籠の乗り入れ規制。
これが「東京駅長」としての権限です。

皆さんは、江戸の街すべてを管轄しているかのように考えられて、「東京都知事」の役目はおかし・・・と言われているようですが、極端に言えば、町奉行といえども権限が及んだのは、たった20%の町地に限られていたのです。

お分かりいただけたでしょうか・・・。
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この回答へのお礼

再度の回答ありがとうございました。
拝読して思った点を2件書きます。
1、喩え話や翻訳は、むずかしいものですね。ある一面では、内容を手軽に理解させることが可能であるが、他面では、誤解を与えることもしばしば。送り手と受け手が、基盤を共有していれば、問題はないのでしょうが。
2、町奉行は、たったの20%、ということは驚きです。言われてみれば、武家がいたのですね。私の頭の中では、町人が生き生きと活躍し、武士の存在はまるで薄いものでした。
それ以上に、寺社地が20%もあり、寺社奉行もいたことです。アラブのイスラム教国家ならいざ知らず、寺社が勢力を持っていたことには、目を開かさせられることでした。

お礼日時:2013/02/17 09:52

恐悦です。


この喩えの議論は嘘も方便なので正解は元よりありませんが安直では勉強になりません。

武家が警察なき時代の軍政の責任者だった事を言うと話は始まりませんからそれは抜きにしますが。

奉行は午前中は江戸城に登城したらしいです。都知事の吉宗が連合軍の最高司令官を兼任していたのです。江戸に移転した徳川家にとっては将軍の地位の方が後からです。大岡忠相は役人であり江戸における政治家ではありません。城下町の管理者です。
大岡忠相の知行地は神奈川県の大曲村のようですから大曲村村長(警察署長)が都の裁判官(江戸市中の実務の責任者)に任命されたのです。
退任後、愛知県岡崎市の一画に大名として天下りします。大名になったので彼の子孫は版籍奉還の後、藩知事になります。ここで、大名=知事の喩えこそが何よりも現実的な整合性を持つのではありませんか。
奉行はトップ(領主)ではありません。
奉行を知事にすると全国の天領が独立してしまいます。
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この回答へのお礼

再度の指摘ありがとうございました。
また認識を新たにしました。
安易に言葉を並べるようです、失礼します。コメントを書くと、説明して頂いだいた原文通りになってしまいまい、無意味と思いますので。
軍政
吉宗は連合軍の最高司令官
役人・管理者vs政治家 
大名・領主vs知事
天領vs藩
歴史を探(さぐ)るに必要な深(ふか)みを痛感しております。

お礼日時:2013/02/16 09:37

bungetsuです。



失礼しました。

従って、美濃守が伊勢国の大名だったり、播磨守などは7人もいました。
「美濃」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・誤
は上等な国であったため、栄誉のために与えられたものです。


播磨は上等な国であったため・・・。・・・・・・・・・正
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
良い国は乱発ですか。六大関のようなものですね。

お礼日時:2013/03/08 07:55

こんにちは。


私は、自称「歴史作家」です。

少々、間違って回答が寄せられているようですので・・・(_0_);

>>1.まず、名前の「忠相」はどこへつながるのですか?江戸南町奉行大岡越前守「忠相」というのですか?江戸南町奉行大岡「忠相」越前守というのですか?

正式には、大岡越前守忠相・・・と呼ばれました。

町奉行は、江戸の街の「司法」、「警察」、「民政」の全般に渡る役職で、
現代で言えば、「東京都知事」 兼 「地方裁判所長」 兼 「警視総監」 兼 「東京駅長」 の権限がありました。

将軍は、もちろん江戸の街の行政も担いましたが、全国を掌握していましたので、
現代で言えば・・・「総理大臣」に当たります。

江戸の街の実質的な権限は「町奉行」が全て持っていました。



>>2、「越前守」は、官位というのですね。実質的な役目(権限とか義務)はあったのですか?
>>3、「越前守」は、幕府が大岡に与えるのですか?、あるいは大岡が、自分で手に入れるものですか?

武家の官爵(かんしゃく=官位)は、家康が「公武諸法度」の中で、
「武家の補佐は当官の外たるべし」
と、定めてあり、
要は、
「武家の官位は、朝廷から与えられる官位とは別物で、名義(飾り)だけのものですよ」
と言っているのです。

従って、美濃守が伊勢国の大名だったり、播磨守などは7人もいました。
美濃は上等な国であったため、栄誉のために与えられたものです。

ですから、大岡越前守も越前国とは全く関係がありませんので、越前国の「県知事」などではありません。


後に、3,000石以上の者は「○○守」を名乗ることができ、希望の国名を上申すれば、大概の場合許可されました。

大岡越前守は、1,500石位の旗本でした。しかし、幕府の権力者(老中など)と親しくしていたため、町奉行に抜擢されました。

そして、奉行の石高は3,000石ですので、「○○守」を名乗る要件が整ったため、「越前守」と名乗ることを許されたのです。

ただし、奉行の役務手当が3,000石ですが、大岡はすでに1,500石取りの旗本でしたので、1,500石 + 3,000石ではなく、1,500石 + 1,500石 = 3,000石で、3,000石に足りない分だけを追加されました。これを「足高」(たしだか)と言いました。


>>4、江戸南町奉行大岡越前守忠相を現代語風に訳すと、東京都南方面警視総監大岡福井県知事忠相になると思います。江戸時代の人は、東京都南方面警視総監と福井県知事とが、並んでいても、違和感がなかったのですか?

