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私の妻は両親から虐待を十数年受け続けて育ち、「世界は悪人が支配している」

という見方をしていました。それでも最近は「人間の命は短か過ぎる。このくら

いの幸せでも200年でも300年でも生きていたい」と繰り返していました。
ところが、昨年末、私の一生一代のミスのせいで妻を60歳になる前に死なせてし

まいました。「妻はもっと生きたかっただろうに!」・・・自責の念に苦しんで

おりました。ところが、山田風太郎の「死言状」という本を読んでいて「?」と

考え始めました。以下がその一節です。

「余は死を怖れず。勿論死は歓迎せず。死はイヤなものなり。第一解剖台上の死

体を見るも死はイヤなものなり。しかれどもまた生にそれほどみれんなし。生を

苦しと思うにあらざれど、ただくだらぬなり。金、野心、色欲、人情、もとより

われもまたこれらより脱する能わず、しかれどもまた実につまらぬものにあらず

や。五十年の生、これら万花万塵の中に生きぬき、しかも死や必ずこれにピリオ

ドを打つ。しかしてその後にその生を見れば、その生初めよりこの地上になきも

ほとんど大差なし」
解剖台とかあるのは、彼が東京医科大生で人体解剖の授業でもあったのでしょう

が、この本を書いている40年後の今も思考がほとんど同様であることを知って改

めて驚いたと書いています。

最後部分の「五十年の生、これら万花万塵の中に生きぬき、しかも死や必ずこれ

にピリオドを打つ。しかしてその後にその生を見れば、その生初めよりこの地上

になきもほとんど大差なし」は彼の無常観で私も共有するのですが、実は私の妻もこ

の無常観を持っていたのではないかと思い当たったのです。200年も300年も生き

たいと言ったのは、人生80年は短か過ぎる、はかな過ぎるという気持ちであり、

むしろそんな人生ならないほうがましという気持ちに近いのではないでしょうか

?200年も300年も生きたいと望んでいた妻を自分の失敗で殺してしまったという

自責の念で苦しんでいたのですが、実は妻も人生のはかなさを悟っており、生ま

れても生まれなくてもどっちでも良かった、大差ないと感じていたのなら私の自

責の念も少しは軽くなるのですが・・・

あなたは私の妻の「このくらいの幸せでも200年でも300年でも生きていたい」と

いう言葉から彼女の本当の心情はどのようなものだったと推察されますか?

追記:私を「過失致死罪」として逮捕し、即死刑にしてくれたら一番私の気持ち

に合ってるし、どんなにかラクだろうと思うのですが、「事故死」として片付け

られ私を死なせてくれません。そして自責の念に毎日苦しむことになりました。

A 回答 (5件)

女性はロマンティックな願いに憧れる傾向がありますが


一方で、男性より現実を観察しています。

寿命まで生きて20年、その半分は老いに伴う病気や怪我に費やされ
楽しみは孫の成長ぐらいでしょう。

現実を認識していて、それゆえに戯れに言った言葉。
それを本気にしている旦那様。

あの世があるならば、苦笑いされていると思いますよ。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
「現実を認識していて、それゆえに戯れに言った言葉。それを本気にしている旦那様」---本当に苦笑いしていてくれたら自責の念も軽くなるのですが・・・

お礼日時:2013/04/11 13:40

神仏は信じていない、と言いながらも救いを求めている、と言うところが「ミソ」ですね。



信じる、信じない、は脇に置いといて、、、
他の質問の“回答”でも言ったことですが、先ずは手を合わせて見てください。自分のために。
自分自身の心に向かって手を合わせて見てください。
それからです。先に進めるのは。

もっと心の不思議を感じて、そして考えましょう。
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この回答へのお礼

再度の回答ありがとうございます。
貴方が私以上に思索が深く、私以上に諸体験をされている方かどうかは、この短い回答からは判断できかねます。従って懐疑心の強い私としては「心の不思議」と簡単に言われても、「はい、分かりました」と言うわけにはいかないのです。せっかくの回答ですが、悪しからず了承下さい。

お礼日時:2013/04/17 14:32

自責の念から解放されるとどんな貴方になるんでしょうか。


カラオケにでも行きたいんですか。

自責の念を持ち続けて、神仏に祈りましょう。
人の心を、癒してくれるのは神、仏だから。
でも祈らなければ、神、仏は答えてくれません。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
今の私にとっては、「あの世」はあって欲しい存在です。しかし、本当に「あの世」を信じているのかというと、否です。私は神仏を信じておりません。神仏を信じていない人間は救いがないのでしょうか?一生、自責の念に苛まれながら生きて行くしか仕方ないのでしょうか?

お礼日時:2013/04/12 15:17

仙涯さん という禅の高僧の最後を思い起こしました


いまわの際で、高僧らしい言葉を言うのではないかと、周りの人は思っていた
ところが・・
死にとうない 死にとうない ほんまに死にとうない
と繰り返した
周りの人達は、立派な坊さんには相応しくない、と感じて驚いたそうです
無常を悟った人には、似つかわしくない、と思ったわけです
この世への未練たらたら・・としか思わなかった
でも


>このくらいの幸せでも・・

という
無常観の先にあるもの
このくらい・・ という
感謝の心
いつまでも持っていたい・・
いつまでも感じながら生きていたい
という
心情ではなかったでしょうか
幸せ だったと思いますよ
無常観の先に そう言えた奥さんは幸せだった
その幸せを与えてくれた人に巡り会うことができた

幸せのまま旅立った と思えば
自責の念は持たれなくてもいいのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
親鸞も往生際が悪かったようですが、現在でも知識人金持ち成功者ほど往生際が悪いそうですね。

「その幸せを与えてくれた人に巡り会うことができた」---妻は本当に私に感謝していたのでしょうか?今となっては妻の真意を聞くことが出来ませんので、自責の念で悶々とするばかりです。

お礼日時:2013/04/11 13:45

「人生はまんざら悪くない」


というのが奥さんの心情かなと感じました。
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この回答へのお礼

「200年でも300年でも生きていたい」と言ってる時の妻の表情はむしろ悲しげだったように覚えています。その時、もっと突っ込んで妻に質問すれば良かったんですが・・・

お礼日時:2013/04/11 13:49

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