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初期の仏教には今も同じ問いかけが成されている。
神を語らないことに、今も続く押し問答が、果てしなく繰り広げられる。

お前の神を明らかにして見せよと。

答えるにそれを表すなら無であると。

これこそが無の悟りとは何かという問いかけである。


そこで私の述べる一切無の悟りを心得るならば、目指すのは、お釈迦さまと同じく、自らが仏陀となる修行の道のりであり、個人的な信仰心の探究であり「救ってください」「助けてください」これは無効になり、それもまた無である。
それでは、聖職者は問う者に答えないことで、その無を語ることが、それ自体を答えとする考え方だ。
釈迦に問うた者どもは、むしろそれを恐れている。だからこそいまだに悟りに至らないのだ。
お釈迦さまを始祖とする仏教の迷走はここにあり、禁を破り、仏を神に列した後世の仏教は誤りで、仏陀と言う人としての最高の状態であることが、それでこそ人間であるという境地だ。
お釈迦様の信仰をまねることとは、後世の仏教徒にとって、自らの信仰を殺し、それによって自らの精神が死に、しかる後に釈迦の信仰を受け入れる死と転生だ。このように自らを滅し、死を理解する後に仏陀となることが、長らく釈迦の弟子であるということになっている。
仏教の初期から現代までこのことに異論をはさんだ者はいない。

それは信仰を心に宿す手法として、死にまい進し、死の自覚によって悟る修行だ。
こうして、死を理解してこそ仏陀になるという荒々しい修行は仏教に限らず、釈迦誕生以前から現在も続くインドの伝統である。
生きてこそ人であり、信仰に到達したならば仏陀だ。
旧来のように死にまい進することは、自らを自覚した仏陀の信仰を打ち立てることは全く正反対である。
それは信仰を携えて生きることではなく、お釈迦さまに感化されるあまりに、自らが死に改めて仏陀として転生を体験する考え方だ。
お釈迦様と同じく自らの信仰のみに生きるなら、勧めるのは、お釈迦様の信仰をまねること、すなわち現在の自らが死ぬ無の悟りではなくて、自らの唯一の信仰を切り開くこと、「信仰の道を我が大道としてゆけ」これである。
それは西洋哲学の標榜する自由の概念と同じであろう。
仏教とは常にお釈迦様のお葬式を挙げている。
そして死を繰り返す。
処で日本語とは面白い言語で、私の表した「我が信仰の大道を行け」この言葉を噛んで含めると、「あなたたちそれぞれが自らのみとを我が信仰の大道としなさいよ」こうなるが、「我」という言葉に「みんな」という意味があるのが私の言い回しである。




以上は現在執筆中の「いかに猿は踊るか」こういうタイトルの原稿から抜粋した。
文章の推敲の助けとなる意見を聞かせてくれ。

A 回答 (12件中11~12件)

自燈明、自身を拠り所として歩む事については概ね賛成です。

しかし人は病に遭ったり、争いに遭ったり、事故に、或いは飢渇に遭ったり、色々苦しみに遭ってしまう存在です。覚りは苦の終わりと言われているけれど、実際問題これらを克服するのは難しい。危機に陥ると人間は弱いものです。現代日本に暮らしている我々でさえ、諸々の苦を受けます。どうすれば苦しまないで済むのか、これは切実な問です。この問にはどの様に応えるのでしょうか?
健全な人は自燈明でOKですが、病んでいる人にも同じ答えを勧める事は、一塩むずかしいと考えます。
確かに、弱い者が上を向くので勇者といえるが、これは口で言えるほど簡単ではありません。
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この回答へのお礼

ありがとう。
君の言う弱い人は、自己責任を放棄することでそのようになる。
救おうにも救いの対象の心が空っぽだ。
満たすことはできないのだよ。
そうさな、君に対するアドバイスなら、救われる側で無く救う事を志せ。

お礼日時:2013/07/03 20:17

ビックリしました。

本気でそんな遠回しかんがえてるんなら、どうしよっかっておもいました。
人間は、弱い。終わり。
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この回答へのお礼

ありがとう。
以前この文章の原型を質問で使っていてね。
強引に文章をふくらましたんだが重複があったりして自分でもまずい文章だと思う。
あなたの言う弱い人間とは、自分自身の心を誰かにあずけようとする人達の事だと解釈するよ。
それから、人、人間、仏陀、この定義の使い分け方や、自己に対する認識の度合いもテーマの一つだ。

お礼日時:2013/07/03 19:58

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