これは、前述の通り、越前国とは全く関係はありません。福井県知事などではありません。


(よもやま話)

(1)町奉行所の歴史
町奉行は、古くは室町時代まで遡ると言われています。また、「徳川実記」などでは、三河で松平氏を名乗っていた頃から、すでに、町奉行の職務が定められていました。しかし、当時は、在所の決まりはなく、町奉行を任命された者が自宅に「お白洲」を作って奉行所としていました。江戸幕府が開幕されても、家康、秀忠のじだいまでは、その形式が続いていました。
しかし、3代将軍家光になって、寛永8年(1631)に、加賀爪民部少輔忠澄を北町奉行に、堀民部少輔直之を南町奉行に任命し、北は常盤橋門内に南は呉服橋門内に、正式に奉行所を造ったのが始まりとされています。そして、与力50騎(北25騎、南25騎)、同心120人(北60人、南60人)を配しました。
なお、与力に任じられたのは、関ヶ原の戦いで「足軽大将」を務めた者の中から選び出されました。
また、同心は「足軽」を務めた者が選び出されました。

(2)大岡越前守が有名になったわけ
享保十六年(1731)、無宿の伝兵衛という者が火付けの罪で、江戸市中引き回しのうえ火焙(あぶ)りの刑を火付盗賊改から言い渡された。しかし、越前守の部下である手付同心が「伝兵衛にはアリバイがある」という噂を聞き、越前守に上申した。そこで、密かに、越前守は証拠集めを指示し、吟味のやりなおしをして無罪を言い渡した。当時は、1審制度だったので、再審まで断行し無罪を言い渡した越前守は、当然、庶民から人気の的となった。

(3)奉行所が三つ?
すでに多くの方がご存知の通り、江戸には南北二つの奉行所があった。通常は奉行所のことを「御番所」と言った。南は現在の数寄屋橋内、北は呉服橋内であった。しかし、元禄十五年(1702)に中町奉行所が東京駅八重洲口付近にできた。しかし、この中町奉行所は17年後の享保四年(1719)に北町奉行所に合併させられた。南北二つの奉行所は一ヶ月交代で門を開けて訴えを受け付けた。非番になると大門を閉じていたが、仕事をしなかったわけではない。前月のやり残しの事件処理にあたった。また、両奉行所同士で「内寄会(うちよりあい)」という連絡事項の回覧や相談書を交わしていたが、細部までは協定がされておらず、訴人は有利な扱いをしてくれる御番所へ、その月番を待って願い出ることもあったという。

(4)南北奉行所・・・どっちが偉い?
南町奉行所の方がやや格が上だったのである。遠山の金さんでおなじみの遠山左衛門尉景元は、天保11年(1840)、はじめ北町奉行に任命されたが、数々の手柄をたてたため、上役(老中)の引き立てもあり、嘉永年間(1846~)に南町奉行に「出世」した。しかし、役高はどちらも3000石だった。

(5)割合平穏
与力と同心は世襲制で、加増も栄転もまったくなかった。住まいも八丁堀の官舎住まい。「不浄役人」(ふじょうやくにん)と言われ、一般の旗本や御家人などとの交際も「まれ」だった。縁組も同じ役職者に頼るほかはなかったので、幕末までに、ほとんどの与力、同心は親戚関係になったといわれている。また、凶悪犯罪は、多くて年に数回だったことと「火付盗賊改」がいたので、町奉行所は割合平穏な日々だった。

(6)与力、同心の数
両奉行所にはそれぞれ25騎の与力と120人の同心が配属されていた。そして、与力は南北合わせて50人が一万石の知行地をもらい、200石づつ分けた。そのほかには、諸大名からの付け届けがあった。これは、その藩に属する者が問題を起こしたとき「よろしく頼む」という賄賂の性格があったが、中期以降は公然と奉行所内で受け取るようになっていった。また、馬上で指揮をしたので「騎」と数えるようになった。200石といえばれっきとした「旗本」であったが、罪人を捕らえる手の汚れたという意味で「不浄役人」と呼ばれ、登城もかなわなかった。同心は三十表二人扶持の御家人であった。ちなみに、同心を数える時は「人」。
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この回答へのお礼

詳細な回答ありがとうございます。
小説家らしく、読者の興味を引っ張るような面白い説明と読みました。
1、了解しました。
2、家康がはっきりと
<名義(飾り)だけのものですよ>
と言っているのですか。
3、<希望の国名を上申すれば>
ですか。強い力士を抱えているように、良い名前の国名は、周囲から一目おかれたのでしょうね。
4、飾りだから、違和感なんてなかったのですね。
よもやま話では、大岡は異例の吟味のやり直しをし、これを庶民が喝采し、現代でも人気が高いのですね。

お礼日時:2013/02/15 19:13

現代風の喩えは意味がありません。

なぜならそんな喩えをしなくても誰があのドラマを見ても大岡越前は裁判官です。それで十分なのに無理に喩えるのは余計な語弊でしかありません。ちょっと話が複雑になると定義狩りは沈静化するようですね。


まず江戸時代の都は京都です。大岡越前のいた江戸は華の都・東京ではありません。

都知事は中央政府から独立した権力者です。大名です。大岡越前守は大名ではありません。官僚です。権限として警視総監は含まれるでしょうが妥当なのは検察です。弁護士などいない時代の市政と裁判所です。この場合の都知事は将軍徳川吉宗になります。大岡越前守は都知事の下で実務をする人です。

論理的に、大岡福井県知事忠相は、ぜんぜんダメです。相当の有無じゃありません。県知事は現存し機能する地位じゃないですか。忠相の時代に機能している越前守がいたのですか?
越前守(武家名乗り)は越前守というブランド名です。越前守という職名が幕府にあったのですか?なければ間違いようがないでしょ。
すべて架空、パチンコ屋の中だけ価値を持つような、流通している内輪の価値です。秘蔵のレアカードに例えてもいいでしょう。
ただの名乗りですがそれは越前守と言えばあいつかあいつというようにお決まりの名乗りですから武家社会では粗末には出来ません。

越前守は松平を想わせるブランド名でしょうから大岡忠相には破格の名誉です。一族の政治的利益になります。ウソの役職でも県知事より資産価値があるでしょう。
強いて言い換えれば、大岡の名門大名らしき名乗りの忠相です。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。
鋭い指摘には、感服いたします。
<都知事は将軍徳川吉宗>  認識を新たにしました。
<大岡越前守は都知事の下で実務> 認識を新たにしました。
<検察>  <市政>   認識を新たにしました。
<忠相の時代に機能している越前守がいたのですか?> 認識を新たにしました。
<流通している内輪の価値> <ブランド名> 認識を新たにしました。
江戸時代のことを、その時代の内側からみれば、正しく認識できるのでしょうが、
現代サイドから、安直に見ることは、危険が付きまといますね。

お礼日時:2013/02/15 07:55

1 大岡越前守「忠相」です。

「苗字」「官位or通称」「実名」の順番です。大岡忠相でも大岡越前守でも大岡越州でも通用します。もっとも実名は一般的にほとんど限られた人物関係でしか利用されなかったようです。明治になって下の名前は一つと決められました。たとえば板垣退助は板垣退助正形がフルネームですが、実名の正形ではなく通称の退助を採用しました。

2 越前守は官職です。官位とは官職と位階をあわせた言葉です。もともとは越前国を支配する組織の長官でしたが、江戸時代にはすでに形骸化しています。にもかかわらず、武士の多くが官職を名乗ったのかといいますと、一種の序列化の効果があったためです。
官位相当の制といって官職に応じた位階が原則的に決められていました。大国越前の長官である越前守は従五位上相当、同じ頃に北町奉行であった諏訪頼篤は従五位下の美濃守でしたから、大岡の方がワンランク上だったというわけです。武士は鎌倉幕府以降も独自の序列制度を作り出すことはせず、昔からあった官位制度の序列機能を取り入れていたわけです。

3 形式上、幕府が朝廷に申請して朝廷から与えられる形を取りますが、将軍の許可なくもらえませんから、実質は将軍から与えられたものと同じです。詳しくは武家官位で調べてみてください。
4 2で書きましたように当時の武家官職には実態がありませんので、越前守から越前国の支配を連想することはなかったでしょうから、違和感はなかったでしょう。
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追加ですが 大岡忠相は名奉行として知られていますが 実際に事件を裁いたのはわずか一件のみです


名奉行というのはテレビの作り話ですね 同様に北町奉行の遠山の金さんも同じく

余談ですが 水戸黄門の諸国漫遊もテレビの創作であります
(実際は水戸~江戸までしか行ったことがなかったとか)
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この回答へのお礼

あざわざの忠告もありがとうございました。
タイトルに「大岡政談で有名な」をふった際、おまえは史実と作り話を混同していると思われるかなと、危惧しました。

お礼日時:2013/02/14 20:12

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